長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

逢着

2019年10月19日 09時19分39秒 | キラめく言葉
 列島を蹂躙して台風が去っていった翌朝、目張りをした玄関を恐る恐る開けてみたら、よく知った懐かしい香りが私の鼻先をくすぐった。
 今年初めての金木犀であった。

 季節はめぐる。時もめぐる。

 先頃ノーベル化学賞を受賞された吉野彰博士が、インタビューの中で座右の銘を「ざう の めい」とおっしゃっていた。
 おお!! と私はとてもうれしくなった。
 小学6年生の時の国語の先生が、「昔は“ざう”の銘といったのだけれど、この頃違ってきたのかしら…」と、おっしゃっていたのを、子供心に刻み付け、何かしらのインタビューのたび、マスコミの方々の「ざゆうのめい」という言葉が、ずーーーーーーーーーーーっと気になっていたからだ。「ざゆう」と聞くたび、その違和感に悩んでいたのだ。

 秘かに始めたい ♯座右の銘をざうのめいと呼ぶ運動。

 昭和の学生というものは、語彙が豊富な人に憧れていて、ボキャブラリーを増やすのに日々腐心していた。
 一国の文化度を測るに、専門書が数多く自国の言葉で刊行されている、というのが20世紀に言われていた指標であった。
 21世紀の今日、我が国の趨勢をかんがみるに………かなしいですね。

 さて、言葉の知識を増やすのに、友人に教わったのが、毎晩、夜寝る前に辞書を適当なところで開けてみる、という方法。
 マジシャンの先生方が、無作為にトランプを開いてみる、のと同じ行動(少し違う?)。
 そして、開いた見開きの全頁を(2ページ分)読み、知らない語はノートに書きだして覚える。
 …ということでした。

 毎日はできなくとも、朝のランニングを三日坊主どころか1日でやめてしまう私には珍しく、ずいぶん長いこと、それは習慣化されて、今でも夜更けに辞書をあてずっぽうに開いて読んだりしております。
 なかなか楽しい。知らないことは世の中にいくらでもあって、新鮮な驚きに廻り合えます。

 夕べ、明日のキーワードにめぐり逢うべく、ぱっと国語辞典を開いてみましたところ、知らない言葉がありました。
 【ぼうぞく】
 矢印が、【ばうぞく】を引け、と指示しています。いかにも歴史的仮名遣いっぽい……
 ワクワクドキドキして、さらに引いてみると……古語にて、「下品な様子、無遠慮なさま」とありました。

 これでは今一つ納得できないので、さらに古語辞典へ。
 「放俗」また「凡俗」の転訛らしいことが判明。
 用例として源氏物語の蜻蛉が引かれておりました。
   …人多く見る時なむ、透きたる物着たるは、はうぞくにおぼゆる…

 古語なのに、21世紀の現代、街なかで日々そう譬えたい目に遇うのは不思議です。死語ではなかった。


 二次元の世界から戻りまして、家元の唄稽古、新シーズンのお知らせです。
 ご好評いただいております全くの初歩の方々向けの、
  本日13時より下北沢稽古場にて、「宝船」コースが始まります。
  ♪長き夜の 遠の眠りのみな目覚め…波乗り舟の 音の良きかな
 回文が読み込まれている歌詞の、本稿でもしばしばご紹介している曲です。

 お正月の余興に一つ、和モノの芸を…と目論んでみるのもいかがでしょう。
 たのしいですょ♪

 中級以上の方には、同日17時よりの「秋の色種(あきのいろくさ)」コースが始まります。


 話は戻りますが、同じアトランダムに引いたそもそものページに、逢着(ほうちゃく)、という言葉がありました。
 出会うこと、出くわすこと、行き着くこと、というような意味ですね。

 長唄との出会いが、皆さまにとっての宝鐸(ほうちゃく)ともなりますことを祈りつつ………
 
 
 
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かくて この日も暮れゆくままに

2014年04月14日 01時14分14秒 | キラめく言葉
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正味(しょうみ)

