長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

誰が為にか春なる

2020年05月03日 23時25分23秒 | やたらと映画
 

 令和年間最初の4月27日、アスパラガスが緑色のロウソクになって…



 三日後、果敢にも家族会議に参加。
 かたや、松王丸から新たな芽が伸び、小太郎かと。

 アニバーサリーを覚えるのが苦手で、祖母の命日さえ忘却してしまう不心得者であるのだが、22歳の憲法記念日に、深夜放送で市川雷蔵主演、市川崑監督の映画『破戒』を見たことは忘れられない。
 昭和時代も終盤に近付き、世はバブル期を迎えつつあったが、テレビ局の番組編成担当者にも、憲法記念日に見るべき映画を忘れずに用意する気概というものがあった。

 その時の私は、市川雷蔵のことをよく知らなくて、その半年ほど前だったろうか、やはりテレビの午後のロードショーというような東京12チャンネルの番組で小国英雄脚本の『影を斬る』でそのキュートさ、チャーミングさに打たれ、母に、市川雷蔵ってどうしたんだっけ?と訊いたりして、改めて知りたい気になっていたのだった。

 思えば大友柳太朗が亡くなる前年であったから、かつての時代劇に代表される価値観を破却して、日本という国が、それまでの日本という国の形骸を脱ぎ捨てて自分自身に訣別して、まったく新しいものに生まれ変わったように錯覚していた頃であった。
 であるから、島崎藤村の夜明け前の日本の暗い時代を殊更知りたいつもりはなく、市川雷蔵が主演であるというその一点だけで、もし詰まらなかったら寝よう…ぐらいに思って見始めたのだったが…

 初夏のしんと更けた夜の空気の匂いと、胸の痛みをいまでも覚えている。
 泣いて頭がぼうっする一方で、冷たく醒めてもいた。

 ラストシーン、誰にも見送られることなく雷蔵as丑松が旅立つ。一人だけこっそりと、教え子の女の子がホームにやって来て、食べてください、と餞別に紙袋を手渡す。
 動き出す汽車…丑松への心尽しは、ゆで卵だった。
 彼の口の中で、ゆで卵はどんな味がしたのだろうか。

 憲法記念日が制定されたのは1948年、前年の昭和22年5月3日に日本国憲法が施行されたことによる。
 享受することが当たり前のように思っている権利と自由は、容易く手に出来たものではなかったことを、忘れずにいたいと思う。
 
 

 
 
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われ幻の湖を見たり(遊興一代)

2020年04月14日 14時04分41秒 | やたらと映画
 旧作の日本映画に嵌っていたのは、学生時代から三十代ごろまでのことだったから、これまた20世紀の話である。

 嵩じた年には年間千二百本弱を観ていた。昭和55年当時、名画座は三本立て700円が相場だったように記憶している。一本千円か千二百円のロードショーで観るのは新作の洋画がメインで、学校のあった渋谷では文化会館で旧作の2001年宇宙の旅、アラビアのロレンス回顧上映…etc.も見たけれども、半中古作品をかける名画座との中間的役割である二番館へもよく行った。ロードショーで見逃した魔界転生を観るために大塚の…館名は失念したが二、三番館へ出かけたこともあった。
 競馬新聞に赤鉛筆でマークを付けるおあにぃさん方と同じスタイルで、毎週木曜日(火曜日?水曜日だった??)に発売されていた週刊ぴあ誌を入念にチェックし、見たい映画を求めて武蔵国一帯を東奔西走した。

 戦前の邦画はフィルムセンターや単発の企画上映会、1950年代以降の日本映画の黄金期作品は名画座へ…昼間、ご近所の三鷹オスカー、足を延ばして有楽町の並木座、浅草の新劇場、心のホームグラウンド池袋の旧・文芸坐やJR京浜東北線大井町の大井武蔵野館、横浜の桜木町、黄金町などに出掛けて、映画館に籠っているといつの間にか日が暮れる。取って返して新宿東口、紀伊国屋書店はす向かいのツタヤで、フィルム上映に成らなさそうな稀少ビデオを借りる。
 …なんてことをやっていると、一日に映画を5本ぐらい見るのは何でもない。苦も無く年間千本映画ノックぐらいは出来ちゃうのである。
 映画だけではなく、並行して演劇(現代劇はアングラ…千人以上の大きい劇場は苦手で、国劇は歌舞伎や能、狂言が主だったけれども)、寄席や美術館、博物館…etc.へも通っていたのだから、あきれた極道っぷりである。
 もちろん、フィクション・ノンフィクション、学術書に限らず、本もたくさん読んでいた。我が家では、父の方針で、本代はお小遣いとは別の掛かりとなり、書物であるならいくらでも買ってもらえたのである。



 人間の要諦をはぐくむものは文化である…と、私が育った時代は、戦争に対するアレルギーから、殊更、子どもたちに豊饒な文化生活を送らせるよう、大人たちは腐心してくれたのだ。

(…しかし、そんな肥やしに育てられ、現代において、売り家と書く三代目…というのは、われら1960年前後に生まれた者たちのことだったのであろうか…と、ひそかに狼狽する。)



 さて、コロナ禍により、この春以降の演奏会、発表会は悉く(ことごとく)中止や延期の憂き目に遭い、常日頃、身過ぎ世過ぎの諸事に取り紛れ、きちんと出来たためしがない日常生活の基本的なところにテコ入れをしよう、と…掃除や片づけをすればいいものを…見ずに溜まっていたテレビデッキ回りの、要するに未見の長尺の映画を、見て片付けてしまおう、という気になった。

 そんな訳で、昨年の正月に日本映画専門チャンネルで追悼上映された、橋本忍が原作・脚本・監督作品『幻の湖』を観てしまったのである。



 橋本忍といえば、私があれこれ言及(ごんきゅう)するべくもない、名脚本家である。
 黒澤明監督と組んだ錚々たる諸作品群…世間では、黒澤監督の作品はダイナミックで奇抜でスカッとするのかもしれないが、大づかみでガサツなところが私には合わない。

 私にとっての衝撃の橋本忍作品は、正木ひろし原作、森谷司郎監督の『首』である。
 戦前の人権を描いた硬派の社会派映画で、サスペンス仕立てになっており、文字通り手に汗を握って、映画館の闇の中で銀幕を見つめていた。帝大の標本室が空襲で炎に包まれる後日譚も、事件の行く末に余韻を残した。
 このミステリがスゴイ!に映画編があったなら、私は第一にこの映画を推す。
 未見の方にはぜひ見ていただきたい作品である。

 そしてまた、松本清張原作、堀川弘通監督、橋本忍脚本の『黒い画集 あるサラリーマンの証言』。
 前述『首』と同じ主演の、小林桂樹の名演もさることながら、保身のために真実を言えず、嘘をつき通したがゆえに全てを失ってしまう…物語の落としどころがスパッとしていて、すごい切れ者の映画構成だなぁ…とうら若き乙女だった私はショックを受けた。
 
 同じ松本清張原作、野村芳太郎監督『砂の器』は、主演の加藤剛と加藤嘉を思い浮かべるだけで、私ごときは滂沱の涙である。
 さらに、横溝正史原作、野村芳太郎監督の『八つ墓村』は、けだし名作で、各方面の手練れの映像作家がチャレンジしたいくつもの八つ墓村を見てきたが、伝奇ロマンとメルヘン、怪異ファンタジーの魅力を余すところなく描いた橋本忍脚本が絶品である。

(余談になるけれども、横溝作品は市川崑監督のシリーズが有名で、『犬神家の一族』は放送されるたび何度も見てしまうほどであるが、『女王蜂』や『獄門島』は女の事件というテーマに強引に改変していて、原作の味を損なっていると思う。
 テレビで1977年に放送された角川春樹事務所の横溝正史シリーズはなかなかの傑作ぞろいで、何といっても斎藤光正監督の『獄門島』が原作に忠実でキャスティングもいい。
 蔵原惟繕監督の『本陣殺人事件』は、余情があって素晴らしい。トリックの発想だけで奇矯なイメージのこの作品に詩情を加え、日本の田舎の因習や情念を、美しい風景を交えて描き、余韻のある作品に仕上げている。
 工藤栄一監督『犬神家の一族』も、迫力の京マチ子as松子夫人で、丁寧なキャラクターの描き分け、私は好きである。
 森一生監督の『悪魔の手毬唄』は、崑監督のものより、出来がいいと思う。)



 あれこれ書き連ねてきたけれども、そんなことがあって、ただの映画愛好の徒である私にとってさえ、映画人・橋本忍は間違いのない職人だったのである。

 …だものだから、38年遅れで『幻の湖』を観た私は、ただもう、ビックリしてしまった。
 1980年代のニューミュージック風に言えば、アメージングが止まらない。
 吃驚して、この映画をどうとらえたものか、二日がたった今でも、夜眠れない。
「…誰でも心のなかに一つ、大切な幻の湖を持っているのです…」なんていう、人間の証明の岡田茉莉子のモノローグの空耳さえ聞こえてくる。

