長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

新・渡り鳥いつ帰る

2018年03月28日 01時51分56秒 | 近況
 桜が開花したというが、ほんとかしらん。
 水際の桜は、たいがい九段より幾日か遅い。
 まだ見ごろじゃありませんょ、と、正直にご報告するのがご町内に住む者の親切というものであろう、と思い立ち、年に三度あるかないかの早起きをして、お隣の公園の様子を見に出かけた。
 
 …なんて記事を書き始めて、下書き保存していた内に、5日がとこ経っていた。
 国のありていとは関係ない無宿渡世のような私が、今年は不思議と年度末のバタバタの渦に…ぅわ~~~……と声なき響きとともに排水口に流されていくのは、この身ならぬ時間である。
 申し訳ないことでございます。さまざまなことが滞っておりますが、お許しくださいまし。

 桜が咲いてしまった。
 もう二度と廻り逢えないかもしれない今月今夜のこの桜を、自分の目で見ないでどうするのだ…という気持ちが拍車をかけて、この時季ならではの仕事先からの帰路、♪桜がとってもピンクだからぁ遠回りして帰ったりして、余計へとへとに疲れたりして…。

 去る2月7日、井の頭公園はかいぼり中だった。


 弁天さまのほうから池の南岸を通って七井橋ボート乗り場へ至ったところが…


 手漕ぎボートのほかに足漕ぎの白鳥さんたちがいたはずだが、いずこへ…

 

 と案じつつ、井の頭公園駅へ向かっていた私の目の前に…

 こんなところにいたのね、と避難中の白鳥さんたちのスナップ。



 そしてひと月ほどを経て開花宣言に驚き、3月24日早朝、ご町内の様子を見に出かけたところ、


 かいぼりは3月末までの予定だったはずだが、この時をのがさじ…と開花に合わせたのでしょうか。
 ボートが戻っておりました。


 そして、白鳥さんたちも。


 白鳥の湖…かとまごうばかりの井の頭の池。


 この景色がつい5日前だったとは思えぬ今日の花の盛り。
 明日も都の巷に流れ流れておりますので、皆様ご自身の御目でお確かめいただけましたら…
 
 
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長唄絵合せ3

2018年03月09日 22時23分02秒 | お知らせ


 【番組】
長唄「喜撰/きせん」
 小町以外の五歌仙を早替り的に踊りぬいた二代目中村芝翫「六歌仙容彩/ろっかせん すがたのいろどり」天保2年(1831)のうちの一曲。
 ちょぼくれ、住吉踊り…愉しさここに極まれり。

舞踊「蓬莱/ほうらい」
 改革により天保13年、大火による芝居町の焼失もあって江戸三座は浅草に移転。
 遊里に耽り名曲をものした四代目杵屋六三郎の描く仙境とは。

 【今回の浮世絵の見どころ】
 浮世絵愛好家垂涎の小町シリーズを、春信から芳年までのもの4点
 爛熟した風俗を描いた英泉の藍摺りの花魁「花紫」
 廣重「吉原の夜桜」
 天保の改革での風紀取締りを風刺した國芳「無駄書き」など11点
 

 第3回 崩れゆく憂き世をよそに

人間界に何が起きようと、四季は廻り再び春がやって来ます。
絵と音と立体が紡ぎ出すUKINEの世界。

今回は、平安時代の六歌仙を大胆に脚色した、
粋で洒脱な歌舞伎舞踊曲をご紹介いたします。

一八五三、嫌でござんすペリーさん
その蒸気船にかけられた、たった四杯で夜も眠れぬほどの銘茶・上喜撰。
このネーミングの素でもある、
墨染の身でありながら、桜の花枝を肩にかけ、
小町姫を口説く伝法な喜撰法師。

江戸後期、文化が爛熟した化政時代を過ぎ、
頻発する打ちこわし、外国船の到来、
果ては幕府の役人が反乱を起こし、
苛烈な政治改革が断行された、幕末前夜の天保年間。

底抜けに明るく賑やかな音曲で踊り騒ぐ一方で、
鮮やかな景色を見る心の闇。
人々は桜の花に何を見たのでしょうか?




 旗揚げ公演、第2回公演から少し間が空きましたが、また来る春、4月21日土曜日に、第3回公演を行う運びとなりました。ありがとうございます。

 今回は、ただ季節感を味わっていただくだけでなく、江戸時代の様子をさらに身近に感じていただけますよう、テーマを区切りまして、天保年間に作曲された長唄の番組にいたしました。

 唄は世につれ、世は唄につれ…(ロッテ歌のアルバムという番組が昭和のころありました。名司会者・玉置宏…千秋さまの玉木宏じゃないですょ…)

 天保年間(1830年12月10日~1844年12月1日)は、幕末となる黒船来航の嘉永6(1853)年より20年ほど前の時代ですが、それまでの国の在りようが制度疲労を起こして、なし崩し的に崩壊していく…なんだか現在の日本と酷似しているような気がしてなりません。

