長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

ペスタロッチ先生

2018年07月30日 11時11分06秒 | マイノリティーな、レポート
 蝉の声が音取となって、過ぎにし時の事どもが、前頭葉の斜め30度上方、空気の襞の間に閃く。
 「こんばんは、古谷綱正です」と、穏やかながらも頼もしいおじいさんがブラウン管の向こうから夜6時のニュースを伝えるのを茶の間で見るのが、我が家の常だった。子どもの目にはおじいさんだったけれども、きっと今の私より年齢は若かったかもしれない。
 テレビで伝えることは子供たちが真似をするので、きちんとしていなくてはいけない、というのが昭和の良識でありました。2018年の今、日本のテレビではニュース番組すら、スラングが飛び交っておりますね。記事の文法、てにをはさえもが、怪しい状況なのだ。

 常識の判断で、という言葉があったが、インターネットがここまで普及するとわけのわからない少数意見(私もかも…)が独り歩きするような事態になってしまい、良識ある見解というものがもはや死に体になっている、という状況が、昨今見られる混沌たる世相ではなかろうか。
 アメリカ自由主義の下、核家族化が進み、若者たちはたいそう羽を広げたが、これは歴史あるおばあちゃんの知恵袋の集積だった日本社会にとってはとても勿体ない、惜しむべきことだったかもしれない。
 無知ゆえの不幸、とでも申しましょうか、えっと思うほどビックリする、突拍子もないニュースも増えた。

 未開の新天地は気持ちのいいものだが、裏を返せば荒野なんである。
 何もないから一から始めないといけない。
 もったいないなぁ。先祖が試行錯誤して積み上げてきた叡知、智恵を、21世紀にもなって活かすことができないなんて。
 そしてまた年寄りの意見によって世間のコンセンサスを身につけていたのが、昭和の子供たちでありました。
 大人=社会だから、ぢいさんばぁさんの顔色を見ていれば、ぁぁこういったことをやれば非難の対象になるわけか…などと日常的な知識や見識、常識が身についたのだった。

 地域によっても違うかもしれないが、昭和40年代に関東地方で小学生だった者には、道徳の授業は確かにあって、ただ前時代の修身というほど押しつけがましいものではなく、様々な事例のお話を、どう思うか、どうしたらよかったか、自分だったらどうするのか、子供心に考えさせるような、結論のないお噺集が道徳の教科書だったように記憶している。

 さて、実は道徳の教科書に載っていたのか、世界偉人伝だったのか(そいえば「ちえをはたらかせたお話」という子ども向けの寓話集のようなアンソロジーもありました)何の本から伝え聞いた物語だったのか忘れてしまったのだけれども、教師とはどうあるべきかという命題の一つを顕したお話、というので、忘れられないのがペスタロッチ先生のエピソードなのである。
 記憶に拠っているので、誤った認識、錯誤などがありましたら、ごめんなさい。ご容赦くださいませ。

 18世紀半ばから19世紀にかけての、ヨーロッパのとある国でのお話です(たぶん)。
 とある学校の放課後、子供たちが元気に校庭で遊んでいる。その傍らでキラリキラリと光るものを拾っている先生がいた。それを見ていた学外の者が、あの先生は落ちている硬貨を拾って私しているのではないかと邪推します。
 糺されたペスタロッチ先生のポケットは、たしかに何かでいっぱいになって膨らんでいました。
 でもそれは、校庭に落ちていた石やガラスの欠片、折れ釘などでした。その学校は貧しい子供たちがたくさん通ってきます。みな靴を買うことができないので裸足なのです。子どもたちが怪我をしないように、ペスタロッチ先生は見守りながら、校庭の危険なものを取り除いていたのです。……

 日本国内でも学校の校庭からいろいろなものが出てきて工事が遅れ、開校できなくなった…と、つい最近何かで耳にしたような気もするが、人間の歴史とは、ついこの間まで、そんなに豊かじゃなかったのです。選挙権だってつい70年前まで女性には認められてなかったのです。人間個々人がこんなに自分の権利を主張できる世の中になったのは、ほんのつい最近のことなのに、なぜみんな選挙に行かないの…(余談でした)
 過去の物語の方向性をあげつらったり、校閲・考証をするわけではないので、さて今一読すると突っ込みどころ満載のお話ではあるが、たとえ話というのは、その現象から真理をつかみ出すことを目的としているので、漫才のネタにして笑いどころを探す必要はないのである。

