2021.11.16追記
中学生の時、美術部だった私は、『緑の窓』という油絵を描いた。
少女が窓枠に頰杖をついて、梢の葉翳を映した緑色に紅潮した顔で、うっとりと樹影の、やはり緑色に染まった外界を眺めている絵だった。
外を眺めているのだが、構図がキャンバスの縁からいっぱいに窓で、窓から顔を出した少女の背景は、何故か木々の緑色なのである。心象を描いたのだから理屈ではないのだ。
ほかに中学生時代に描いた油絵で憶えているものといえば、テレビの洋画劇場で見た、マリオ・バーヴァ監督のイタリアン・ホラー映画に出てきた、白い毬を持つ長い髪の少女の絵だった。総体白いドレスと金髪の淡彩で、瞳だけブルーにしたので、モデルを知らなかった同級生からも、この目がぞっとする、と批評されたのだった。
卒業式の後、美術室に絵が残っているから取りに来るように、と、顧問の先生からご連絡を頂いたが、行かず仕舞いだった。
とてもお世話になった先生なのに、もうお名前が思い出せない。
…と、ここまで昼間移動中の電車の中でつれづれなるままに記したのだが、夜半を過ぎてついさっき、Watanabe先生のお名前を想い出した。しかもファーストネーム最初の一文字は“雅”まさ、という字だったというところまで、中途半端に。
なぜならば、先生の作品に"Masa"のサインがあったと、眼のすみの記憶が蘇ってきたのだ。
中学一年生の時、私は苦しい立場に置かれていた。
生徒として入学した中学校に、私の父も教師として勤めていたのだ。
学校で何かがあると、すべてが父に筒抜けだった。
授業中にぼんやり窓の外を眺めていたら、当時はやりだったアダムスキー型空飛ぶ円盤が見えたような気がした。
それは、後でよく考えたら単なる空飛ぶ鳥の影だったんじゃないかな…と分かってきたりもしたのだが…いつの間にかなぜかその目撃談が「私のテストの点数が悪かったのは、テスト時間中に空飛ぶ円盤を見て記憶が定かでなくなったから、という言い訳をしている」という、思い掛けない噂になっている…ということを、父から聞かされた。愕然とした。
夏休み前の美術の課題の、「身の回りの絵になりなさそうな景色を描く」水彩画は、学校の下駄箱と傘立て周辺を、一本だけ残っていた傘を、黄色いクレヨンで縁取ってアクセントにした自分としては工夫してみた一枚だったのだが、提出しそびれた。
それで、一学期の美術の通知表は、5ではなく4に減点してあるのですよ、と、ワタナベ先生がおっしゃっていた、と、これまた父の口から知らされた。
松平忠直卿ほど誇り高くなかったので、ぐれずに済んだが、万事このような感じで憧れの中学生になった早々、腐っていた。
…そういえば、中学生になったら万年筆が使えるのだ!! というほのかな憬れも、小学生の思い違いであった、と気づいたのが昭和50年代の中学生であった。
有難いことに、二年生になって、父は隣の市の中学校へ転任になった。
異動先は文部省の何かの指針のモデル校で、父は赴任早々、その事業の担当者となり、毎朝胃が痛くなる思いで那珂川に架かる橋を渡り通勤していたと、後で知った。
私にも地獄だったが、父にも地獄だったことであったろうと、気がついたのはずいぶん大人になってからである。
天国のお父さん、ゴメンナサイ。
甲府のワイナリーでこの写真を撮った時、初めて山梨に旅行した40年ばかり前を想い出した。
ぶどう棚が延々と続く、緑色の庭先の天井の見事さに、ここで育った子供たちは、空は緑色だと思ったりしないだろうか…という学生らしい突飛な感想を、当時の大学時代の恩師に告げたことがあった。
何も言わずに先生は、優しく微笑んで下さった。
中学生の時、美術部だった私は、『緑の窓』という油絵を描いた。
少女が窓枠に頰杖をついて、梢の葉翳を映した緑色に紅潮した顔で、うっとりと樹影の、やはり緑色に染まった外界を眺めている絵だった。
外を眺めているのだが、構図がキャンバスの縁からいっぱいに窓で、窓から顔を出した少女の背景は、何故か木々の緑色なのである。心象を描いたのだから理屈ではないのだ。
ほかに中学生時代に描いた油絵で憶えているものといえば、テレビの洋画劇場で見た、マリオ・バーヴァ監督のイタリアン・ホラー映画に出てきた、白い毬を持つ長い髪の少女の絵だった。総体白いドレスと金髪の淡彩で、瞳だけブルーにしたので、モデルを知らなかった同級生からも、この目がぞっとする、と批評されたのだった。
卒業式の後、美術室に絵が残っているから取りに来るように、と、顧問の先生からご連絡を頂いたが、行かず仕舞いだった。
とてもお世話になった先生なのに、もうお名前が思い出せない。
…と、ここまで昼間移動中の電車の中でつれづれなるままに記したのだが、夜半を過ぎてついさっき、Watanabe先生のお名前を想い出した。しかもファーストネーム最初の一文字は“雅”まさ、という字だったというところまで、中途半端に。
なぜならば、先生の作品に"Masa"のサインがあったと、眼のすみの記憶が蘇ってきたのだ。
中学一年生の時、私は苦しい立場に置かれていた。
生徒として入学した中学校に、私の父も教師として勤めていたのだ。
学校で何かがあると、すべてが父に筒抜けだった。
授業中にぼんやり窓の外を眺めていたら、当時はやりだったアダムスキー型空飛ぶ円盤が見えたような気がした。
それは、後でよく考えたら単なる空飛ぶ鳥の影だったんじゃないかな…と分かってきたりもしたのだが…いつの間にかなぜかその目撃談が「私のテストの点数が悪かったのは、テスト時間中に空飛ぶ円盤を見て記憶が定かでなくなったから、という言い訳をしている」という、思い掛けない噂になっている…ということを、父から聞かされた。愕然とした。
夏休み前の美術の課題の、「身の回りの絵になりなさそうな景色を描く」水彩画は、学校の下駄箱と傘立て周辺を、一本だけ残っていた傘を、黄色いクレヨンで縁取ってアクセントにした自分としては工夫してみた一枚だったのだが、提出しそびれた。
それで、一学期の美術の通知表は、5ではなく4に減点してあるのですよ、と、ワタナベ先生がおっしゃっていた、と、これまた父の口から知らされた。
松平忠直卿ほど誇り高くなかったので、ぐれずに済んだが、万事このような感じで憧れの中学生になった早々、腐っていた。
…そういえば、中学生になったら万年筆が使えるのだ!! というほのかな憬れも、小学生の思い違いであった、と気づいたのが昭和50年代の中学生であった。
有難いことに、二年生になって、父は隣の市の中学校へ転任になった。
異動先は文部省の何かの指針のモデル校で、父は赴任早々、その事業の担当者となり、毎朝胃が痛くなる思いで那珂川に架かる橋を渡り通勤していたと、後で知った。
私にも地獄だったが、父にも地獄だったことであったろうと、気がついたのはずいぶん大人になってからである。
天国のお父さん、ゴメンナサイ。
甲府のワイナリーでこの写真を撮った時、初めて山梨に旅行した40年ばかり前を想い出した。
ぶどう棚が延々と続く、緑色の庭先の天井の見事さに、ここで育った子供たちは、空は緑色だと思ったりしないだろうか…という学生らしい突飛な感想を、当時の大学時代の恩師に告げたことがあった。
何も言わずに先生は、優しく微笑んで下さった。