 そんな憂きことの多き世を、一般庶民はどう暮らしていったのか、音楽からひも解いてゆきたいと思います。

 そして、第1回にお越しくださいましたお客さま、2回公演よりタテの客席をヨコにいたしました。
 最後部の座席も前から3列目ということで、よりご覧いただきやすくなっております。
 ぜひまたお越しくださいませ。

 (ただ、それがため、40名様より座席スペースが減りまして、ご予約38名様限りとさせていただきます。申し訳ないことでございます…)

 なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 
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犬の寺(山陰柴八犬伝)

2018年03月05日 21時12分20秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 さて、2012年10月の末に訪れました折のご案内をば。

 日本国 鳥取県 倉吉(くらよし)市はこの辺りにあります。



↑倉吉観光案内所で頂戴した観光案内冊子の最終ページの地図です。

 そして、倉吉の歴史的景観地区の地図はこちら↓



 鳥取県観光連盟で無料配布している、山陰鳥取・鳥取県観光ガイドマップの一部分です。

 右端のフキダシを、鳥取空港からレンタカーに乗って移動していた車中で発見した時は、驚いたの何の。

 そしてこちらが萬祥山大岳院、曹洞宗のお寺です↓



 山門にすてきな木鼻(外側に出張ってる柱の端っこのこと)がありましたので、アップで撮ってみました。

↓まず右側。


↓そして左側。


 獅子のような狛犬のような…お犬様でしょうか。めずらしい意匠です。
 お邪魔しまして…ご廟所の所縁書。



 そしてこちらが、里見忠義公と八賢士の皆さまのお墓です。




 あれ? お墓のかたわらに忠犬ハチ公のように佇む、お犬さまが…↓



 寄ってみましょう。



 そして、こちらにも…↓



 お墓の傍らの、築地の向こうにも…↓



 さらに、振り返れば…

 ふり向けば、イヌがいる…↓



ちょうど渡る世間はハロウィンだったので、奥の外縁に唐茄子の細工ものが見えます。

 そしてまた、ふり返れば木陰に…↓



 さて、墓所の正面にもどって、本堂を拝みますと↓



 おぉっ!! この手前のものは、ひょっとして…!!!



 はい、八つの玉の文字「仁 義 礼 智 信 忠 孝 悌 (じん ぎ れい ち しん ちゅう こう てい)!」
 
(この並びがいちばん言いやすいので、私はこの順番で憶えています)

 ぇえと、ここまで六犬士、あと二士はいずこに…



↑本堂の傍らに、そして…



↑皆、このようにして、里見忠義公のお墓のほうを向いておりました。


 滞在中、偶然にも、三朝温泉の宿で見ておりましたローカル局TV番組で、この週末、山陰柴犬(さんいんしばいぬ)の品評会があった…というニュースを聴きました。
 この山陰柴犬は、シバ犬なのにしっぽがくるんと巻かないのが特徴だそうです。

 40年ほど前には絶滅の危機に瀕していたのですが、現在120匹ほど(いえ、200匹だったかもしれません…一度聞いただけで失念…不確実で申し訳ない)まで、増えたそうな。

 大岳院の犬くんたちのしっぽが脳裏に浮かび、天祐のような豆知識ガイドの廻り合せに感謝しました。



 倉吉市内の蔵元、元帥酒造(げんすいしゅぞう)の「八賢士」にて、献杯。
 横綱・琴桜の銅像の広場から、つらつらと街並みを歩いておりましたら、お店に行き当りましたのです。

 ちなみにこちらのお店では、戦艦三笠の甲板での、有名な肖像画をラベルにした、東郷平八郎元帥ゆかりの「元帥」というお酒が主力銘柄らしいです。

 そいえば…日露戦争の折、海軍の東郷元帥と並び称された、陸軍に乃木希典(のぎ・まれすけ)という軍人さんがいました。
 この方は、何度も失策して多数の戦死者(彼の子息も戦死)を出してしまうのですが、それでも明治天皇は彼を留任し、乃木は艱難辛苦の末、旅順(りょじゅん)という重要な地点を陥落させます。

 失敗しても、すぐに解任せず、自分の使命を遂げさせてくれた明治天皇への恩義を忘れず、この方は、明治天皇が崩御したとき、殉死しました。

 …里見八犬伝ゆかりの町、倉吉。

 「忠義」の二文字に、さまざまなことを想う旅でした。



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前説の南総里見八犬伝・後編

2018年03月03日 23時55分23秒 | ネコに又旅・歴史紀行
  【2012年11月8日付の報告書】

 テッペンを取るのに、いちばん必要なものって何だと思う?

 理想をもち、信念に生きョ…とかいうカッコいいキャッチフレーズ?
 メッチャ幟が立ってるけど、アレ、一人で3本持ってるんだぜ…なーんて情報収集力?? 
 何があっても裏切らない忠臣???

