長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

新説・履きだおれの街

2011年07月21日 17時55分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 久しぶりに大阪に来たというのに、足にマメが出来てしまった。
 私はしょっちゅう、足に豆をこしらえるたちだ。ゆえに冬場はブーツを愛用している。
 しかし今回の旅に出かける前に、突如70年代懐古というマイブームが来ていたので、二十年ぶりにジーパンを穿く、という暴挙に出てしまっていた。しかもベルボトム。外側の縫い目付近の大腿部から裾にかけての花蝶の刺繍入り。なんとまあ、なつかしー!! 

 小学生の時、Gパンに花の刺繍を入れたのが大流行りして、私は級友の優子ちゃんの、濃紺にヒナゲシの赤い花がワーッと咲いている意匠をたいへんうらやましく思っていた。
 そうそう、当時、電子頭脳内蔵の仕組みで簡単に刺繍ができるという夢のような家庭用ミシンが発売されて、給食袋やハンカチに、加賀紋のように装飾したイニシャルをダダダダーッとミシン刺繍してもらうのがトレンドだったのである。
 そのころの商店街をゆけば、どこにでも必ず一軒はあったミシン屋さんの店先で、ニュートラルな男前のオニイサン方が実演販売をしていた。爆音とともにジグザグめまぐるしく動いた針先のあとには、まさに魔法のような美しい模様が出来上がっているのだった。
 思えば、最初の結婚のときバアサマが、電子のお針箱・リッカーマイティを嫁入り道具に持たせてくれた。そのころはイメージばかりが先行して、着たい服というものに手が届かなかったので、型紙がついている洋裁雑誌を買い漁っては、自分でワンピースとか作っていた。多種多様なリバティ・プリントも、大量に生地屋さんに置いてあった。
 あれはあれで充実した毎日だった。懐かしい。銀座の泰明小学校のはす向かいに、リッカー美術館があって、私は子どものころ好きだった絵本作家の武井武雄展を観に行ったりした。

 さて、このジーパン。これは佐島マリーナの売店でうっかり見つけてしまったものである。ピーター・フォークの訃報が、忘れていた欧米スイッチをonにしてしまったのだ。
 刺繍の色合いが、ストーンウォッシュタイプの地色に同化した水色と白だったので、これなら現年齢のわたくしでも大丈夫だろう…と、久しく忘れていた着るものを買う、という喜びに雀躍りしながら、購入した。
 そのふた昔ぶりに穿いたGパンに合う靴。私は昨年、生涯最後かとも思えるほど愉しみにしていたとある邂逅のために、洋装に合う靴をさがしに行って、夏物のブーツですョ、とお店の人に勧められて何となくその気になって買った、ウエスタンブーツをマイルドにした感じの、白い、これまたストーンウォッシュひび割れ加工の革ブーツをひっぱり出して履いてしまったのだ。
 履物はオシャレの要なので、とっておきのお洒落服に合わせるための靴は、とっておきの服同様、ほとんど履いていない。ワインでもなかろうに、十年間で一度履くか履かないか、というような秘蔵の靴もざらで、私は洋服も靴もたいへん物持ちがいいのだが、これが敗因だった。

 この格好で、日本橋の文楽素浄瑠璃の会がハネたあと、久しぶりに法善寺横丁をつっきって、心斎橋筋、御堂筋を越えて、アメリカ村付近まで歩いてしまった。ガッデム!! こんないで立ちで歩いていたから呼ばれたのか。
 鰻谷の番地表示。あああかん、ここは文楽でもめずらしい演目の、女腹切りの所縁の地や、おまへんか。…いや、ちゃうちゃう、ありゃ長町。あんさん、また、記憶が錯綜してまんがな~。

 …自分でもどうかと思うような、よくわからない関東者特有の大阪弁が頭の中でぐるぐるして、中之島の宿に戻ったときにはもう、どうしょうもなく足が痛くなっていて、サンテレビで一週遅れの戦国鍋を観てひとり悦に入っていたが、気がつけば、私には着替えるべき着物がなかった。
 雪駄はいい。足袋は実に楽だ。足に豆をこしらえても、仕事着である着物で出掛ければ何の苦もなく歩けるので、私はこの疼痛に至る原因に深く想いを致さず、油断していた。
 考えてみたら旅先で、着物がないので草履もない。つまり明日もこのブーツをはいて旅をしなくてはならない。

 食いだおれの街で、履きだおれ…。しかも意味が違う……!
 山崎豊子『ぼんち』は足袋問屋の大店のぼんが主人公だ。女道楽の賜物で、七色の足袋とこはぜ、というのを発案して、左前になっていた家業を復興する。
 人間、苦境に立たされると、思いもかけぬ妙案が浮かぶものだ。

