長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

さらば、寅歳。

2023年01月21日 23時55分20秒 | 稽古の横道
 武蔵野邦楽合奏団主催の「浮世絵とたのしむ和の音色・舞踊」公演は、大盛況のうちにお開きとなりました。
 ご来場くださった皆さま、舞台を支えて下さった皆さま、お気にかけて下さった皆さま、総ての方々、廻りあわせの森羅万象に感謝しつつ、まだ残る諸事を顧みつつ…一先ず御礼申し上げます。

 嬉しい余韻をいだきつつ、週明けに三味線体験授業へ赴きますれば、またうれしいめぐり合わせが。
 コロナ禍の影響もありましょうか、知らない人が居ると教室へ入ってこられない生徒さんが、廊下で私どもの授業の様子をうかがっているうちに、いつの間にか教室へ入ってきて、一緒に三味線を弾いていたり、
 聴覚過敏で、日頃はヘッドフォンをつけている生徒さんが、何も着けずに三味線にチャレンジして、我らが家元・杵屋徳衛の、長唄の唄い方、演奏の仕方で奏でた「さくらさくら」に目を輝かせて、すごい! と絶賛下さったり、

 悲しく暗いニュースに覆われた西暦2023年頭の日本国を思うたび胸が痛みますけれども、…ぁぁ、人生はそう悪いことばかりでもなかったなぁ、と、初春らしい清やかな風の匂いに、新たな年の到来を感じます。

 寅年に生まれた徳川家康が遺した「御遺状百箇条/ごゆいじょうひゃっかじょう」に、

  謡歌音曲は羽林の所業にあらざれども
  時として鬱情をのべ 太平を賀するの和楽なり
  年月序節に及んで また 廃すべからざる事

 という一文があるそうな。

 文化・芸術が人間に与えたもう効能を、ゆめゆめお忘れめさるな、かたがたよ。

 さて、今日は旧暦の令和四年十二月卅日。
 本当の本当に、大晦日です。

 次の寅年に、また廻り逢えるか分かりませんが、(12年は短いようで長いようで…)今度会ったらまたよろしくね。
 おやすみなさいませ。

 明ければ〝癸卯/みずのとう″の歳です。



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松庵梅囃子

2022年05月28日 07時04分10秒 | 稽古の横道
 朝から篠突く雨に襲われた武蔵野一帯も、昼過ぎには雲間から薄日が射してきた。
 三度目の宿替えをして檸檬樹の上層へ巣を張り直した一昨日は、洋々とベランダ空間を睥睨していた蜘蛛が、今朝から姿を消し、些か意気消沈していたところ、気を変えてこのところの案件であった着物の手入れものを出しに、中野行きのバスに乗ったのが八つ半。
 五日市街道から西荻窪の商店街へ入る路地のほど近く、長年お世話になっているK染み抜き店さんへ、コロナ禍で久しぶりに伺うため、お電話したところ、御主人がこの彼岸に急逝されたと聞き絶句する。抗癌剤治療から帰宅しても伏臥せず仕事机に向かっていたというおかみさんのお話を伺い、職人気質を偲びお線香を上げさせてもらった。生前いつも坐するお姿をお見掛けした作業台の後ろ壁が白い。

 そのまま日常の営みに戻る気にもなれず、駅へ向かわず五日市街道へ返し、T和菓子店さんへ、みたらしと磯辺団子、大好物のすあまが一つだけ残っていた残福。それから松庵稲荷を対岸から拝し、日々の食料を求めるべく井の頭通り角のМ浦屋まで逍遥する。
 学生時代の昭和五十六年からの数年間と、平成三年から廿一年までの累計すればざっと四半世紀のあいだ杉並区民であったので、先年、『地方自治の先駆者 新井格』という戦後の初代公選区長の日記を入手したほどに、JR線の西荻窪から井の頭線の三鷹台辺りまでの、住宅地というほど建て込んでおらず、農地も多く空が広い、この土地には愛着がある。

 「6月19日は杉並区長選挙です」という広報ポスターの掲示板を通り過ぎ、選挙のたびに訪れた松庵小学校の東側の道を通って…そういえば何度目の都知事選の時だったか、この場所で出口調査を受けたことがあった…梅の実は生っているかしら、と、足が早まった。
 買い物は口実で、実を言えばこの散策の一番の目的は、梅林の様子が見たかったのである。

 松庵に住まいしていた十数年の間、最寄り駅ではなく、遠回りして私鉄沿線の駅へ出る、通り過ぎるだけの農地の一画ではあったが、そこに在った梅たちの姿を見るのが好きだった。
 寒明けの雨にそぼ濡れた枝々の凛々しさ。
 星かと見まごう白い莟が、屹立する樹々に鏤められ、薄闇の中で輝いている、早春の宵も値千金。
 言うに言われぬ、咲き初めた梅が香の清々しさ。
 生い茂る葉の緑に青梅がつき、やがて零れる実のやや熟れた芳香も捨てがたい。
 まこと、あの梅林がある一帯は桃源郷の如き趣きを醸し出していたのである。

 かの名高き、ゴッホまでもが模写した廣重「名所江戸百景」の亀戸梅屋舗、それが現世に顕れ給うたのが、わが心の松庵梅ばやしであった。

 それが…それが、である。
 久しぶりの再会に胸を高鳴らせていた私の目の前に開けた景色は、一本の木もない、赤茶色の造成用の覆土に、緑色(!)に塗られた薄べったい盛土状の中心部を持つ広場であった。
 申し訳程度に灌木があしらってはあった。が、しかし………
 あの美しかった梅林が、かくも悪趣味な得体の知れぬ空き地に変容していようとは…
 私は愕然として「松庵梅林公園」と書かれた傍らの定礎を眺めた。
 
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雨やどり

2022年04月19日 02時23分52秒 | 稽古の横道
 居残り組の"いのどん"が羽化したのは、雨の日の月曜日、未だ1970年代を棄てられない庵主は決まってカーペンターズの歌を口ずさむ。

  空く蛹 残るサナギも開くサナギ

 花鳥風月に思い致せば、誰でもが俳人だったり歌人だったり。
 オリジナリティが生じるほど修業をしていない日曜歌人は、いつかどこかで聞いたような句のもじりで茶を濁す。
 一頭だけ残った蝶はチョウではなくて半だわね、などと昔聞いた古しえ人の噂話を想い出しつつ。



 瑞々しい緑色の外殻がハトロン紙状に変わって三日、愈々油紙ほどに透けてきて今日か明日かと待っていたが、四段目の由良さまか、中々姿を顕さない。



 庵主は塩谷判官になったり、寝所に忍び込む五右衛門のようにサナギの呼吸を計ってみたり…揚羽蝶のうしろの百太郎であったかと思えるほどに、その数日、サナギの背後の空間に潜んでいた。

 その後ろ蔭の明子姉ちゃんが、月曜午前中の雑多な諸事に気を取られている隙に、飛雄馬は独りでgrowing up していたのだった。



 羽化後、翅を延ばすアゲハチョウの映像はこちらに…☟

https://youtu.be/ovADPUWwdAs

 くるりん、と巻いていた下羽の裳裾も気がつけばピンと伸びて、翅だけではなく口吻も巻いたり伸ばしたりして可愛いのである。赤子がおしゃぶりを咥えてバブーなどと発する様か、口先三寸どころか、三厘ほど二股に分かれているところも恐ろしい。







  …チョウチョなりけり またトンボなり
   羽化に弱みは見せまじと ピンと拗ねては背を向けて くねれる翅と出て見れば…



 外気の湿気が旅立ちを躊躇わすのか、降られて居残る遣らずの雨。
 朝の六つから日の暮るるまで…とは堪忍え、と庵主は一足お先に、ちゃっとゆこやれ、用足しに。
 道すがら、彼の今宵の宿りはあの方か…