 医療機器や化学工業の先進技術の発達たるや、驚かんばかり。文明の利器によってますます快適な生活ができるようになったのに、先祖がえりどころか、人間の質が低下しているような気がしてならない。肝心の人間が啓かれなくては、進歩どころではないではないか。
 人間が生きていくうえで大切な、思想、情操というものを養わなくては、社会はしあわせにはならない。無念のうちにこの世を後にした先人たちが、浮かばれないというものである。

 夏山シーズンになると、新田次郎原作、森谷司郎監督の「聖職の碑(いしぶみ)」という映画を想い出す。
 その映画のCMを録りたくて、テレビの前でテレコを用意して待っていた女子高生。そのCMのナレーションを日本アニメーション「母をたずねて三千里」のマルコのお兄さん役だった曽我部和行氏が担当していたのだった。
 同番組の挿入歌♪母さんがいなくても陽気に育つ子があるものさ…の歌声がとても好きだった私は、例によってオタク魂を発揮して、贔屓の声優さんの声を蒐集していたのだ。思えば生涯声フェチなのかもしれない。能の御シテ方の先生も、まず、声が佳くなくては好きになれない。
 そして、今でも昭和50年代に活躍していた声優さんの声は一聞にして、どれが誰だか識別できる(なんの自慢話でしょう………)。
 いえいえ、このカンは現在の職業に役立っていると申せましょうか、知恵ではなく耳を働かせたお話ですね。

 行楽の日々、皆さま、本当にご無事で……
 弟子ほどかわいいものはない。師匠ほどありがたいものはない。
 …というのが、修業道に身を置くものすべての、偽らざる心境でありましょう。
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岸田森と森川信

2018年07月27日 07時00分55秒 | やたらと映画
 岸田森が亡くなったのは、私が二十歳の年の暮れだった。TVニュースで知った時は本当にショックで悲しかった。訃報を伝える画面を今でも覚えている。
 子ども時分から「怪奇大作戦」は欠かさず見ていたし、中学生の時、掃除当番をさぼって男子が早く下校したがるのは「傷だらけの天使」の再放送を見たいがためであった。高校生だった時ラジオドラマで我がヒーロー、ブラック・ジャックを演じた。狂喜の配役であった。これまた欠かさず聞いていた。

 勉強をしながらラジオを聴くのは昭和の中・高生の常であった。ラジオドラマの全盛だった。朗読ではなく、ラジオドラマなのだ。
 深夜ともなると、ささきいさおのセイ!ヤングとか那智チャコパックとか、スネークマンショーとか、城達也のジェットストリームとか、もぅぉ、枚挙にいとまがない…というのはこういう時に使う言葉なのだと、今知った。
 テーマ曲はもとより、西国に去った方々の息遣い、喋り方の特徴など、耳からの記憶は今でも鮮やかに、耳のうちに蘇ってくるのだった。

 淀長氏の熱意の賜物か、萩尾望都の「ポーの一族」ゆえか…いえいえ、ここで申しましょう、山本廸夫監督と組んだ岸田森ゆえか、吸血鬼は昭和の少女たちには永遠の憧れだった。
 岸田森にシャーロック・ホームズを演じてほしかった。鹿打帽とトンビマントがこの上もなく似合うはずであった。

 時々、ひどく岸田森が居た時代に戻りたくなることがある。リアルタイムで見なかったことを悔やんだ「近頃なぜかチャールストン」を中野の名画座で観たのは、もう20年も前のことになってしまった。同じ劇場で観た「哥」もかなりなエキセントリックさだった。岸田森が存在する世界に失望させられたことは、一度たりとてなかった。
 
