長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

ちびと青

2024年06月08日 07時59分07秒 | 近況
飛べぬ人間でもバタバタする事があって、しみじみと植木の世話をすることも侭ならぬ。







葉陰で羽化を待つものも居るが、気儘な場所で蛹になったものもいる。





彼の出立を見送れればよいのだけれど。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ただ有難しと伏し拝み…むさしのFM

2024年05月28日 01時53分15秒 | 近況
 やや荒天の月曜日、地元のラジオ局・むさしのエフエム様へ。
 パーソナリティーの松野こうき様の番組へお邪魔しまして、有難いことに、しばし、現在過去未来…の活動状況のお話をさせて頂きました。
 録音が同番組のサイトにアップされていますので、是非お聴きくださいませ。
 
むさしのFM (musashino-fm.co.jp)
【武蔵野市民芸術文化協会からの出演 「聞いてみよう」のコーナー 】
https://www.musashino-fm.co.jp/program_tax/geibun/

 番組中にご紹介させていただいた情報の仔細は、当ブログにて後日お伝えいたします。
 どうぞよろしくお願い申し上げます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アブさん。

2024年04月24日 03時08分16秒 | 近況
午後の稽古が一段落して、外に出していた植木を部屋に入れたのと同時に、黒くて素早く飛ぶ賓客が一匹、稽古場に入ってきた。
一頻り、中空をブンブン右往左往していたが、ピタリと静かになった。
何処へ…と見回すと、黒くて意外と大きい蠅に似た虻にも見える虫が、お弟子さんが譜面をのせるテーブルの上にこちらを向いてピタリと鎮座している。
どうしたものかと様子を見に近づくと、逃げるでもなく阿るでもなく、例によって手を摺り足を擦りながら安閑と、平べったい面上にデンと座を占めておりゃる。
顔を眺めると何やら鼻が長くて、狂言面の嘯き(うそぶき)にも似たご面相である。

仕方ないなぁ…何か仕出かしそうな悪人づれにも見えないので放っといて、次の予定まで自分の稽古をすることにした。
するとどうしたことか、小一時間、私が独り浚っている間に、彼の賓客はそのままの姿勢で、長唄…三味線の音色を静かに聴いているのだった。

…さて、我が係累に4月23日の今日が命日のものは居ただろうか…と不思議な気がして考えた。
3月19日に最初の一輪が花開いた胡蝶蘭も、持てる蕾の総てが咲き揃って、そろそろ株の為にも切り花にしなくては…と思っていた。
明日は供花にしよう。



※表題写真は3月22日、下は3月19日に撮影したものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ことしの檸檬

2024年03月19日 10時00分55秒 | 近況
アゲハチョウ騒動記…揚羽蝶ラプソディ……ぅぅむ…と、とつおいつ悩みつつも、腰を落ち着けてパソコンの蓋を開ける間もなく、早や令和6年のお彼岸は来にけり。



幼虫たちが蝕んだ葉の形が心苦しく、半枯れの葉っぱを払ったら、檸檬樹は殆ど丸坊主の体となり、疎らな葉緑素にてこの冬を凌ぐ有り様となった。
それでも健気に春を迎えるまで三つの果実が残った。



一方で、結実せず冬を越した鉢を見ると、みな一様にシザーハンズ様の新芽を出して一陽来復を歓んでいる。



葉の少ないところへ、更に新芽を育てる余力の無さそうなユーレカ種も不憫である。
ちょうど彼岸とて、供物とするのが佳かろうと、収穫した。



今年の檸檬は、幼虫養育のために犠牲にされた分、些か小振りであったけれど、レモンイエローに耀く艶やかさは変わらない。
(大きさ比較のため、善光寺名物の八幡屋礒五郎の七味唐辛子を添えた)

今日が祥月命日の仏さまへ、御供物代わりに…
故人を偲ぶ河童の手拭いと一緒に。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

團圓

2022年12月31日 11時11分44秒 | 近況
我が心の糧となるアゲハチョウを育ててくれた檸檬樹が、今季は8つの実を成しました。
しかし、8つが8つとも丸い。
丸いレモンもレモンのうち。