2014年04月05日 11時45分45秒 | キラめく言葉
 この春、大学時代の恩師が定年退官なさることになった。
 想い出の学窓の中の先生は、いつも静かに笑ってらして、私がバタバタとせわしく恩義も忘れて過ごしているいつの日でも、何となくそのままずっと教鞭を取っていらっしゃるような気がしていたので、なんだかとてもビックリした。
 そりゃそうだ。ゆく川の流れは絶えずして、もとの水に非ず。時は流れているのである。

 祝賀会は2月、懐かしい渋谷の学び舎で行われた。
 しかし、百周年記念事業で、校舎と呼ぶにはあまりにも立派なインテリジェンスビルを中心に様変わりした構内は、でもこの間の新しい歌舞伎座探訪の折感じたそのまま…大駱駝艦のトラックがいきなり横づけして白塗りの異形の踊り子さんが突然パフォーマンスを始めた西門とか、学生運動のタテ看板が並べてあった会館脇の竹輪のテンプラが美味しいと評判の立ち食いそば屋とか、弓道部の同級生が袴の裾を翻しながら颯爽と歩いて行った体育館への小径とか…30年この方見てもおらず、ここに最早存在もしていないのに、はっきりと思い浮かべられるのが不思議だった。
 私は自分の網膜自体が、既に歴史史料になっていたことに気がついた。

 みはるかすもの皆きよらなる…新しい校舎の最上階のホールから眺める渋谷の街並はやはり昭和とは様変わりしているが、青い空は青い空だ。
 日頃の非礼を咎め立てするでもなく、懐かしい先生は、いつものように温和で人懐っこい笑顔で私たちを迎えて下さった。

 先生がご挨拶なさる。
 「皆からおめでとうと言われましたが、通過点だと思っています」
 クールでカッコイイのだ。そういえば先日、友人が文楽の人形遣い・吉田簑助師を、なんだか目だけじゃなくて顔中キラキラしてて可愛いんですよねぇ…と言っていたのを想い出した。一つの道を見定めて進み極めていく、世阿弥いうところの“まことの花”が発する輝きなのだろうか。
 私は初めて、先生がイチローに似ていたことに気がついた。

 「人間、正味で生きていかなアキマヘンなぁ…」
 昨年の暮れ、国立劇場にて復曲公演された文楽「大塔宮曦鎧(おおとうのみや あさひのよろい)」レクチャーで、野澤錦糸師がそう呟かれた。

 少しでも他人によく見られたいという欲…というものが40代ぐらいまでは私にもあったように思う。
 人間は自分が積み重ねてきたことしか出来ない。
 それ以上でもそれ以下でもない。でもだから、無為ではなしに年を重ねることは嬉しい。
 学生時代はヒヨッコがヒヨッコで生きていい、唯一の時代なのだ。
 正味で生きていた頃得た人のつながりとは、有り難いものである。
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紙衣ざわりが粗い、あらい

2013年02月10日 01時20分31秒 | キラめく言葉
 ここ暫く、最近とくに、雑踏のありようが変わってきた。
 歌舞伎十八番の一「助六」の歌詞中にも、

  ♪野暮は揉まれて 粋(すい)となる…

 というのがあるが、このところの人波は、揉まれるというよりも、人が当たってくる。
 街なかで歩いているのに、何かラグビーの競技でもしているようにタックルしてくる人もいる。 そして、ここからが不思議だが、人にぶつかっているのにゴメンナサイでもなく、そしてまた自分も痛いんじゃなかろうかと思うのだが、何事もなかったように往き過ぎるのだ。
 “これもん”のお方にぶつかられて話が始まるお笑いのコントね、あれはもう成り立たない前世紀のネタですょ。