 ただ、ほかの誰かが言うように、駄作とは思えない。
 第一、とても長い…2時間40分を超える超大作なのだが、物語の展開が読めず、一体どうなってしまうのだろうと、私は見続けてしまったのである。
 冒頭描かれる、琵琶湖の四季折々の風景。美しい。
 愛犬の復讐、という主役の風俗嬢の初志貫徹を経糸(たていと)に、緯糸(よこいと)に彼女に絡みつく様々な登場人物を配置し、それが現在のソープオペラ的要素だったり、歴史ロマンの味だったり、落語様の落とし噺があったり、東宝映画の日本的SF物の世界だったりする。
 経糸の事件の顛末には驚愕するばかりだが、やっぱり…という納得の決着でもある。
 人間の思惑というものは、緯糸で模様が描き出されるように、このように多元的でとりとめのないものなのだ。

 2000年頃、京橋のフィルムセンターで、何の作品か忘れてしまったが、上映後、見知らぬ方に誘われてお茶したことがあった。その方は映画を作っていて、いま手掛けている作品は7時間ほどの長さのものであると語った。
 その後お目にかかったことはないが、自主映画であると、作品の愛着ゆえに、適切な長さに切れないものなのだろうか。

 翻って、幻の湖を鑑みるに、これ以上切るところはないように思える。
 すべてのエピソード、シークエンスが、橋本忍作品として不可欠な要素に思える。

 昭和55年頃、寄席で聴けない前時代の名人の噺を知りたくて、知人から八代目桂文楽のテープをたくさんお借りした。
 無駄な部分をそぎ落とした完成型の落語は、でも、ああそんなものか…と資料的意味はあっても、私には何度も聞き返す魅力があるとは思えなかった。ライブではないから仕方ない。
 貸してくださったご本人からも、圓生のほうがおススメなんだけどなぁ…と呟かれた。

 物事には、余分なところがあるから面白いのだ。
 

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サブカル懺悔1

2019年05月09日 22時33分44秒 | やたらと映画
 「もうそっちのほうに行くのはおよしなさいね」
 と、母が私に釘を刺したのは、入学式が済んで各種サークル勧誘のチラシが舞うキャンパスでのことだった。
 
 昭和50年代中頃中学生だった私は、高校受験間近いある年の共通テストで、全国で第3位という国語の成績を修めたのだったが、あまりにも神妙に受験勉強に勤しんだがゆえ、その反動で高校時代の三年間というもの、漫画研究からアニメーションや声優…という分野の藪に入れ込み、古文の先生を落胆させた。折しもテレビ版だった宇宙戦艦ヤマトがはじめて映画化され、小学生に交じって封切り館内売店のスチール写真グッズコーナーに並んだ私は、絵葉書のここからここまで、全カットくださいな、という大胆な行動に打って出た。初めての大人買いであった。
 同人誌や贔屓声優のファンクラブにも入り、声優が所属する劇団の芝居見物や、結成されたロックバンドのライブにも出かけた。学園祭で友人とコピーして歌った。コミックマーケットの前身の即売会にも出品したが、コスプレはやらなかった。当時上井草にあったスタジオサンライズへ見学に伺い、三文字のお名前になる前の富野喜幸氏にお目にかかった。急逝した長浜忠夫氏がとても紳士的で親切に案内してくださったことを覚えている。残念ながら、大学受験のための塾通いで、ガンダム一作目は1クールも見ていない。

 とはいうものの、冤罪事件に触発された多感な女子高生でもあった私は、無辜の民を悪官憲から救う弁護士になるべく法学部に進学し、当初は母の助言を守り、就活の助けともなる手に職を…ということで速記の通信教育や、社会悪を叩く新聞記者になるべく勉強を始めようと新聞学会なるサークルに入ったのだが、思惑が違った。その学会の主な活動は、当時まだ存在していた学生運動だった。一時の安保闘争からかなり下火になってはいたが、セクト争いで死者も出た時代だった。入会早々、軍靴の響き…という反戦の社説を書かせていただいたが、すぐに退部した。

 そんなわけで、五月病になる暇もなく、途方に暮れた私はつい、古巣に立ち寄ってしまった。
 アニメ研には、すでに漫画家に弟子入りしセミプロとして活躍している者や、制作会社でバイトしている者もいた。
 活動は当然、アニメーションの製作である。
 原始的なものではあるが、パラパラ漫画の延長線上にある企画で、各部員が同秒分を分担し、リレー方式で繋いでいくのだが、担当する頭のカットから全く別の物体であるお尻のカットまで、各自のアイデアのもとにメタモルフォーゼさせていくのだ。トレーシングペーパーに単色マジックで一枚ずつ動画を書き、一枚ずつ白黒の8ミリフィルムで撮影していく。
 …いや、エルモの16ミリだったろうか、渋谷区の16ミリ映写機操作講習会に私も参加し、資格を取った。
 
 そのアニメ研に特撮班なるものもあり、私はそこで戦隊ものの企画に誘われた。
 当時(アクリル絵の具が出回り始めたころだった)大人気イラストレーターだった生頼範義の筆致をまねるのが大層上手なМ君が、絵コンテを描きながら説明してくれた。どうやら私はトルネードクイーン(柏木たつみ)というヒロインのお役を頂戴できるらしい。
 やはり、当時カルト的人気を誇った、ジョン・カーペンター監督のザ・フォッグに似た恐怖映画テイストミックスの、若干のキッチュさを狙った特撮自主映画企画だった。

 昭和40年代を小学生で過ごした者たちにとって、円谷プロダクションは心の友…いや、なんと言ったらよいのだろう、友以上の、一種の信仰の対象ともいえるような存在であった。(小学生時代の私のイチ押しは何といってもセブンであった)
 М君の御父君のツテを最大限に活用し、さっそく、当時ウルトラマン❜80を撮影していた世田谷大蔵の東宝ビルトへ見学に行った。
 私は、特殊撮影の技法、という特集記事を父の本棚のカメラ雑誌から見つけ出し、レポートにまとめ、勉強会を開いた。

 しかし、その特撮映画も準備段階のまま、そうこうしているうちに、サークルの分派騒ぎというものが起き、1年足らずで私はアニメ研を退会し、大衆読み物研究会なるサークルへ移った。私のアニメ熱も1980年で終わり、フィルム映画…映像製作に対する情熱もついえた。
 その大衆読み物研究会・SF分会で出会ったのが、我が整いました、の心の友である。そこで子供時代のお笑い志向が本格再発し、大人の落語熱へと重症化していくのであるが、それはまた、のちの話。

 ここまでがざっと、長唄に出会う前の…長唄以前のこと、なのですが…

 …そんなことを想い出したのが、林家しん平師匠が4年半にわたる歳月を費やし、ほぼ一人で特撮部分を作成・完成させたという監督作「深海獣雷牙 対 溶岩獣王牙」の発表試写会でのことだった。
 昭和の終わりごろ寄席通いをしていた私は、一ツ木通りに在った今は亡きTBSホールの落語研究会にも行ったりして、当時新進気鋭だったしん平師匠のシュールな新作落語が好きだった。三角定規を頭に刺して自殺しようとして死にきれない男の噺とか、SF小説のショートショートのような趣きがあった。
 それから時代は下って21世紀になってから…10年ちょっと前でしたか、文化放送のかもめ寄席だったかで、新作の「鬼の面」を聴いたとき、その噺の完成度合いといい、独自性といい、高座っぷりといい、すごい技巧派になってらしたんだ…と感心したものだった。

 そんなこんな、あれやこれやで、終盤は怪獣同士の鉄火場の閃光と爆裂でよく分からなかったものの、映画作品が完パケに至るまでのなんと困難なことであることか、と、しん平監督の執念と情熱と不屈の魂をたたえるゲストの特撮界の巨匠お二方の監督のお話もあって、40年余りの長期的スパンで、林家しん平という落語家の来し方を、楳図かずおのおろちのようにそっと傍観してきた私も、不思議と何やら清々しい心持ちになった。
 人影もまばらな宵の冨士見町のアスファルト道路の真ん中で、旅笠道中を歌いながら、飛び跳ねて踵を打ち合わせたい…ふと、そんな気がした。


附:写真は、踊りの会の打合せのため、四十年ぶりで伺った西武新宿線・上井草駅頭(かつてサンライズを訪問したことは全く失念していた)にて遭遇した銅像。ガンダムは初放映時、4月から6月初旬までのみ視聴。
昭和の女子高生としては、前年度のダイターン3の、軽妙でコミカルなオシャレ感が好きでした。
銅像にたすき掛けをしてしまうという、モニュメントに対する侮辱的行為に対して苦情は出ないのでしょうか…
それとも……。
 
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岸田森と森川信

2018年07月27日 07時00分55秒 | やたらと映画
 岸田森が亡くなったのは、私が二十歳の年の暮れだった。TVニュースで知った時は本当にショックで悲しかった。訃報を伝える画面を今でも覚えている。
 子ども時分から「怪奇大作戦」は欠かさず見ていたし、中学生の時、掃除当番をさぼって男子が早く下校したがるのは「傷だらけの天使」の再放送を見たいがためであった。高校生だった時ラジオドラマで我がヒーロー、ブラック・ジャックを演じた。狂喜の配役であった。これまた欠かさず聞いていた。

 勉強をしながらラジオを聴くのは昭和の中・高生の常であった。ラジオドラマの全盛だった。朗読ではなく、ラジオドラマなのだ。
 深夜ともなると、ささきいさおのセイ!ヤングとか那智チャコパックとか、スネークマンショーとか、城達也のジェットストリームとか、もぅぉ、枚挙にいとまがない…というのはこういう時に使う言葉なのだと、今知った。
 テーマ曲はもとより、西国に去った方々の息遣い、喋り方の特徴など、耳からの記憶は今でも鮮やかに、耳のうちに蘇ってくるのだった。