 ノー! No!! のーぅ!!!
 かなり率直に言って、お金、軍資金です。
 ケンカに強いお侍なだけじゃ、連戦連戦で切りがない。疲れ果てて死んじゃいます。
 おカネにものを言わせれば、たいがいの融通は利きます。
 情報だってお金で買えるしね。

 むかしは、戦場でどんだけ兵隊を斬れるか…が武士の甲斐性とするならば、
 いまは、選挙の時にどのくらい札束を切れるかが、政治家の甲斐性。
 勢いとハッタリだけで天下取れるのは、1950年代の東宝映画の中の植木等だけですね。
 大内義隆がレイナさんに「貿易っていいよぉ」と連呼していたように、
 お金を貯めようと思ったら、貿易…そして、商いでんなぁ。

 信長くんが室町幕府最後の将軍・足利義昭と、まだ仲のよかった頃、義昭くんが、京都に近い領国をくれると言ったのを、信長くんは辞退して、泉州堺や、琵琶湖のほとり大津などの商業都市を、直轄地として所望したそうです。
(むかしは流通のカナメは水運=舟でしたから、湊って物資の集まる一等地だったわけですね)
 信長くんは、お金の集まるところをよぅ知ってはったんですわなぁ。
 その真似をしたのが秀吉くんですね。

 商業・貿易、そしてもうひとつ。
 世の中の流行りすたりと関係なく、世界でいちばんお金持ちな人って、だーれだ?
 それはね…なんてったって、アラブの石油王、これです。

 軍資金、よそから集められなかったら、自分で掘り出しゃいいわけです。
 戦に明け暮れてたヤンキーみたいな武田信玄だって、甲府に金山持ってました。
 徳川家康が持っていた"金のなる樹"…いぇ、金の卵を産む鶏、
 その名を、大久保長安(ながやす:俗に、ちょうあん、と呼ばれてます)といいます。

 あっ!わかった!!
 この人、前の回に出てきた、大久保忠憐の親戚っしょ!!!
 …というのはいささか早計です。

 大久保長安は、もともと大久保くんだったわけではありません。
 武田家のお抱えの猿楽師の一族でした。
 お兄さんといっしょに士分に取り立てられて土屋くんになり、お兄さんは長篠の戦いで戦死しちゃって、いろいろあって武田家も滅亡。

 武田領が家康くんのものとなって、甲斐の国にやってきたときに、お風呂好きな家康くんに、桑の木製のお風呂を献上して、ものすごく気に入られて、徳川家に召し抱えられるようになった…そうなのです。

 桑といえば、絹織物の生みの親、蚕さんの食物ですからもう、むかしの日本は桑畑ばっかしだったと言っても過言ではない。
 歌舞伎役者の鏡台も、桑の指物です。木目がきれいで、色つやも上品ですてきです。

 浅草公会堂の裏に、江戸指物のお店がありまして、もうずっと昔、25年ぐらい前に桑の合い引き(ハンバーグのネタじゃなくて、正座する時、おしりの下に敷く小さい折り畳み式の台、現代語でいえば正座椅子っての)を、フンパツして買ったことがありましたが…高かったょ。新幹線で大阪ずっと越えて、新尾道往復できるぐらいでした。
 でも、もう、国産の桑の木って、ほとんど無いらしいですね…。

 その、土屋(弟)が徳川家に召し抱えられたそのときに、身元引受人になってくれたのが、くだんの、大久保忠憐(ただちか)なわけです。
 業界用語でいうところの“寄親(よりおや)”というやつで、血縁関係のないよそ者を迎え入れるときに、保証する親代わりとなる人です。

 というわけで、土屋くんは、大久保を名乗るようになりました。
 さて、大久保長安(旧・土屋くん)には山師的才能があった。…この場合、的、ではなくてまさに山師だった。
 どうやら、猿楽師という職分は、諜報員をも兼ね、また忍者をも兼ねるような役目を果たす人たちだったらしい。

 山伏や、漂泊の旅芸人がそういう役目を担っていた=傀儡子(くぐつし)なんて呼ばれて、大道で人形劇をやったりする…平安時代を舞台にした時代劇(おもにNHK大河「風と雲と虹と」~平将門と藤原純友のお話です)にもありましたが、
武田家に仕えていただけに、鉱山開発にかけては、たぶんかなりの知識を持っていたに違いない。

 原発の下に活断層があるかどうか、プロにかかれば十中八九の見立てができるように、
大久保長安は、毛利氏の金蔵だった石見銀山を、新技術でもって銀の産出量を倍増させ、
さらに佐渡金山の開発に乗り出し、徳川家の金蔵を盤石のものとし、
伊豆の土肥金山…湯河原に行くとその土地の豪族、土肥氏の銅像が駅前に立ってますが…、
奥州(岩手県)の南部金山…etc.、さらに木曾の林業の開発までやっちゃったそうですから、
 もう、ただただビックリするしかない、仕事っぷりです。

 こーんな有能な、大久保長安…実は、昭和の50年代ぐらいまでは、かなりな有名人でした。
 時代劇や、寄席で講談とか聴いて、たいがいの庶民は知ってました。
 でもね、「天下の大悪人」…とかいうアカウントで呼ばれちゃってるヒトとして。