 二刻後、思い差しなら武蔵野でなりと…もぬけの殻と思いきや、
 かいどりしゃんと、シャンシャンともしおらしく、すっかり雄々しいアゲハの成虫に。
 




 …なれど、雨にけぶる雑木林に、街燈のほの見えて
 井の頭の里の黄昏に、迷いの色は捨てしかど、濡るる春雨に忍びかね…
 賤の軒端に佇みて…一樹の蔭の雨宿り。



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香華

2021年07月13日 23時00分10秒 | 稽古の横道
 東京はお盆である。
 お弟子さんに、お家では旧盆でなさるの? と訊いたらキツネにつままれたような怪訝な顔をされたので((。-人-。) ゴメンネ)、はっとした。
 弟子の疑問点を説くのが師匠の務めである。
 
 もともと、お盆は七月十五日を中心とした祭り事なので、太陽暦を採用した明治五年(1872)十二月三日=明治6年(1873)1月1日以降、帝都たる東京府民は、従来通り日付を変えることなく新暦でも7月15日にお盆行事を執り行った。
 2021年現在、お盆の行事をどの程度まで日本国民が踏襲して行っているのかは知らないけれども、六十余州のほとんどが旧盆と呼ばれる新暦8月15日の盂蘭盆会をメインイベントとして、翌十六日の藪入りの習慣は廃れることなく、お盆休みという休暇の体系は続いている。
 この旧盆の習慣は、1945年8月15日の終戦をもって鎮魂を祈る日となってから、ますます精霊祭りとしての存在意義を深めたものではないかと思う。



 盆の十三日というと、「新三郎は今日しも、盆の十三日なれば、精霊棚(しょうりょうだな)の支度などを致してしまい…」三遊亭圓朝『怪談牡丹灯籠』の一節がついと口を出る。
 私の歳時記は、子どもごころに覚えた昭和40年を中心とした当時の関東地方の習俗から成り立っている。水府の在にあった実家では旧盆の祭礼を行っていたが、旧幕時代からの江戸定府が無意識下の身上となっているのかは知らねども、親類で東京に居を移し仕事をしている者も多かったので、両盆遣い(?)なのである。
 そしてまた、私が最初に嫁いだ家は、昭和9年生まれのお姑さんがきちんと戦前からの東京の風俗で家庭を切り盛りしていたので、何も知らない学生のまま貰って頂いた私は、とてもいろいろなことを教わった。今でも有難く申し訳なく思う。
 
 寄席は都会の文化である。私がその雰囲気に身をもって浴していたのは昭和50年代から60年代の昭和の終わりであった。
 谷中の全生庵へ応挙の幽霊を拝観し圓朝のお墓参りに伺った折も、御命日ではなくお盆の時分だったのではなかったか…いや、お盆は施餓鬼で忙しく、お寺側が訪客に対応できないだろうから、やはり8月に伺ったものだったろうか……最早40年以前のことで、記憶がおぼろである。日本経済は最高潮となりバブル期を迎え、みな忙しく働いていた時代だったので、ゆかりもないお寺へ独りで詣り書画を観覧するという、時代の片隅で趣味に生きているような人間は居らず、私は思うが儘、全生庵の情緒にひと時を過ごした。ほとんど誰もいない境内の土と陽射しが白っぽかった。百日紅は咲いていただろうか。

 まだ梅雨の明けやらぬ7月初旬、姑は早起きをして下谷の朝顔市へ出掛けた。(そういえば四季折々の物見遊山、長命寺の桜餅、羽二重団子や言問団子…外出の度に名所旧跡のお土産を頂いた。ご隠居は次世代に文化を繋ぐ担い手であったのだ)
 谷中へ墓参がてら「谷中を売ってたのよ」と、土産物の谷中生姜を持ち帰る。たぶん私はそのときキョトンとしていた。父が晩酌に葉付き生姜に味噌をつけて肴にしていたその生姜を、谷中と呼ぶと初めて知ったのはそのときだったかも知れない。

 四万六千日の浅草寺のほうずき市は、押上の友達とよく出かけた。何かというと仲見世、六区界隈を練り歩いていた。だから、未だに昭和の浅草の街並みの匂いと取り留めもない景色の記憶が、私の頭を占領している。



 都内は、10日か11日ぐらいから、街なかのスーパーや百貨店、八百屋さんの店先に、お盆の季節商品である苧殻(おがら)や、苧殻と枝付きの酸漿(ほおづき)を束ねたものが並ぶ。いよいよお盆の支度である。
 7月11、12日は、精霊棚の飾り物である、草花類や作り物の朝市が戦前にはあったそうで、盆市とも草市とも呼ばれたらしい。
 (近年見られなくなったので事のついでに言及すると、植木市は、都内各所の公園でしょっちゅう行われていた。私がよく憶えているのは様変わりして見る影もないが、平成ヒトケタ時代の南池袋公園の植木市。グリーン大通り郵便局がまだ横丁にあって、現代風芝居小屋が連なる通りのお寺は藪の中に在った)

 草市(くさいち)という言葉は、ご存じよりの方々には長唄『都風流(みやこふうりゅう)』でお馴染みである。
 二十世紀版『吾妻八景』とでも申しましょうか、四季折々の東京の風物が景色とともに綴られている、錦絵のようなとても美しい曲。
 作詞者の久保田万太郎は、文学座の発起人である三人、岸田國士、岩田豊雄(獅子文六)のうちのひとりである。

 20代の時ほど新劇には肩入れしなくなっていた30代の私が、文学座友の会に入っていたことがあった。大河ドラマ『徳川慶喜』の時だった。気になった出演者のひとりが文学座所属だったので、アトリエ公演から本公演まで俄かに追っかけをした。しかし洋物のホンが多く、感情表現の起伏が激しく観るたび疲れてしまったので、足が遠のいてしまった。やはり私は太平楽な歌舞伎が性に合うのだ。
 たまたま観劇の折のアンケートに、〈上演を希望する戯曲〉という欄があったので、「大寺学校など、久保田万太郎の芝居」と書いたら、それがためばかりでもないと思うが、翌年、創設何周年かの記念公演で上演された。残念なことに見ずじまいだった。

 都風流は昭和22年の作品である。太平洋戦争で焦土と化した、喪われた東京の面影を偲んで作詞したものに違いない。
 今はもう、この世界に存在しないもの…への追慕は、創作意欲を駆り立てるものである。
 (そういえば、東京への集団就職というシステムが昭和の頃あったが、東京大空襲であまりにもたくさんの人命が失われて、本当に東京に都市機能を存続させるための人手が無くなってしまったので、誕生した仕組みなのである…という話を聞いたときは、怖ろしさに身の毛がよだち、吐き気がしたものだった。都市の歴史には悲しい記憶が沢山あるのだ。徒やおろそかに今の時代を生きてはいけないのだ)

 このところの東京も、第二次東京オリンピックで街並みがどんどん変わって…私は街角でしばしば立ちずさんで涙ぐむ。
 昭和39年の東京にも、もう一人の私が…同じ感情に涙ぐんだ人々がいたのだろう。(バックツゥザフューチャーの例えではありません)
 令和3年のお盆に、私は昭和の街並みを追悼する。



 さて、みどり丸たちが巣立ったので、次なる世話焼きの対象は檸檬の青い果実なのだった。



 せっかく実ったのを間引くのも忍びないので、臥龍梅に倣ってつっかえ棒をして、臥龍のレモンと洒落込もうと、今朝も新たな構想を抱きつつ枝ぶりを眺めていたら、なんと、新しい蕾がほころんでいた。



 お盆の朝に咲くとは、心がけのよい檸檬である。



【追記】
 ところで、前述の怪談牡丹灯籠、「…冴えわたる十三日の月を眺めていますと…」と続く。速記本が出たのが明治17年とのこと、やはり大圓朝自身は、旧暦の季節感が身に染みていたのだろうから、明治の御代になっても、江戸の暦で風物を、物語を描くのだろうなぁ…と思い馳せた。人間はどうしたって自分が実感できるものしか表現できない。いや、名作と呼ばれ幾星霜を経ても人々に愛される作品というものは、作者の実感を写したものである、ということか。
 その実感を共有して表現できる古典語りになりたいものである。
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めぐるメイヨー