 淀長氏の熱意の賜物か、萩尾望都の「ポーの一族」ゆえか…いえいえ、ここで申しましょう、山本廸夫監督と組んだ岸田森ゆえか、吸血鬼は昭和の少女たちには永遠の憧れだった。
 岸田森にシャーロック・ホームズを演じてほしかった。鹿打帽とトンビマントがこの上もなく似合うはずであった。

 時々、ひどく岸田森が居た時代に戻りたくなることがある。リアルタイムで見なかったことを悔やんだ「近頃なぜかチャールストン」を中野の名画座で観たのは、もう20年も前のことになってしまった。同じ劇場で観た「哥」もかなりなエキセントリックさだった。岸田森が存在する世界に失望させられたことは、一度たりとてなかった。
 
 寅さんのおいちゃんは森川信でなくてはつまらない。
 森川信は、私にとっては「おくさまは18歳」の校長先生である。
 同作の主役を勤めた岡崎友紀は、昭和40年代少女の永遠のアイドルだった。相手役の男の子のことはどうでもいいのだ。岡崎友紀のコメディエンヌっぷりが小学生の私のハートに火をつけたのだ。
「なんたって18歳」は長いこと私のカラオケの持ち歌だったし、「だから大好き!」の南洋の島の王子さまは、なんてったって沖雅也なのだった。ファンでなくとも沖雅也が王子さまであることに疑いないのは、昭和の定石であった。

 さて、森川信の得難い芸達者ぶり、そのことに改めて気がついたのは、もう25年以前、映画に大層詳しいとある落語家の師匠から、寅さん映画再見すべしとの御説を伺って後のことである。
 昭和末期の映画少年たちは、メジャーな大衆邦画シリーズである、寅さんを観に行くなんて、ベタなことはできないのだった。オタクの沽券にかかわるのである。三百人劇場でルイス・ブニュエル監督の映画を見たりするのが、映画ファンを自負する青少年の正しい在り方である、と信じて疑わなかった。
 それから4,5年が経ったやはり20年も前のことだけれど、昭和の終わりごろに上杉鷹山など、歴史上の人物を経済小説風な切り口で描いて名を上げたD先生が、書斎兼事務所の書棚に「男はつらいよ」シリーズのビデオ全作を揃えていると聞いて、なるほど、と感じたものだった。
 50歳になったら私にもあの映画の良さがわかるのかもしれない…と、当時30歳代後半だった私は思ったが、案の定。数年前から寅さん映画をこっそり見て心の平衡を保つという、私の中の映画に対する愛情が新しい時代を迎えた。

 昭和50年代のディスカバリージャパン。銀幕の中のロケ地の風景の美しさが切なくて、胸がざわざわっとして泣きたくなるのだった。
 その景色があったあの時代に、自分自身がいた場所をまざまざと感じ取ることのおののき。記憶でしかないのに肌にまとわる空気感はどうしたことだろう。フィクションである物語映画は、実はノンフィクションの記録映画でもあったのだ。

 失ってしまったものたちへの郷愁、挽歌というおぼろげな感傷ではなく、自分がフィルムの中に取り込まれてしまうような実感を伴う錯覚があまりに怖くて…そして、完パケされている昭和時代が懐かしくて…ついついのついのついつい。
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猫の町 1

2011年10月26日 13時00分03秒 | やたらと映画
 私はよく、猫にたぶらかされるたちだ。
 もう30年近く前、池上本門寺に、市川雷蔵の墓をさがしに出かけた時のことである。
 そのころ友人が本門寺の近所に住んでいて、友人一同で散策ついでに「力道山の墓を見に行こう」ということになったのだが、そのころの私はまだ恥じらいの多い年ごろだったので、ひとりだけ、あの~、ついでに雷ちゃんのお墓参りもしたいン…とはとても言いだせなかったのである。
 目玉の松っちゃんのお墓はあっち…とか言いながらガヤガヤと、学生どもは広い山内を散歩した。
 …で、後日、ひとりで探しに行った。

 昭和60年前後。そのころ雷蔵は、忘れ去られた銀幕の大スターのひとりだった。
 現在のように、大々的に回顧特集を組まれることもなく(その当時、日本の伝統的風合いを持つ芸術文化に対する社会的評価はそんなものだった)、浅草の新劇場で三本立てのうちの一本に「陸軍中野学校」がバラ上映されるとか、好事家の16ミリ上映会とか、そのころよく放映されていた12chとかの昼下がりの邦画名作劇場(勝手に命名してます、スミマセン)で明朗時代劇が放映されるとか…そんな稀少な出会いを求めて、若い私はフィルムの巷をうろうろしていた。

 五重塔を右に曲がったほうにある…という唯一の手掛かりを頼りに、ひとりで本門寺の墓苑をトホンとしながら歩いていた時のこと。
 日も暮れかかり、樹影でうっそうとした墓内は、人っ子一人見えず、風に木の葉がざわざわと揺れる音だけが聞こえていた。
 ふと視線を感じて、木洩れ日でちらちらする辺りを見つめた。とあるお墓の石段の上、墓を守るが如く横臥した猫が、私をじっと見据えていた。
 しばしの静寂。と、突然、スフィンクス猫は、ミャア…とひと声鳴くと、石段をするするっと降りて、私の脚にすり寄り、幾度も往ったり来たりして痩身をこすりあわせた。
 …その、猫が石段を下りてくるさまたるや、あまりにも流麗。
 おぉっ、これは…! 
 五味康祐原作「薄桜記」で隻眼片腕の美剣士となった雷ちゃんが、いざりながら階段を下りてくる、あの立ち廻りにそっくりや…!! と、気がついた私は、ゾッと総毛立った。
 …この猫は、雷ちゃんじゃあるまいか…。

 結局、その墓石の主の名は、雷ちゃんのものではなかった。
 それからまた何年かして、祥月命日の日に本門寺を訪れる機会があった。前回と同じく墓をさがした私は、ご遺族が法要を続けている様子を見つけ、散歩をするふりをして遠巻きに拝んだ。
 この辺りには猫が多いのだ。尻尾をピンと立てて、道案内をするでもなく人の斜め前をひたひたと歩いていた猫は、いつの間にか姿を消していた。

 やっと、雷ちゃんのお墓の在り処がわかった! …と雀躍しながら帰途につき、また何年かが過ぎて、ある春のうららかな午後、久しぶりに本門寺をたずねた。
 そのとき同道していた知人に、ちょっと自慢げに、雷ちゃんのお墓はここよ!と、前回の記憶を辿って案内したかったのだが、なぜだか、見つけることができなかった。
 かつてとは全く様子の違った、散策の人々でにぎわう寺内をいったりきたりして、ようやく市川雷蔵の墓に辿りついた。
 そこは、以前、私がそれと見定めた、雷ちゃんのお墓ではなかった。

 あの、うららかな十年ほど前の法要は、いったい何家の法要だったのか、気になりながらも確かめようがない。
 またいつの日か本門寺にやって来た時、私は間違いなく、目当てのお墓を参ることができるのではあろうけれども。
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海に降る雨

2011年07月01日 15時15分00秒 | やたらと映画
 ここ四年ほど、海に近い町に住んでいたが、このたび再び、長らく住みなれた都下西域に戻ることになった。
 家の鍵を渡し、煩雑な手続きから解放されると、熱をはらんだ陽はまだ高い。またいつ来るか知れぬ、小さな入り江の様子を見に出かけた。
 三浦半島には数多くの漁港やマリーナが散在する。そのなかで最も気に入っていたのが、西海岸の中ほどにある、この入り江だ。人にあまり知られていない、小態な居心地の良さが好きだった。
 ランチが一艇、帰帆する。鈍色の空は照り返しが強く、波が高い。ドッグに揚げられたヨットの白い帆柱が行儀よく並び、桟橋の突堤にはよく育ったフナムシがぞろぞろと日向ぼっこしている。
 ひき潮なのか、ひと叢の海藻が波にたゆたい、沖のほうへ流されていく。

 こうしてロープを結んでいる人々の間を縫ってマリーナを歩いていると、どうしても私には「刑事コロンボ」が思い浮かんでしまう。小学校高学年から中学生にかけて、毎週欠かさず見ていた。ノベライズ『構想の死角』を買ってはみたが、小学生には難しかった。ピーター・フォーク扮する彼は「太陽にほえろ!」の、露口茂演じる山さんと並んで、小学生の私の、二大トレンチコート刑事キャラだった。

 そんなことをぼんやりと想い出しながら、急に降りだした雨に急かされて、海岸線を北上する。
 夕日に赤い帆、いそしぎ、ダイヤモンド・ヘッド…。私が生まれ育ったのも北関東の海にほど近い田舎町だったので、週末になると、父が海岸へドライブに連れて行ってくれた。そのときラジオから流れてきた、1970年代に流行った映画音楽や楽団の、イージー・リスニングなメロディ。
 日曜日の黄昏時の憂鬱。私は仕残した宿題のことを考えて、小さな胸をどきどきさせていたが、どんな天候の時でも、海は大きく、また小さく、うねりながらそこにあった。