 家康くんの有能な部下だったのに、なんで大悪人??
 たぶんね、前代未聞だと思いますが、大久保長安、病気で亡くなった2ヵ月後に、切腹を言い渡されます。

 …はぁ??どーゆーこと????(つづく)



  【2012年11月9日付の報告書】

 怪しいんだょなぁ…。
 なにがって、徳川将軍家の下で天下取ったる!抗争の主要人物のことなんですがね…。

 大久保長安は、家康くんに莫大な富をもたらしてくれる、金の卵(金銀鉱石)を生むニワトリだった。
 でも残念なことに病に倒れて(薬マニアの家康くんは、高価な特効薬までお見舞いに贈っています)、
 亡くなったその日に、家康くんから大老クラスにまで取り立てられています。

 1613年4月のことです。69歳でした(♪諸説あるんだ~けどね)。

 それなのにお葬式が執り行われようとしていた2か月後の7月、
 生前の悪行(業務上横領とか、贅沢しすぎとか、幕府を転覆しようとしたとか、なんだかいろいろ)が暴露したということで、長安はすでに棺桶の中にいたのですが、領地の八王子を没収、切腹を命じられて(できるのか??)、
 さらに生きている長安の子どもたち(もう成人してますが)7人全員が切腹させられ、
 嫁の実家の大名家に至るまで、連座して断罪されちゃったわけです。

 むかしの時代劇ですと、長安は天下の大罪人ですから、
 慶安太平記に出てくる由井正雪にそっくりな、総髪(オールバックの後ろ髪の長いやつ。金八先生を短くした感じ)のオッサンの姿で出てきます。
 歌舞伎から出た、いわゆる典型的な「国崩し」キャラですね。

 そんなことがあったので、長安の寄親だった、大久保忠憐も、とばっちりを喰うわけなんですが、
 それがヘンなんだよねー。
 大久保忠憐が実際に失脚したのは、1614年1月のことなんです。

 歴史って、ただ出来事が列挙されてある年表を、じーっと眺めてるだけのほうが、真実が浮き上がって見えることがある。

 まだ豊臣家が大坂にあった1600~10年代、家康くんの下で力があったナンバー2が二人ありまして、
 ひとりは、この大久保忠憐(ただちか)。1553年生まれの丑年。
 そしていま一人が、本多正信(まさのぶ)。1538年生まれ。いぬ年。
 ちなみに家康くんは1542生まれ、トラ年です。

 ま、早い話が、大久保忠憐の存在を疎ましく思った本多正信が、あることないこと大御所さまに吹き込んで、罪に陥れたらしい…というのがのちの世の考察ですが、
 それだけなのか?
 実は本多正信、大久保忠憐に勝るとも劣らない、スキャンダルのタネが身内にありました。
 正信には正純(まさずみ)という息子がおり、親子そろって家康くんに仕える重鎮です。
 その本多正純の家臣・岡本大八(おかもと・だいはち)が、ちょっとヤバいことになった。
 1612年3月、この岡本大八くん、キリシタンなんですが、詐欺及び収賄で火あぶりの刑にされます。

 彼はこともあろうに、キリシタン大名の有馬晴信(ありま・はるのぶ):天正遣欧少年使節の千々石ミゲルくんを派遣したお方ですね~を、騙してカモるのです。

 有馬晴信は、長崎でポルトガル船を焼き討ちしちゃったんですが、
(この事件の顛末は、市川雷蔵主演・伊藤大輔監督「ジャン有馬の襲撃」という映画に詳しい…これまたファンタジーかもですが。白黒の古い作品ですが、もんのすごく面白い映画だょ~!!
 …もう20年以上前に観たのでほとんど忘れましたが、前髪立ちの雷蔵がまた常に無いこしらえで、カッコよかったのです。ヘアスタイルは重要だね!)

 その恩賞として旧領を回復させてあげるからと、その運動資金を要求して着服したのが、正純の家来・岡本大八です。わるいやっちゃ。

 そしてこやつは、自分だけが滅せられることを潔しとせず、
 有馬晴信が長崎奉行の暗殺を企てた…だのと言いつのり、
 それがため晴信も所領を没収され、甲斐の国(奇しくも)へ流罪となり、切腹を賜ったのです。
(でも、晴信くんはキリシタンなので自殺できないから、斬首されたそうなのだ…なんだか泣けてきちゃうょ…)

 ちなみに、宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したのは、この年、1612年=慶長17年です。
 でね、
 そんなこんながいろいろありまして、1年後の1613年春、大久保長安が没する、
 同年夏には、都内(その頃は府内ですな)浅草や鳥越でキリシタンが処刑される、
 一方で、秋、伊達政宗くんが、大人の遣欧使節・支倉常ニャガを出帆させる。

 明けて1614年正月、京都でキリシタン弾圧の任務についていた大久保忠憐に、突如、改易のお達しが…!!
 なんで、ここで………???