2020年08月27日 09時45分33秒 | 稽古の横道
 20世紀につくられた、シルクロード紀行番組を偶々見た。
 砂漠の遺構群が、遥か異国への憧憬と旅情を思い起こさせてくれたのだが、たぶん、もう今では心無い人災や戦禍に見舞われ、時の流沙にさらされる以前に、失われてしまっているのだろうなぁ…

 日中共同制作…というキャプションが懐かしく、ぁぁ、そんな時代もあったね…と、しばしほのぼのしたのだが、記憶がまぶしく目に痛かった。
 1980年代中頃、横浜中華街への食い倒れツアーや、返還されて間もない米軍住宅跡地(マイカル本牧として新開発される以前でしたがその名称さえ今は昔)散策、新作が封切りされるたび連れ立って出掛けたジャッキーチェン映画の観劇仲間でもあった大衆読み物研究会の学生時代の友人が、日本語学校の先生になって、中国(どの地方か失念してしまったが)へ赴任した。
 土産話に、買い物に出かけると凡てがメイヨーであると、話し上手な彼は面白おかしく伝えてくれた。
 開放政策が軌道に乗る前までの中国は、商店にはほとんど全く何もなく(あっても見本だそうで)、店員さんは「メイヨー(無い)」と宣うのみ。
(売るものがなくても国家公務員なので、お店は開けなくてはならないそうなのです)

 赴任先で、文革の時代にはとても辛い目に遭われた画家の娘さんとご結婚なさって、一時帰国の折に、浦安に出来立ての東京ディズニーランドへ行きたい、ということでご案内した。
 感極まった彼女が目をキラキラさせて、中国には21世紀になってもこのようなものは出来ない!と叫んだ。
 
 それから私も環境が変わり、お目にかかることもなくなってしまったが、1990年代中頃、洋装のおしゃれはし尽して飽きてしまったような気がしていた30歳代半ばに、デパートに洋服を買いに行く度、延々と広がる膨大なアパレル売り場の…ぁぁ、これが、ここからここまでしかなくて、この中から仕方なく選ぶしかない…という状況だったらどんなに楽だろう…と、今思えば贅沢極まりない悩みに悩んでいたとき、かつて友人から聞いたメイヨー奇譚をしばしば想い出すようになっていた。

 1995年ぐらいからだったでしょうか、それまで興味がなかった中華電影に突如ハマった話は別稿に譲るとして、怒涛のような20世紀末をやり過ごそうとしていた2000年の夏、祖母の葬式の席で、私は意外な話を叔父から聞いた。

 理系の父方の叔父は重厚長大の典型的な電機系の大企業に就職し、1970年当時1ドル360円時代に社費でアメリカに留学したが、B型人間の定めか、上司と折り合わず退職した。しかし、手に職がある優秀な人材だったので、その企業の下請けのような、研究開発をするラボを起業し独立していたのである。
 その強気な叔父が、2000年夏、このところは委託され中国へ技術を教えに行っていると話し、技術供与で日本の電気機器技術の重要なところまですべて分け与えている、このままでは日本国内の産業はなくなってしまうと思う、と、怒気を含ませながら悲しげに語った。

 近江の鉄砲鍛冶の、筒一つの重要な研磨の秘術を絶対に漏らさなかった国友衆のことが頭によぎり、火葬場で祖母の焼昇を待ちながら私は、叔父の話に聞き入っていた。

 さて、時は流れて、2020年夏、昨日私は近所の量販店に、古びてしまった卵焼き器の代わりに、新しいテフロン加工の角型フライパンを購入するべく出掛けたのである。
 フライパンを展示するスペースが3列ほどもあった。
 しかし、そのすべてがmade in CHINAまたはKOREAなのだった。
 衰退し没落しつつある日本の産業を奮い立たせるべく、国産のものを買おうと思っていた私は混乱した。
 (そして一方で、国産と銘打たれている商品の多くは、技能実習生という名の下で安い賃金で酷使されている外国人労働者の手になるものであるとも聞いている)

 日本製のものを買おうと思ったのに、made in JAPANは、もはやメイヨーなのである。
 いったい日本の国はどうなるのでしょうねぇ。
 貿易が国際情勢に左右されるのは昔っから、分かりきっていることでありました。
 いざという時の備えなくして、何の国力でありましょうか。

 しおしおと空手で売り場を後にした私は、数分後、食料品売り場で、店員さんに「この間まであった商品がなくなっている、種類が減っている」と訴えている男性に出くわした。たしかに、輸入品は言わずもがな、このところの猛暑で、野菜類は品薄になっておりますね。

 20世紀に面白おかしく聞いた隣国のメイヨー噺を、21世紀のいま、自分の国で実体験することになろうとは、誰が思ったことでありましょう。
 時代を重ねれば進歩する…と思っていたのは20世紀の夢だったのでしょうか。
 科学が進歩しても、人間性が進歩するとは限らないわけですからね…
 そういえば、古典SFにして名作のウェルズ『タイムマシン』でも、遠い未来、人類は退化していますものね……
 
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解題新書(カブキの巻)

2012年06月26日 06時26分00秒 | 稽古の横道
 梅雨冷えのする六月下旬の、月曜日の午後のことである。
 美容室の鏡の前で家庭画報を渡されて、パラパラとページを繰った先に、白塗りの女形の写真が見えた。七之助だ。中村七之助と荒井文扇堂のご主人の対談記事だった。
 芸談というものは聴き手の技量でその面白さが左右される。
 さすが家庭画報だけのことはある、なるほどのセッティング。グッジョブ!…と感心しながら、あれはいつだったろう、それまでの印象とは全く違う、新境地とも言うべき七之助の、清冽な舞台にめぐり会ったときのことを想い出していた。
 歌舞伎座の八月の夏芝居。幕末の薩摩藩を描いた『磯異人館』。いい女形になったなあ、七之助…と感心したのだった。そのあとも彼の姿は幾度となく観ているが、あれほどの強烈な印象を植え付けられた役柄をほかに知らない。

 古典の作品だとどうしても、ほかの誰かと比較してしまうので、ひょっとすると私は、彼らがどんなに良い芝居をしていても気がつくことがなかったのかもしれない。
 あとから生まれた彼らは常にマイナスの評価をされることが前提であるだけに…翻って考えてみたら、諸先輩方が生涯かけて積み上げてきた高い山に挑戦するという――伝統芸能に向き合うという作業に、日々心してかからなければならぬ、可哀想な俳優なのだった。古典が洗練され磨かれていく理由はそういうところにあるのかもしれない、と今更ながら思い返す。
 最初からプラスの方向でしか評価されないのだとしたら、表現者というものはその時点で完璧ということになり、それ以上成長しない。

 ただ、世の中には、“感心する”芸と“感動する”芸の二種類があって、藝の巧拙とはまた違うところで人の心を揺さぶる事象に遭遇する場合もある。それがライブの面白いところで、記録媒体が介在したものでは感じ得ない、空間を一にしたものしか味わうことのできない事柄である。(…余談です)
 その芝居の概要もあら筋も、ほかに誰が出ていたかも、ほとんど覚えていない。『磯異人館』は私が七之助という女形と初めて出会った芝居、といっても過言ではない。子どものころから見知っていた中村屋の次男坊であったのに。

 七之助の「自分がやりたい役とお客さまが観たい役とは違う、ということに気がついた…」という談話をふむふむ、そぅそぅ、そーなんだよね、と、頷きながら読んでいたときのことである。
 「そういうの好きなんですか?」美容室の新人さんが私に問いかけた。彼女は先ほど「夏でもキモノって着るンですか?」と訊ねてきた子である。
 そりゃーあんた、夏だって人間生きてるんだからさ、昔の日本人は何を着ていたと思うよ?…なんて乱暴なことを言ったりはしない。10年ぐらい前だったかな、街角でふと耳にしたうら若きオトメ達の会話「ねぇねぇ、ユカタ着るときに履く小さい靴あるじゃない?あれがさ…」それ以来、アタシゃあ、たいがいのことでは驚かなくなっているのだ。