月のこよみでは昨日上弦の半月にて、本日昼頃のぼるのが師走九日の月。
未だ壬寅歳にピリオドは打てませぬ。
晦日ならぬ新暦の大晦日に。

【追記】
同日未の刻、東の空に…月は昇りぬ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橘はじめて黄なるか

2022年11月18日 23時41分00秒 | 近況
 さて、令和4年の今季最後のふたりの幼虫たちは、立冬を過ぎても猶、20℃ほどもある気温に気をよくしてのびのびと育っていたのでありますが、







 西の空に寝待月が残る朝、 



 レモンの葉っぱに佇む一匹を残し、夕刻いそいそと蛹化へと逍遥の旅へ。



 残された最後のひとりは食いよいよ逞しく、





 火曜日、そぼ降る雨に濡れながら、枝上にじっと忍び居り、翌日は晴天となりましたのが、



 月暦廿二夜の残んの月を西に見て、観察者は暫し水辺へ。



















 水面の煌めきを眼に残して人界の徘徊から戻ると、夕暮れの檸檬樹はもぬけの殻、無人となって虚しく空に枝を伸ばしておりました。



 無事にどこかで蛹になって、来春青空へ飛び立てますように…
 翌朝。君去りしのちの傷心を、トンボが慰めに来てくれました。







 今年のレモンも佳い檸檬。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとり。

2022年08月21日 10時55分22秒 | 近況
 今日の予想最高気温36℃…を知り、東京脱出を決行したのが8月16日㈫午前9時半。
 檸檬樹に暫しのいとまを、複眼が王冠の宝玉のように並ぶ新顔の蜘蛛ちゃんがひとり。
 終齢間近の幼虫が一人、青い檸檬とアオムシがお留守居番。







 エレベータホールに至る、武蔵野の雑木林に面した非常階段踊り場に、何を思うか一人佇むカマキリ先生。



 とても毅然とした立派なうしろ姿。21世紀の昆虫界の行く末を想い、外界を見下ろしておられるのか…
 蟷螂の斧とはこれ如何に。背なで泣いてる唐獅子牡丹…的哲学的趣きに心を打たれる。



 土用過ぎの海は鬼門である。
 都下西域に住む者は自然と甲州路に足が向かう。





 青春18きっぷを準備する気の利いた計画性もないので、小淵沢止まりの中央本線から、イルフ児童館のある武井武雄ゆかりの岡谷を目指すつもりが、1時間待ちの前に発車する臨時の小海線中込行きに乗り込む。







 外気温21℃! おお、いいじゃないですか。わが旅の目的は達成されたり。
 佐久平の開けように驚き、小諸なる古城のほとり…を目論むも、急な雨に遇い、しなの鉄道に飛び乗る。



 懐かしい窓枠に出逢う。20世紀の車窓から…の額縁はこんな感じだった。



 終着駅の線路に、セキレイか、オナガか、野鳥がひとり。

 そういえば…



 あまりの暑さに耐えかねて、盆休みの金曜日の昼下り。
 海岸沿いの道端で、みゃぁみゃぁ…と騒がしく啼く声が聞こえて、見上げれば巣立ったものの上手く羽ばたけない幼鳥がひとり。



 津久井浜は明日襲来する台風で、海が鉛色に濁っていた。

 そしてまた…



 8月になって間もなくの水曜日、井の頭線の車内にて、ジャノメがひとり。



 十粒ほども蒔いた八朔の種が、一本だけ芽吹いて2カ月目。



 二人いたみどり君が蛹化の旅に出て、残った鯨組のおチビちゃんが、みどり君になってひとり。



 ところで、8月20日は、チェブラーシカの誕生日だったとか。
(年は訊くまい。)
 同日、何の弾みか、室内でばったり倒れて傍らの三味線のネジを破壊した私は、一人しょぼくれておりましたが、打ち身のためドクトル・ブラックジャックのお顔のように二色構造になった我が左足の甲を眺め、そうか、昨日はバッタリ倒れ屋さんの日だったのだ! と、独り腑に落ちまして安堵。

 いえ、何かの予兆だったらイヤだなぁ…けんのん、剣呑…と思っていたので元気が出ました。
 お隣のウサギさんは、可愛いお弟子さんが3年ほど前、手作りで下さったものです。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水無月朔日のdeparture

2022年06月29日 07時57分24秒 | 近況
 そいえば、私が二十歳の頃、愛と青春の旅立ち…という洋画がありまして。
 屈折したつもりのオタクっぽい青春を送っていた…つもりの、マイナー擁護派の私としては、恥ずかしくて見に行けないタイトルの映画ではありました。
 今、原題は何だったのかと、日記を書くにあたり標題に迷っていたので調べましたところ……
 20世紀の映画会社(固有名詞ではなく)の方々の翻訳センスの素晴らしいこと!!
 本日のお題は、譬えますれば「アゲハくんの冒険~愛ある旅立ち」…かな?