 混雑した電車の中でもそうだ。降車時、スミマセン、ごめんなさい…と言いながら人混みをかき分けドアまで進もうとするわけだが。
 以前なら、芝居の鉄棒(かなぼう)曳きよろしく「かぁたよぉれ、かたよれ~」と触れて歩いたわけでもないのに、そう声掛けするとお互いさまのことであるからして、自然と片寄ってくれたのだが、今現在の電車に乗り合わせている人々は、ピクリともしないのだ。
 そしてまた、足を踏もうが鞄が当たろうが肘が入ろうが、気がつかないのか気がつかないふりをしているのかは不明だが、他人に対する配慮というものが全く存在しないのだ。
 おそろしい。
 欧米の映画で観た、殺伐とした土地柄に棲む荒廃した人心の群れ。
 思想も教義もない、道徳観念もなくなった日本人の歪曲した欧米化、ここに極まれり。

 むかしはよく、外国人が日本に来てビックリするのは、日本人がものすごく優しい、ということだと言われていたが、それらはもはや幻想ですから、お気をつけ下さいませ。

 出掛けるたび、私はつぶやく。
 ちょいとまー、なんでしょうねぇ……「紙衣触りが荒い、あらい」…粗いょ。
 年の瀬の遊郭の風情を写した芝居『廓文章』中の台詞。12月の歌舞伎というと、やはりこれが思い浮かぶ。
 放蕩の末に勘当されて零落し、紙の衣を着る境遇になった、いいとこの若旦那が、呑気にそう言う。このセリフの前句は「喜左衛門としたことが…」。
 ほんにまぁ、日本人としたことが。
 西暦1700年~1800年代、この地球上で百万都市だったのは江戸だけだ、と、むかし聞いた。
 狭い地域に密集して住んでいたからこそ、都市生活での知恵も生まれ文化も磨かれたのだ。
 他人を思いやる「しのびない…」という言葉は、トータルテンボスのギャグでしかない、21世紀。

 白と薄桃色の繭玉が飾られた、炬燵のある座敷。
 …あの街なかで他人に当ってしれっとして去っていく人にも、自宅でほのぼのすることもあるのだろうに。

 きょう2013年2月9日は、旧暦の平成廿四年師走の廿九日で、大晦日なのだ。
 明ければ平成廿五年の、新しい朝が始まる。

 
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御騒ぎあるな……!

2011年12月15日 13時03分03秒 | キラめく言葉
 昨日、高輪の泉岳寺は、忠臣蔵の討入りの日…!ということで、えらくごった返したそうである。
 下北沢に移る十数年前まで、泉岳寺のすぐお隣に稽古場があった。静かな寺内であるのに、あの門前は不思議と三百六十五日、エブリデー・義士祭、という華やぎを持っている。
 しかし、私は心の中で叫ぶ。大久保彦左衛門のように渋面つくって。
 「おさわぎあるな!! 血気にはやるは匹夫の勇!!!」
 アニバーサリーを愉しむなら、季節感も伴わないと詰まらないではないか。
 まあ、私の心象風景の忠臣蔵の世界は、史実に尾鰭がついた、芝居や映画の脚色・潤色の手垢のついたビジュアルな記憶から形成されたものなので、真実、そうかどうかは知らない。
 しかし、江戸時代の十二月十四日と言うたら、月は14番目の形をしているのだ。つい先日の満月の夜に、皆既月蝕を眺めた身としては、どうにも、腑に落ちない。

 「血気に逸るは匹夫の勇…」は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』大星由良之介が四段目の、セリフである。
 御家取潰しという現実を前にして、これからどうすべきかを家中で評定する場で、今すぐ討入りだぁ!!と、感情に任せ性急に結論を急ぐ若侍たちを制する言葉。たぶん、由良之助の台詞の中では、これが一番好き。
 …短慮功を成さずのたとえ、と続いて、とどめの一言。
 「さりとては、まだ、ご料簡が、若い、わかい」意地の悪い隠居としては、若いものにあてこすって、一編、言ってみた~い!言葉であります。

 ところで「おさわぎあるな!」のほうは、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の「熊谷陣屋」での、熊谷直実のセリフですね。自分の子供の安否を知りたいがため、騒ぎ立てる妻と、大恩あるかつての上司の奥方と、二人の女性を諫める場面の。
 「騒ぐな…御騒ぎあるな、さわぐな…おさわぎあるな」と、別々な言い回しで叱りつけるところがおもしろく、ぐぐっと、物語の急転部に、惹き込まれるところです。
 一谷嫩軍記…もちろん、元ネタは「平家物語」ですね。

