二月の朔日、稽古場の花を、いつもとは違う花屋さんで購入。
葉牡丹に白いチューリップ、黒文字ならぬ青文字の実付きの枝。そして、佐藤錦かナポレオンの、桜園の副産物か、山形産の敬翁桜。
切り花はほとんど一週間が寿命なのだが、この花屋さんのは手入れがよいのか、実に日持ちして、十日を過ぎても稽古場の華となっていた。
建国記念日の連休もあって五日ぶり…ああっつ、いけない、稽古場の花を買うのを忘れた…と思いながら、さて、稽古場の扉を開けたら、葉牡丹が常の葉牡丹ではない。葉牡丹の花芯様の、中心部分がにょきにょきと伸びて、違う植物になっていた。
…つまり、薹が立っていた。
あまりのことに私は噴き出した。これだ!これが本当に「薹が立った」ってやつだ。
へええええ…慣用句には聞いていたけれど、本当に、薹って、立つんだね。
びっくりした。この年になって、坊主の髷と、人間じゃない薹の立ったのは始めて見た。
あまりにも面白いので、このまま捨てるには忍びなく、新しい花に生け替えずに、みんなに見てもらうことにした。
見ごろ、食べごろ、賞翫するにちょうどよい時節を過ぎ、飾り花としての盛りを過ぎて、かくも野放図に育ってしまった、稽古場にはあるまじきこのテイを、さらに愛でようという、師匠も師匠なら弟子も弟子だ。
「トウが立つって、本当は何なんですか?」と、二十代の弟子のひとりが訊く。
ま、何でしょうね、ああたは、大学を出てそんなことも知らないのかえ…と思いながら、蕗の薹とか、ああいうのを言うのよ、くさかんむりに台って字の旧字でさ、戦前の地図の台湾の台って字に似てるやつ…と説明しつつ、そうだ、この形状では、薹が立ったのを、塔が立ったと取り違えても、現代っ子はしょうがないよな…と気付いた。
塔が立つ。バベルの塔なんて珍しくもない平成の世には、押上に塔が立つ。
業平橋駅は、そんなわけで、来年の春には、スカイツリー前駅とかいう、味気のない、名称に変わってしまうらしい。
業平橋って、カッコいい地名だったのになぁ。
伊勢物語、在原業平。六歌仙、在原業平。東下り、在原業平。なんてったって業平。
長唄「都鳥」は、業平くんの歌「名にし負わば いざこと問わん都鳥 わが思う人はありやなしやと…」を下敷きにした珠玉のラブソングだ。現代なら車でデートするところ、舟での逢瀬を、しっとりと、隅田川の情景とともに唄い込んだ、弾き込むほどに味わいの出る作品だ。
そういえば、知人にナリヒラさんという、めっぽう男前の呉服屋さんがいる。
名前ではなく名字で、漢字を当てると成平さんという。唄う時代劇スターの元祖・高田浩吉のお孫さんである、大浦龍宇一をワイルドにしたような、カッコいいお兄いさんだ。
…その比喩で分かってくれた人は、私の身の回りに二人しかいなかったけれども。
さて、業平橋のお隣町の押上には、わが心の「整いました!」の盟友、Yさんのご実家があった。
私が押上に行ったのは、後にも先にもたった一度、早世したYさんのご葬儀のときだった。薹が立つお年頃って、お肌の曲がり角の25歳ごろ? Yさんは25か26に、なるやならずで旅立った。
それは秋の日で、訃報を聞いてもなにやら実感がわかず、まだ鶴の丸紋から新たにCI革命したばかりの銀座の松屋で、そのころの婦人服のブランドでは、人口に膾炙した決定版バーバリーのコートではなく、アクアスキュータムを欲しがる人がチョイスする感じの、渡辺雪三郎…ミッチの喪服を買った時も、なんだかイベントの衣裳を買うような心持ちで、私は常とは違う興奮状態にあった。
お通夜で、鼻に綿を詰めたYさんの顔を見ても、どうにも実感がわかず、私は落語の「粗忽長屋」のクマ公のように、不思議な心持ちでいた。