 はて扨て、過ごしやすい早朝の気温(されど6時半の気温27℃)も、余談から入りますと、肝心の話題に入らずじまいでパソコン前から撤退を余儀なくされる、頭脳に疲弊が生じない適温を超える室温となります。



 つい一時間ほど前のこと…
 いつものように、ベランダの檸檬樹にお水を遣りに参りましたところ、
 おはようと声を…(もちろん、心の中で掛けます)昨日は15ミリ程の豆みどりだった幼虫が倍に育っている、彼らを寿ぐ意も込め、挨拶しつつ所在を確かめておりますと、
 何しろ葉っぱが緑で見付けづらい、そんなときは葉裏から眺めて、影をそれと見定めますと、やすやすと把握できるのですが、それで、植木鉢台の蔭にしゃがみ込んで、ふと、余剰敷きマットの積み重なりが目につき、ああ、そういえば彼女は無事かしら、と、そっとしておくつもりでしたが、ひょいと持ち上げてみましたところ、
 薄レモン色の翅を拡げたアゲハチョウが、とまっておりました。

 ぉぉ、生きていたのか!!

 このアゲハくんは、実はわたくしの隠し玉…隠しサナギ…というわけでもないのですが、その幕内的存在のゆえからご紹介しそびれておりましたものです。

 …それはいつのことか誰も知らない…訳ではなく、おおよその見当はつくのですが、今季初のクロアゲハ組が蛹だった6月下旬の20日月曜日(夏至の前日でしたが)留守中、二世代目のレモンアゲハ組八蟲士たちが、一斉に蛹化のため行方知れずになったことがありました。
 
 それから二日後の22日水曜日朝、サッシの隅に佇み、羽化した摺墨1番のことはお知らせしましたが、その撮影中、とある思い掛けない邂逅が…。

 ベランダという場所は、写真をご覧のように掃除が行き届いていない場所だったりもしますが(何しろ、床下もどきのお芝居が展開される不思議空間だったりいたします)、
 ああ、この背景じゃ、せっかく羽化したクロアゲハの黒い翅の感じが写せないなぁ…などと素人なりに知恵を働かせ工夫しようと、何かしら、背景隠しになるような…レフ板とは言わないまでも、白い板は無いものかしら…と辺りを見回しますと、おお、植木鉢台の下のバケツの上に無造作に数枚重ねてほったらかしに置いておいた、ウレタンフォームの柔らかい敷きマット材が…何の気なしにひょっと持ち上げてみますと………



 あーびっくりした。なんと、裏に蛹が出来ているではありませんか。
 しかもなんという擬態スタイルの膚(はだえ)。
 とにかく、彼の気に入った場所ゆえ、そのままにしておかなくては、と、見なかったことにして、高松塚古墳をそっと埋め戻したように、私もそっと戻しました。

 それから、なるべく触らないようにしながら様子を見守っておりましたが、本当に生きているのか案じておりました。



 昨日はこんな感じ☟だったので、羽化近いので黒ずんでいるのか、瀕死状態で黒っぽいのか不明でした。
 それで油断していたのです。



 そんなわけで、今朝、またまた何の気なしにマットをひょい、と持ち上げたら、蛹とともに蝶が釣れて、まー驚いた。

 見つかっちゃった方もドッキリビックリして、ハタハタとテーブルの下、奈落の底に落っこちてしまいました(ゴメンネ)。
 そして辺りの金属製の什器に摑まろうとしてもがいておりましたが脚が滑るのでしょう、さらに沈んでゆく…



 責任を感じた私が辺りの板っ切れをそっと差し出しましたところ、何とか這い出てきて、やれやれ一安心…と思う間もなく、パッと飛び上がり、私の右肩、二の腕にとまりました。