 想うところあって、久しぶりに「平家物語」の本文を引っ張り出して読む。
 「耳なし芳一」となって、平家の無念と人の世の無常を弔うからには…改めて初心に還って、一心に祈る必要性を感じたのだ。
 〈敦盛最期の事〉…熊谷あまりにいとほしくて いづくに刀を立つべしとも覚えず 目もくれ心も消え果てて 前後不覚に覚えけれども さてしもあるべき事ならねば 泣く泣く首をぞ かいてげる…

 熊谷直実が、自分の子供と同年代の美将・平敦盛を討ち取らねばならぬ状況を描写した部分。

 …あはれ 弓矢取る身ほど口惜しかりける事はなし 武藝の家に生まずれば 何しに ただ今かかる憂き目を見るべき 情けなうも討ち奉ったるものかな と 袖を顔に押し当てて さめざめとぞ 泣き居たる…

 文楽や歌舞伎では、一人息子を敦盛の身代わりにして、熊谷直実が自分の一子を討った、という筋立てにしていて、さらなる修羅場が展開していく。
 先に挙げた詞章だけでも私は涙ナミダで、もう眼が見えぬぅう…事態なのであるが、この、時代ものに世話場が出現するという、一見あざといとも思える技術。
 これは狂言作者のプロフェッショナル魂ですね。
 とことん想像力の無い、そこまで…!とあきれ返るほど察しの悪い野暮天でも、たちどころに涙を流さずにはいられないという、傍観者を当事者の身内に置き換える、手法である。
 どんな人でも、具体的に自分の身に置き換えられるから、卑近な例になって、そりゃもう、親身にならずにはいられない。
 大衆の芸能である芝居に、全身全霊をかけて挑んだ並木宗輔に、私は再び最敬礼する。

 さて、敦盛と熊谷直実の、この一編の物語から、どれほどの分野のアレンジメントが創られたことでありましょう。「青葉の笛」の歌は、昭和のころは誰でも知っていたのだけれど。
 時は流れ、万人の常識とされていた事どもも、すべてが時の彼方に流れ去っていくものだと、ここ数年、日々実感する。
 「十六年はひと昔…あぁ、夢だ、夢だ…!」
 熊谷直実の引っ込みのセリフは、何度観ても泣いてしまう。萬屋錦之介…中村錦之助、錦ちゃんが深作欣二監督『柳生一族の陰謀』ラストで叫ぶあの一言も、直実の、このセリフが言いたかったんだろうな…と。

 ところで、今年の太陰太陽暦の十二月十四日は、新暦2012年1月7日にあたる。
 去年はもっと下旬に近い辺りだったので、自分もブログに書いたような気がするが、今年は松の内ですから…たぶん…忘れちゃうな。
 二つの暦で両方楽しめるのは人生が二倍になったような気がして、エブリデー・ハイプライスなお得感がある…ような気もする。
 やっぱり、四季を愛でる日本人には、「雪月花」という情感、これが大切。理屈、理論で正しいかどうかが、重要なことではない。
 雪月花の時、もっとも君を想う…それが日本の文化である。
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キュウリ切って、勘当だ!

2011年06月03日 23時23分23秒 | キラめく言葉
 「将棋にうつつを抜かしてるからなんじゃないの…!」
 会うたびに、やせちゃってるョ…いえね、どうも顔だけがやせていくようだ…寝不足?…いやー、信長君より長生きしつつあるから、お年柄なンじゃないかねぇ…という友人との会話を、一家のものに伝え述べたら、そう言われた。

 なにぃ、あたしゃ、将棋にうつつなんぞ抜かしてませんよ、戦国鍋TVにうつつを抜かしている、と言われりゃ、ああそうか~~と諸手を挙げて投降するけど。
 うつつを抜かしたあまり本業に支障をきたして、好きになったものが自分の堕落の原因であるかのように、そう悪しざまに言われるのは絶対に嫌だから、私は意地でも、家では将棋を指さないのである。魂の先生にも誓った。