そうか、やっぱり自分は、こんなに仲良くして下さったYさんが死んだというのに、涙の一粒も出ない、冷血漢の、人でなしだったんだ…と思いながら、葬式の朝を迎えた。
その時分、押上に出るのは今のように鉄道が便利になっていなかった。
私は葬儀に遅刻しそうになって、押上の駅から葬儀場へ走った。商店街の角を曲がると、向こうのほうに、むらむらと集まっている黒い人々の背中が遠くに見えた。
ぜいぜいハアハアという呼吸を整えようと、大きく息をついたその瞬間、息が嗚咽に変わっていた。
そのあと、自分でも驚くほどめくらめっぽうやたらに泣いて、葬儀のあと、友人に、あんまり泣き過ぎないように、と、たしなめられた。
あれからずいぶん時が過ぎ、新しくなった押上駅も、駅構内を乗り換えで通ったことはあるが、改札口を出たことは一度もない。
業平橋の駅名もなくなる。
チェーホフの『三人姉妹』のラストの台詞を、綯い交ぜに想い出す。
時が経って、私たちがこの世から永久にいなくなれば、この駅が業平橋だったことも、忘れられてしまう。
地下鉄が浅草で行き止まりで、押上から通学するYくんとよく浅草で喰い倒れていたことも、浅草十二階があの場所にあった!と指さした方角に、仁丹の軍服のカイゼル髭のオジサンの大きい看板が見えたような気がしたことも。
それから、江戸川乱歩の小説にも出てくる、一銭蒸気の船着き場が、吾妻橋の袂にあったことも。
…そして、その話をしながら吾妻橋を渡って行った先の、孫悟空のキント雲のような巨大なオブジェを従えたビール会社のタワーは、昭和のころは工場廠内のようなビヤホールだったことも……私たちが何人姉妹…何人で浅草の観音さまにお参りに行ったかってことも、みんな忘れられてしまうのだろう。
…でも思いだけは、残るのだ。
葉牡丹に白いチューリップ、黒文字ならぬ青文字の実付きの枝。そして、佐藤錦かナポレオンの、桜園の副産物か、山形産の敬翁桜。
切り花はほとんど一週間が寿命なのだが、この花屋さんのは手入れがよいのか、実に日持ちして、十日を過ぎても稽古場の華となっていた。
建国記念日の連休もあって五日ぶり…ああっつ、いけない、稽古場の花を買うのを忘れた…と思いながら、さて、稽古場の扉を開けたら、葉牡丹が常の葉牡丹ではない。葉牡丹の花芯様の、中心部分がにょきにょきと伸びて、違う植物になっていた。
…つまり、薹が立っていた。
あまりのことに私は噴き出した。これだ!これが本当に「薹が立った」ってやつだ。
へええええ…慣用句には聞いていたけれど、本当に、薹って、立つんだね。
びっくりした。この年になって、坊主の髷と、人間じゃない薹の立ったのは始めて見た。
あまりにも面白いので、このまま捨てるには忍びなく、新しい花に生け替えずに、みんなに見てもらうことにした。
見ごろ、食べごろ、賞翫するにちょうどよい時節を過ぎ、飾り花としての盛りを過ぎて、かくも野放図に育ってしまった、稽古場にはあるまじきこのテイを、さらに愛でようという、師匠も師匠なら弟子も弟子だ。
「トウが立つって、本当は何なんですか?」と、二十代の弟子のひとりが訊く。
ま、何でしょうね、ああたは、大学を出てそんなことも知らないのかえ…と思いながら、蕗の薹とか、ああいうのを言うのよ、くさかんむりに台って字の旧字でさ、戦前の地図の台湾の台って字に似てるやつ…と説明しつつ、そうだ、この形状では、薹が立ったのを、塔が立ったと取り違えても、現代っ子はしょうがないよな…と気付いた。
塔が立つ。バベルの塔なんて珍しくもない平成の世には、押上に塔が立つ。