 寅さんのおいちゃんは森川信でなくてはつまらない。
 森川信は、私にとっては「おくさまは18歳」の校長先生である。
 同作の主役を勤めた岡崎友紀は、昭和40年代少女の永遠のアイドルだった。相手役の男の子のことはどうでもいいのだ。岡崎友紀のコメディエンヌっぷりが小学生の私のハートに火をつけたのだ。
「なんたって18歳」は長いこと私のカラオケの持ち歌だったし、「だから大好き!」の南洋の島の王子さまは、なんてったって沖雅也なのだった。ファンでなくとも沖雅也が王子さまであることに疑いないのは、昭和の定石であった。

 さて、森川信の得難い芸達者ぶり、そのことに改めて気がついたのは、もう25年以前、映画に大層詳しいとある落語家の師匠から、寅さん映画再見すべしとの御説を伺って後のことである。
 昭和末期の映画少年たちは、メジャーな大衆邦画シリーズである、寅さんを観に行くなんて、ベタなことはできないのだった。オタクの沽券にかかわるのである。三百人劇場でルイス・ブニュエル監督の映画を見たりするのが、映画ファンを自負する青少年の正しい在り方である、と信じて疑わなかった。
 それから4,5年が経ったやはり20年も前のことだけれど、昭和の終わりごろに上杉鷹山など、歴史上の人物を経済小説風な切り口で描いて名を上げたD先生が、書斎兼事務所の書棚に「男はつらいよ」シリーズのビデオ全作を揃えていると聞いて、なるほど、と感じたものだった。
 50歳になったら私にもあの映画の良さがわかるのかもしれない…と、当時30歳代後半だった私は思ったが、案の定。数年前から寅さん映画をこっそり見て心の平衡を保つという、私の中の映画に対する愛情が新しい時代を迎えた。

 昭和50年代のディスカバリージャパン。銀幕の中のロケ地の風景の美しさが切なくて、胸がざわざわっとして泣きたくなるのだった。
 その景色があったあの時代に、自分自身がいた場所をまざまざと感じ取ることのおののき。記憶でしかないのに肌にまとわる空気感はどうしたことだろう。フィクションである物語映画は、実はノンフィクションの記録映画でもあったのだ。

 失ってしまったものたちへの郷愁、挽歌というおぼろげな感傷ではなく、自分がフィルムの中に取り込まれてしまうような実感を伴う錯覚があまりに怖くて…そして、完パケされている昭和時代が懐かしくて…ついついのついのついつい。
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志向のよろめき

2018年07月26日 11時10分00秒 | 已むにやまれぬ企画実験記録
 ついこの2週間ほどのことだったのではなかろうか…何の講義で伺ったのか、気候のもやもやが記憶のモヤモヤに輪をかけるので断言できませんが、分かりやすいのでメモしておいた言葉があります。

 いわく、歴史は人がつくり、時代が人をつくる。

 うーーーむ、分かりやすい。人にものをお伝えするにはこうでなくちゃなりません。
 さて今朝もまたもや回りくどいタイトルのようではありますが、人の嗜好というものはどんどん変わっていく、そしてそれは時代の志向によって変遷していく移ろいやすいものである、ということに端を発したお話です。

 半世紀を越えてなんとか生きてきた今の私は、野菜の春菊がとてもとても好きなのですが、小学生の頃は全然違いました。こんなものが…殊にお浸しにしたシュンギクなるものが、この世の中に食べ物として存在することが許せませんでした。
 香りといい味わいといい、食感といい、こんなに美味しいのにねぇ……

 物事の魅力、面白みをどこに感じるかということは、その人が重ねた年月、経験などでどんどん変わっていくものなのです。ですから、大量に消費される世間一般の興味の動向というものは、その時代、時々に、世の中に流通する媒体の中心で働いている年代(つまり働き盛りの20、30~40歳台)の方々の嗜好、志向、商売っ気に左右されるものなので、ある程度、社会の最先端を通り過ぎたものには、まったくもって、お前の話はつまらん、という心境でいるのが本当のところだと思います。

 そしてまた、生まれ育った時代によって、文化の志向性も異なりますから、第2次東京オリンピックゆえに世の中が文武両道ではなく、武=体力=健全な肉体の育成に舵を切るあまり、文=知力=健全な頭脳の育成、そして、情操教育というものがおろそかにされて来てやしないかなぁ…と思ったりもしてしまうのでした。