 私が将棋に開眼したきっかけともなった先生と、ある時ちょっと言葉を交わす機会を得て…その直前に私は先生が、目隠し将棋で勝利する場に居合わせたので、先生の頭の中って一体どうなってるんでしょう…と愚にもつかない感想を述べた。

 先生は自嘲気味に自分をして「将棋マシンですから」と、朗らかにおっしゃった。

 その瞬間、私はグワシと心臓を鷲掴みにされ、チェブラーシカのようにバッタリ倒れた(チェブラーシカはロシア語でバッタリ倒れ屋さん、という意味らしい)。胸がキュンとするのと頭をハンマーで殴られるのが同体…クリスティ『オリエント急行殺人事件』の特定できない致命傷のような…とにかく桶狭間の今川義元が輿から転げ落ちたが如く、いわく言い難い衝撃を受けて、姉川の河原の屍か、顔半分ほど、水の流れにしばらく浸かっていた。

 ああ…そうだ、そうなのだ。私も「三味線マシンですから」と、明るい太陽の下で、朗らかに言えるような人間にならないといけないのだ…それまで、どうしてもその先生に将棋を教えていただきたいと生半可な弟子入り志願のような淡い望みを抱いていたが、三味線マシンですから、と、ひと様に言えるその日まで、私は絶対に家では将棋を指さないぞと、お天道様に…八幡さまの弓矢に誓い、われに七難八苦を与え給えと、山中鹿之助スタイルで月に祈ったのだった。……ほんまでっせ。
 私には出来ごころなんぞというものはない。常に本気だ。ほんの思いつき…はあるかもしれないけど。

 そんなわけで、私は深く将棋に心奪われながらも、家のものから勘当を受けたことは一度もないのである。
 「キュウリ切ってカンドウだ」という、このセリフ。今だと、旬のみずみずしい胡瓜を切ってみたら、うす緑があまりに美しくて感動した…なのかなぁ。そういえば昔、板前のバイトをしていた友人が、鍋パーティで「うざく和え」をつくってくれて、キュウリが見事に蛇腹に切ってあって、ものすごく感動したことがあったけど。

 キュウリは、旧離。久離とも書く。簡単にいえば勘当されることですね。江戸時代は連座制だったので、親族の誰かが悪いことをすると、一族郎党、処罰される。それを回避するための家族法で、家出なんかしちゃった虞犯青少年を、年長者が縁を切って、あらかじめ奉行所に願い出て、久離帳というのに登録してもらえば、連帯責任を免れる。
 田畑を放棄して江戸に流れてきた農民を、故郷に帰す「旧里帰農令(きゅうりきのうれい)」の旧里、ふるさとの意味とは、ちょと違う。

 近松門左衛門の『冥途の飛脚』には、この「久離切って…」という言葉が、頻繁に出てくる。
 私は心中物が好きではない。むしろ嫌いで、ヤサ男が遊ぶ金欲しさに使い込みした挙句、自分の非力さに、どうしょうどうしょう…と呟いているのを見ると、しっかりしろ!と後ろ頭を草履でひっぱたきたくなる性分だ。
 で、文楽で近松特集が組まれると、勘弁してくれ…と妙に毛嫌いしていたのだが、先日、こいつあぁ宗旨を変えざァなるめぇ…という感動の名作を観た。
 マーティ・グロス監督が1979年に製作した『冥途の飛脚』。三十年前の、先代、そして脂の乗り切った当代のお師匠さん方の芸もさることながら…男女間の愚かしい恋愛劇であるだけでなく、親子の情愛という普遍のテーマをも描いているのだ、ということに、私は突然気がついた。何回となく観た新口村であったのに、まったく分かっていなかったこの浄瑠璃の魅力を、私はマーティ監督の眼を通して、改めて知ることができたのだ。