 歩けなかったら、歩かなくていい旅をするのだ。

 実は、私は寛永寺門前で記念撮影するほど、ここ二十年というもの、十五代慶喜公を心の底から贔屓にしていたのだが、因縁の地、天保山へ行ってみようと、決意していた。
 天保山は、鳥羽・伏見の戦時、徳川慶喜が大坂から海路・江戸へ戻ったときに出帆した湊だ。ここへ行くのは怖かった。でも、人間、行かなきゃ完結できない場所がある。
 そのため、新大阪から梅田に着いたとき、観光案内所で天保山クルーズのパンフレットをもらっていたのだが、そのほかに何種類か、船で移動できる旅行案内を入手していたのだ。

 秘策、かつて水の都といわれた大阪で船の旅。(つづく)

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星なき夜の行軍

2011年07月07日 23時59分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 新暦の7月7日は七夕じゃない。
 「ママ、お星さま見えなかったね…」とつぶやく子どもたちが不憫なので、無理な年中行事はしないほうがいいんじゃないかなァ…と思う。
 それに、これこれこういうわけで、七夕は旧暦でやることにしましたョ、と教えるほうが、子どもたちにも物事の成り立ちってものが分かって、いいのではないだろうか。
 今あることは、突然、昨日や今日できたことじゃない。来歴というものがあるのだ。一夜にして出来たのは、秀吉くんの努力とハッタリによるお城ぐらいなもので。
 ♪昨日はきょうの昔なり…。ご存じ長唄『二人椀久』にもございます。

 今日は旧暦だと、平成廿三年六月七日。
 西日本一帯が梅雨末期の大豪雨に襲われていた西暦2011年、私は相州から武蔵野に小返ししていたが、1582年、羽柴秀吉はやはり暴風雨のなか、備中高松城から大返しの最中だった。
 運命の天正十年六月二日、わが心の星・信長くんは山城国に果て、どういう天のめぐり合わせでか、誰よりも早くその報を手に入れたサルちゃんは、四日には水攻めしていた高松城主の腹を切らせて毛利と講和し、五日、撤収して明智光秀を討つために畿内に向かった。
 七日。430年前の水無月七日、秀吉軍は姫路城まで戻ってきて、そのまま九日まで滞在し、兵力を養生した。
 岡山近郊の西北西にある備中高松城から播磨国・姫路城までだいたい80キロ。どこまで続くぬかるみぞ…とうそぶく間もなく彼らは行軍した。

 それにつけても、なんか怪しい。こんなに手際がいいということは、準備していた、つまり予見していたということだ。第一、信長くんだって、秀吉に呼ばれなければ本能寺に逗留することもなかったのだ。

 光秀が自分より格下の秀吉と結ぶことはまずあり得ない。でも秀吉は、こうなることを、きっと知っていたに違いない。いや、ひょっとすると、光秀本人がそうと気付かないうちに、無意識下に焚きつけたぐらいのことはしたのじゃあるまいか。
 天下を取ったあとの秀吉が家康に対する気の遣い方もおかしい。そこまで…というぐらい配慮している。秀吉が知っていたことを家康も知っていたのではないだろうか。光秀の係累を重用したのは、秀吉への無言の圧力なのではないのか。

 民主主義の現代でさえ、政治は腹の探り合い、化かし合いだ。すべてが水面下での根回し手回しによって決まっている。
 福岡は中洲のbarで、ジャンケン最強の名物ママさんに、三本勝負を手もなくストレート負けしてしまう素直な私には、もはや想像だに及ばぬ領域である。

 本能寺の変よりも、私はそのあと、山崎の合戦に至るもろもろの事どもに、ものすごく作為的な違和を、感じるのである。
 星の見えない夜には、地上では有象無象がうごめいて、歴史の闇を生みだしているのだ。
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海に降る雨

2011年07月01日 15時15分00秒 | やたらと映画
 ここ四年ほど、海に近い町に住んでいたが、このたび再び、長らく住みなれた都下西域に戻ることになった。
 家の鍵を渡し、煩雑な手続きから解放されると、熱をはらんだ陽はまだ高い。またいつ来るか知れぬ、小さな入り江の様子を見に出かけた。
 三浦半島には数多くの漁港やマリーナが散在する。そのなかで最も気に入っていたのが、西海岸の中ほどにある、この入り江だ。人にあまり知られていない、小態な居心地の良さが好きだった。
 ランチが一艇、帰帆する。鈍色の空は照り返しが強く、波が高い。ドッグに揚げられたヨットの白い帆柱が行儀よく並び、桟橋の突堤にはよく育ったフナムシがぞろぞろと日向ぼっこしている。
 ひき潮なのか、ひと叢の海藻が波にたゆたい、沖のほうへ流されていく。

 こうしてロープを結んでいる人々の間を縫ってマリーナを歩いていると、どうしても私には「刑事コロンボ」が思い浮かんでしまう。小学校高学年から中学生にかけて、毎週欠かさず見ていた。ノベライズ『構想の死角』を買ってはみたが、小学生には難しかった。ピーター・フォーク扮する彼は「太陽にほえろ!」の、露口茂演じる山さんと並んで、小学生の私の、二大トレンチコート刑事キャラだった。

