長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

伽羅当世檸 ベランダ床下

2022年06月06日 21時11分27秒 | 歌舞伎三昧
 その疑念がわが胸に頭をもたげたのは、実を言えば先月のことであった。
 檸檬の樹に無邪気に寄宿しているのは、どうやら常のアゲハじゃない。

 葉の影に隠れた彼の存在を知らなかった或る朝、根方に水を遣ろうとした手が小枝にぶつかって、大きく揺れた。
 突然、カーマインレッドの筋がひらひらっと閃いたのだ。
 …?? レモン花の雄蕊の散り残りかしらん、サフランじゃあるまいし、ハテ扨てこんな色だっけ??? 
 しかも今季、ビアフランカ種の二株には、花はほとんど付かなかった。
 いぶかしく思ってよくよく見たら、下葉の陰に緑くんが居て、赤い二本の角をチロチロさせていた。

 ぎょっとして言葉を失ったものの、いや待て、レモンアゲハ(ナミアゲハの当家の呼称)のツノは、こんなじゃない、綺麗なレモンイエローだったはず…(目撃者は語る)
 急いで証拠写真を撮ろうと、室内に戻ってスマフォを引っ掴み、息せき切ってベランダに取って返すも、みどり君は何ごとも無かったように、涼しい顔でちんまりと葉陰に居た。

 (ぅわぁぁぁぁ…!!!)うちにいるのはアゲハじゃない…アゲハの皮をかぶった何者かなのだ……!!
 ママが怖い…と、楳図かずお先生の怪異におびえるキャラのように、彼らがうちに来たこれまでの経緯を密かに胸の裡で検証してみた。



 思えば、彼らが葉陰に姿を顕したとき、去年までの幼虫とどことなく違って奇妙な印象を受けたので、ひょっとしたら害虫かも…と不安に感じたのだったが、数日たって白黒のクジラ幕組に変容したので、ぁぁ、やっぱり揚羽だった、と胸をなでおろしたのだが、人間の第六感、虫の知らせを侮る勿れ、









 今年のみどり君たちは健康優良児だなぁ…と、育ちっぷりの見事さに目を細めていたのだったが、蛹化のため一人減り二人居なくなって、移動中の彼らをうっかり踏み付けないよう、恐る恐るベランダに足を踏み出し、さて、皆はどこへ行ったのやら…振り返ると我が後ろのサッシのヘリに緑色のしん粉細工が…



 (ギャァァァァ……)
 普通のアゲハらしい体勢で前蛹化したので、杞憂であろうか、と思えたのだが、



 演奏会から帰った夜、あまりに気になって薄闇のなかを透かして見ると…
 ……ぁあら、怪しやなぁ



 うぬもただのアゲハじゃあるめぇ…
 ゴブラン織りの衣装をまとった、蓑虫にも似ている、どうもこの子は並の揚羽じゃない。





 あんなに緑色だったのに、どうしてこんなことに…
 居ても立ってもいられず、グーグル先生に教えを乞い、あれこれword検索をかけてみましたところ、アゲハチョウの種類と幼虫の違い、というような記事を纏めて写真まで丁寧にアップしていらっしゃる、奇特な御方のサイトに辿り着きました。
 ありがとうございます(。-人-。)

 そんなわけで、舞台は床下から河連法眼館へ、ドロドロドロ…と仁木弾正ではなく狐忠信が出て参りまして、四の切に。
 静御前は何と言っても当代福助の声が我が脳裏に浮かびます。

   さてはお主は…黒揚羽じゃな…!! (字余り)

 予てより、令和4年5月中旬から6月上旬にかけて、我がベランダには8頭のクロアゲハ(恐らく)が育っていたのでした。
 ノブナガ君ファン的に申しますれば、エイト・ヤスケーズ。
 (スリー・ディグリーズみたいに言うな!)





 さて、本日は先ず、これぎり……

※本名題『めいぼく・あづまのれもん』(当世=とうせい=東生)の檸檬、これにて一巻の読切りでございます。
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時空を超えて

2021年06月19日 03時34分34秒 | 歌舞伎三昧
 なんと懐かしい…!!
 