 実の父親が養子先の親に遠慮して、血を吐く態でその胸中を吐露する。こういう義理の立て方、というのは、欧米化した現代人には分からないだろうなぁ…。
 不覚にも涙があふれそうになり、この、親子の情愛ってやつで、もう十数年前、焼け野のキギス、夜の鶴…忠臣蔵九段目で、客席のいちばん前で号泣して、舞台の菊五郎をたじろがせたことを想い出した。あの時の加古川本蔵は、今は亡き十七代目羽左衛門だった。

 そして、この感動体験に続く五月の東京での文楽公演。
 津駒大夫・寛治師匠の「新口村」に、私は号泣した。それまで熱演が際立って、どうしてか浮いた感じになってしまうことの多かった津駒大夫の語りを、空二(からに)の艶やかな音色だけで観客の魂を持っていく寛治師匠の三味線が、余すところなく受け止めていて、私はもう初めて、新口村でこんなにも泣いた。

 義太夫における三味線と太夫は、どちらかが過分になっても成立しない、絶妙なバランスで成り立っている芸なのだと、改めて思い至った。
 将棋にも、芸達者な受け師の先生がいらっしゃるけれども。
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無理が道理

2011年01月14日 23時55分00秒 | キラめく言葉
 「頌春」という言葉がたまらなく好きで、前世紀、年賀状には必ずといっていいほど、書いていた。
 「しょうしゅん」…「しょう」という音の響きが慎ましやかで、しんから寒いところへ、ようよう春がやって来たのをほめたたえ、ことほいでいるように感じる。すてきな言葉だ。
 …しかし、やっぱりこれはヘンだ。ことさらに最近、そう思うようになった。
 だって新暦のお正月じゃ、春じゃないもの。

 春というのは、二十四節気で「立春」になってはじめてそう言えるもので、やっぱり、星の位置を読むのがものすごく重要だった遊牧民族の編み出した太陽暦に、無理やり太陰太陽暦の年中行事を当てはめるのは無理なのだ。内実違っているのに数字だけ同じにして、帳尻を合わせる。そりゃー無理でしょ、というのが、道理というものだ。
 無理が道理。…世話物で無理やり娘に因果を含めて縁談を承諾させる、オヤジさんのセリフみたいですが。

 明治以来そういうわけで、日本民族はだいぶ無理をしてきた。その無理がここへきて祟っているような気もする。
 …そこで一人だけ、旧暦に則ってお正月をしようというほど、私には度胸はない。
 やはり世間様の風習には従いつつ、個人的に旧暦のお正月への道のりを愉しんでみようと思うのだ。

 旧暦では十二月八日からお正月の準備を始めた。
 清々しい気分で新玉の春を迎えるには、やっぱり大掃除、つまり、すす払い。そして、煤払いに必要不可欠なものは、煤竹。
 幕末にはもう売り歩いていなかったようだが、古来は、煤竹売りは、十日ごろから行商したらしい。もちろん、元禄年間も。今年は昨日が、旧暦の十二月十日だった。
 千代田のお城では、暮れの十三日に大煤払いをするのが習わしだった。
 それで民間でもそれにならって、大掃除は十三日ごろに行った。

 温暖化とはいえ、やっぱり平成の世にも寒の内はたいそう寒い。
 ここ数日の寒さに、わが意を得たりと、ひとり、にんまりする。
 ♪笹や笹、笹はいらぬか煤竹は……大高源吾が両国橋の上で、煤払い用の笹竹を売っていたのは、こんな寒い季節だったわけである。
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おこつく

2010年09月29日 12時35分00秒 | キラめく言葉
 歌舞伎で、妙齢のお嬢さんや、力なさげな色男が、花道の七三あたりで、よろよろっと、何かにつまづいて転びそうになるのを「おこつく」という。

 これは、登場人物が、分かり易くステロタイプ化されている歌舞伎において、そのキャラクターが弱々しく可憐なさま…あぁ~、守ってあげたい!と観客の母性本能や父性本能やらをくすぐる…を如実に表現している、しぐさのひとつであるらしい。