 それもつかの間、一瞬のことで、ぱたぱたとレモンの枝下からするりと、外界へ去ってゆきました。



 よかったなぁ… 
 それにしても、びっくりされ通しのレモンアゲハ、今季、越冬サナギの羽化を除けば、一番目の成虫です。
 きっとサプライズ専門のプレゼンターの血が騒ぐ性質に違いない。
 今頃、雑木林の上空を、我が意を得たりと、喜々として飛んでいるのかも…

 そんなメルヘンな朝だったのが、令和四年旧暦六月一日だったのでした。
 皆さま、本日もお健やかに………


 

 役目を無事終えて嬉しげな蛻(もぬけ)の殻。



 ベランダの隅で夢見る蛹虫。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

存在証明

2022年06月27日 16時36分23秒 | 近況


 遅かりし由良之助…
 さすがに早暁に起きて三日続けてアゲハの羽化につき合うのは草臥れるもので、さてこそ、当家のクロアゲハは気が利いてござる。
 いつの間にやら蛹化して、消息を知らしめて家内を安心させ、また人知れず羽化して去っていったのである…
 と、何となくホッとしたのが、早朝の6時26分。





 朝というには強すぎる陽射しの中で、レモンアゲハの鯨組が一匹、みどり君に脱皮している。







 この暑さでは檸檬たちの水加減が心配である。
 そうして、外気温36℃という暑さに耐えかねて、二時間おきぐらいにベランダへ様子を見に行くたび、まだ体長15ミリ程のちびっこの鯨組が一頭また一頭と脱皮し、美登利ちゃんへと変貌しているのだった。

 〽葉っぱの乱れを 水差しで 引き揚げながら アゲハ算…(「四季山姥」畳算・改)

 本日、午前中だけで4頭の幼虫が終齢のミドリちゃんへとグラディエイトし、
 現在、当屋敷内には檸檬アゲハのサナギが二頭、幼虫が八頭、うち青虫が五頭、ベランダに居る。



 三度目だったろうか、せめてもの冷却材として、タオルケットを洗ったのを干し拡げようとベランダへ出た時のこと、我が足音に戸惑ったように、クロアゲハが一匹、ふらふらひょっこりと飛び上がった。



 あれあれ、隠れサナギが今また羽化したのだろうか…とビックリしつつ見送ったのだが、
 やれ待て、ひょっとすると今お発ちのあの方は、この2週間というもの、植木鉢の陰でひっそり隠れ棲んでいたノワール3号ではなかろうか…

 私がもぬけの殻の脱け殻を発見したのが、こう、今朝の6時20分ごろ…
 今、足元から湧き立つように飛び出してきて去っていったのが、10時20分……


 
 明智探偵の顔をした天知茂の声が私の胸に去来して、「ちょうど4時間…」というキーワードが井上梅次監督っぽく、エコーをかけて脳内に何度も響いた。
 植木鉢台の下の物陰で、翅の伸びるのを塩梅していたのだろうか…



 ♪しんじられない事ばかりあるが、もしかしたら、もしかしたら、そうなのかしら……

 さて、摺墨三番が、待ちかねたわやぃ…と言って旅立ったかどうかは定かでない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだ宵ながら明けぬるを…(昧爽の攻防)

2022年06月25日 06時16分10秒 | 近況
 よほど外界が恋しかったのでありましょう。
 本日の日の出は4時27分。
 朝陽とともに微笑む姿を…と思っておりましたが、既に。



 夜明け前から殻を破って羽化した模様。
 遅参いたしました。
 が、スマフォのカメラも限界ながら…見えますか…



 強風と撮影者に驚き、お隣との区分壁峡谷に、逃れて暫しやすらいぬ。





 パラディソ・レモンは事も無く…
 ノワール三号も大人しく控えております。



 そして新たなるレモンアゲハ鯨組と、昨日出来立ての緑のさなぎちゃん。





 清原くんと名を替えし摺墨二番は…





 現身の無事を暁に祈る、残されしもの。





 廿六夜の月宿りたる雲一つ見えませで、今日も暑くなりそうな…

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曇天のレモン横丁

2022年06月17日 09時31分31秒 | 近況
♪ 葉脈一本 両手に抱いて 罷り出たのも アゲハの食生…

梅雨らしい薄どんよりとしたお天気の朝は、昭和歌謡の替え歌が頭の中を経廻るのが常でして…
旺盛な食欲の幼虫たちを見ていると、現代日本が青春時代だった昭和中期の愉しい雰囲気が思い起こされ、心がなごみます。
4つ目の朝に3つ目のサナギを見つけたり、黒揚羽の八蟲士が旅立った後に新たなる種族、レモンアゲハが「11人いる、再び!」モードで檸檬樹の巷を席巻したり。