 昭和の修業時代、「そんな音で弾かないで」と、平均律に準じすぎる演奏をしたことを師匠にとがめられたエピソードを同年代の同業者から聞いたことがありましたが、それも前時代の記憶になっちゃうんでしょうかねぇ。



 思考を積み重ねる作業を拒絶させる、この外気温をどうやり過ごすか…が日々の命題であった前年までを通り過ぎてしまった、平成時代最後の夏。もはや人間の知恵と工夫は、大自然の前に無用、無力である、と悟った我々が見出した活路が、対自然無抵抗主義であるのかもしれません。

 そんなわけで、やはり、暑い夏は身の毛もよだつ、血も凍る怖い思いをして涼むのが日本列島に住む者らしい遣り過ごし方でありましょう。
 昭和の小学生にとっては、淀川長治氏が推奨するドラキュラ映画の連作物が、夏の風物でもありました。エドガー・アラン・ポーの怪異譚、そして江戸川乱歩。昭和の中学生にとっては、出版・映画界がこぞって展開させる横溝正史シリーズも恐怖の対象でした。
 
 これまで幾たびとなく映画・ドラマ化されてきた金田一耕助シリーズですが、2000年を過ぎたころ、モボモガが闊歩する戦前の都市文化を意識した、たいそうスタイリッシュなアレンジメントを施されてTVドラマ化された『悪魔の手毬唄』を見たことがありました。
 愕然としました。全然怖くないのです。
 尊属殺人という概念が破棄されたのは平成になってからでしたが、家社会という枷から解放され、ようよう個々人の幸せを第一義とすることに、罪悪感を抱かずに生きていけるようになったような気がした昭和50年代後半の日本。
 その時代に生きていた人々には、旧来の日本の風土と因習にからめとられ、引き戻されることが怖かったのです。

 タブーが存在することによる人々のためらいと、破戒することにより生まれる悲劇、というものは、もはや現代人にとっては体感し得ない、意識の埒外です。怖いどころか笑い話になり兼ねないのでした。

 時代が変わって人心が変わると、怖いものの概念も変わるのです。解釈は様々あれど、原作を生かす解釈でもって演出しないと、作品というものは本来の魅力を現出できずにミイラ化してゆくものなのである、それはそれで非常に怖い話ともいえますけれども…



 来る29日日曜日の午前10時半から、下北沢稽古場にて第4回観余会を行います。
 夏の風物である怪談、幽霊の芝居のお話と、実技は、もちろん、妖異譚には欠かせないあの音色なんですが、近づきつつある自然の大脅威、どうなりましょうか…
 参加費は1500円で、どなたさまでもご参加いただけます。
 お待ちしております。
 
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2018年07月17日 17時17分00秒 | 美しきもの
 しろと言ったら犬だし、あかと言ったら牛、そして、あおと言ったら馬の名なのだ。
 …その常識は20世紀までのことだったのかもしれないけれど。
 常識、社会通念、共通認識があると話が早いのだ。無いと一から説明しなくちゃならない。

 ときに、八っつぁん、きっぱりはっきり厳然として人間の個人的な都合なんざ聞いてくれないお役所仕事が多い中で、歴史ある苗字はともかく、なぜまた名前という大事なところに使う漢字に、漢字自身の出自とは全く関係ない、各々勝手な読み方をさせて人名として命名することをOKとしてしまったのだろう…ねぇ。
 もはや当て字でもなくなぞなぞでもなく頓智クイズでもない。日本語の崩壊、文化の後退である。

 そんなこんなで、ブルーな日常でも、蒼い空を見上げると心が晴れやかになる。
 碧い海を見ると心が浮き浮きと躍りだす。
 青ってステキな色ですねぇ。
 出藍の誉れとか、藍より青く、とかいう言葉があるけれど。