 馬鹿のことを「痴、烏滸(おこ)」というので、ちょっと愚かしく情けなく見えるさまのことからいうのだろう、と、何となくずっと思っていたが、こうして文章化するために改めて調べてみたら、所作の「おこつく」は「勢いづく」という意味のほうからきているらしい。
 旧かな遣いで書くと、バカの「おこ」は「をこ」になるので、別な言葉なのだ。思い込みで文章を書く、ということが如何に危険か、改めて感じた。

 人間、何かにつまづく、ということはよくある。実際に転ぶのも、比喩的に転ぶのも。
 私など、空の青いのを見ては嬉しくなり、空気の清々しいところへ四季折々の走りの匂いを嗅ぎつけては喜んで、足もとも見ずに駈け出していくような、かといってそれに相応する運動神経がなかったので、不注意の極みのような傷だらけの人生だったから、小学校に上がる前から、両膝に一寸ほどの、一文字の切り傷がついていた。
 もう、総身に無数の傷持つ、切られお富のような渡世なのだった。

 十年ほど前になる。
 あることから当時、ちょっとへこんでいた私に、知人が、一冊の本をプレゼントしてくれた。それは、人間の動作や出来事をキーワードにして引く、詩や俳句・短歌を寄せ集めた詩の事典とでもいうような、面白い本だった。
 そのなかに、山川登美子の、「矢のごとく地獄に落つる躓きの石とも知らず拾ひ見しかな」という和歌が入っていた。
 ちょっと…というか、かなり、私はドキンとした。
 そのときへこんでいた原因が、まさにそんな感じだったからだ。

 山川登美子のこの歌は、詳しくは知らないのだけれど、直観で独断で解釈すると、たぶんこの「躓きの石」は与謝野晶子のことだ。たしか、山川登美子が恋心を寄せていた与謝野鉄幹に、晶子を紹介したのだ。山川登美子は後年、自分の恋敵となるとは夢にも思わず、面白いキャラクターの子だナァ…ぐらいに思って、鉄幹に晶子を紹介したのだろう。

 恋じゃない。私の場合はまさしく仕事で、そんな思いをした。

 ……三十一文字では簡潔に説明できない。
 ある知人に、仕事にあぶれてかわいそうな子がいるから面倒見てやってョ、と頼まれたのだ。なにも出来なかった彼女に、私はイロハのイから、とある仕事のやり方を教えた。
 映画「イヴの総て」とはちょっと状況が違う。要するに、私があまりにも人がよかった、ということだ。

 つい三月ほど前、バッタリ、本当に十年ぶりで、しかも奇遇としかいいようのない街角で、かつての私の「躓きの石」に会った。彼女はそんな曰くはまるでなかったように、無邪気だった。
 そして意外なことに、本当に自分でも思いがけないほど、私は直面したかつての躓きの石に対して、怨嗟を露ほども感じないのだった。あの十年前の詩の事典で感じていた、ドキリとする心の臓を貫く、鈍い痛みも。
 彼女はいまでも、その仕事を続けているという。その幸せそうな快活な姿に、逆に嬉しくなった。

 「躓きの石」が立派になっていなくちゃ、私がいっとき、つまずいた意味がなくなろうというものだ。

 …こんな気弱なことを想い出したのは、私が「熱」という躓きの石に、久しぶりに見舞われたせいかもしれない。おとついからにわかに発熱。喉が腫れて声が出ない。稽古をすべて断った。
 みなさんもどうかお体を大切に。人間体力が消耗すると、気力も萎える。
 弱気になるとロクな考えが浮かばない。養生あるのみ。

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是非に及ばず

2010年06月02日 23時50分00秒 | キラめく言葉
 天正十年六月二日、そう言って、織田信長が本能寺で自害した。
 バブル期前後ぐらいから、信長の革新的で独創的な天才的政治手腕が再評価されて、今では日本史上で一、二を争う人気キャラクターになっているそうなのだが、歌舞伎の世界では信長をヒーローにした作品はない。
 大坂でできた人形浄瑠璃のネタはどうしたって、豊太閤が一番カッコいいキャラクターになってるのだし、江戸では徳川家に遠慮したこともあり、時事ネタでも古代から中世の間へ、時代を移したお話になっている。