 たいがい、私たちが夏訪れる浜辺は、母の実家近くの海水浴場だった。商家だったのでトラックがあって、水着に着替えて麦わら帽子を被った私たちは、荷台に積まれてビーチへ運ばれていく。50年代のイタリア映画みたいな情景だけれど、昭和の日本もそんな感じだった。
 そうそう、小学生の時、土曜日は必ずご町内のお習字の先生のところに通っていて、ただ、子供の私には、貴重な土曜日の午後の仕事はそれだけだったので、ちんたらしながら民放テレビの洋画番組を観て、制限時間いっぱいになるまでだらだらしてから、書道の稽古に出かけるのを常としていた。
 ビットリオ・デ・シーカ監督の『昨日・今日・明日』、メリナ・メルクーリの底抜けの明るさにシビレた『日曜はダメよ』、ジャンヌ・モローが怖すぎる『黒衣の花嫁』とか、けっこう子供には刺激の強い洋画を、自分でも退廃志向なんじゃないかと、若干の罪悪感におののきながら、土曜日の午後の密かな愉しみに浸っていたのだ。
 
 海水浴に行くと必ず夕立に遭って…ジャック・タチの『ぼくの伯父さんの休暇』を、私は20世紀と21世紀の狭間の年に、市ヶ谷の日仏会館で観た。避暑地の海岸の風景がとても懐かしかったものだ。偶然、同時期にレコード店で見つけたサントラ盤まで購入して、何度も聴いた。昔、いつかどこかで、耳にした旋律。
 『ぼくの伯父さん』は小学生のとき映画館で観た。私の父方の一番下の叔父は私が小学生のとき大学生で、よく映画に連れて行ってくれた。彼はかなりお茶目な人で、食べ終わったバナナの皮を映画館の通路に置いて、本当に人が滑るものか実験をしていた。子供心に、叔父さん、やばいよ…と思っていたが、あれはひょっとすると大学生だった叔父さんの、小学生の姪に対するサービス心の表れだったのかもしれない。

 海に降る雨は、人にいろいろなことを想い出させる。

 T字路の交差点に差しかかる。正面はレンガ造りの交番だ。
 交番の看板をなぜ、いつから「KОBAN」なんてローマ字表記するようになったのだ。
 これじゃどうしたって、ジェームズ・コバーンを想い出さずにはいられない。『電撃フリント作戦』シリーズ、カッコよかったなあ。20世紀の俳優は、どんな美形の二枚目にも渋さがあった。近年の男前は甘いばかりで…だから時代劇も面白くない。
 そういえば、同様にスリの主人公が圧倒的な存在感を放つ邦画に、市川崑監督『足にさわった女』というのがあった。越路吹雪、コーちゃんが、素晴らしくカッコよかった。人を小馬鹿にしたような横顔の、キリリとした眼と鼻すじ。脇役陣も秀逸で、伊藤雄之助の弱々しい弟分が傑作だった。
 脱線するが、やはり市川崑監督の『結婚行進曲』で、伊藤雄之助の踊りの師匠がこれまた絶妙だった。愛する夫・上原謙に当てつけがましいことをしてみたくて、新妻・山根寿子が、わざと上原が嫌がる踊りの稽古を再開する。山根・雄之助がシンクロして踊る稽古中の長唄「浦島」の、抱腹絶倒さ加減ときたら…あぁ、また観たい。

 そうこうしているうちに彼方の山に日も落ちて、高速の入り口が近づいてきた。
 逆の道順ではその枝道を見つけるのが難しい。「パピヨン」という電飾のあるバーが、夜更けて家路をたどる私の目印になっていた。久しぶりに通ったら、もうなくなっていて、新しいビルが建設中だった。
 一度も入らず仕舞いだったパピヨンの、店内に想いを馳せる。うつけバーNOBUのおかまの信ママ?? いえいえ若き日の藤間紫が、しっかり仕切ってそうな感じもする。
 ここを通るたび洋画『パピヨン』の、胸に蝶の刺青がある主人公の、不屈の精神力を思い浮かべていたのだ。
 20世紀は、映画がたいそう面白い時代だった。ストーリーが血肉で出来ていた。そして汗と。

 太陽がまぶしすぎる午後、海に挨拶したら、私の頭の中で、70年代の記憶が弾けて跳んでいった。

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デライラの日

2011年03月25日 11時33分00秒 | やたらと映画
 心がかつえたので、音楽がききたいと思った。
 美しいものを見れば心いやされるものだが、ここしばらくというもの、目から入ってくる情報はあまりにも荷重で、視覚の世界から遮断されたいと思ったのだ。
 ふと、ここ10年以上聞いていなかったCD群が目につく。
 『南太平洋』のサウンドトラック。……。名曲ぞろいだけれど、この場合、シャレにならない。小林旭ベスト4枚組。『恋の山手線』は、歌詞を想い出すのに脳内がますます興奮・活性化するような気がしてやめた。
 エノケン。神楽坂はん子。森繁久弥の軍歌と流行り唄集。「銀座の雀」をシャンソンぽく唄うのもいいが、多少、癒されつつ、元気にもなりたい。
 やっぱり、気分を変えるには洋楽だ。それも、理由もなく毎日が明るく楽しく思えたころ聴いた曲。そしてまた、あまり浸りすぎずに済む、明朗快活な曲。
 小手調べにZep。黙祷するによい瞑想曲もあり、そののち「胸いっぱいの愛を」で溌剌とする作戦だったが、ラストの名曲「stairway to heaven」で、すっかり、ヒース生い茂る荒野に迷い込み、仙人化してしまいそうになったので、2回リピートしてやめた。

 現実世界に舞い戻るためには……おぉ、そうだ! トム・ジョーンズのベストアルバムが、あるじゃないか。
 これは、たしか前世紀の終わりごろ、映画『マーズ・アタック!』公開時に、再リリースされたCDだ。
 そうだった、あのとき、『マーズ・アタック!』の試写に行った同僚が、「この映画の意味がわかんない!」と、激怒して帰ってきたのだった。
 いーじゃないか、いいじゃないか。大ウソの世界はバカっ噺でいいじゃないか。虚構の世界に変な理屈をつけると、壮大な話が世話場になる。

 『マーズ・アタック!』を想い出すとき、私にはウェルズの『宇宙戦争』より、フレドリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』が連想される。
 中学から高校にかけて、ブラウンとブラッドベリは私にとっての両Bで、(ここらへん、竹中半兵衛・黒田官兵衛の両兵衛にかけてあります…緊張をほぐすにはまず、言葉遊びから!)早川書房、東京創元社から出ていた文庫本、晶文社の叢書など、翻訳された両所の著作本は、全部持っていた。
 ブラウンの簡潔でシニカルな文体は、清少納言に相通ずるものがある。
 ならば、ブラッドベリは紫式部か…というと…ううむ、あの類稀なる叙情性、ブラッドベリはブラッドベリだよね。色事から遠ざかった、叶わぬ恋への追憶、とでも申しましょうか。積極的な源氏物語とはちょと違う。

 トム・ジョーンズの全盛期、私は小学生だった。そのころ大好きだったルシール・ボールの「ルーシー・ショー」と同じように、当時、彼の冠番組があったように記憶している。60年代後半のオシャレなバラエティ番組は、すべて欧米伝来のショウ形式だった。
 いま思えば、杉良のような、中条きよしのような、小学生には分からない、大人のおねーさん方を覚醒させずにはおかない、艶物系大スターだったのだろう。
 しかし、こうしてまた、改めて聴きかえすと、007や、ピーター・オトゥールの顔が浮かぶ『何かいいことないか、仔猫ちゃん』のテーマ曲もあるし、知らない曲はひとつとしてない。
 一曲一曲が、今はもうこの地上の、どこにもないのだけれど、慣れ親しんだ生家のそばの商店街の軒先を、通り過ぎるかのように、なつかしい。
 そしてまた、70年代の日本の昭和歌謡に、多大な影響を与えていることがわかる。
 何より歌詞も唄い方も、骨太でストレートで直線的で、実にいい。

 …トム・ジョーンズは、『万葉集』だ。
 心の叫びを、せつせつとダイナマイツにうたいあげる。自分の真情を吐露することに終始するので、押しつけがましくない。人生に立ち向かっていこう、というエネルギーが沸々と湧いてくる、愉快なウキウキ感を増殖させる音楽だ。

 収録1曲目は「よくあることさ」…。そう言って、肩を叩いて軽く慰めてほしい。

 火星人の脳髄を直撃した、北米大陸版ヨーデルのような、コヨーテの遠吠えのような、あの秘密兵器は、ずっと、トム・ジョーンズの歌だと思っていたが、違うのだったかしら。
 そういえば、このCDを買った時も、ああ、あの曲は入ってないんだ…と軽く落胆したのだった。たぶん、私の思い違い。
 てっきり、トム・ジョーンズが地球の救世主なのだとばかり思っていたのだ。ターザンの雄叫びとはまた違う、のびやかなトム・ジョーンズ節が、火星人の延髄を破壊したのだ…と思っていた。
 もしそうなら、すごい! ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』の少年が、金切り声でガラスを割ってしまう、あの奇声に匹敵する破壊力だ。