 さて「そういうの好き?」の質問に、彼女の意図するところと何をポイントに答えていいのか咄嗟に判断できなかった私は、とりあえず率直に、「うん、そうなの。こういうのが好きでよく観に行くのよ」と答えた。
 ふうううん、というような顔をした彼女は二の矢を放った。
「それって、何ていうんですか」
 おおおぉぉ、それか。そっちの根本的なところか。「これはね、カブキっていうのよ」
 あぁぁ、歌舞伎…と、分かったような分からないような…腑に落ちたような落ちないような呟きが伝わってきた。
 そのまま会話を終わらせるのも愛想がないような気がして、私は言葉を継いだ。
 「きれいでね、面白いのよ」
 「それって、男の人が女の役をやるやつですよね?」
 奇矯さだけでとらえられているそのイメージを、なんとかプラス方向に持っていく術はないものか…しかし多くの言葉を並べ正統な歴史をひもといた解説をしても、私の意図したことは伝わらないだろう。ただの面倒なオバサンになってしまうのも…つまり客層がそんな変人ばかりだと思われるのも、歌舞伎にとっては不憫である。
 「そうそう、男の人のほうが骨格が太くて造りが大きいから、舞台で見映えがして、そういう独特の世界が出来るのね…」
 今や女の人でも立派な体格の人ばかりだから、ちょっと違っちゃったような気もしたが、とにかく簡明に。ツイッターに倣い、140文字で収まり、かつ単純で明快に説明することにした。すると彼女から三の矢。
 「それって、宝塚と逆ですよね」
 「…あ、そうそう、そうだょね…」
 私は愕然とした。彼女たちにはもはや歌舞伎ではなく、宝塚のほうが基準となっているわけだ。そうか、このあいだからうすうす感じてはいたが、巷では…社会の大勢は、芝居というと歌舞伎ではなく、新劇でもなく、日本製のミュージカルになっていたのだ、いつの間にか。
 「むかしはね、職業的に…男の人しかプロフェッショナルになれなかったから、役者もみんな男だったのよ」
 「へえぇぇ」
 美容師さんも女性のプロフェッショナルの仕事としては嚆矢の部類なんだよ、と言おうとして話がややこしくなるのでやめた。
 「カブキって、歌舞伎町でやってるんですか?」
 歌舞伎町の成り立ち…以前、そこらへんでも地芝居をやっていたという話を聞いたような気もしたが、さらにややこしくなるのでやめて、
 「歌舞伎はね、歌舞伎座でやってるの。銀座のほうにあるんだけどね。歌舞伎町はね…前は新宿コマっていう劇場があったけど今はもうなくなっちゃってね、あそこはまあ、繁華街だわね。あと国立劇場とかでやってるよ」
 ふぅううぅん…と空気でこたえると、彼女はほかの作業のために去っていった。

 もう20年前に私が髪を結ってもらっていた昭和な美容院(室ではなくて、あくまでも、院)では、「うちの亡くなった主人が戦争に行ってた時、同じ部隊に黒川弥太郎がいてね…」なんていうおねえさんがたのお話を、素知らぬ顔をしながらきき耳立てて聴いていたものだった。
 いろいろ変わっていくものですね。美容室今昔物語。
 …そして私は、なぜだか俄然、燃えてきた。身のうちに何か、気力がみなぎって来た。障害があればあるほど燃えるタイプ、これです。

 そこはかとなく日本人が消えてゆくのを憂えている場合ではない。
 なぜなら、もはや日本人は絶滅していたからだ。ゾウ亀のジョージくんのように最後の一頭は特定できないが。本人たちが気づかないうちに。
 事態はここまで至っていた。継承なんて生易しいものではなく、もはや私たちは…“種まく人”になっていたのだ。

 考えてみたらそうだ。私が育ててもらった昭和という時代。あのころ世の中は洋楽が恐ろしい勢力で蔓延しつつあったが、関東地方にあった3局のFM放送局の内、NHKFMは当然としてFM東京でも頻繁に邦楽(純邦楽というべきでしょうか)の番組があったし、テレビでもラジオでも、筝曲や三味線の音色を聴く機会はふんだんにあった。
 私の中学生時代の恋敵、Sさんは大工の棟梁の娘で日本舞踊を習っていて、クラスのお楽しみ会には袴姿で凛とした舞を披露していた。(私はその美しい姿に、敵ながらあっぱれ!と万感な思いで拍手喝采したものだ)
 こう書いていると単語のすべてが前時代で、自分自身、セピアカラーの歴史の一部になっているような気がしてきた。

 そういう環境がなきゃ、生まれながらにして日本人じゃなくなってるのは仕方ない。もはや敵は欧米化じゃない。全世界的に、文化のグローバル化が進んじゃってるってことだ。
 コンビニやフランチャイズ店ばっかりで、駅前の商店街に個性がなくてつまらない、と、聞くようになって久しいが、文化もだ。何の疑いもなく、各国が同じようなことをやってるんだ。
 …おいら、負けちゃぁいられねえんだぜ。
 そして私は、絶滅種らしく…いや、らしからぬ態で、思いっきりジタバタしてやることにする。
 
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雪ゆきて、峠みち

2012年03月04日 05時06分07秒 | 稽古の横道
 2月28日、坪内逍遙忌。
 逍遙が晩年を過ごした熱海で、毎年、記念祭が行われる。
 今年は常日頃お世話になっている舞踊家の先生が、逍遙作詞の長唄「新曲浦島」を舞われた。凛々しく美しい。積み重ねた年輪の上に咲く藝は、毅然として揺るぎがない。

 そこから足を延ばして、かねてより行ってみたかった梅ヶ島郷へ、湯治がてら。
 はるか四半世紀以上前、受験の折の内申書に「柔和ながらも、竹のように一本通った強靭さ、しなやかさを持つ(…とか何とか)」と、担任の先生が加点して書いて下さったのをこっそり読んでいた私は、その評価をたがえることが無きよう、ことさらに潔きことを旨として、若き日を過ごした。
 
 ために、百花に先駆けて咲く梅へのシンパシィ並々ならず、徳川光圀またの名を水戸黄門(私は祖母の影響で月形龍之介が好きだったが、リアルタイムでは東野英治郎)の俳号が梅里だったため、杉並区梅里(落語「堀之内」でおなじみのお祖師様のそば)に住まいしてみたいと、願うほどだった。それゆえ、梅のつく地名にめっぽう弱い。

 安倍川の起点を有するその地から、身延へ抜ける安倍峠を超え、落語好きなら一度は訪れたい「鰍沢」へ寄りつつ、甲州路をたどり武蔵野へ帰るはらづもりだったが、先の台風で峠道は寸断され、車では通れないという。

 朝から雨。渓流のゴウゴウという水音が色を添えて、旅の空。
 そして…東京は大雪のニュース。
 
 …であるのに、テレビからの映像がとても現実とは思えないほど、昼前にすっかり雨は上がり、さわやかなブルーに縁取られた春の空は、駿河の道を朗らかに照らしている。

 東京はどうしているのだろう…ゴジラ襲来の如き災厄に見舞われた我が町が、ことさらに気にかかる。その里ごころに鞭打つように、東名高速道、一部不通の電光表示。

 どうやら山道がもう積雪でダメらしいのだった。
 東名高速道路を、歌舞伎・文楽好きならまたまた、ニヤリとせずにはいられない「沼津」で下りる。そこから初心にかえって国道一号線、東海道を江戸へ向かう。
 
 雲は東にながれ晴れ間の見える空の下、旧街道に近い箱根の峠越えは、右も左も雪だったが、路面はすっかり除雪されていて、管理者の手際の良さに、逆に労苦が偲ばれた。

 東京から、夏の箱根は皆がよく訪れる。箱根美術館の萩が、ことのほか私は好き。
 しかし、冬の箱根って…一度も来たことがないんじゃないかしら…。
 1950年代から1960年代にかけての日本の青春映画、そしてサラリーマン映画では、何かというと箱根にドライブする若者たちの姿が銀幕に映った。
 その終着点はたいがい芦ノ湖の、このビューポイントなのだった。