 明智光秀を主役に据えた「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)」。俗にいう「馬盥」の光秀。うちの女紋は桔梗なので、何となく他人とは思えないところがあったりもする。
 当代の團蔵さんが、襲名の時に演じたことがあった。平成になってからは、松嶋屋がかけてたこともあった。松嶋屋の面長の顔に、額の傷がよく映えるのだ。
 信長は小田春永という役名の敵役で、ものすごく異常性格者的に光秀をいじめる。
 歌舞伎の敵役って、悪過ぎてカッコいいキャラクターが多いのだが、この芝居では、いじめられる光秀くんのほうがやたらとカッコイイ。眉間を鉄扇で割られて、旗本退屈男みたいになる。
 …いやいや、旗本退屈男が真似をしたのだから、これは逆ですね。この、男の生き面にキズ持つキャラクターのオリジナルは、たぶん、「先代萩」の仁木弾正だと思うけれど。

 それから428年後の今月今夜。旧暦のことだから、今の暦日に置き換えるのも変だけれど、平成22年の6月2日。永田町で政変が起きた。
 …いま再びの、是非に及ばず。
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権太なひと

2010年05月03日 17時00分03秒 | キラめく言葉
 大阪では、やんちゃで道理の通用しない、どうにも手に負えない乱暴者を「ごんたな人」と呼ぶ、と、二十年ほど以前、当時、懇意にして下さった上方の噺家さんから伺ったことがあった。
 へぇ~~っと、わたしは大層感銘を受けた。CX系の人気番組が誕生するはるか以前のことなので、何へぇだか、点数をつける機転も発想もなかったが、とにかく、感動した。
 というのも、それは明らかに歌舞伎の『義経千本桜』のいがみの権太からきているものだろうからだ。この芝居は文楽がもともとのオリジナルであるから、大坂では昔から、本当に身近なキャラクターだったのだろう。
 こんたなひとになっちまっただぁ…というような東北系の訛りではなく、大阪弁だったのだ。

 「いがみの権太」は要するに、性格が歪んでしまったヤンキーな人のことである。
 芝居の役名は簡潔にして明確。すばらしく分かりやすい。
 このすし屋の権太は、最期に表返る複雑な含みを必要とする役なので、恰幅のいい脂の乗り切った座長クラスの大役者が演じるのが常だった。瞼の裏に浮かぶのは先代松緑と幸四郎の、鮓桶を抱えて、両のまみえを寄せた立派なお姿。平成ひとケタ世代には当代の幸四郎や菊五郎。松嶋屋も演った。勘九郎だったころの当代勘三郎の権太は、コチコチがよろしゅうございましょう…のセリフがウケた。
 だから昨年、当代の海老蔵が、すし屋を演ると聞いて、えっ、まだ早いんじゃー…とか思ったが、観てみると、いかにも不良で放蕩息子の味が出ていて、案外ハマっていて驚いた。…そうか、実年齢でいけば、権太はそのくらいの年齢だ。こういうのもアリなのかも。
 しかし、権太は終盤で初めて明らかになる、性根を入れ替える役だから、ナマな不良では、木に竹を接いだような突拍子のなさというか、違和感が生じてしまうのだ。
 分別のあるところを見せられる実事の役者が演じると、観客としては、実は作りたわけ者だった、という受け止め方もできて、権太の心根を見せるところでは、本当はカシコイひとだったんや~という納得ができるのだが。
 たぶんヤンキーな人は、愛憎が人一倍強く、感受性の鋭い人なので、他人との関わり合いにおいて、情よりそろばん勘定が勝る冷淡な常識人だったら見切ってしまう領域に、自らを追い込んでしまうのだろう。…というところで、思い込んだら命がけの、権太の忠義心を、どちらの論法で観客が納得するかは、こりゃもう、役者の技量による。

 ところで、五十代のころの談志は、「二階ぞめき」とか、無茶苦茶な人を演らせると天下一品の面白さだった。二十代だった私は、憧れというよりも、ひょっとすると、そういう破天荒な人に、成りたかったのかもしれない。
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