 去る五月中旬の土曜日、M駅近くで素謡会を覗いた帰り道、ついふらふらと水中書店(三鷹駅北口に現存する古書店なり)に寄ってしまった。
 そこで、なんとした奇遇、何としたサザエのつぼ焼き、なんと間がよいことでありましょう、松岡映丘の生誕130年展の図録が出ていたのだった。
 …というのは、そのまたつい先週、野間記念館で1921年作「池田の宿」を観て、もう20年来片想い状態だった松岡映丘の絵よ、more…と、もやもやしていたところだったからである。

 私が初めて松岡映丘に出会った…Eikyuという画家の存在を意識したのは、藝大美術館が開館した20世紀も終わりのことだった。
 大学付きの資料館ではなく、新しく美術館として開館した折の記念展覧会で、私は松岡映丘の大正14年作「伊香保の沼」を見た。
 遠景に青々とした榛名山、同じく青を湛える湖、そして湖水に着物の裾もろとも足を浸し物思いにふけるニョショウ。
 美しい。美しいのではあるが、どちらかというと、怖い絵である。女性の目があらぬ彼方へ視線を投げているからである。風景に心象を宿し、群青と緑青が絶妙に融合した映丘描くところの、やまと絵の色遣いが、私の胸に深く刻み付けられ、網膜に焼き付けられた。
 彼に出会った帰り際、美術館の前庭で、ちょっとした開館記念の野外能があった。薄く暮れていく上野の森で時折薪がぱちぱちとはぜる音を聴きながら、仮設舞台の前に点在する椅子席から三山を見た。得難い夕べであった。

 その一枚の絵が怖かったこともあり、私は松岡映丘のことをあまり知らずにいた。
 …いや、調べようにもその当時、資料がなかったこともあったかもしれない。
 松岡映丘は昭和13年に56歳で亡くなった。

 もう20年以前、とある仕事で当時、雅叙園美術館が収蔵していた浅見松江の絵をお借りするため、ご遺族に連絡を取ったことがあったが、彼女が松岡映丘の弟子であったことを初めて知った。そしてまた、橋本明治も映丘の弟子だったのだ。映丘の家塾は当初、常夏荘と称せられたそうである。

 20世紀終わりの出会いから20年ほどを経て、そうした偶々通りがかった街角のめぐり逢いで手に入れた図録から、私はやっと松岡映丘の生涯を知ることができたのだった。
 そして、映丘blueと名付けたい青の色遣い、それゆえに、彼の存在は私にとって絶対無二となっているのだと気がついた。



 群青色の海、白い波頭、岩陰に身を寄せる浜千鳥。
 平福百穂の1926年作「荒磯」にそっくりの海だなぁ…と見入ったのが、昨夏訪れた初島の磯の岩。
 松が枝の手前から眺めるのは俊寛か、はたまた樋口兼光、松右衛門か。
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夏の庭

2018年07月07日 02時14分22秒 | 折々の情景
 昭和の或る夏の日の庭先で。
 空色のバスケットは、必ず携えるお出掛けのお供。
 母が握ってくれたオムスビ(たしか銀色のアルミホイル…のようなものに包まれてた)が中に。
 動物園や遊園地、父と行く映画館でもぐもぐと…梅が定番だったか。

 映画館ではたいてい、東映まんがまつり、東宝や大映の特撮もの…ゴジラやモスラや妖怪大戦争。ディズニーのアニメは勿論、実写ものも多かった。ほかにも数多の子ども向け外国映画、東欧のアニメやエミールと探偵たちもあった。
 まじめな教育映画は、学校で皆で観に行った。

 想い出多き我が町の映画館は、昭和50年代中頃には映画上映よりもイベント会場の趣きが強くなり、レコード大賞を獲ったちあきなおみが「喝采」を歌い、やがて閉館してしまったが、ご子息が自家焙煎の珈琲店を始めた。
 ご亭主のご努力の賜物でありましょう、今や都内にも支店を持つ繁盛店となっている。

 そうして以前は、暗闇に写る光と影の揺らめきを見つめていた同じ場所で、中庭の植栽をわたる風にほおを緩ませ一杯のコーヒーに心をたゆたわせる、時間の襞を思いながら。

 ふるい、ニューシネマパラダイスなお話し。
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