 NHKの伝統芸能鑑賞番組が、いつのころからか少なくなり、現在「にっぽんの芸能」という番組に集約されてしまっているようですが、私が青春を傾けた時代の憧れの名女形・七世中村芝翫(神谷町)の特集を放送しておりました。
 今現在の時点における一般に向けた業界の情報収集のため毎週録画しているだけで、積読ならぬツン録状態になってTVチューナーのメモリーを徒らに増やしているだけだったりもするのですが、深夜に起きだしてうっかり見てしまいました。

 番組序盤で紹介された1976年歌舞伎座の「京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)」は、立三味線が松島寿三郎師で、我が師匠・杵屋徳衛が前名・勝衛の時代に勤めた舞台の録画でした。本番直前に芝翫丈が「み、水…」とおっしゃって、山台四枚目に居た徳衛の目の前で、おつきの方から水をお飲みになったとか、そのとき、顔がでけぇなぁ、と思ったとか。

 平成2(1990)年の11月歌舞伎座で当時の中村児太郎丈の、清元の舞踊「吉原雀」を観た私は、そのくねくね具合にショックを受け、その印象を三か月ほど反芻しているうちに、神谷町の成駒屋熱、というものにいつしか罹っておりました。
 しかし、若さゆえのミーハー活動に重心を置いてはいけないので、当時から言われていた、いぶし銀の玄人受けする役者である御父君の舞台を見て、本物の芸が分かる人間にならなくてはいけない…!と、小娘なりに心に決めた20代後半だった私は、七代目芝翫丈の舞台を一生懸命見続けたのでした。

 1993年11月、歌舞伎座での芝翫丈の京鹿子娘道成寺は、神谷町の番頭さんに「は列35番」の席を取って頂きました。
 白拍子花子が登場して直後の道行、花道七三のスッポンのある辺りで、筥迫の手鏡で顔を直して懐紙を丸めて客席にぽいと捨てるサービスがあるのですが、その、丸めた懐紙をgetできる権利は、その席に座ったものだけに在ります。
 ファンとしては一世一代のハレの観劇(感激)日…その日のために私は、小紋を新調しました。
 後日、楽屋に伺い、懐紙にサインをして頂きました。
「この懐紙は、今年九十になる伊東屋の双子の会長さんが、御自ら手で漉いてくださったんですよ」と、お話して下さいました。
 歌舞伎座の楽屋は和室ですので畳の間なのですが、神谷町のお部屋には、とても美しいペルシャ絨毯が敷き詰められていました。

 さらに時を移した後日、その先代歌舞伎座の同じ楽屋で、お馬さんがとてもお好きだった神谷町が、ダービーのレース展開になぞらえて、白拍子花子のペース配分のお話を教えて下さった僥倖にもあいました。
 これはオフレコで…とおっしゃった言葉をたがえて申し訳なく存じます。ごめんなさい。

 番組で、三歳の芝翫丈がお祖父様の千駄ヶ谷の五世成駒屋、そして六世歌右衛門丈の三味線で越後獅子でしょうか、ご自宅の稽古場でさらっている貴重な映像を流していました。
 なんて達者な…雀百まで踊り忘れず…という言葉そのままのような。

 ゲスト解説者の渡辺保先生が、芝翫丈を奇蹟の女形と形容し、歌舞伎の最大の魅力である“非合理”さを体現した、類まれな存在感を持つ女形だったとおっしゃって、私も深くうなづきました。
 ペーペーの若輩者には不可侵の、何物にもゆるがせられない芸の厚みと深み、魂の高みがありました。
 くだらない理屈を考えてる間に実践せよ、と、お叱りを受けているような、芸能は、でも、芸術でなくてはならぬ…と、生涯をかけて藝に打ち込む者のみが到達することのできる深淵がそこに、ゆるぎなく存在していました。
 同番組で取り上げられた「春興鏡獅子」も「十種香」も、リアルタイムの舞台で我が脳裏に刻み付けられ、改めて顧みますれば、私が審美眼・価値観の基になっています。
 
 さて、モニターは山科閑居の場を流しておりますが、舞台中継(舞台の記録映像)は、被写体に、こんなに寄ってしまってはいけませんなぁ。
 古典を演じる役者のキモはその全体像、空気感に在ります。こんなに顔をアップにしてもグロテスクでしかありません。
 歌舞伎という芸能の本質を誤って伝えてはいけません。残念です。
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平家蟹

2020年04月16日 02時11分00秒 | 歌舞伎三昧
 月暦で今日は、令和二年三月廿四日。
 旧暦の寿永4年(西暦だと1185年にあたる)3月24日は、壇ノ浦の合戦で平家が滅んだ日であるから、我が国のもののあはれの根幹をなす母胎ともなった一族を悼みたい。