 邦楽界でこの手の武器を有する人物はたったひとり。私の記憶の中の、清元志寿太夫お師匠さんしかいない。
 あるとき、新橋演舞場3階の菊廼舎の前で、ぼんやりと幕間をやり過ごしていたら、スタスタと、志寿大夫お師匠さんが歩いてきた。むき身の茹で卵のように、つやつやしていた。私は思わず会釈した。すると、志寿のお師匠さんはうれしそうににっこりしながら、そのまま菊廼舎に入っていった。
 そのとき観た芝居が何だったのか、さっぱり想い出せないのだが、あの風呂上がりのように血色のよい志寿太夫のにこやかな顔は、忘れられない。九十を過ぎても、声量はすごかった。ご長命の舞台を、最期まで看取ってあげなければ、という気持ちを観衆に与えるお人柄でもあったのだ。
 清元は、幕末の世相を色濃く映し出しすぎたあまり、退廃的かつ煽情的すぎるという理由で、お上から上演禁止処分を食らった。ほとんどすべてが心中物だ。そしてまた、あの超絶技巧的高音からなだれ込む節回し。
 世の中を破滅に導く…「滅びの笛」。ある意味、ダイナマイツなパワーを秘めた音曲なのだ。間違いない。

 20世紀に夢見ていた未来が、この手の上に出現してしまった21世紀。そして災厄も、SF映画のスクリーンで、いつか見た風景のままに訪れた。
 そうして、その先の未来は?
 小学生のころ想像していた、真空管コンピュータによって導き出される未来は進化を止めて、それにとって代わった半導体コンピュータが、新しい世界をもたらした。
 そんなふうにまた人類は、新しい未来を夢見ることができるのだろうか。

 …トム・ジョーンズは「letter to Lucille」を唄っている。
 歌詞の内容はほとんど分からない…でも、雨上がりに、東の空に虹を見たような気がした。
 今日どんなことがあっても、私は、明日を迎えることができるぞ…というような。



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伊賀越え(改題・三大仇討③)

2010年12月22日 02時00分00秒 | やたらと映画
 「講釈師、観てきたようなウソをつき」と申します。
 知人は、大正生まれのご母堂から、講談だけは聴いてくれるな、と、小さいときから固く戒められたそうである。しかし、母君自身、お芝居や映画が大好きで、劇場によく連れていってくれたそうだから、もはや手遅れである。
 たぶん、芝居や映画だと、見た目虚構の世界、というのは子ども心にも分かるけれど、釈台の前に座った黒紋付の、立派ななりをして威厳に満ち溢れた講釈師の先生が、張り扇からひねり出す歴史上の人物のもっともらしいお話のあれこれは、説得力があるだけに、子どもに真贋を見極めるのは難しい、本当だと思い込まれたら、歴史の成績は無茶苦茶になってしまう…と、心配なさってのことだったのかもしれない。
 10年ほど前、歴史・時代小説の編集部にいた別の知人によれば、そういう巷談の俗説をシンから本当のことと思い込んで、テレビドラマや小説に、真剣に抗議文書…クレームやらものいいやらつけてくる人々がいて、…いや、まったく、本当に難儀しましたョ…ということだった。
 正史でさえ、のちの権力者によって真実が書き換えられている場合が多いから、みなさん、史料を研究するとき、時代考証に難癖をつけたい気分になっているときは、ご注意なさってくださいませ。
 …今はでも、そういう時代劇上の巷談・通説ですら、ご存知のお年寄りも、この地上には少なくなりましたけれども。

 さて、またもや十日の菊、遅かりし由良之助的所業に及んでしまうのだが、先々週の日曜日は旧暦の霜月七日だった。
 今からざっと380年ほど前、江戸初期の寛永十一年十一月七日、家光が三代将軍となって11年目、西暦でいえば1634年、伊賀は上野の西の口、鍵屋の辻で、仇討があった。
 俗にいう、伊賀越えの仇討、講談調にいえば、荒木又右衛門・三十六番(人)斬り。
 三大仇討、一富士、二タカ、三がこの、伊賀越えの仇討である(一、二の説明は本ブログ5月28日付の「日本三大仇討①」をご参照いただけますれば幸甚)。
 それはなぜかと申しまするに、副主人公の渡辺数馬の家紋が渡辺星(一文字の上に三つ星が載っているデザイン)であるから、という…これも昔仕入れた講談師からの入れ知恵だから、ホントかどうかは知りません。

 「伊賀越え」というと戦国マニアには、本能寺の変のときに、堺で遊んでいた徳川家康が逃避行の伊賀越えを想い出す方も多いかもしれない。
 家康の場合は、茨木から宇治田原を経て裏白峠を越えて信楽を通り、亀山に抜けるというルートだったそうだから、又右衛門のルートとは違う。いわば北ウィングとでも申しましょうか。
 又右衛門・数馬の仇討一行は、大和郡山、奈良を出立して木津、加茂、笠置、島ヶ原そして伊賀上野という、途中から今ある関西本線と同じ、最短距離のルートを進んだ。

 かたき討ちには幾つかのルールがある。血縁上、目上の者は目下の者のかたきを討てない。つまり、父が子のかたきを、また兄は弟のかたきを討てないのだが、この備前岡山藩家中に出来した、渡辺数馬の弟が、同僚の河合又五郎に殺傷された事件。藩侯・池田の殿様の強い要望があって、上意討ちのお墨付きを戴き、数馬の姉婿、つまり義理の兄である荒木又右衛門の助太刀を得て、かたき討ちが叶うことになるのだ。
 そしてこのかたき討ちは、かたきである又五郎の親族縁者が幕府の重臣であったことから、大名である池田家vs江戸幕府の旗本…という周囲を巻き込んで、討つか討たれるかのしのぎ合いという、大がかりな構図へと移っていく。

 お芝居ができたのは仇討から150年ほど経った天明年間の『伊賀越道中双六』で、現代では、外伝であるサブキャラの苦労譚「沼津」がよく上演される。当世の文楽では、住大夫・錦糸の決定版。歌舞伎では、昭和50年前後ごろまでは、道中に見立てて、客席に入って役者が歩き回る趣向が好評で、よくかかったらしい。
 この仇討の物語の本筋は、長谷川伸が昭和10年に新国劇のために書き下ろして、のちに新聞小説で連載された『荒木又右衛門』を基にした時代劇映画『伊賀の水月』で観たほうが、分かりやすいと思う。剣戟の醍醐味である殺陣は、チャンバラ映画の独壇場だ。
 人情に重きを置いた「沼津」とはまた違い、人は自分の置かれた立場においていかにその任務を遂行すべきか、という理性のドラマになっているのだ。

 「ここであったが盲亀の浮木優曇華の花、艱難辛苦はいかばかり、いざ尋常に勝負、勝負!」
 敵に偶然にも天下の大道でめぐり会うことは、まずない。仇討映画はロードムービーだ。めざすかたきの行方はいずこ。数馬の道中は岡山から江戸、そして大和郡山、京都さらに有馬温泉へと及び、又五郎の所在を突き止めるだけで5年の月日が流れていた。
 その間、池田家も備前から因幡に国替えになった。自分の墓前に又五郎の首を供えよ…と言い残して、池田の殿様は帰らぬ人となっていた。

 20歳前後に名画座で観た…大井武蔵野館だったか、建て替える前の文芸坐だったか、それとも竹橋に間借りしていたころのフィルムセンターだったのか…いや、待てよ、三鷹オスカーだったかもしれない…とにかく、私の記憶の中のセピアカラーの映像では、渡辺数馬が、又右衛門に「討ちました…!」と一言いいざま、わああぁぁっつ…と号泣する。
 その慟哭に、映画館の暗がりの中で、もらい泣きした。
 30代になってから、初々しいそのシーンをもう一度観たくて、ただ、数多い映画化作品のどの『伊賀の水月』だったのかが想い出せなくて、鍵屋の辻がらみの映画を何本も観てしまったが、どれもそういう演出ではなかった。資料から推し量るに、又右衛門がバンツマの、戦前の池田富保監督作品らしいのだった。そして数馬役は滝口新太郎。戦前に青春スターとして人気のあった俳優である。

 滝口新太郎は、戦時中満州に応召されて、そしてそのまま帰らなかった。
 日本国内では戦死したものと思われていたが、シベリア抑留中も艱難辛苦を乗り越えて生き延び、そのまま、ソ連邦で晩年を過ごした。彼が骨になって日本に戻ってきたのは、ソ連でめぐり会って結婚した、同邦の女優の手によってだった。
 その女優というのは、戦前、国境を越えてソビエトに亡命した岡田嘉子である。
 岡田嘉子は戦後、昭和50年前後だったろうか、一時期日本に帰国して、その波乱の人生が話題となり、時の人となった。彼女は、共演した男優と駆け落ちして、昭和初期の芸能界を騒がせて、さらに演出家とソ連に亡命したのだ。このとき同道していた演出家はスパイ容疑で処刑された。
 岡田はソビエトの労働者となり、やがてめぐり会って11歳年下の滝口と結婚する。それだけでも、すでに女流講談ネタだが、女冥利に尽きる人生だ。

 かように、講釈師の口から聴く渡辺数馬の話よりもさらに、私が散見する資料でうかがい知った滝口新太郎の生涯は、波乱に満ちていた。
 滝口新太郎と岡田嘉子の、シベリアの水月。…どのような幾星霜であったろう。

 伊賀上野の鍵屋の辻。私が初めて訪れたのは平成初年頃で、伊賀上野城も今ほどに整備されていなかったが、さすが、藤堂高虎が築城しただけあって、本当に美しい城だった。
 石垣が何しろ、美しい。濠の水面から絶妙な角度で屹立する石垣の、あの曲線美は、コカコーラの瓶とはまた違った、硬派な曲線の美だ。伊賀上野の城下には、この20年間に、数回行っている。
 そしてまた、大和郡山へも、アジサイで有名な矢田寺行も含めて、3回以上行っている。