 怪しいよ、絶対になんかあるよ、本多正信とキリシタンの関係って何かあるよねー
 当時のかわら版屋だったら、アタシ、絶対あることないこと書いて、週刊誌の売り上げをあげてやるぜ!!!
と、叫んでいたと思います。
 とまぁ、さまざまな出来事でゴタゴタしていた慶長年間なんですが、
 大久保忠憐が失脚しちゃった同年夏、家康くんがいよいよ豊臣家を詰めにかかった、例の方広寺の鐘銘事件…「家族健康」じゃなかった「国家安康」ね…が勃発します。

 さて、それでですね、あれあれ~? この報告書は、徳川幕府草創期の、仁義なき戦いに関するものじゃ無かったはずだゾ…そもそもね…と、気がつかれたことと思います。

 この話が、里見八犬伝のモデル・里見忠義公と何のかかわりがあるのか。
 実は、大久保忠憐の長男の娘…というのが、忠義公へお嫁に行っていました。
 忠義にとって、大久保忠憐は、義理のおじいちゃんなんです。

 そーなんです。

奥さまは、マゴ、だったのです…(つづく)



  【2012年11月12日付の報告書】

♪親ガメの背中に 子ガメをのせて~子ガメの背中に 孫ガメのせて~~
 孫ガメの背中に ひい孫ガメのせて~~~

 という歌を、むかーし、寄席で漫才師が早口言葉のようにしてやってましたが、
 そいうわけで、親亀こけたら皆こけた。

 おじいちゃんの大久保忠憐が失脚して、親戚もコケた。
 1614年9月、房州館山藩主、弱冠21歳の里見忠義公も、改易となりました。
 
 改易ですから、家名を取りつぶされて領地を没収されちゃったんですが、
 忠義くんのお父さんは、先祖代々の安房の国9万2千石以外に、家康くんから、常陸の国の鹿島郡3万石をプレゼントされていました。
 関ヶ原のときに、秀忠くんに従って宇都宮を守った功績があったのです。

 ですので、館山城は破却されちゃいますが
 (いまある館山城は、昭和57年に復元されたものらしいです。
  館山藩自体には、忠義くんののち、約170年後の1791年に稲葉氏が陣屋を置いたそうな)

 忠義くんには、鹿島領の替え地として、伯耆の国・倉吉藩が用意され、引っ越し(移封ともいう)てきたのです。

 しかーし、1617年(大御所さまの亡くなった翌年)、中国地方で、いくつかの国替えがありまして(ややこしくなるので省きますが)、
 因幡・伯耆の国の諸藩は、ことごとくが合併統合され、
 倉吉藩も、新しく大きくなった鳥取藩に吸収され、廃藩となってしまいます。

 3万石がいつのまにか百人扶持に…本当はコワイ日本昔ばなし・逆わらしべ長者篇。

 1622年(元和8年:2代将軍・秀忠が隠居する前の年です。シマバランは1637年ですからまだ15年ものちのお話)、
忠義くんは、29歳で亡くなりました。
 幕府の公式見解では跡継ぎがなく、里見家は断絶。

 そのとき、まだ若き主君に殉じた忠臣、8名。
 この方々が、のちに八犬伝のモデルになったといわれているそうです。

 チュウギとは何でしょう。
 忠義くんの義理のおじいちゃん・大久保忠憐は、領地の小田原藩6万5千石を没収され、彦根藩・井伊家にお預けの身の上となります。

 家康くん亡き後、小田原藩復活の赦免状が出たのですが、
 忠憐は、「大御所さまの非をさらすことはできない」と言って、

(つまり、自分が許されるということは、家康くんの裁定に間違いがあったということを、白日の下にさらすことになるわけであるから、家臣の自分にはそんなことはできないのだ!ということですね)

 死ぬまで配流先で暮らしたそうです。私は、このオッサンの心意気に泣きました。

 因果はめぐる糸車…忠憐一族を無実の罪に陥れた、本多正信・正純親子ですが、
 正信は、大御所さまの後を追うように同年、1616年に亡くなり、
 正純自身も、例の宇都宮釣り天井事件

(これは有名な講談ネタで、むかしの時代劇には必ずと言っていいほど出てくる話なんですが…
宇都宮城主・本多正純が、家康くんの8回忌のための日光詣での際、2代将軍秀忠を暗殺しようとしたというね、
将軍の御座(みま)しの間へ、天井が落ちてくるような仕掛けをつくったという、
これは、まー、フィクションらしいのですが、面白い話でしょ?)