 自然は美しく雄々しく、我らはあまりにも小さい。
 しかしその小さきものの健気さは、万物に代えがたいほどに美しい。
 
 箱根峠を越えて。
 私は私の愛する町、東京へ向かった。
 
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朝はどこから…

2012年01月23日 01時23分12秒 | 稽古の横道
 2012年1月22日(日曜日)は、旧暦の平成廿三年師走廿九日で、大晦日だった。
 29日でも小の月だから、大晦日なのだ。
 かくも融通無碍なる日本の文化風土が、うれしくて面白くて…ニンマリしてしまう。

 たまたまこの日、富士山の程よい角度の南嶺へ、日輪が沈みゆくさまに立ち会うことができた。
 であるから、この写真は、太陰太陽暦・平成23年の、最後の日没なのだ。

 さて、そういうわけで、今日はめでたく旧暦の平成廿四年正月朔日。
 この表題は「朝はどこから…来るかしら」というメルヘンな命題ではなく、「朝はどこから…朝かしら」という、旧暦を使っていた時代の根本的なお話。

 昨年末に観た新作のお芝居の忠臣蔵で劇中「赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした、十二月十四日未明」という、ちょっと残念なセリフを耳にした。
 そそっかしさで、忠臣蔵というよりも会津の白虎隊になっちゃってますわね。
 これは明らかな間違いですね。
 未明というのは、いまだ夜が明けていない時間帯を差す。
 江戸時代は、朝になると一日の始まりだから、現行の時間感覚、午前零時を過ぎると日付が変わる、という概念はない。
 つまり、赤穂浪士が討ち入ったのは、吉良邸で茶会が催された14日の深夜であるから、正しくは15日の未明である。

 当日の記録から、江戸の人々がどのような日付概念を持っていたのか、うかがい知ることができる。桑名藩の江戸詰の家老の文書には、赤穂浪士が吉良邸へ討ち入った時刻を
 「昨十四日の夜八つ時ごろ」
と、記しているらしい。
 夜八つ、つまり丑の刻。今で言う、だいたい午前二時前後。

 落語「時そば」でおなじみで、蛇足でもありましょうが、念のため。
 日没。入相の鐘が鳴りますれば、これを暮れ六つ。
 それからだいたい2時間後が、宵の五つ。刻限表示の数は、増えないで減っていきます。
 さらに更けて夜四つ、亥の刻。だいぶ夜中ですね。現在の22時ごろでしょうか。
 亥から十二支の先頭へ戻りまして子の刻。ほぼカウントダウンな時間帯。これがどういうわけでか、九つ。
 さらに2時間ぐらい経って牛の刻、夜八つ。
 寅の刻ともなりますと、暁の七つ。
 …やがて、からすカァで夜が明けますと、明け六つ。明けの鐘がゴーーーーンと鳴る、と。 

 なんで大体…という表現しかできないかというと、このころは朝日が昇ると昼間で、沈むと夜。その二つに分けた区分を、それぞれに6等分して一日イコール十二刻を決めていたので、季節によって一刻の長さが変わるわけだ。
 むかしの時刻法は面白い。
 欧米化された現代の感覚で時代劇を料理しようとすると、思いがけない勘違いをすることになるから、当時の人々の考え方、概念というものを理解したうえで想像して、そっと思いやりつつ噛み砕いていく。

 そんなことをつらつら考えていたら、新暦の新年カウントダウンイベントで「あけましておめでとう」というのは、本寸法じゃないんじゃないかしら…と、はたと思い至った。
 だって、いまだ夜は明けていないのだもの。
 夜明け前は、新しい一日の始まりではないのだ。
 だから来年から、カウントダウンの時は欧米式に「新年おめでとう!」と言うことにしよう。

 時刻を読み込んだ文章というと第一に思い浮かぶ、ものすごく好きな詞章がある。

♪あれ 数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残るひとつが今生の 鐘の響きの聞き納め…

 近松門左衛門「曽根崎心中」お初と徳兵衛が、死に場所を求めて天神の森へと進みゆく場面。
 あぁ…やっぱり、近松は天才じゃないかしら。
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季が違う

2011年05月02日 13時00分00秒 | 稽古の横道
 もう半月前のこと。
 夕暮れ時の小休止に、地震速報のニュースを見ようとテレビをつけたら、耳になじんだメロディが流れてきた。長唄に親しんだ人なら誰でも知っている。
 『秋の色種(いろくさ)』の前弾き。
 おやおや、今時分、何の番組だろう、と、リモコンの手を休めて見入ると、子供向けの教育番組なのだった。
 しかし、画面は、桜がはらはらと舞い散る宵の、はんなりした京の小路。道を急ぐ舞妓はんがすれ違う。そこへ朗読がかぶさる。
 「清水へ 祗園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき」
 与謝野晶子の歌であった。
 その瞬間、頭をハンマーで殴られたような衝撃が私を襲った。
 
 …ちょ、ちょっと、ニイサン、季が、季が違(ちご)うとりますがな……!
 
 び、びーっっ、ビックリした。
 だって、その映像では三味線だけの旋律だったが、私の耳には、蔭囃子の虫の音が、リーリーと聞こえてくるのだもの。そのくらい、秋の情景をしっとりと典雅に表現した、スタンダードな名曲なのだ。
 TVドラマの芸事指導でも、長唄にそんなに詳しくはないが、この曲をどうしても使いたいという脚本家がいた。当然、その意図にマッチしたシーンで使われた。
 絶対に、春の描写のBGMとして使われるような曲調ではないのだ。

 乱暴な話だなァ。長唄を知っている人が見ればこうこうと分かるけれど、この番組は何も知らない子供向けだ。
 まっさらの耳に、「秋の色種」の象徴的なメロディを、春の風物として刷り込んでしまってよいものだろうか。
 作曲者に対する冒瀆だ。

 古典を、新しい感性で解釈して、現代の人にも楽しんでもらいたい、身近に感じてもらいたい、というのは、古典芸能に携わる者の、常々いだいている思いであり、願いだ。
 でも、これはちょっと違うんじゃないだろうか。
 同じ春でも、日本の春が西洋の春と違うように、日本の春は、移ろいゆく時の流れの、狭間の季節ではあるけれど、決して、秋と同じではない。

 たしかに両者とも、うつろいゆく季節のなかで、「もののあはれ」をしみじみと感じるシーズンではある。
 しかし、桜の花が散っても、次々と新緑が芽吹いてくる夏へ向かう春と、菊の花が咲いたあとにはもう、野には冬枯れの景色がひろがるばかりです…という秋とでは、明らかにもののあわれの、感じるところが違う。

 もの言えば唇寒し…という思いはよくするが、天下の国営放送で、このような無道。なんと言いますか、これはもはや…。
 もう、むちゃくちゃでござりまする。

 ところで、横溝正史の『獄門島』。
 金田一君が事件の謎を解くキーワードが、和尚さんがつぶやく、この、「季が違うておるが仕方ない」であった(記憶に依っているので、言い回しが若干違うかもしれません)。
 浅井三姉妹に勝るとも劣らない、迫力の三姉妹が出てくる。
 これは、公共の放送にはなかなか乗せられない…という制作者側の配慮もあって、原作どおりに映像化されたことはほとんどなかった。
 20世紀の終わりに、京橋のフィルムセンターで、片岡千恵蔵主演の『獄門島』を観たときは、話の筋自体が違えてあって、啞然としたものだ。
 私が中学生のとき、小学館の月刊誌「少女コミック」に、ささやななえが漫画化した横溝作品が何篇か連載された。毎号愉しみに読んだものだった。