 こう書き進んできたが、先に述べた三者三様の人生譚だけでなく、私自身の歴史紀行・伊賀越え道中の話も絡んでくるので、一日分の日記とするには収拾がつかない。
 「さてさて、これからが面白い、これからが山場なのですが……この続きは明晩!」
 人生は短いようで長く、長いようで短い。おのおのの人生を、さて、なんと言うたらよかろやら。
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腹芸のできる男

2010年10月23日 13時10分00秒 | やたらと映画
 昨日10月22日は、旧暦だと長月十五日、つまり九月の十五日で、そうなるとこれはもう、今からざっと410年前の西暦1600年、和暦・慶長五年の天下分け目の関ヶ原の合戦があった日である。
 もう十数年前、一度だけ、いつも新幹線に乗って車窓から偲ぶだけだった関ヶ原に行ってみたことがある。ちょうど今時分だったかしら、平原が草色から薄茶色に移ろっていくころ、陣立てに見立てた幟旗がほうぼうに立ててあって、地元では合戦祭りの準備をしていたようだった。

 東から西へ見物左衛門、そして帰路となると日中目いっぱい、上方で遊んでくるので、関ヶ原辺りを通る時はたいがい、とっぷりと陽が暮れている。
 新幹線の窓からうかがう関ヶ原は、闇の中に静かに横たわっている。さらさらと篠の原をゆらして、音もなく粉雪が舞っているだけの、静寂に覆われた何もない原っぱである。
 その原っぱで、家康に仁義があったかなかったかを、三成が天下に問うた、豊家の代理戦争が行われた日なのである。

 一方、同じ年、イギリスは東インド会社を設立している。日本国内は豊臣か徳川かで、天下を二分する戦端を切ってドンパチしていたのだが、ヨーロッパでは、その後3世紀にも及ぶ帝国の繁栄を築く基となる、植民地政策を着々と推し進めていたのである。…うぅむ。

 二十代の終わりごろ、平成のひとケタ時代、築地の華僑ビルで、シネバラック3000という、好事家のために古い邦画を16ミリで観せてくれる個人上映会があった。主催していた田中英司さんは、今もお元気でいらっしゃるだろうか。
 さて、そのシネバラックである日、私は月形龍之介の、あまりの、胸のすくカッコよさにしびれた。それは大友柳太朗の「むっつり右門」捕物帖シリーズの一作品なのだが、副題は失念した。
 ある政治的な事件があって、誰が黒幕なのかさっぱりわからないのだが、右門は犯人を明らかにする罠を思いつく。それは、その犯罪の張本人であれば、とある商家の蔵の中に閉じ込められて朝を迎えざるを得ない、という仕掛けだ。
 策奏して、さて翌朝、蔵を開けてみると、そこにいたのは、なんと右門の上司であった。…まぁ、ありがちな筋書きではあるが、その上司が月形で、自分の正体が暴かれた、その瞬間の月形のショットが、もう、あまりにもカッコよかったのである。
 悪びれもせず、毅然ときっぱりとして顔を上げている月形の、その潔さと、そしてそれでも腹の内を明かそうとしてはいない胆の据わり具合に、私はシビレタのである。

 惚れ惚れするほどカッコいい男の基準というものは、自分が幾つだったかで変わる。その人物に出会った年頃によって、判断のスケールは違う。

 新美南吉の『うた時計』に登場する「清廉潔白の廉」という名前の男の子が、己ではそうと知らず惹き起すエピソードに涙した私は中学生だったし、映画「風と共に去りぬ」の中の誰か一人といえば、やっぱりアシュレーがいい、と思っていたのもその頃だ。

 清濁併せのむ人を許せないと思う、思春期特有の潔癖さ。

 でもやがて、高校生になってから再び観た「風と共に去りぬ」は、アシュレーではもはや線が細く頼りなく、どうしたって男っぷりは、圧倒的にレット・バトラーがいいのだった。

 20世紀末の三十代の頃、突如、中華電影に凝り、その延長で、あの長江の流れにも匹敵するナガ~イ中央電視台制作のテレビドラマ『三国演義』を観た。
 みなさんは、誰がお好きですか? 
 三十代半ばだった私は、圧倒的に曹操だった。自分を助けてくれた一家を勘違いから皆殺しにしてその挙句…というあのエピソードに、私は感服した。あの潔いワルっぷりときたら、もう実にカッコよくて清々する。いっそスガスガシイ、とはこういうことなのだろう。

 すでに二十代の一途な純粋さから一歩踏み出していた私には、諸葛亮、孔明の聡明なスーパーヒーロー的聖人君子ぶりは、もはや、あまり魅力的ではなくなっていた。

 まぁ、こういう悪役は身近でない、虚構世界に生きているから、胸のすくカッコよさを歓迎できるのだろう。実際に江戸市民だったら月形のオッサンには、石持て礫投げ、税金返せ~と叫ぶだろうし、曹操のもとからは離れて田園に暮らすさ、当然。

 そして、歴史の夢から覚めて、西暦2010年、和暦・平成22年の現実に立ち返り、逆にまた思う。腹黒い、いや、腹黒いらしい…という、ある意味、世の中の無責任な…あるいは思惑のある誰かが喧伝したイメージで、その人自身の黒白を決めてしまっていいのだろうか。
 政治家にそんなに、聖人君子のような、清く正しい美しさ…のみを求めてどうする。人それぞれの立場によって、求められることは違うはずだ。

 クリーンさを求めるがあまり、ほんのちょっとした瑕疵で出来物が失脚していってしまっては、世の中に仕事のできる人物が居なくなってしまう。革命後のフランスやソビエトは粛清に拍車がかかり、優秀な人材を次々と潰していった。
 一元的な価値観のもとで権力闘争をすれば、独裁者が生まれるだけだ。
 世の中を仕切るということは、きれいごとじゃできないはずだ。

 清廉潔白は誰しもが憧れるところだけれど、そういう人物を歴史上に見出すとき、たいがいは進退きわまって、自分の道に殉じて儚くなってしまうことが多い。
 変節すれば歴史には残らない。自分の道を全うする、その誰もができない潔さに人々は感動するのだけれど、その人本人は、存在することができずに滅んでいく。

 思想家はそれでいいかもしれないけど、政治家は、現実に何をどうできるかが、すべてじゃないのか。
 そのもの本来の在りよう、本質を見失って、すべからく、世にあまねく生業(なりわい)の人々をきれいごとだけの、美談の型に、一元的にはめ込むことは、いったい正しいことなのか。

 清濁あわせ呑むことができる人物でなきゃ、こんな有象無象のひしめく世の中を、仕切っていくことなんて、できやしないのだ。


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月青くして

2010年09月20日 02時00分00秒 | やたらと映画
 もうじき仲秋の名月である。新暦の9月15日がそうだと勘違いしている方も多いが、あれは旧暦の八月十五日の月を愛でることを言う。新暦の15日は十五夜になるとは限りませんからネ。
 それが、また面白いのだけれど、今年の仲秋の名月は満月ではない。月齢13,7日。
 十三番目の月、プラスすることの一日弱。
 翌十六日が月齢14,7日で、いちばん満月に近く、望月となる。この日は今年、2010年9月23日、秋分の日である。
 だから、今年の仲秋の名月は、十四番目の月を愛でることになる。

 …と、文中に数字が出るとつい読み飛ばしてしまうという性癖がある私は、ソロバン勘定ができないのだが、最近……突如、昨年から将棋の棋譜を読む、というわが人生始まって以来のあり得なかった状況を志向するようになって、少しはこんな数字にも関わってみようかという、勇気が湧いてきた。

 高校のとき、英語の先生が映画『月蒼くして』の話をしてくれた。先生はそのタイトルからロマンチックなストーリーを期待して観たのだが、とんでもなくドタバタで変なコメディ映画だった、と言っていた。英語で「ブルームーン」は、あり得ない…という意味合いらしい。
 ところで、その映画とは別の、タイトルは忘れてしまったけれど、一世を風靡した作曲家リチャード・ロジャースと組んで名曲を輩出した、作詞家のロレンツ・ハートの伝記のようなバック・ステージものの映画があった。
 ハートが作詞した「ブルー・ムーン」という切ない、ジャズ・ナンバーが流れる。
 お酒にのめり込んだハートが、「愛する人もいないのに…」とかいう、絶望的な歌詞だったように記憶しているのだけれど、改めて調べてみたら、そうではなかった。

 昭和の終わりごろ、今はボウリング場になっている、たしか、荻窪オデヲン座で、版権か何かが切れるという関係で、MGM黄金期のミュージカル映画特集をやっていた。観客が私以外に一人か二人しかいなかった。「オズの魔法使い」の子役の印象が強かったジュディ・ガーランドが、成人してボーイッシュで格好よくなっていた。
 「イースター・パレード」「バンド・ワゴン」「ショー・ボート」…etc. アステアは当然すばらしくカッコいいのだが、シド・チャリシーが美しかった。淡いブルーの半袖セーターに白いスラックスというスタイルを真似した。その時分、私は、クラリネットを吹きながらタップを踏める寄席芸人、というのを本気で目指していた。