本業を纏めるいとまもなく、伸び伸びと育ちゆく小さき者どもの日常を、取り急ぎ近況まで…

「レモンの食卓」↓




クロアゲハの8頭のうち、三匹の侍がベランダにて南面の武士となりつつあり…



(お耳がカッツェさまに似ている〉ガッチャマン世代の第一印象)





(角度によってはお腹周りがムーミン・トロールを髣髴とさせます)

さて、幾度目かのベランダの模様替えに、オーチャード・スパイダーまでもが何度目かの引っ越しに姿を消した日、空に雲居の…



 〽️浮き立つ雲の行方をや 風の心に任すらん…
放たれた千条の糸が西の空に出でて、お別れの兆しなのやら…
スフィンクスちゃんが、そのまま緑ちゃんへ。







今朝の三つ巴、記念スナップ。
(一見、ウィリアム・モリス調テキスタイルのモチーフ)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たそ、かれ…

2022年04月12日 10時47分17秒 | 近況
黄昏時に至るにはまだ早きこと十時間余り。
急速なる初夏の陽を浴びる、檸檬樹見舞いをせむ…とお水を遣り、さて、今日も稽古に勤しまねばと、明るきベランダより室内を振り返ったときのことでございます。



ガラス戸と網戸の隙間で、ごにょごにょアタフタと蠢く、見慣れた模様の虫が一匹。
はぁあ??
さてはお主はアゲハよな…
こんなところで羽化しちゃったとは、吃驚するなぁ、もう。
羽が曲がったら大変、と、慌ててガタピシ! と網戸を外しました。



一瞬、はて、まだと思っていた最後の一頭がこんなところまで出張って羽化ちゃったのかしらん、いやいや、ワープじゃあるまいし、やだねぇ、子どもの頃SFチックに育っちゃった昭和の子は…と、今朝様子伺いしたばかりの、お隣との国境近い柱の陰の越冬サナギを確認。





まだ大人しく眠っておられます。
どうやら、昨秋、終齢幼虫にて旅立ち、そのまま行方知れずになっていた隠れサナギが、この陽気に誘われ、無事羽化したと思われ…



…そは、たれびとのこなるぞや…
不思議すぎて脱け殻の在り処を探してみようかと、隙間を覗きましたが、はてさて一向に見当たらず…





鶯のホーホケキョ、四十雀のツピツピツピ、名を知らぬ鳥の地鳴きのような囀ずり、そして、思いがけず近くで啼いた鴉の声の時は流石に私も彼もビクッとしましたが、警戒して様子をみているのか微動だにせず、じっと軒(のき:のきのした、という言葉が漢字変換出来なかったのでルビを振ります…( ω-、))の下で翅の伸びるのを待っています。

15分も過ぎたでしょうか、パタパタと翅を上下させ更に上を目指して動き始めたので、すかさずスマフォのシャッターを切ろうと左手を伸ばした、私のその人差し指に、ハタリ、と、彼がとまりました。
思いがけない展開に、そうか、では私が外界への扉へお連れしましょう…と、手乗り文鳥よろしく向きを変えたところ、瞬間、光をとらえたのでしょう、するりと、檸檬の繁みの隙間から抜けて中空へ…



彼の脚が触れた、柔らかい感触がまだ指の関節に残るうちに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Fuga 虎の巻

2022年03月27日 06時36分09秒 | 近況
 今朝もまた、ウグイスの啼き声で6時ごろ目が覚めた。
 ことし、令和四年は、東都の乾(いぬい…正しくは酉とりの方角だと思うが、巽が捩れない…ので敢えて…)の我が庵、お隣の文化園では近年リスぞ棲む…武蔵野市の一角にては、月暦二月十二日で新暦3月14日(日付だけ偲べば1701:元禄14年にては江戸城松の御廊下内にて刃傷事件の在った日、平成の世ではホワイトデーなる名称が盛んだった暦日)に、初鳴きを観測致しまして、
 以来、隣国の戦火である人災の風評、地震や3月のライオンらしき気紛れなお天気と強風などの天変地異に心悩ませる日々を、朝方の一時だけでも、忘れるよすがとなっていた。