 で、1622年(奇しくも里見忠義が亡くなった年ですが)、改易されました。


 さて、長すぎる前説はそろそろ切り上げまして、

 いよいよ、2012年10月の倉吉のお話を致しましょう…(つづく)



《写真の説明》

講談社刊、講談名作文庫(昭和51年刊行)より、由井正雪と大久保彦左衛門の巻です。

たらいに乗ってるのが彦左衛門御大。
後ろについてるのが、若干イメージが違いますが、一心太助。

由井正雪は、たしか、楠正成の流れをくむということで、背景に菊水の紋が配されております。

カバー絵は、生頼範義
(この方は1980年代にSF関係のイラストを多く手掛けてらした、人気画家でした)。

装幀は、平野甲賀(こちらも有名な装幀家の先生ですね)。
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前説の南総里見八犬伝・前編

2018年03月03日 23時13分10秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 敬愛してやまぬKI流の御家元様から、房総半島の富山のことを教えていただいた。中腹に伏姫と八房が隠れ棲んでいた籠窟があるという。ご存知のように、南総里見八犬伝は滝沢馬琴の伝奇小説であるから、創作であるはずなのに、なぜかその籠窟は実在しているのである…事実も小説も、どちらも奇なるものでありますなぁ…。

 さてそのような心ときめくお話を伺ったので、私共もかつて鳥取を旅した折、里見家末裔のお殿様のお墓に偶然往き合ったことをお話ししようと思ったのだが、なんという脆弱かつ情けない脳髄でありましょうや、具体的な固有名詞をすっかり失念してしまっていた。そこで、自分自身の欠落した記憶を補填するため、6年ほど以前、別名義にて書き留めていたブログ記事を確認してみた。
 その記事を再編集してご紹介しようとも思ったのであるが、かつての情熱そのままを酌んでいただければとも感じたので、二重投稿にならぬよう先のブログを閉じて、ここに掲載させていただく。
 当時、「戦国鍋TV」というTV番組に打ち興じていたので、かなり砕けた文体になっていることをお許しいただきたく…。


       * * * * * * * *

  【2012年11月3日付の報告書】

 日本国中国地方の日本海側に在します鳥取県。
 東は兵庫県、南は岡山県、西は島根県(ちょっとだけ広島県)に隣接しています。

 そんな鳥取県は、旧地名を、因幡(いなば/東半分) あーんど 伯耆(ほうき/西半分)の国、の、二つの部分からなっています。 東京から手っ取り早く参りますには、羽田空港からつーーーーっと飛んで、鳥取空港へ。

 鳥取空港は、秀吉くんの餓(かつ)え殺し(兵糧攻めのさらに凄惨なやつ)で有名な鳥取城や、砂丘、白ウサギがオオクニヌシノミコトに助けられた白兎海岸のある、因幡地方(因州ともいう)にあります。
 戦国時代の因・伯両地域は、大まかに申しますれば、

  室町時代の守護大名・山名氏→尼子氏→毛利氏(吉川)→信長くん&秀吉

 な感じで、山名氏の内部抗争やらもあり、多数の武将がシノギを削る、抗争地域でした。
 ですから、まー山城の多いこと。

 この辺りの力関係の歴史は、横溝正史「八つ墓村」を想い出すと分かりやすいですね。八つ墓村の呪いの発端は、毛利氏との戦いに敗れた、尼子氏の落ち武者ですから…
 そして、20世紀の頃の日本全国共通認識の、鳥取でおなじみの戦国武将キャラは、なんといっても、山中鹿之助(尼子氏の部将)です。
 とくに戦前の修身(道徳)の教科書では、主君に仕える忠臣として圧倒的なヒーローだったわけです。
 戦国鍋の戦国キャパクラでも登場しましたが、昔のイメージでは、目的に邁進するひたすら一心不乱でカッコイイ、悲運の武将…そして美剣士でした。
 (小学生の私は、たしかいちばん好きな戦国武将だったりしました…最早あいまいな記憶ではありますが)
 大阪の豪商・鴻池家(鴻池財閥の前身。幕末には、新撰組の近藤さんの強引な申し出により、隊服をつくる資金を出してくれたらしい)は、山中鹿之助の子孫だということです。

 というわけで、2012年10月の月ずえに、鳥取県に赴きました私の当初の目的は、
  1、山中鹿之助などゆかりの戦国時代の山城・城址をめぐる
  2、20年前に行きそびれた、山陰の小京都・倉吉を訪れる
  3、湯治
 だったわけです。

 鳥取空港を立ち出でて、因幡の国のお城を少しだけ廻り、さらに伯耆にある初日の宿へ向かう途中、レンタカー屋さんで頂戴した「山陰鳥取観光マップ」なる地図をしげしげと見、これから向かう打吹城(うつぶきじょう)がある倉吉の、白壁土蔵群・赤瓦のある、伝統的建物保存地域の詳細マップをつらつらと眺めておりました、その時のことでございます。

  !!! 