 …で、その後、三味線弾きに成りたいがため妄執の鬼となって婚家を出奔し、荻原井泉水の「空を歩む 朗々と月ひとり」という句を、二十代前半、心の拠り所として生きてきた私は、月を愛でることひとかたならず、白居易の「三五夜中の新月の色、二千里外の故人の心」…さんご十五夜の、地平線から顔を覗かせて、生まれたばかりの月を見ていると、遠く離れた僻地へ左遷されてしまった友人はどうしているのだろう、何を想って今頃、あの月を見ているのか……。
 ……そういえば、バブルの頃、シンデレラ・エクスプレスとか言って、遠距離恋愛が流行って(景気がよかった、つまり経済活動が世の中全般で活発で、全国的に商売の手を広げた会社が多く、支社が方々に出来て、それで転勤が多かったわけですけれども)、遠く離れた別々の場所で、同じ時間に同じ月を見よう、とかいうロマンチックな話をよく聞いたけれども。
 …そんなふうに、漢詩を読んでしみじみとしたいところなのであるが…。

 ちょっとまだ暑くて、先週あたり、新しくミンミン蝉が生まれて鳴いている状況下で、玲瓏たる青い月を称える、というすがやかな気持ちにもなれない。
 そこで、今時分の季節感を表した長唄ってなんだろう…と、思ったところ、そうそう、ありましたョ、♪頃しも秋のならいにて、続く霖雨のやや晴れて~~という歌詞の曲が。

 明治12年に作曲された長唄「筑摩川」。
 加賀藩に起こったお家騒動をテーマにしたお芝居の、秋の大雨で川水が増して凄い状況になっている筑摩川を渡る、その機に乗じて、殿様を暗殺しようという場面に使われた大薩摩の曲。
 雄渾勇壮たるロック魂にあふれた名曲で、芝居に使われる下座音楽のいいところを盛り込んでいるので、これを一曲やると、時代物の歌舞伎のBGMの心得がつく、短いながらも何ともいえずカッコいい曲なのだ。
 だんまりなどで使われる「木の葉落としの合方」、「凄みの合方」、合戦の雰囲気の「初月の合方」や、海や波の景色で使われる「千鳥の合方」。…たぶん、この「チドリ」は、そんなに邦楽のことを知らないお方でも、けっこういろいろな折に、耳にしているメロディだと思う。無声映画や女剣劇が流行った頃、「にわかに起こる剣戟の声~!」という弁士の言をキッカケにして、♪チャンチャンバラバラ…とBGMが入る、あの旋律だ。

 その、川水が渦を巻いてものすごい状況になっている場面は、今のようにSFXというようなものもなく、なかなか芝居の大道具で具現化するのが難しいから、視覚に訴えるのではなく、聴覚でその世界に迫っていこうということで、音楽表現がどんどん凝っていった。
 歌舞伎のBGMが簡素にして素晴らしい表現力を持っているのは、そんなところもあると思う。音を聴いて、その意図する世界を自分の身の内に感じ取り、生み出すことができる、観客側も感受性と想像力が豊かなのだ。

 そういえば、絵にも描けない美しさ…だったものが、もう世の中にはなくなり、想像したものがそのまま映像化され、目の前に広がっていくという、凄まじい状況になっている。
 すばらしいことでもあるのだが、これはある意味、人類にとって、不幸なことなんじゃぁないだろうか。

 だって、目に見えているのに、実際に自分たちの肉体でもって、現実に創出したものではないからだ(もちろん、制作者側は夜を日に継ぐスケジュールの下、肉体を酷使して、その映像を世に生み出すのだが)。
 存在していないもの。本当にあるものではないのに、まったく本当としか思えないように存在している二次元世界…、いや、三次元になりつつある、可視という状況。
 …本当はないのに。現実にはないものなのに、目の前にあるというのは、ある意味、地獄だ。絵に描いた餅。すべてまぼろし。
 目の前にひろがる風景は、錯覚でしかないのに。

 音楽は、人間の想像力の「最後の砦」と、なり得るか。

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和井内貞行

2010年07月27日 01時50分00秒 | やたらと映画
 ウナギの完全養殖が成功したというニュースは、この春、報じられたものだが、今日は土用の丑の日。朝のニュースで再び取り上げられていたのを、二回も聞いた。
 養殖といえば、和井内貞行。明治時代、生き物が棲まない清流であった十和田湖で、たいへんな艱難辛苦の末、ヒメマスの養殖を成功させた。団塊の世代の道徳の教科書には、必ず載っていたらしい。

 とはいえ、私が和井内貞行を知ったのは、今から十数年前、京橋のフィルムセンターで伊藤大輔監督の『われ幻の魚を見たり』を観て以来である。
 道徳の教科書が採り上げる偉人伝は、各時代の治世者の思惑を映して、いろいろ変わる。日頃何かとお世話になっている団塊の世代である恩人夫妻に、お茶を飲みながらその映画鑑賞模様をレポートしたら、あら懐かしい!ということになり、その面子での飲み会を以後「和井内会」と命名するに至った。
 昭和40年代の小学校の道徳の教科書には、和井内貞行はもう載っておらず、タイタニック号から救出された一人の日本人に関する逸話が載っていたように記憶している。
 今や、学校では、道徳の授業自体が無くなってしまったそうだけれど。いくら自由とはいえ、無垢なるものに道を示さなくちゃ、無軌道になる一方でしょうにねぇ…。

 和井内貞行を大河内傳次郎。小夜福子が内助の功を発揮させる奥方役で、いつも夜なべ仕事にお裁縫をしている。
 「オドサンは、この針のようなもので、私はその針に通した糸のようなもんだ。オドサンのあとをどこまでもついて行きます」というような意味のことを南部弁で言って、養殖に失敗し八方塞がりになるたびに、大河内和井内を励ますのだった。
 しかし、ストーリーがあまりにも辛気臭く進行していくので、途中、私の前に座っていた妙齢のお嬢さんが席を立って出て行ってしまったほどだ。
 戦前から子役でおなじみの片山明彦が、日露戦争に出征する長男の役をやっていた。

 いつものように、放流したヒメマスが戻ってこないか湖を見張っていた大河内和井内のもとに、長男の戦死公報が届く。湖のほとりの見張り台で失意のどん底にいる和井内の眼に、きらめいて増幅していく湖のさざ波が映る…長男の英霊が導くかのようにヒメマスもまた、十和田湖に戻ってきたのだった。
 生き物が棲まないと言われた十和田湖で、初めて養殖が成功した瞬間である。

 もはや、観客は、ここに至るまでの地味なエピソードの長回し、辛抱を要する延々たる鑑賞時間をすっかり忘れて、滂沱の涙。伊藤大輔監督はやっぱり偉大だ、と思い直すのだった。

 大河内傳次郎は、私が生まれた年に亡くなったので、当然、リアルタイムでは観ていない。しかし、映画というのはそういうところが実に有難くどえらいもんで、同時代に生きた者にしか分からない舞台での芝居と違って、フィルムのなかに閉じ込められた時代の空気を、銀幕が再現してくれる。
 映画をライヴとして観ていたい私は、よっぽどのことがない限り、一作品を一回しか観ない。
 そんなわけで、昭和後期から平成ひとケタ時代、十代後半から三十代前半にかけて、昭和時代の映画黄金期の、いわゆる古い日本映画を浴びるように、際限なく観ていた。

 大河内傳次郎は、昭和の多くの家庭で愛されていた俳優で、彼の死後生まれ育った子供世代にも、彼に対するシンパシィがいつの間にか醸成されていた。
 日本テレビの「笑点」で、林家木久扇が持ちネタにしている物まね。
 「ホノホノ方…」は忠臣蔵の長谷川一夫・大石内蔵助。「ごぉくろうさぁまぁ…」は木久蔵の師匠・彦六の正蔵師匠。そして「シェイは丹下、名はシャジェン」が、われらが大河内の丹下左膳である。

 私の大河内びいきが形となったのは、切れ切れのフィルムでしか残っていなかった『大菩薩峠』の御簾斬りシーン。大河内机龍之介の着物の裾が映っただけで、ものすごく怖かった。凄み、というのは人の形相を写さなくとも表現し得るのである。着物の裾が、とにかく怖かったのだ。
 対極上にあるけれど、清水宏監督の『小原庄助さん』も、大河内が大河内らしくて、大好きな作品だ。

 もう二十年以前になるが、嵯峨野の青竹の林を抜けて、初めて大河内山荘を訪れたとき、あまりに懐かしい、記憶のなかの昭和の家がそこにあって、私は思わず泣いてしまった。そしてまた、大河内が心血注いで丹精した屋敷内を手放すことなく、維持し続けている、そのご遺族の心遣りにも。
 どんなに栄華を誇った映画スターでも、本人が亡くなるとその資産はちりぢりバラバラになってしまう。グロリア・スワンソンが出ていたあの怖い映画が表徴するように、無残に散逸してしまう。
 しかし、大河内山荘は違った。それを、遺族が、故人が愛した庭を守っている、そのこころざしに、どうしても私は、あの懐かしい昭和の面影が残っている山荘を訪れるたび、それを想い起こしては泣いてしまうのだ。
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火縄くすぶる…