 それでふと、あれは何度目の寅年であったか、年賀状に歌舞伎『鬼一法眼三略巻/きいちほうげん さんりゃくのまき』菊畑(きくばたけ)での虎蔵=実は牛若丸の拵えの似顔絵を極彩色で描き、版下にしてプリントごっこで印刷し、お送りした知人から「趣味爆裂の御年賀状、ありがとう御座います」との賀詞を賜ったのは…歌舞伎座ぐるいをしていた30代半ばのことで有りましたでしょうか…、そんなことがあったのを、春告げ鳥の囀りで想い出したのだった。

 さて、私が20世紀最後の寅年に選んだ図柄は、前髪時代の源義経が平家を打ち負かす為、武術の奥義書・虎の巻を得んと、庭師に化けて潜伏している鬼一法眼の館でのお話でありましたが、
 その鬼一法眼、長寿の御祝いである鳩の柄の杖をお上から賜る後期高齢者でありまして、剣のみならず風流も解する仁徳のあるご老体で、折からの菊の季節、庭木の手入れに、落葉を樹の根方に幾枚か残して掃除する、その風雅の心得を賞翫する雅さも持ち合わせている。



 平安の和歌に表象される文化は貴族社会に限られたものであったようだけれども、永禄10年1567、稲葉山城を攻略し岐阜と名付けた織田信長が天下布武:てんかふぶを唱えてから、ほぼ半世紀のちの慶長20年=元和元年1615、大坂夏の陣にて天下を手中に収めた徳川家康が元和偃武:げんなえんぶを、日本列島の中心(?)で叫んで以来、平和であるからこその文化生活はあまねく庶民に行き渡り…日本国は紆余曲折あったものの、2022年の私もが、風雅を心に持ち得ている現在を迎えているわけである。されどしかし…

 文化が再び特権階級に限定されるものであってはならない、そして、21世紀にもなろうというのに、昭和元禄から後退して、社会が富裕と貧困の二極化にある状態を、人間として看過することを恥ずかしい、と感じる見識がある人間を育てる土壌がなくてはならない、と、
 再開発という御達しにより、ご近所の井の頭文化園のみならず、神宮外苑のイチョウ並木までもが伐採されてしまうらしい、文化・風土を蔑ろにした都市計画が推進されている現在に、
 この鶯の声はいつまで聞かれるものかしら、庶民の心の慰めとは何処に在るものかしら…と、谷渡りを習得した彼のものの行く末に、心を痛める春の愁い…

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お正月の朝のこと

2022年02月01日 23時30分12秒 | 近況
 今みたび目(個人的印象)の、コロナ禍波襲来警報中。
 新暦のバタバタで、旧来のお正月らしい伸びやかな新春を寿ぐ心持ちを長らく失っておりました。
 なんと、2022年2月1日は旧暦2022年正月朔日でもあります。
 令和四年と書かなかったのは、はて、元号が唯一残っている日本国に置いて旧暦は破棄されてしまった概念であるから、そう記述してよいものか…と迷ったからであります。旧正月を祝う中国でさえ、とうに皇帝暦を廃絶しておりますからねぇ。

 しかし、本日、三味線の体験授業で伺った中学校を失礼する際に、ちらと「今日は小正月で旧暦のお正月に当たります…」と給食の献立を説明なさる先生のお声が廊下越しに聞こえて参りました。
 うれしいですね。
 文化はこのように伝わって、新世代の方々にもお正月を祝う細やかな精神性、EQが育まれてゆくのですね。

 今年度の下半期は、コロナ禍で中断しておりました学校への三味線体験授業が再開され、一年度分を冬季の三カ月ほどに集約して行うスケジュールとなりました。
 先週伺った中学校は、講師の控室が暖かいカウンセリングルームで、偶然にも、その教室に備えられていたライブラリーで、私はとてもとても懐かしい、旧友に再会したのです。