 そんなことをぼんやりと想い出しながら、急に降りだした雨に急かされて、海岸線を北上する。
 夕日に赤い帆、いそしぎ、ダイヤモンド・ヘッド…。私が生まれ育ったのも北関東の海にほど近い田舎町だったので、週末になると、父が海岸へドライブに連れて行ってくれた。そのときラジオから流れてきた、1970年代に流行った映画音楽や楽団の、イージー・リスニングなメロディ。
 日曜日の黄昏時の憂鬱。私は仕残した宿題のことを考えて、小さな胸をどきどきさせていたが、どんな天候の時でも、海は大きく、また小さく、うねりながらそこにあった。

 たいがい、私たちが夏訪れる浜辺は、母の実家近くの海水浴場だった。商家だったのでトラックがあって、水着に着替えて麦わら帽子を被った私たちは、荷台に積まれてビーチへ運ばれていく。50年代のイタリア映画みたいな情景だけれど、昭和の日本もそんな感じだった。
 そうそう、小学生の時、土曜日は必ずご町内のお習字の先生のところに通っていて、ただ、子供の私には、貴重な土曜日の午後の仕事はそれだけだったので、ちんたらしながら民放テレビの洋画番組を観て、制限時間いっぱいになるまでだらだらしてから、書道の稽古に出かけるのを常としていた。
 ビットリオ・デ・シーカ監督の『昨日・今日・明日』、メリナ・メルクーリの底抜けの明るさにシビレた『日曜はダメよ』、ジャンヌ・モローが怖すぎる『黒衣の花嫁』とか、けっこう子供には刺激の強い洋画を、自分でも退廃志向なんじゃないかと、若干の罪悪感におののきながら、土曜日の午後の密かな愉しみに浸っていたのだ。
 
 海水浴に行くと必ず夕立に遭って…ジャック・タチの『ぼくの伯父さんの休暇』を、私は20世紀と21世紀の狭間の年に、市ヶ谷の日仏会館で観た。避暑地の海岸の風景がとても懐かしかったものだ。偶然、同時期にレコード店で見つけたサントラ盤まで購入して、何度も聴いた。昔、いつかどこかで、耳にした旋律。
 『ぼくの伯父さん』は小学生のとき映画館で観た。私の父方の一番下の叔父は私が小学生のとき大学生で、よく映画に連れて行ってくれた。彼はかなりお茶目な人で、食べ終わったバナナの皮を映画館の通路に置いて、本当に人が滑るものか実験をしていた。子供心に、叔父さん、やばいよ…と思っていたが、あれはひょっとすると大学生だった叔父さんの、小学生の姪に対するサービス心の表れだったのかもしれない。

 海に降る雨は、人にいろいろなことを想い出させる。

 T字路の交差点に差しかかる。正面はレンガ造りの交番だ。
 交番の看板をなぜ、いつから「KОBAN」なんてローマ字表記するようになったのだ。
 これじゃどうしたって、ジェームズ・コバーンを想い出さずにはいられない。『電撃フリント作戦』シリーズ、カッコよかったなあ。20世紀の俳優は、どんな美形の二枚目にも渋さがあった。近年の男前は甘いばかりで…だから時代劇も面白くない。
 そういえば、同様にスリの主人公が圧倒的な存在感を放つ邦画に、市川崑監督『足にさわった女』というのがあった。越路吹雪、コーちゃんが、素晴らしくカッコよかった。人を小馬鹿にしたような横顔の、キリリとした眼と鼻すじ。脇役陣も秀逸で、伊藤雄之助の弱々しい弟分が傑作だった。
 脱線するが、やはり市川崑監督の『結婚行進曲』で、伊藤雄之助の踊りの師匠がこれまた絶妙だった。愛する夫・上原謙に当てつけがましいことをしてみたくて、新妻・山根寿子が、わざと上原が嫌がる踊りの稽古を再開する。山根・雄之助がシンクロして踊る稽古中の長唄「浦島」の、抱腹絶倒さ加減ときたら…あぁ、また観たい。

 そうこうしているうちに彼方の山に日も落ちて、高速の入り口が近づいてきた。
 逆の道順ではその枝道を見つけるのが難しい。「パピヨン」という電飾のあるバーが、夜更けて家路をたどる私の目印になっていた。久しぶりに通ったら、もうなくなっていて、新しいビルが建設中だった。
 一度も入らず仕舞いだったパピヨンの、店内に想いを馳せる。うつけバーNOBUのおかまの信ママ?? いえいえ若き日の藤間紫が、しっかり仕切ってそうな感じもする。
 ここを通るたび洋画『パピヨン』の、胸に蝶の刺青がある主人公の、不屈の精神力を思い浮かべていたのだ。
 20世紀は、映画がたいそう面白い時代だった。ストーリーが血肉で出来ていた。そして汗と。

 太陽がまぶしすぎる午後、海に挨拶したら、私の頭の中で、70年代の記憶が弾けて跳んでいった。

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