業平橋駅は、そんなわけで、来年の春には、スカイツリー前駅とかいう、味気のない、名称に変わってしまうらしい。
業平橋って、カッコいい地名だったのになぁ。
伊勢物語、在原業平。六歌仙、在原業平。東下り、在原業平。なんてったって業平。
長唄「都鳥」は、業平くんの歌「名にし負わば いざこと問わん都鳥 わが思う人はありやなしやと…」を下敷きにした珠玉のラブソングだ。現代なら車でデートするところ、舟での逢瀬を、しっとりと、隅田川の情景とともに唄い込んだ、弾き込むほどに味わいの出る作品だ。
そういえば、知人にナリヒラさんという、めっぽう男前の呉服屋さんがいる。
名前ではなく名字で、漢字を当てると成平さんという。唄う時代劇スターの元祖・高田浩吉のお孫さんである、大浦龍宇一をワイルドにしたような、カッコいいお兄いさんだ。
…その比喩で分かってくれた人は、私の身の回りに二人しかいなかったけれども。
さて、業平橋のお隣町の押上には、わが心の「整いました!」の盟友、Yさんのご実家があった。
私が押上に行ったのは、後にも先にもたった一度、早世したYさんのご葬儀のときだった。薹が立つお年頃って、お肌の曲がり角の25歳ごろ? Yさんは25か26に、なるやならずで旅立った。
それは秋の日で、訃報を聞いてもなにやら実感がわかず、まだ鶴の丸紋から新たにCI革命したばかりの銀座の松屋で、そのころの婦人服のブランドでは、人口に膾炙した決定版バーバリーのコートではなく、アクアスキュータムを欲しがる人がチョイスする感じの、渡辺雪三郎…ミッチの喪服を買った時も、なんだかイベントの衣裳を買うような心持ちで、私は常とは違う興奮状態にあった。
お通夜で、鼻に綿を詰めたYさんの顔を見ても、どうにも実感がわかず、私は落語の「粗忽長屋」のクマ公のように、不思議な心持ちでいた。
そうか、やっぱり自分は、こんなに仲良くして下さったYさんが死んだというのに、涙の一粒も出ない、冷血漢の、人でなしだったんだ…と思いながら、葬式の朝を迎えた。
その時分、押上に出るのは今のように鉄道が便利になっていなかった。
私は葬儀に遅刻しそうになって、押上の駅から葬儀場へ走った。商店街の角を曲がると、向こうのほうに、むらむらと集まっている黒い人々の背中が遠くに見えた。
ぜいぜいハアハアという呼吸を整えようと、大きく息をついたその瞬間、息が嗚咽に変わっていた。
そのあと、自分でも驚くほどめくらめっぽうやたらに泣いて、葬儀のあと、友人に、あんまり泣き過ぎないように、と、たしなめられた。
あれからずいぶん時が過ぎ、新しくなった押上駅も、駅構内を乗り換えで通ったことはあるが、改札口を出たことは一度もない。
業平橋の駅名もなくなる。
チェーホフの『三人姉妹』のラストの台詞を、綯い交ぜに想い出す。
時が経って、私たちがこの世から永久にいなくなれば、この駅が業平橋だったことも、忘れられてしまう。
地下鉄が浅草で行き止まりで、押上から通学するYくんとよく浅草で喰い倒れていたことも、浅草十二階があの場所にあった!と指さした方角に、仁丹の軍服のカイゼル髭のオジサンの大きい看板が見えたような気がしたことも。
それから、江戸川乱歩の小説にも出てくる、一銭蒸気の船着き場が、吾妻橋の袂にあったことも。
…そして、その話をしながら吾妻橋を渡って行った先の、孫悟空のキント雲のような巨大なオブジェを従えたビール会社のタワーは、昭和のころは工場廠内のようなビヤホールだったことも……私たちが何人姉妹…何人で浅草の観音さまにお参りに行ったかってことも、みんな忘れられてしまうのだろう。
…でも思いだけは、残るのだ。