2010年07月15日 16時20分00秒 | やたらと映画
 …そんなわけで、ワールドカップに気を取られて、あっという間に7月初旬は過ぎていった。……実際に観た試合は3試合ぐらいしかなかったのに、どうしたことだろう。
 人間、何事かに囚われると、時間はアッという間に過ぎていく。海中で竜宮に囚われた浦島しかり、山中で童子の碁に囚われたきこり然り。
 気がつけば、入谷の朝顔市も、四万六千日ほおずき市も、いつの間にか終わっていて……とはいえ、私自身、何事かに常に心囚われて(それが芸道のことだけなら苦労はないのだが…)上の空で日々を送っているので、こういった行事も気が向いたときに、しかも思い立ったときにしか行かないのであるが……東京はお盆になっていた。所用で出かけた市ヶ谷駅近辺は、靖国神社のみたま祭で、すごい人波だ。
 
 7月14日は、パリ祭である。…といってもどうやら、これは昭和に映画『巴里祭』を観た人にしか共感を得られない、日本特有の言葉らしいのだ。
 フランスの革命記念日で、ツール・ド・フランスも開催される。…サッカーの次は自転車かぁ…と、気分だけ渦に巻き込まれている私は、めまぐるしく想いながらも、淡い空色の南フランスの海が描かれた、ラウル・デュフィの窓辺の絵を思い浮かべて、うっとりする。

 フランス革命といったら1789年で、これは歴史の先生が「火縄くすぶるバスチーユ」と、覚えることを教えてくれた。だから私のヨーロッパ近代史は、この覚えやすい年号が基点となっている。
 ほかに印象的なのは、知人が、1234年に中国で「いち、にぃ、さん、し、金、滅ぶ」というのも教えてくれたが、これは、中国の数ある王朝で彩られた悠久の歴史を覚える基点とするには、どうにも脈絡がない。

 …そしてフランス革命といえば、昭和の世では『ベルばら』。
 しかし、生憎と、我が家には「寛政異学の禁」に似て非なる「小学漫画の禁」ともいうべきお触れがあり、気安く自宅で漫画が読めなかったのだった。親戚のお兄さんが少年サンデー、少年マガジンなどを購読していたので、遊びに行くと読んでいた。小学生の私は少年漫画に明るかったのだ。
 その小学高学年時代に、私が革命を起こしたのが「少女コミック」別冊号から週刊誌へなし崩し計画、というものである。どうしても読みたい、と思えるものだけを、決死の覚悟で手に入れてくるので、「勧進帳」の弁慶のように鬼気迫っていたらしく、父は富樫になって関所を通してくれたようだった。
 漫画雑誌も、各社それぞれ色合いがあり、私は断然、小学館の「少女コミック」だった。第一のごひいきは萩尾望都。大島弓子、竹宮恵子にも心かき乱された。池田理代子の『ベルサイユのばら』は、読んでいなかったのである。
 『ベルばら』が連載されていたのは集英社の「週刊マーガレット」で、私は同誌を、幼稚園児だったころ、グループサウンズ黄金時代に購読していた。ザ・タイガース(ジュリーではなく、断然、トッポのファン)の巻頭グラビアが載っていたのである。
 毎週発売日に、五十円玉を握りしめて書店目掛けて一心不乱に駆け出していく、バサラ的幼稚園児。…すでに異形の者。
 常に何かに囚われている私の原点は、ここなのかもしれない。オソロシや…。

 そういうこともあって、ベルばらにハマりそこなった私は、宝塚の舞台も、一度も観たことがない。
 しかし、中学時代の同級生で、ものすごく『ベルばら』好きの友人がいて、「絶対にこれは、ものすごくよくって、ものすごっく、面白いから!!」と、レコードや写真集(そのころはビデオがなかった)など、ベルばら関連のすべての資料を私に貸してくれた。
 彼女はバレー部のキャプテンで、バリバリの体育会系スポーツウーマンで、そのようなものに興味があるとは知らなかった。その迫力に度肝を抜かれた私は、「へぇ…そうなんだ」と、遠慮申し上げる言葉もなく、押しいただいて拝聴、拝読した。
 だからいまでも、観たこともない「♪ああ、愛あればこそ」とか、宝塚の『ベルばら』の曲が歌えるのだった。

 それよりも何よりも、『ベルばら』が舞台化されるにあたり、当時もっともビックリなニュースだったのが、あの、長谷川一夫が、演出を手掛ける、ということだった。
 明治末期から大正生まれのバアサマには唯一無二の存在ともいえる映画俳優である。

 以前、出稽古に伺っていた永福町のご隠居。結婚前はモガで鳴らして、銀ブラして家に帰ると不良といわれ、母親にえらく叱られたという、そのご隠居様は、長谷川一夫のご贔屓で、戦前の林長二郎時代の「雪之丞変化」を、週に五回観に行った、と言っていた。
 たしかに、セピアカラーのフィルムの中の、若き日の細面で白塗りの長谷川一夫は、20世紀末ギャルの私の目にも、花なら蕾というような、ハッとするような男前だった。
 …当家のバアサンはある時、高田浩吉にくらっと来たが、ジイサンにたしなめられたらしい。そのバアサンは、長谷川一夫のいかにも…という秋波が、好きではなかったようだ。なにしろ水戸黄門は、月形龍之介じゃなくちゃ、という渋好みだったからなぁ。

 ……と、くすぶるのは、火縄どころか、記憶。「ラ・マルセイェーズ」のメロディが、頭の中でぐるぐるする映画は、『カサブランカ』だっけ? イングリッド・バーグマンがやっぱりヒロインだった『誰がために鐘は鳴る』は…スペイン内乱だから、違うか。

 革命記念日が日本にないのはなぜだろう。

 …それよりも、ここへ来て初めて気がついてギョギョッとしたのだが、フランス革命で火縄銃って、さすがに、もはや使ってなかったんじゃないかなぁ。
 ……気になる。

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観戦地獄

2010年07月03日 05時50分00秒 | やたらと映画
 邦枝完二の『お伝地獄』を想い出すとき、横浜は黄金町のシネマ・ジャックを想い出す。
 …といっても、この小屋で映画化作品を観たわけではない。黄金町の一つ手前の日ノ出町駅で降りたとき、大岡川の橋のたもとに、高橋お伝が昔この辺りに住まいしていました、というような案内板を見たからである。
 映画自体は、新東宝のと大映のと、両方ともビデオかCSで観たと記憶している。
 昭和の終わりごろ、講談社から刊行された大衆文学館の文庫本シリーズで原作を読んでから、ビデオか何かで映画を観た。
 講談社は、さすが「キング」の雄弁会、講談全集とか落語全集も手ごろな文庫版にして再刊行してくれて、私はずいぶん読みふけったものだった。社会思想社の現代教養文庫のマニアックなラインアップとはまた趣を異にした、かつて大ヒットした読み物を収録した大衆路線なんだが、昭和の終わりにはすでにマイナーになっていた大衆路線、とでもいおうか。

 リアルタイムの新東宝映画は、子どもにはご法度だった。昭和のご家庭には必ず一人はいた、明治生まれのバアサンの言う「俗っぽい」基準というのは、結構的を射ている…と大人になってから気がついた。
 のちに、浅草は田原町の、友人の事務所の近所の黒船神社に行ったとき、大蔵貢が寄贈した、ものすごく立派な石碑が建立されていたのを発見して、驚いたものだ。時代時代の分限者が勧請した灯篭や狛犬、石碑をしみじみと読むのも、神社をお参りする愉しみの一つ。あれからやはり20年近く経つが、まだ在るかしら。

 さて、この『お伝地獄』、お伝自身の数奇な運命を指して地獄と言っているのか、毒婦・お伝に翻弄された男たちの境涯をして地獄と言っているのか…さて、どっちだろう。
 ……両方??

 このところ、年とともに集中力が減退してしまったのか、興味が失せたのか、TVでのスポーツ観戦ができない。チャンネルを合わせてみても、何か別の用事をしてしまうので、結局いつの間にか試合が終わっている。
 映画館で、冒頭の本編への導入シーンを二、三分観たまま爆睡して、気がついたらエンドロールが流れていた、というのに似ている。
 昨晩も、今日も今日とて…という塩梅で、W杯のオランダVSブラジルのカードを、後半42分時点でアナウンサーの、このままブラジルは負けてしまうのか…という悲鳴に近いようなキーワードでハッと気がつき、つけたまま放置していたテレビモニターを注視することになった。
 …で、結局そのすぐ後のハイライトシーンを観たのだが、拍子抜けするほどそそくさと番組は終わり、…おぉそうだったのか、オランダが勝ったのか、それにしても、優勝予想オッズ第1位であろうブラジルが負けたというのに、せっかちな番組の終わりようだな、と、ぼんやりとしていると、ウィンブルドンの生放送が始まったのだった。
 ひええ~これは、うっかりしていると、永久にこの観戦地獄から抜けられないゾ。NHKもご苦労なこった。ひょっとすると、さらにそのあと、ウルグアイ・ガーナ戦が控えているのでは…。

 パソコンのソフトは作業経過を23%としていて、まだまだ終わりそうにない。そのまま放置して、寝ることにした。
 土曜は稽古がある。寝不足では声が出ない。

 ところが、これまた年のせいか、気にかかることがあるせいか、眠れない。観戦しなくても眠れない。不眠地獄。…それじゃ、ダメじゃん、おんなじじゃん。

 スポーツ観戦地獄…。
 幸い私は免れましたけれどもね…。
 
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