 横溝正史の探偵ものは、私にとってはビジュアルで見たほうが衝撃が薄められ、娯楽として楽しめる。「人形佐七捕物帖」や、軽い短編は文章で読んだが、長編のものは、あの情念というか禍々しさが、記憶に残りすぎて怖いので、ビジュアルで観るようにしていた。
 『獄門島』の連載が終わったか、始まるかの次号か前の号が『百日紅の下にて』だった。予告編の絵面を今でも、何となく想い出せる。

 もの憂い晩春が過ぎると、横溝ワールドの、陽炎立つ熱気の似合う季節。
 もうすぐ、夏が来る。
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春を待つ

2011年01月31日 23時50分00秒 | 稽古の横道
 新暦の正月は今日で終わりだが、旧暦の今日はまだ、平成廿二年十二月廿八日。
 その昔、師走の二十八日は、門松を飾る日と決まっていた。うちの母はよく、一夜飾りはよくない、と言って、暮れの二十九日に松飾りをするのを強硬に拒んだ。

 まあ、一夜飾りというのも、大晦日が十二月三十日(三十という一文字の漢字が変換できないので、遺憾ながらこの二文字表記にする)に決まっていた旧暦ならではの風習だ。
 新暦だと31日という日にちが存在しますからね。正しくいえば三十一日は、「みそか」ではない。三十日だから「みそか」なわけで。
 そしてまた、月の形は、旧暦では日にちによって決まっているのだ、ということも教えないと、ふと時代小説を書いてみようと思った現代人が、「暮れの二十八日。宵に町家の注連飾りを見上げれば、満月が浩々と輝いていた」…なんて書きかねない。
 吉原を舞台にした歌舞伎の「晦日に月が出る廓(さと)も、闇夜があるから覚えていろ」なんて、ならず者の捨て台詞も、今日日の観客には効用がない。

 …小学生の電話相談室のようになってきたので、このくらいに。でも学校ではこういうことを道理を説いて説明しないので、ますます日本古来の文化への、なるほど感、というのは薄れていってしまうのである。
 詰め込み式に、季節感の微妙に異なる季語を記憶させたり、昔は一月から三月までが春だったのです、と宣言されても、暦自体が違うのだ、ということを教えなくては、昔の人はよっぽど強がりだったん?…というふうにしか納得できないだろう。

 もう何年も前のこと。暮れに湯島天神に行ったら、境内の裏のほうで、鳶職さんが門松を拵えていた。
 竹と松を、荒縄で器用に結い、美しく形づくっていく。その手先の見事さに、惚れぼれとして、しばし見入った。
 職人の街だった江戸、そして東京。
 江戸前のカッコよさ、というのは、こういうところにあるのだ。

 熟練した指先から生まれる小宇宙。その技量。
 撥先から生まれる音色で、宇宙がつくれる人もいる。…ああ、あやかりたい、蚊帳吊りたい。
 
 松は常磐木(ときわぎ)ともいわれ、極寒の季節にも色を変えない常緑樹として、古来から尊ばれた。
 「松・竹・梅」を「歳寒の三友」とまとめて呼ぶ。竹も、節を曲げずにまっすぐ伸びて、色を変えない。梅は寒いさなかに、百花に先駆けて咲く。
 逆境にこそ、いさぎよく、気高く、志を変えずに。
 日本人の美意識を、如実に表した三者。
 歌舞伎に、この三友のうち二つと、桜の名前を冠した三兄弟が登場する『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』のお話は、天神様の縁日の二十五日に譲るとして…。

 ♪松の木ばかりが松じゃない…という小唄がありましたように、判じ物に、小石に松の葉を結んで想う相手に渡す、というのがある。
 あなたに会えるのを「こいし(小石=恋し)く、まつ(松=待つ)」の心である。

 門松は、春を待つ、こころ。
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切ないのが、好き。

2010年09月15日 10時10分00秒 | 稽古の横道
 稽古の合い間の黄昏時に、ふとチューナーをFMラジオに変えてみたら、なんとまあ、しみじみと懐かしい旋律が流れてきた。
 ♪フェイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス…。
 でもアレンジも演奏も、どうも昔聴いたのじゃない。オリジナルのメロウなねっとり感が薄れて、だいぶキレイに軽く仕上がっている。聴きはじめは「レイラ」かと思った。

 反骨をモットーとするロック魂では、メジャーなものに追随したり同調したりしてはいけないのだ。ビートルズはすでに、1960年代生まれの青少年には、不可侵的領域にあった。そんな有名な、教科書にも載りつつあるようなバンドを、信奉してはいけないのである。
 …で、私の年代は、なんといってもレッド・ツェッペリンなのであった。

 それで、学生時代、「へぇ~、ビートルズ好きなんだ」…有名な曲揃いで、改めて取り立てて聴くような曲ないじゃん…という私の意を酌んだのか、友人がわざわざ、ビートルズの曲でも、あまり有名じゃなくて、でも、イイ曲集、というのをテープに編集してプレゼントしてくれたのである。
 その中に入っていた一曲が、この「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」なのだった。ジョージ・ハリスンの曲で、このギター・テクはエリック・クラプトンが参加しているからだよ、と友人が教えてくれた。

 三味線は撥で弾くので、撥が糸に当たった瞬間しか音が存在しない。音が伸びていって、美しく響くためには、ちょっとしたコツと修練がいる。
 音が間断なく伸びているように弾けるようになると、演奏の腕もグンと上がって聞こえる。
 そういうわけで、同じ糸を奏でる楽器でも、弓で弾くものは、音が繋がっていって余韻が残るので、ヴァイオリンやチェロの音色に対して、格別の憧れを抱いていた。
 ギターもエレキの、むせび泣くような音色は実にシビレる。

 胡弓もいい。邦楽の胡弓は中国の二胡とは違って、三味線を小型にしたようなものを弓で弾く。
 歌舞伎でBGMとして胡弓が流れるシーンは縁切りと決まっているから、当然、切ない。しかも、遊女が、本当は好きなのだけれど、義理づくで立場上仕方がなくの愛想づかし…だったりして、相手のことを想って、無理やり引導を渡す場面はことさら哀切である。

 やる瀬ない、というのは、何歳になっても味わう感情だけれども、切ない…という、あの胸が締めつけられるような、ほろ苦く甘酸っぱい気持ち、というのは、青春から遠のくと、ついぞ、思い起こすことのない心持ちだ。

 ……いいなァ、切ないのって。
 切ないってことは、自分がどうにかしたいってことをどうにもすることができなくて、でもやっぱりどうにかしたい、でも……できないんだナァ。自分が無力だから。

 亀の甲より年の功。どうにかしたい、と思って若い時分はがむしゃらにやっていくから、切ないこともたくさんあるけれど、その切ないことを、何とか出来るようにして乗り越えて何年か経つと、人間、どうにもすることができない、ってことが減る。

 そうして、どうにもできない、ってことがあるってことを忘れて、しばらく経つと、でも、ヒトの一生はジェット気流のように、ある尾根を越えると再び下っていったりする。ジェット気流が越えた峰の名称は、人それぞれ違うけれど。
 で、いつしか自分では気がつかないうちにゼット・フラッグを立てた頂点は越えてて、気がつけば、再び、この世の中には、どうしようもないんだってことがあったんだってことを、思い知らされる。
 こりゃー、切ないですなぁ…。

 切ない。胸がキュンとして、どうにかしたいのだけれど、どうにもならない。
 秋の入り口で空を眺めていると、キュン……という胸の音の抜け殻が風に乗ってどこへやら飛んでいく。
 だから初秋の空の色って、澄みかかっているのに白くて、手が届きそうで果てしなくて、宛てどもなく広い。

 何もできなかった昔に帰りたい。
 そうすればこの無力感が、納得できるというものだ。

 ……心柄なる身の憂さは、いっそ、つらいじゃないかいな 逢わぬ昔が懐かしや…
 長唄「俄獅子(にわかじし)」の一節である。

 切ないのが、好き。
 そして、透明な秋は、そんな感情に知らん顔して通り過ぎてくれるから、好き。
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見てはいけない…!

2010年08月25日 01時51分15秒 | 稽古の横道
 夏の風物詩、恐怖映画…スリラー、ホラー、サスペンス、スプラッター…いろいろありますが、恐怖にもお国柄があって、怖がらせ方が違う。

 なんかヤダなー、ヤダなーと思って、バッと後ろを向くと…何もいなくて、でも、ますます怖い…ここら辺に出そうだな…と思って怖がる心構えをしていると、予期せぬ方角からドヒャッ!!と出てくるというヒネたパターンと、なんか、どうもヤダなー、ヤダなー、で、バッて後ろを向くと、ぎゃあああぁ~~~、やっぱりいた~~っつ!という直球パターンと、ありますね。
 もう30年近く前に考察していたのですっかり忘れてしまいましたが、イタリア映画の怖がらせ方が前者、アメリカ映画の怖がらせ方が後者のパターン、という感じだったように記憶しています。

 子どもの頃読んだ、怖い読み物特集雑誌に、ものすごく怖い次号予告のカットが載っていて…それは、タイトルが「恐怖のネックレス」というような感じの。
 そのネックレスをして鏡を見ると、物凄い顔の自分が映っている…というようなイラストでした。結局本編は読んでないのですが、あまりに怖い予告編だったので、それだけでもう40年の長きにわたって、覚えているのです。
 …どんな話だったのでしょう。たぶん、一生、分からないままだけれど。
 時々、一人で夜中に鏡を覗くのが、無性に怖い。あぁ、コワい。

 大人になってから、そんな怖いものの話はすっかり忘れて…だってお化けやユーレイより人間のほうがコワイのだもの…とか思いながら、日々を暮らしていた三十代ごろ。
 何がコワイって、歌舞伎座で着物の着こなしが妙チクリンで笑い者になるのだけは、絶対に避けたい、と、オシャレが命だったお年頃に、呉服屋さんで見る着物見る着物、全部が欲しくなってしまう、という、怖い目に遭っていました。

 内海桂子師匠が、着物雑誌に連載を持っていて……着物を見るとつい買っちゃう。なるべく見ないように街を歩いているんだけど、馴染みの呉服屋さんの番頭さんが、暖簾から半分顔を出して「師匠、いいのがありますヨッ」とかいわれると、やっぱり好きなもんだから、ずるずると見てしまって、ついつい買っちゃう…という、そんな記事を読んだ覚えがあります。

 あー、ダメダメ、目の毒なんです。私ももう、呉服屋さんには絶対に行かない。……と、思う。
 それにしても、迷って迷って迷った挙句、選びに選んで、悩みに悩んで着物を買うのですが、そうして、候補に挙がりながら買わずに過ごした着物の柄って、いまだに覚えているのです。
 特別に高くて買えなかったというわけではなく、何となく決めきれなかったというお品なのですが、10年以上が経った今でも目に浮かぶ、薄水色に印判散らしの石版摺り調小紋、パステルカラーの乱菊の大柄小紋、朱色のむじな菊が亀甲取りになってる江戸小紋、漆黒に星絣の琉球紬…エトセトラ、エトセトラ…。

 …げに恐ろしきは、着物に対する、女の執念~~~、これですね。
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罪つくり

2010年08月19日 23時55分00秒 | 稽古の横道
 …小指が痛い。誰かに噛まれたわけでもないのに。
 これは半年前、稽古場の棚を直していて金槌でやっちまった古傷だ。左手なので大丈夫、と思っていたが、調子替わりでねじを上げるとき、若干響く。
 左右の小指を眺め比べてみたら、痛い左指のほうが、心持ち、太くなっている。
 …それで、昨日稽古場で、エクレアの話が出たのを想い出した。

 もう、25年ほど以前。吉祥寺にドイツ菓子のお店があった。ご主人がドイツ人で、故郷のレシピで作った可愛らしい焼き菓子やケーキなどが並んでいた。そこに、その、エクレアがあったのだ。
 日本でいうエクレアは、シュークリームのシューを細長く焼いて、カスタードクリームをサンドし、上にチョコレートをかける。
 しかし、そのお店のエクレアは、私の小指ぐらいの大きさで、ギザギザの口金で絞り出して殻を成形したような感じで、中空のところへ生クリームが入っていた。
 それがものすごく可愛らしく、美味しい。一口で食べてしまえる、小体な握り鮨のようなお菓子なのだ。

 今思い出したが、昔、クリームコロンとかいう市販のお菓子があったでしょう、今もあるのかもしれないけれど…形状はあれに似ていて、それを細長くして、皮はミスドーで見かけるチュロー…調べてみたら、揚げ菓子系でチュロスというのが本来らしいのですが…を、デリケートにしたような感じ。

 その想い出のエクレアを、お稽古場で、たまたま、お菓子談義をしていたときに思い出したのだ。
 …あのお店は今でもあるのでしょうか。

 そういう、店主の腕一本で成り立っている、今でいえば、オーナーシェフ、とか、職人さんの腕でやっているお店は、様々な理由からご本人が仕事できなくなってしまうと、無くなってしまうところが、つらい。
 技術というのは一日にしては成らないから、仕事ができる本職さんというのはそうそういるものではなく、それは他のもので代替になるというような性質のものでないだけに、本当に残念だし、愛用していた者は困ってしまうのだった。

 銀座のあづま通りに、京屋、という草履屋さんがあって、私はそのお店が好きだった。
 ご亭主が鶴のような哲学者的細面の、品のいい方で、扱っている草履の形も細身で歩きやすく、鼻緒もすっきりとスマートで、万事がシャレていた。
 名取になったとき、このお店で楽屋履きを誂えたのだった。焼き印で名入れをしてもらって、とてもうれしかった。
 それが、10年ほど前のある時、お嬢さんとおぼしき方が店番をしていて、草履裏を直してもらったのだが、それからしばらくして、いつの間にかお店を畳んでしまった。
 それ以来、どこを探しても、気に入った草履というものが見つからない。私は、草履屋さん難民になってしまったのだ。

 今でも未練がましく、京屋の紙袋を持っている。デザインは創業時の鑑札を写したものだろう、檜皮色に墨で「諸履物株仲間 明治元年戊辰十一月 東京銀座 京や」と刷ってある。
 
 包丁を捜している。
 これも15年ほど前京都で、京極から壬生寺まで歩いていた途中、たしか堺町通を歩いていたら、たまたま刃物屋さんがあって、何となく覗いたら、割り込みステンレス鋼という珍しい包丁があった。非力な私には軽くて使いやすい、お値段も実に手頃だったので、そんなつもりもなかったのだが買ってしまったのだ。
 大層よく切れて、とても重宝して、大事に使っていたのだが、一昨年、刃がポロポロッと欠けてしまった。
 それで、京都に行くたび、たしかここら辺にあったはずだ…と、お店を探したのだが見つからない。
 唯一の手掛かりは、峰としのぎの間の平の部分に刻まれた銘、将棋の駒に「八段 早川信久」という文字。昨年思い立って、早川刃物店を電話局で探してもらったのだが、なかった。
 …親方。今はどうしているのやら。

 邦楽界でもいま深刻な問題は、職人さんが減ってきていることだ。それが、本職として腕が立つという以前に、基本がわかっていないのに、商売をしている者が増えたらしい。
 三味線を手に入れるのに、インターネットなどで気軽に買えるようになった。ご町内の邦楽器屋さんが極度に少なくなってしまったいま、それは有難いことでもあるが、心あるものには驚くような代物が出回っている、と聞いた。

 三味線の棹にハがない。
 これは、どういうことなのかというと、糸を張って演奏しやすいように、胴の中子に棹を継ぐときに、三味線の棹に若干、微妙な角度がついている。これをハというのだが、それがない三味線が時々出てきて、売ったわけでもないお客さんから弾きづらい…とか言われて修理に出されたりして、街の三味線屋さんも悩むそうだ。

 それから、撥皮の位置。
 表皮の撥が当たる部分に、撥皮という、半月の弧が膨らんだ、弓張り月のような形をした皮が張ってある。これは、皮を保護するため撥が当たる部分に張るわけだが、これが、なんと、胴のキワから、しかもど真ん中に張ってあるのだ。
 胴には木の枠の厚みがあり、そこに撥が当たると撥先が欠けるし変な音がするので、そこには当てない。だから撥皮はそこから張る必要がない。胴の際から7ミリぐらいかなぁ…、ちょうど小指の太さぐらいの空きを持たせて張るのだ。

 本来の三味線の、胴の面積と撥皮の大きさと、ヘリの空きにもたぶん、美しい調和があるように思う。
 だって、撥皮をキワから張った胴は、見た目もヘンだ。三味線屋さんの愚痴を笑い話のように聞いていたら、油断できませんねぇ、お弟子さんの一人が、自力調達したその三味線を、なんか弾きづらい…といって、稽古場に、見て下さい、と、持ってきたのだ。

 芸を極めるために精進するわけだが、三味線がなくちゃ三味線弾きはお手上げだ。
 弘法筆を選ばず、というのは、楽器には当てはまらない。

 自覚しているのかどうか、わからないけれども、シロウト相手に本職のふりをして、安直に商売するなんざ、罪つくりですョ。
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ワサビLove

2010年07月24日 14時00分00秒 | 稽古の横道
 暑さの前に人間は無力である。
 碧巌録「心頭滅却すれば火も……」というのは、涼しげな山門の中だからこそ言える言葉であろう。小学生のとき私は、この言葉は、快川紹喜でもなく、武田信玄が言ったものだと思っていた。
 子供部屋のスチール製の学習机に黒マジックで、「心頭滅却…」のような標語をいくつか書いてあった。…そうして真剣に勉強しています、という姿勢を表すと、父が喜んでいたような感じだったからだ。なにしろうちの父は、愛国少年で育ってしまった紆余曲折人生の昭和ひとケタ生まれの人だから、ヘンに硬派で変にナンパなのだ。

 褒められた記憶なんてほとんどない。たいがい叱られていた。
 いつだったか、学校の成績がよかったときに「勝って兜の緒を締めよ」とか言われた。…こんなこと小中学生の娘に言う親っているのか。
 同年代のある女優さんが、父との想い出…とかいう芸談で、誕生日にいつも帽子をプレゼントしてくれた、という話を聞いて、非常に、うらやましかった。そういう親に育てられていたら私もねぇ…ちょっとは違っただろうにねぇ。

 くだんの学習机は、のちに思い直して、恥ずかしいのでシールを張って隠し、妹のお下がりになっていった。…妹よ、ゴメンナサイ。
 昭和の受験戦争ってなんだったんだろう。

 話を戻す。凡人にとっては、「暑くて死ぬよりは寒くて死んだほうがいいね」「願わくは雪のもとにて冬死なむ、だね」「だね」「夢見るように眠りたい、だね」「だね」
 暑いと思考せずに、延髄の反射で、応対するようになる。
 …もはや救いがたし、なのである。

 今年の土用の丑の日は来週の月曜日らしいのだが、それとは関係なく、ウナギを食べたい時がある。美味しいウナギは、本当においしい。
 この季節になると、東西の蒲焼きの違いがやたらと話題になる。東京にもいくつも名店があり、やっぱり噂どおり、という名店と、評判ほどでもない老舗や新興勢力店など、食べてみないと分からない。
 美味しいものは暖簾でなく、板場の職人さんの腕による。美味しかったお店も、板場責任者が替わっていたりすると、もう全然違う。
 二十年ほど昔の旅の記憶になるが、伊勢の外宮の近くにあった鰻屋さんの、うな雑炊は美味しかった。十年ほど前、東海道は新居宿の蒲焼き。二店とも、見かけでは分からない、美味しい鰻料理を出してくれた。

 やはり、もう十年以上前のことだが、日本橋は島屋の食堂で、蒲焼きと白焼きのハーフうな重、というようなメニューがあった。島屋というと、池波正太郎がご贔屓にしていた野田岩が有名だが、そこは特別でも何でもない別館のデパ食店街だったように記憶している。
 その頃ちょっと、濃厚な蒲焼きのタレに飽きていた。あんみつの黒蜜に飽きていたのもちょうどその頃だったので、そういうお年頃だったのだろう。
 そんなわけで、よっぽどの酒呑みが酒の肴に注文する、というようなイメージがあった白焼きを、初めて注文してみた。…これが、もう、何とも言えず、美味しかったのだ。

 ほろほろと口のなかで融けるウナギの身と、ワサビの味わいが絶妙にマッチして、この上もなくオイシイ。
 実は私はもう、この上もなくワサビが好きで好きで…お蕎麦屋さんでも、素のそば湯にワサビがあれば言うことなし。お刺身も、ワサビさえ美味しければ、たいがいのネタは許せる。白いご飯に、わさび。山葵漬けでもワサビ山椒でもなく、ただ、すりおろしただけのワサビが、おいしいのである。

 わが愛しの山葵よ……。
 それ以来しばらくの間、ウナギ屋さんに行くと、白焼きばかり注文していた。とにかく、ウナギの白焼きはごまかしが利かない。
 三味線の音色にも似ている。

 しかし、暑さと食欲の関係は、ほどが重要なのだった。白焼きは、食欲がいま一つない、夏バテ気味の体と心にじんわりと、滋養になるのだ。
 …こう図抜けて暑いと、逆に、おなかが空く。やっぱり蒲焼きかなあ…。
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衣更(ころもがえ)

2010年05月14日 01時22分02秒 | 稽古の横道
 今日は、今年の旧暦の暦では四月一日。衣更えの日である。
 「旧暦では四月一日が衣更えだったんですよ」と説明すると、みんな「へー、そうだったんですか」と、なんとなくわかったようなわからないような…つまりそう言われてもどうも実感できなくて、やっぱりわからないなぁ…というような顔をする。
 しかし、ここ数日来のこの初夏のような日差しを体感していると、実に理にかなった、日本の気候に合っているのが旧暦なんだなぁ、と実感できる。

 「四月一日」と書いて、「わたぬき」さんという名字の方がいらっしゃるそうだ。
 表と裏、二枚の生地を合わせてつくる着物が「袷(あわせ)」。それをほどいて、初夏と初秋用に、一枚の生地で仕立てる着物が「単衣(ひとえ)」。盛夏には、生地の種類が違う単衣仕立ての「薄物(うすもの)」を着る。

 旧暦では、ひと月が29日か30日。小の月が29日間で、大の月が30日間である。大の月と小の月が必ず交互に来るとは限らない。3か月ほど小の月が続く年もあるし、いろいろなのだ。
 だから昔は、今月は小の月ですよ、大の月ですよ、とわかるように、商家の軒先に円い看板のようなものをぶら下げて皆に教えていたらしい。なんでそうまでして皆に周知させる必要があったのかは、かように暦が自由な法則性ともいえない法則を持ち、月末に支払いをする社会においては当然のことだったろう。
 これは、そういう暦の成り立ちがわからなければ理解できない話で、習俗が全く異なってしまった別の時代、別の場所で、いくら説明しても納得してもらえないのはしかたないことだろう。実感できて、初めて、知識となるのだから。

 旧暦では1年が360日ほどだから、どうしてもだんだんズレてくる。それを解消するのが閏月である。これは、私には詳しい計算式は分からないが、その道のプロが計算して、お裁縫でいえば、いせこみのような技術を駆使して、毎年毎年つつがなく一年を迎える暦を製作していたのだ。

 暦を制するものは、国を制す。暦をつくるということは、国家の運営を掌握しているということだから、昔は、朝廷が暦をつくっていた。
 織田信長が、暦をつくる権利を俺によこせ、と、朝廷に要求したのは有名な話だが、太陰暦の暦の重要性が分かってこそ、ふうむ、と納得できる話なのだ。
 さすがノブナガくん、眼のつけどころが違うなぁ…。
 

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