 草思社 刊、谷川俊太郎 訳、堀内誠一 画、『マザーグースのうた』全五巻。
 “○×学級 昭和61年…”と、見返しに蔵書印が押してありました。
 とても綺麗な保存状態で、要支援学級のために、当時の在勤の先生がご用意なさったものでしょうか。
 懐旧の想いもありましたが、教職という使命に対する先生方の情熱を感じ、胸が熱くなる思いで、手に取ってしばし眺めました。

 その時、子ども時代にすっかり諳(そら)んじていたとある詞章、「お正月の朝のこと」が、ついと、脳裡に浮かびました。
 そして驚くまいことか、私の目の前に、ボッティチェリのVenusの誕生をイメージした、貝殻の舟に乗って水平線のかなたから、笛、ヴァイオリン、唄で新年をことほぎ、どんぶらことやって来る三人の女性(にょしょう)の絵が…堀内画伯の懐かしいクレパス画が、半世紀の時を超えて出現したのです。



 文部科学省では一緒の管轄になっていますが、スポーツ庁と文化庁は分離した方がよいと思います。
 オリンピック予算に圧迫され、せっかく備品として各学校でお持ちの三味線のメンテナンス予算が不足しているようです。
 日本の文化は、御存知のように使い捨てするものではなく、修理して代々受け継がれる道具類が、その仕手の技術と同時に存在することで、文化を担っているものです。

 そして、教育はとても大事なものですから、子供のみならず、人間が人間らしく生きていくうえで生涯に亘(わた)って、学習することが肝要です。
 こども庁は、なるほど必要なものでありましょうけれども、統合して教育庁とし、間断なくボーダーレスな役割を持つものとして、世代に跨(またが)る情緒教育、健全な精神を育成する努力をする部署を存続せしむることが、文化国家の繁栄を齎(もたら)すものではないかと、感じる次第です。



 令和四年、お正月の夕空です。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壬寅、或いは令和長短。

2022年01月01日 14時29分29秒 | 近況
 “みずのえとら”の年がやって来た。
 昔、私が生まれた年と同じ干支である。
 なるほど、十二支十干とは、生きているものの時を数えるのに分かりやすい便利な指標である。
 短いようで、しかし悠久の暦日を表記するのに、人間の尺で出来ている。
 


 昨年暮れの強風から、揚羽蝶のお母さんが当家の檸檬樹に託した葉付きの卵のうち、一つだけが残った。









 我が家の四人の越冬サナギ。ファラオの墓におわすミイラにそっくりである。
 昆虫すごいぜ!の香川照之に教えられるまでもなく、人間の歴史における昆虫の存在は切っても切れぬものであるのだ。



 新年早々、台所仕事の耳のおともに、志ん朝の芝浜をかける。
 なんて巧い、そしてなんと面白い藝でありましょう。
 さげの、よそう、夢になるといけない…で、思わず泣きそうになってしまいました。

 20世紀中、私は談志のオッカケをしていて、生前の志ん朝には冷淡な落語ファンでありましたが、お二方が故人となった今、CDを何度聴いても面白い、飽きない、唸る(その上手さに)のは、志ん朝でありました。
 贔屓とは愛ですから、身びいきである余り、ほかの芸人に対してバイアスが掛かったり、目が曇ったりするのでしょう。

 思い入れが過ぎると、自分自身や贔屓の藝に対する、客観的な評価が出来なくなります。
 キャラクターに魅せられた贔屓というものは、対象者の存在だけで、また存在するものと空間を一とするだけで嬉しいと思ってしまう、私も含めて御目出度い人々なので、その魔法が解ける…ご本尊と同じ美意識・価値観を共有できなくなると離れていきます。
 普遍的な藝の力、というものは、誰が見ても聴いても、心をとらえ、感心させるものであるのです。

 それにつけても同じ文言だのに、どうしてこんなにも違うものか。
 長唄だって、おんなじ曲を弾いてるのにねえ…という思いはよくする。
 伝統芸能の恐ろしさよ。

 …志ん朝はなんであんなに早く死んじゃったかねぇ、
 「稽古のし過ぎじゃないの」 
 「ぅぅむ、落語に魅入られちゃったんだねぇ」
 「そうか、命懸けの芸だったんだね…」
 あーぁ、因果とアタシは長生きだ……
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする