長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

塔が立つ

2011年02月28日 00時02分08秒 | 旧地名フェチ
 二月の朔日、稽古場の花を、いつもとは違う花屋さんで購入。
 葉牡丹に白いチューリップ、黒文字ならぬ青文字の実付きの枝。そして、佐藤錦かナポレオンの、桜園の副産物か、山形産の敬翁桜。
 切り花はほとんど一週間が寿命なのだが、この花屋さんのは手入れがよいのか、実に日持ちして、十日を過ぎても稽古場の華となっていた。
 建国記念日の連休もあって五日ぶり…ああっつ、いけない、稽古場の花を買うのを忘れた…と思いながら、さて、稽古場の扉を開けたら、葉牡丹が常の葉牡丹ではない。葉牡丹の花芯様の、中心部分がにょきにょきと伸びて、違う植物になっていた。
 …つまり、薹が立っていた。
 あまりのことに私は噴き出した。これだ!これが本当に「薹が立った」ってやつだ。
 
 へええええ…慣用句には聞いていたけれど、本当に、薹って、立つんだね。
 びっくりした。この年になって、坊主の髷と、人間じゃない薹の立ったのは始めて見た。
 あまりにも面白いので、このまま捨てるには忍びなく、新しい花に生け替えずに、みんなに見てもらうことにした。
 見ごろ、食べごろ、賞翫するにちょうどよい時節を過ぎ、飾り花としての盛りを過ぎて、かくも野放図に育ってしまった、稽古場にはあるまじきこのテイを、さらに愛でようという、師匠も師匠なら弟子も弟子だ。 
 「トウが立つって、本当は何なんですか?」と、二十代の弟子のひとりが訊く。
 ま、何でしょうね、ああたは、大学を出てそんなことも知らないのかえ…と思いながら、蕗の薹とか、ああいうのを言うのよ、くさかんむりに台って字の旧字でさ、戦前の地図の台湾の台って字に似てるやつ…と説明しつつ、そうだ、この形状では、薹が立ったのを、塔が立ったと取り違えても、現代っ子はしょうがないよな…と気付いた。

 塔が立つ。バベルの塔なんて珍しくもない平成の世には、押上に塔が立つ。
 業平橋駅は、そんなわけで、来年の春には、スカイツリー前駅とかいう、味気のない、名称に変わってしまうらしい。
 業平橋って、カッコいい地名だったのになぁ。
 伊勢物語、在原業平。六歌仙、在原業平。東下り、在原業平。なんてったって業平。

 長唄「都鳥」は、業平くんの歌「名にし負わば いざこと問わん都鳥 わが思う人はありやなしやと…」を下敷きにした珠玉のラブソングだ。現代なら車でデートするところ、舟での逢瀬を、しっとりと、隅田川の情景とともに唄い込んだ、弾き込むほどに味わいの出る作品だ。

 そういえば、知人にナリヒラさんという、めっぽう男前の呉服屋さんがいる。
 名前ではなく名字で、漢字を当てると成平さんという。唄う時代劇スターの元祖・高田浩吉のお孫さんである、大浦龍宇一をワイルドにしたような、カッコいいお兄いさんだ。
 …その比喩で分かってくれた人は、私の身の回りに二人しかいなかったけれども。

 さて、業平橋のお隣町の押上には、わが心の「整いました!」の盟友、Yさんのご実家があった。
 私が押上に行ったのは、後にも先にもたった一度、早世したYさんのご葬儀のときだった。薹が立つお年頃って、お肌の曲がり角の25歳ごろ? Yさんは25か26に、なるやならずで旅立った。
 それは秋の日で、訃報を聞いてもなにやら実感がわかず、まだ鶴の丸紋から新たにCI革命したばかりの銀座の松屋で、そのころの婦人服のブランドでは、人口に膾炙した決定版バーバリーのコートではなく、アクアスキュータムを欲しがる人がチョイスする感じの、渡辺雪三郎…ミッチの喪服を買った時も、なんだかイベントの衣裳を買うような心持ちで、私は常とは違う興奮状態にあった。
 お通夜で、鼻に綿を詰めたYさんの顔を見ても、どうにも実感がわかず、私は落語の「粗忽長屋」のクマ公のように、不思議な心持ちでいた。
 そうか、やっぱり自分は、こんなに仲良くして下さったYさんが死んだというのに、涙の一粒も出ない、冷血漢の、人でなしだったんだ…と思いながら、葬式の朝を迎えた。

 その時分、押上に出るのは今のように鉄道が便利になっていなかった。
 私は葬儀に遅刻しそうになって、押上の駅から葬儀場へ走った。商店街の角を曲がると、向こうのほうに、むらむらと集まっている黒い人々の背中が遠くに見えた。
 ぜいぜいハアハアという呼吸を整えようと、大きく息をついたその瞬間、息が嗚咽に変わっていた。
 そのあと、自分でも驚くほどめくらめっぽうやたらに泣いて、葬儀のあと、友人に、あんまり泣き過ぎないように、と、たしなめられた。
 
 あれからずいぶん時が過ぎ、新しくなった押上駅も、駅構内を乗り換えで通ったことはあるが、改札口を出たことは一度もない。

 業平橋の駅名もなくなる。
 チェーホフの『三人姉妹』のラストの台詞を、綯い交ぜに想い出す。
 時が経って、私たちがこの世から永久にいなくなれば、この駅が業平橋だったことも、忘れられてしまう。
 地下鉄が浅草で行き止まりで、押上から通学するYくんとよく浅草で喰い倒れていたことも、浅草十二階があの場所にあった!と指さした方角に、仁丹の軍服のカイゼル髭のオジサンの大きい看板が見えたような気がしたことも。
 それから、江戸川乱歩の小説にも出てくる、一銭蒸気の船着き場が、吾妻橋の袂にあったことも。
 …そして、その話をしながら吾妻橋を渡って行った先の、孫悟空のキント雲のような巨大なオブジェを従えたビール会社のタワーは、昭和のころは工場廠内のようなビヤホールだったことも……私たちが何人姉妹…何人で浅草の観音さまにお参りに行ったかってことも、みんな忘れられてしまうのだろう。
 …でも思いだけは、残るのだ。

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逆転

2011年02月22日 01時10分00秒 | 直球でいこう
 数年ほど前。上野の国立博物館の、徳川家の秘宝展だったかで、すばらしい名筆の書簡を見た。悲しいことに、誰の手だか忘れてしまったのだが、それはそれはうつくしい水茎の、けれど美しいだけではない、驚くべきくふうを凝らした手紙だった。
 それは、文中に頻出する、とある仮名文字が、すべて違う変体がなで綴られている、というものだった。つまり、たとえば「あ」だったら、漢字の「阿」から崩したのと、「安」から崩したのでは、くずし方で文字のスタイルが違う。
 全部のかな文字がさまざまに変体仮名だったら、また逆にやり過ぎで興ざめなのだが、その手紙の文中の、たしか「な」の字だったように記憶しているのだが、ひとつとして同じようなくずし方で書いてはいなかったのだ。
 美しい。形もそうだが、その着想、思想性のありようも美しい。
 …これだ。これこそが、日本文化が内包する深い豊かさ、多様性、そして、ほどのよさなのだ。

 邦楽と洋楽のニュアンスの違いを感じてほしい…ということから、中学校の体験授業で、同一メロディを、ピアノの音階に合う弾き方と、長唄本来の音色での弾き方の2パータンで弾き分け、聴いてもらう、というのをやっている。
 なにしろ三味線にはフレットがない。どんな音でも出せる。
 つまり、同じ曲中の同じ音でも全部をまったく同じにしないで、勘所(ツボ)を微妙にずらし、音の表情を変えるのだ。
 ただそれは当然のことながら、明らかに音が外れている、ということではない。それじゃのべつ幕なしに日本国内全家庭の台所の糠味噌が腐っちゃう。
 微妙なピッチの差で音の深みを出し、音色の豊かさを表現するものである。
 それは、現代邦楽の調子の取り方(三本の糸の音程の取り方)と、古典の調子の取り方が違うことからも、お分かりいただけると思う。
 そしてまた、均等に刻むのではなく、間という無音の間隔の微妙な移り変わりによっても、音曲の味わいがグッと増してくる。この、間の取り方も、西洋式に何分のいくつ、と均一に計れるものではないので、マニュアル化できないもののひとつである。

 同じ音でもこの曲中のこの部分は、もう少しくぐもった音を出すと、ぐっと表現力が増すし、雰囲気が出る、もしくはもう少し明るく溌剌とした感じを出すのにこの部分はこの間合いで…というように、平板さを嫌う日本人の美意識からくるものだ。
 これは、音を理論的に区切って合理的に整理した音律のみで音楽を表現する西洋音楽とは発想が根本的に異なるものである。であるから、西洋音楽は、違う音色の多数の楽器で、音を多重に重ねていく表現へ進化した。

 さて、この聴き分けをして、生徒さん達に、どちらの表現が好きか、各クラスごとに訊いてきた。どっちがいいか、悪いか、とかいうことではない。これは感性の問題であって、音楽に対する好悪は、善悪で測るものではないからだ。
 この試みを始めたのは何年前だったろう…学校巡回を始めたのは、もう十数年以前からだが、そのころは三味線の授業自体を、そんなもんおいらはうけねーよ、というような頼もしいツッパリくんもいたから、そんな覇気のあるアンケートを取る気持ちも起こらなかったような気もする。
 たぶん、「さくらさくら」よりも、三味線を弾いた!という実感がしみじみと湧くので、むしろ古典曲を教材にしてほしい、というような積極的な要望が学校から寄せられるようになってからのことだから、ここ十年ぐらいだろうか。

 何が嬉しかったかって、あーた、最初にそのアンケートをしたときにビックリしたのが、予想に反してまったくほとんどの生徒さんが、昔ながらの音色が好き、というほうに挙手したことである。
 むしろ私たちは、昔の音色がいいという生徒さんは、もっと少ないと思っていたので、単純に喜びを覚えた。音の持つ深みと饒舌さ、間が生む余韻、単純でないものの面白さ…そんなものを若い人たちは感じ取って、心地よさを感じてくれているのだ。

 …そうか、そうなのだ。みんな生まれたときから横文字の音楽ばっかり聴いて育ってきたけれど、この、三味線が表現する音の深みがいいナァ、と思う感覚…日本人のDNAの為せるワザとでもいうのでしょうか、そういう感性を持っているのだなぁ…と感じて、むやみやたらと嬉しかったのだ。
 それ以来、学年やクラスによって違うけれども、好き嫌い調査の結果、古典的音色がしっくり来て好き、という生徒さんの割合は意外と多く、つねに八~九割ぐらいを占めながら推移していた。
 去年ぐらいからだったか、明朗で平板で日常耳なれた音階で表現されたほうが好きだ、という感性の生徒さんが五分五分というクラスもあったけれども、世相とは不思議にマッチしていなくて、むしろマイノリティであった。
 そんなわけで、私は、わが日本人DNAは永遠に不滅です…的感慨に浸っていたのである。

 ところが、である。平成23年になったとある中学校の中学一年生のクラスで、その「不滅です」神話は、私の大いなる幻想だったと思い知った。
 いつものように聴き分けをしてもらったところ、好き嫌いの割合が、完全に逆転していた。なんと、昔ながらの音色がいいと思った人は、31人中、たまたま参観していた校長先生と、一番後ろの席に座っていた背の高い女子生徒の二人だけだった。
 私は愕然とした。
 …つまり彼らは、もはや新人類とかいうのでもなく、生まれながらの欧米人なのだ。
 虫の声を、日本人は芸術をつかさどる右脳で聴くけれど、西洋人は左脳で聴くので雑音にしか聞こえないという話を、以前、このブログに書いた(2010年3月19日付「秋の色種」をご参照いただけますれば幸甚)。
 つまり、平成10年前後に生まれた若き人々は、生まれたときから、そのような自然界の雑多な音を、左脳で聴くタイプの人々になっている、ということなのだ。
 味わいや情緒のようなものを、いいナァ…と思う感情、愛で慈しむという気持ちが、存在しないということなのだろうか。

 受け手が変われば、教える内容も変容する。
 でもさ、ドレミを三味線で弾いたって、何の意味もありゃしない。

 奏でる音がそんなものでよいのだったら、三味線である必要がない。
 それじゃほんとに、三味線という楽器に触れてみましたという、体験でしかない。
 まあ、でもそんな体験でも、ないよりはましか…もはや三味線音楽は、そんなめずらかしいものに触れてみちゃいました的、見世物…博物館に収蔵されてへーえ、と、いっとき関心を持たれるだけのもの、好奇心を満たすものでしかなくなってしまうのか。
 …いや、こうなると、もう、ソウナッチャッテイルンデスワヨネ。
 わたしはイササカ…いや、かなり脱力した。

【追記:2021.11.27】
…という記事を記してから、この10年の間、逆転の逆転現象に遭遇する度、この記事の続篇を書かなくては…と思っておりました。
昨日伺った中学二年の授業でも、久しぶりに好みの音アンケートを行いましたところ、逆転の逆転現象、すなわち、サワリのある雑音で雑多な音質が好きだなぁ…という生徒さんが98%となりました。

不安神経症になりやすいのが日本人の気質だと、コロナ禍で騒がれる風聞を得ました。
そりゃーしょっちゅう地震が来たりして、大自然の脅威に影響を受けがちなのだから、当然の帰結としての生き物の特質なのではないかと感じます。

…であるから、ことさらに、感情を司る右脳に優しい癒される音を求めて、日本人は伝統的な日本の音楽文化を温め、連綿と続けてきたのではないかと思うのです。

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無意識下のアイドル

2011年02月14日 13時13分00秒 | マイノリティーな、レポート
 ♪おすもさんにィは どこがよくてぇ惚れえた~稽古帰りの乱れ髪
 街を歩いていてお相撲さんに出会うと、なぜか無闇と嬉しいものだ。
 商店街の向こうから自転車に乗って、すーっとやって来るだけで感激する。なんとまあ、絶妙なバランス能力、心技体。そしてまた、同じ電車に乗り合わせると、ものすごくいい匂いがする。鬢付け油の匂いだ。新幹線のホームで見かけると、同じ車輌じゃなくてよかった、と安堵する半面、同じじゃなくてちょっと残念。どこに行くのか、ちょと気にかかる。
 これは京都を歩いていて、舞妓はんに出会ったのに似て、かつまた、都内で思いもよらぬところで富士山と東京タワーが見えた!というのと一緒で、気がついたらそこにいて、存在がなぜかものすごく嬉しい、というようなものだ。
 かくもお相撲さんは、日本人にとって日常なのだ。夕暮れ時、家に帰ると、明治生まれのバアちゃんが飽きもせず、茶の間に座ってずーっっっつと相撲中継を見ている。呼び出しと柝の音にかぶさるように、お豆腐屋さんのラッパの音が聞こえる。昭和の市井の風景。

 私は別に相撲命!なわけじゃない。毎場所楽しみにしているわけでもなく、ただ、そういうわけで、空気のように水道の水のように、ごく身近に感じて生きてきたので、そういう、みんながそれと気づかずに心の奥底で養っていた、無意識下のアイドルを、そのようなぶしつけで無遠慮で分からんちんの輩の手に、むやみと貶められると、もう黙っちゃいられないのだ。
 以下は、そそっかしい人の蚊柱と思ってお読みください。

 いい加減に相撲取りいじめはやめたら、と思う。
 八百長は、博打の世界では禁じられていますよね。そうしなきゃ賭場が成り立たないもん。東映のヤクザ映画、日活の無国籍アクションなど、フィクションの世界では八百長をすれば、たいがい落とし前をつけるために指の一本や二本、詰めることになっている。
 でも、相撲で八百長をしたからってどうなの。そんなに追及して、あんたは懸賞幕の一本でも出したことがあるのか。

 国技なのに恥ずかしいってどういうこと。オリンピックに「スモウ」って競技種目に入ってましたっけ?
 相撲はスポーツじゃなくて文化だ。競技じゃなくて興行だ。文化まで欧米化してどうするのだ。西洋的でないものイコール野蛮で破棄すべきもの…って図式って、明治の人の考え方かと思ってました。
 そも、相撲は、神様を喜ばすために誕生した力較べであって、西洋の競技とは発想が異なるものだ。だいたい、あんな巨漢が、本気で殴り合いするボクシングのように、力だけで押して行ったら、みんな体を壊して即座に廃業だ。

 柔、よく剛を制す。小さいけれど力持ち。見た感じ、どうしたって勝てそうにもない小さきものが、怪力のおっさんに立ち向かっていく。であるからして技が必要だし、くふうも生まれる。そういう技術と技巧を愛でるのが日本における勝負だし、相撲だ。
 ただただ力が強いものだけが王者になるという、西洋式の分かりやすい単純な勝負のつけ方とは違う、そういうところが日本の文化なのだと思う。

 さて、「八百長」って言葉に過剰反応して、かなり感情的になって、論点が横滑りしました。
 要するに私が言いたいことは、杓子定規に、清廉潔白さの枠でもって世の中の総てのことを測って、「子どものお手本」というような切り札で、それにちょっとでも反するような事どもを、いっしょくたに薙で切りにして排斥するのは、筋が違うンじゃないでしょうか、ということだ。
 そりゃ、子どもの前ではみんないいかっこしたいよ。
 でも、大人の世界はそうじゃないでしょ。弱肉強食だし。正しいってことだけですべてが快刀乱麻に解決されることは、フィクションの中でしかない。また、正しいってことだけで一刀両断しても、決して正しいことにはならない。
 大人の事情って切ないんだね…と子ども心が切なさを斟酌できるようなことに触れさせないといけないんだ。
 そういう切ないところで、大人は生きている、ということもあるのだ、という情操教育をしないと、ただただ黒白をつければそれでいいと思っている、コンピュータのような人間が出来上がってしまうぞ。
 そして本音と建前の折り合いをつけられず、その存在を容認できずに、ただ頭でっかちになって、現実社会にうまく溶け込めない、不器用な人間も増えていくのじゃないだろうか。

 どこまでが正しい八百長で、どこまでが正しくない八百長なのか…なんてことあたしゃ知りません。
 悪いことをすれば当然、因果はめぐる…いや廻らない人もいるかもしれない。それが人間社会だけれど、それだからこそ、正義を貫くのだ、という熱血漢も生まれてこようという素地があるのが、世の中です。
 生活がかかっている人の職業を、まったく無関係の人が、独自の一見正当な倫理と正義論で押しつぶしていって…それは相撲世界のことに限らないけれど、どっちが人権無視なんだ。

 生きるために、みんなそんな業を背負ったり、日々、自分自身の矜持を試されながら生きていくのだ。
 白と黒だけではなく、グレーとか、いろんな色があるンです。大人の世界って、線引きできないものが存在するんです。
 でも、それだからこそ、子供は大人になっても、生きて行こうと思えるのじゃあないだろうか。

 …人生の機微。
 もうそんな言葉の存在が許されないほど、世の中は機械的風紀委員的感覚の人々に支配されつつあるということか。

 このたびの騒動は、そういう日本的風土から誕生した文化で、前時代的だから、総体的に見直したらいい、という動きの始まりなのだろうか。私は好きではないのだが、柔道の胴着がブルーと白になったのは、国際化だし近代化だし仕方ないか。
 歌舞伎座の座席の番号が、コンピュータが導入されて以来、いろは…から情緒も何もない1、2、3…と機械的に合理化されたのも仕方ないか。
 日本の伝統文化も、そんなふうに発想の転換をして、欧米化していくことになるのか…そして日本人は滅亡していくのだけれど、それは時代の流れで仕方ないのかもしれない。
 それだったら、組織も前時代的だし、もう糖尿病になるし、不健康だから、あんなふうにアンコ型とか一切やめて、みんな筋骨隆々の体型にして、予期せぬ事故に備えてスクール水着の上から回し締めて、やればいいじゃない。
 そうなったら、レスリングとどこが違うというのだ。そんなもん、アタシは二度と観ませんけどね。

 …とか啖呵を切ってやろうと思ったら、先週の学校巡回(中学生の体験学習の時間)で、予期せぬ出来事が起きた。そして私は脱力した。
 この記事も書きあぐねて時期を逸した感あり…で、載せるのはやめようと思ったが、兆候の前段ともなるので、敢えて…嗚呼。
 この続きはまた明晩。

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戦勝鍋

2011年02月03日 23時55分00秒 | フリーク隠居
 「あ、アータ、長友がインテルにって、こりゃすごいことなんスョ!」
 携帯のモバイルニュースでその記事を読んだとき、行き交う人の誰かれ構わず胸ぐらをつかんで教えてあげたい気分になった。
 …アブナイ、危ない。折しも渋谷駅の東急東横店から井の頭線のホームへ至る、長いコンコースを渡っていた。通路は雑踏であふれ返り、いつもながらの人、また人。
 凄い、スゴイよ、すごいよ!!マサルさん…と、私の頭の中では、10年以上前に流行ったシュール漫画のタイトルが、すごい勢いでぐるぐると回っていた。

 私が一生懸命、イタリアはセリエAのリーグ戦を観ていたのは2003年から2008年ごろまでの数シーズンだった。
 当時インテルは、同じミラノを本拠地とするミランに競り勝ちたくて、大富豪のオーナーがほうぼうから名選手を移籍させ(そのさまは、ウィリアム・ワイラー監督の映画『コレクター』を彷彿とさせるド迫力だった)、かといってあまりにもスター選手ばかりだったのでチームとしてのまとまりを欠き、いつも優勝を、涙を呑んで見送っていたチームだった。
 その時分、モレッティというイタリアのビールを飲むたび、これはインテルの会長・モラッティさんがつくっているのではないだろうな…と眉間にしわを寄せて考え込んだりしていたが、「レ」と「ラ」じゃ一字違いでも「レモンのレ」と「ラッパのラ」というように5度分、大いに違うから、やっぱり無関係なのでしょう。

 監督はしょっちゅう変わり、油でリッチになったアブラモビッチ会長のもとで何かと話題を提供した元チェルシーのモウリーニョ監督を招聘し、悲願がかなったシーズンには、すでにわが楽園の夢は、ユヴェントスの八百長事件騒動で終焉を告げていたのだった。
 だから、私の記憶の中の、青と黒のストライプのユニを着ている選手は、レコバだったり、重戦車ヴィエリだったりする。

 さて、皆さんそれぞれご贔屓もありましょうが、私が昨夏のワールドカップで印象に残った選手は、なんといっても長友だった。
 長友は、苦しいときによく仕事を回してくれた私の大恩人に顔立ちがよく似ていて、その人は若いとき、アリスの谷村新司によく間違われたそうだ。年長けてから、松山に旅行して、正岡子規の横顔の写真が目印の、ご当地ビールのラベルを見たとき、「あ、これ、オレじゃん…」と、衝撃を受けたそうである。
 その長友が移籍したあと、FC東京がJ1から陥落したのは、何とも言えず残念なめぐり合わせだった。勝負の世界の明暗は、こんなところにもある。

 1月の最終週に演奏会が重なって調達にも行けず、我が家の食糧庫も存亡の危機に瀕していた。
 それでも冷蔵庫のなかに、大根、白菜、生姜、長ネギ、油揚げ、酒粕……そして幾日か前にスーパーで、珍しいことに金時ニンジン(しかも「香川」県産!)というのを入手していたのだった。
 京ニンジンに似て、茹でると鮮やかな紅色になる。まるで舞妓はんが差す、べにのように。普通のニンジンの青臭さがなくて、まっこと甘いのだ。これは坂田金時のお顔の色に似ているからなのか、それとも金時芋に似た味わいから来たネーミングなのか。

 以前、サッカー王国の虜になっていた私は、相手チームを折伏するために、マクベスの魔女のようにお鍋をぐつぐつ煮てみたりもしたのだが、2011年の私は、もはやそれらの呪縛から解き放たれていた。
 日の丸に見立てて、金時ニンジンを輪切りにするという手もあったが、あまり美味しそうじゃない。4ミリほどの厚さの短冊に切ることにした。
 鍋に人参を入れるという取り合わせは、決勝の延長戦でのザック監督の采配にも似て、初の試みだったが、絶妙な酒粕鍋が出来上がった。

 戦勝鍋…そういえば、もうずっと昔、私が最初に嫁いだ家では、毎年8月15日の献立は、水団と決まっていた。昭和ひとケタ世代の義理の両親が、戦争中の苦しさを忘れないために…と、次世代の私たちに強要するでもなく、自らに課して実行していたことだった。敗戦鍋。

 …紅白の彩りも美しい鍋を前に、そんな遠い日の出来事を想い出す。
 代表チームが艱難辛苦の末、手に入れた祝杯のご相伴にあずかる私にも、むしろ、あり合わせの鍋がふさわしいのかもしれない。
 音楽家にとっては、本番前…演奏会のカウントダウン期間中も臨戦態勢、と、言えなくもないから、これまた戦時下の糧食である。
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