 「南総里見八犬伝」のモデル里見忠義の墓

 という、地図から飛び出たフキダシが目に入ったのは。
 クラクラクラ~めまいがしました。…こりゃー空手じゃけえられねぇ…

 ご存じのように山城は、山のテッペンにある城址で、トレッキング覚悟で挑まなければなりません。しかーし、もはや陽は西に傾き、走れメロス的強迫観念にとらわれた私は、打吹山を遠望し、満足げにうなずくと、
 一路、里見忠義公のお墓のある大岳院へ…(つづく)



  【2012年11月4日付の報告書】

 それにつけても、どーして倉吉なん?
 そして、里見忠義(ただよし) 公ってだれ??(殿様sideなのにチュウギとはこれいかに…)

 そも、滝沢馬琴が28年間………文化11年:1814から天保12年:1841までですから、
 11代将軍家斉(いえなり)公:第二の大御所時代を築いた徳川15代随一の子福者です。
    ちなみに、着物の種類の一つ・お召し:織り地の種類による分類の呼び方~は、
    家斉公がお好みでよくお召しになっていたところから、命名されたきものです。私も
    ツルツルしない生地が着付け易く、紬ほどくだけないので、愛用してます…
  から、
 12代家慶(いえよし)公:父の横槍と内憂外患にアタフタし続け、天保の改革は大失敗、
    ペリーが来た時にみまかられたという、ちょとカワイソウな将軍です…
 の2代、年号にすれば文化~文政~天保の時代です。

 この28年間にあった主な出来事といえば、
 八犬伝の1巻目が発売されたころは、伊能忠敬が日本全国実測をそろそろ終え、
  忠敬の死後、完成した地図が将軍家に献上され、
  小林一茶が俳句を詠み、葛飾北斎が富嶽三十六景を描き、
  お岩さまでおなじみ鶴屋南北「東海道四谷怪談」が初演されました…ザックリですょ、ざっくり…

 そして完結goal!!する天保12年は、隠居の身なのに院政的影響を及ぼす大御所・家斉公が卒せられ、
 やっとのびのび自分の治世で手腕を振るえることになった家慶公が、天保の改革に着手した、
 出版・演劇関係者にはク ラ~い時代の始まりです。


 …の長きにわたり執筆した、106巻・全篇184回におよぶ絵入り読み本ですから、
 今でいえば…35年連載「こち亀」よりは短い、ジョジョの奇妙な冒険(あと数年続けば匹敵する?)よりは、ちょと長い、超大作なわけです。

 そして伝奇小説…ファンタジーなわけですから、史実なんて知ったこっちゃない。
 歌舞伎や映画で観る八犬伝は、八つの玉が伏姫の胎内より日本中に飛び散ったあとの、八犬士の活躍を描いたものが主流ですね。

 しかーし、その冒険譚のプロローグは、1440年に起きた結城戦争(関東地方のとある豪族:結城氏が、
室町幕府:将軍足利義教←結局、翌年赤松氏に暗殺されちゃうのですが~これを戦国時代・下剋上の始まりとする学説もあります~に謀反を起こした時の戦争)の結城氏に加担した、里見氏のお話に拠っています。

 里見家、すなわち、南総(なんそう・上総プラス下総=総州、そして総州プラス安房=房総半島の南部)の名家です。
 安房(あわ)の国を本拠にしました。

 このとき、結城戦争に出陣したのが里見義実(よしざね)&、お父さんです。
 (ややこしくなるのでもう人名は出しません。そしてこのあたりは日本のクラシック音楽・長唄の「八犬伝」という3部作の曲に詳しい顛末が載っています。でも明治10年の作品なので、これもfantasyかもしれません)

 ここまでは史実ですね。
 ストーリーテラーの作家さんは、プロの詐欺師といっしょで、本当のことに、絶妙なウソの世界を織り込んできます。

 八犬士のお母さんとも言える伏姫のお父さんが、この、里見義実なわけです。

 だから、なんで里見八犬伝のモデルになった人=義実じゃないの?
 という素朴な疑問が生まれるわけですが、そんなときは、日本系譜綜覧を調べましょう。

《里見家系図》

 かなりの代数略→義実―成義―義通―義豊―義堯―義弘―義頼―義康―忠義(断絶)

 きたっつ!!!!
 こういうときにこそ使う言葉、キタコレなわけです。

 この里見忠義公はなんでまた、断絶しちゃったんでしょう…(つづく)



  【2012年11月6日付の報告書】

 ところで、時代劇の「一心太助」シリーズはご存知でしょうか?

 東映がその昔、「時代劇は東映!」というキャッチで売り、東映城と呼ばれていた頃。
 たぶん、団塊の世代前後、昭和20~30年代に子どもだった頃の方々には、絶大なる人気を誇っていた、
中村錦之助:歌舞伎界から映画界に転身した俳優さん~

 (昭和40年代に子どもだった私の、リアルタイムな錦之助はすでに萬屋錦之介になっていて、
  テレビ時代劇「子連れ狼」「破れ傘刀舟」など、ニヒルでダークなオジサンでした。
  そして、その頃の私のヒーローは「素浪人 月影兵庫」「花山大吉」近衛十四郎:松方弘樹のお父さんです。
   ~しかーしむしろ実のところ、コメディリリ-フ焼津の半次役・品川隆二がメッチャ好きでした~や、
  「木枯らし紋次郎」だったりする
  …時代は股旅や浪人=アウトサイダーがヒーローの時代になっていたのです。

  で、錦之助=錦ちゃんはまだ、戦後、がれきの中から再出発した、
  アウトローがヒーローになり得るほどそこそこ豊かになった日本ではなく、
  3丁目の夕陽的時代の庶民的ヒーロー、みんな貧乏だけど明日があるさ、という時代の、
  カタギのヒーローから出発していたんですね。
  1950年代に、新諸国物語という子供向けのファンタジー時代劇映画シリーズがありまして、
  「笛吹童子」「紅孔雀」「七つの誓い」などの主人公をなさってました。

 ←1990年代大人になってからビデオ鑑賞しましたところ、無国籍時代劇な感じで、すこぶる面白かったです。
 また、このシリーズは昭和50年前後にNHKで人形劇化され、リアルタイムで時々見てました。

  彼のお兄さん役で、錦ちゃん千代ちゃんと呼ばれ、お神酒徳利のように、
  常に一緒に出演していたのが、東(あづま)千代之介です。
  熱血主役タイプの錦之助とはまた持ち味が違う、端麗な二枚目美剣士タイプです。
  この方は映画スターは早めに引退なさって、その後日本舞踊の家元になられましたが、

  1954年版「里見八犬伝」:映画版では自分にとって一番分かりやすく印象深い作品で、
  1990年の半ばごろツタヤで借りて観たっきりでよく憶えてなかったりもしますが、
  この作中では、錦ちゃんが犬飼現八、千代ちゃんが犬塚信乃でした)

 ~が演じていた、男の中の男の、魚屋さんです。

 一本気でそそっかしくてけんかっ早いが明るくさわやか、へこたれない…一般的江戸庶民ですね。
 今のドラマでいうと、GTO鬼塚ティーチャーでしょうか。
 でも、あそこまでギラギラしてなくて、ひたすら爽やかなんですね、時代は明日を信じてましたから。

 その鬼塚ティーチャーの身元引受人的理事長先生の役割だったのが、一心太助が慕っている旗本の、大久保 彦左衛門。

 昭和時代、大久保といえば、幕×Japanのトシじゃなくて、圧倒的に、天下のご意見番・大久保彦左衛門でした。
 (その後ご長寿番組・水戸黄門が天下のご意見番の称号を一手に引き受けますが、
  昭和の40年代ぐらいまでは大久保彦左衛門だったのですね。

 東映の映画では月形龍之介が演っています。
 この方は渋くて、メチャかっこいい悪役でした。
 テレビ時代劇の東野英治郎がリアルタイムのマイ水戸黄門ですが、東映城の頃は月形龍之介が水戸黄門でもありました。

 水戸黄門は悪役出身者でなくては務まらない、というのが私の持論です。
 清濁併せ呑み腹芸ができるオッサンが、好々爺になるところが、人生の機微というものでしょう。
 (加藤武に演ってほしかったなぁ…)

 ちなみに月形龍之介の子息・月形哲之介も、1954版八犬伝に出ています。犬山道節役でした。

 余談が多くて困りますが、大久保彦左衛門のお墓は、白金の立行寺にあります。
 まだ地下鉄の三田線や南北線が工事中だったころ、
 泉岳寺へ赤穂浪士のお墓参りから、歩いて行ってお参りしたことがありました。たのしかったなぁ。

 さて、この大久保彦左衛門という人の一族は、徳川幕府草創期に、たいへん重要な役割を果たした名家でした。
 この人のお兄さんは、大久保忠世(ただよ)と申しまして、徳川家康が江戸に封じられたのにおともして、相州小田原城主になったという、家康くんにとっては艱難辛苦をともにした、かけがえのない家臣です。

 で、この大久保忠世に、忠憐(ただちか)という長男がおりまして、家康くんに子どもの頃から近習として仕え、2代秀忠の重臣となり、大坂の秀吉くんがまだ存命のころに、小田原城主を継ぎました。

 城持ち大名って、なったらなったで大変です。
 要するに「テッペン取ってやる!」と息巻いてる連中が跋扈していたのが戦国時代で、その親方を決める権力闘争があらかた決着したら、次はナンバー2をめぐる争いですから…政治抗争ってむかしも今も変わりません。

 1600年に関ヶ原で秀吉亡き後の大坂方を痛めつけて、
 1603年に征夷大将軍に任命された家康くんが江戸幕府を開き、
 1605年に、天下は豊臣家にはもう譲りませんょーだ!と、家康くんが意思表示するべく、
 将軍職を2代秀忠に譲り、大御所さまとなって、

 でも、まだいろんな大名家が存在していて、大坂には淀と秀頼がいて、
 スペインやオランダやポルトガルやイギリスが、うるさく貿易したがったり、
 キリシタンは、何度ダメと言っても信仰を捨てないし…

 そんなふうに徳川幕府がまだそれほど安定していなかった頃、幕閣のあいだでも、熾烈な権力闘争が続いていました。

 そんな、徳川将軍家の下でテッペン取ったる!抗争に巻き込まれましたのが、
この、大久保忠憐です…(つづく)
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