 1991年、平成3年3月の歌舞伎座。
 昼の部、相生獅子で、当代時蔵と福助(まだ児太郎時代)の時分の華の競演に圧倒され、次の幕で九代目宗十郎、紀伊國屋の女鳴神に魂をむんずと掴まれるという、その後の人生を左右される芝居に廻り合った、忘れ得ぬターニングポイントの観劇月。

 その夜の部に、神谷町・七代目の芝翫が、平家の官女の生き残り・玉蟲を演じたのが、岡本綺堂作『平家蟹(へいけがに)』であった。六世歌右衛門、大成駒の演出だった。
 戯曲自体は大正時代のもので、昭和になってからも何度か舞台にかけられていたらしいが、私は初見。
 戦に敗れ、零落した女たちの、♪星の流れに身を占って…こんな女に誰がしたんだ、してくれちゃったんだよう…!という恨み節の物語であり、怨念に支配された陰鬱な芝居であるが、ある意味、成駒屋の本領発揮、ともいえる世界である。

 なんといっても度肝を抜かれたのが、大道具…今では舞台装置というのでしょうけれども…の、舞台一面をおおう海底の暗がりの中でうごめく複数の、大ぶりの平家蟹たちであった。
 カニ自体の造形も物凄く、音もない闇の世界でガサゴソと犇めきながら脚を揺らめき動かす、この世のものとは到底思えない大掛かりゆえの労苦、くふうを伴う作業であろう大道具の職人さんの働き…その、あまりにも怪異な綺堂ワールドを現出する蠢きようたるや……筆舌にとてものことでは尽くせない凄絶な世界に、すっかりシビレた。

 小学生低学年のころ、テレビアニメに『妖怪人間ベム』という番組があり、異次元空間へと誘う笛の調べとともに始まるナレーション「…それはいつのことか誰も知らない…」、薄暗い理科の実験室のような場所の、机の上のビーカーが割れて、溢れた流動体がむくむくと闇の中で蠢き、個体となって姿を現す、そのオープニングのあまりの怖さに直視することができず、いつも茶の間の奥の客間の襖に隠れて顔半分だけ出して、「終わった? 終わったら教えてね」「はいはい」…と家族のものに合図してもらって、タイトルが出たあとからの、本編を見る。
 そんなに怖けりゃ見なきゃいいものを、どうしても見ずにはいられないほど、醜怪な現実の人間よりも、仁義礼智信という点ではるかに人間らしく正義感に満ちた、妖怪人間ベム・ベラ・ベロの物語が好きだったのである。

 その、闇の中に蠢くよく分からない生命体。
 平家蟹は、歌舞伎世界を構築する、もう一方の主役・大道具さんのその技術・技量を魅せるための芝居でもあったのだ。

 数年後に(1997年3月)再演されて、待ってました!! と見に行ったのだが、以前見たようにはカニさんが動いてくれなくて、全然面白くなかったのだった。大道具さんが代替わりしてしまったのだろうか…とにかくガッカリ、失望した。
 舞台とは、かくも微妙なものなのである。
 かように、伝統を現代に紡ぎだす立場の者の、責任は重大なのである。

 …そんな芝居の味を知っているものだから、一昨年、『風の谷のナウシカ』が歌舞伎化される、というニュースを耳にしたとき、おお、神谷町のDNAを継ぐ者である七之助なら合っているかもしれない、と思った。
 思ったまま時は流れて、その舞台には立ち会えず仕舞いだったのではあるけれども。
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夏の終わりの二人椀久

2017年08月28日 22時07分07秒 | 歌舞伎三昧
 今日は本来の七夕の日なんだけど、誰も何も言わないな…と寂しく思っていた。
 今年の暦は五月が閏だったから、新暦の7月7日のときはまだ二度目の五月の十四日で、それから二月あまり。心躍る夏が始まる予感の7月7日の習俗に慣らされた20世紀の者には、どうも孟秋の七月の行事である実感がいま一つ湧かないのだった。
 でも、お星さまは見えた。雲間にピカリと輝く一等星を見たときの心のさざめき、これが節句を祝う清やかな心持ちというものか…やはり七夕は旧暦に限る。

 あんれ、まぁ………
 昨晩の稽古の帰り道、駅のホームを歩いていたら、ごみ箱に似たリサイクル専用回収boxの上に、透明なカップにストローが刺さった状態のものが十数個も林立、放置されていた。缶やペットボトル専用の穴から中に入らないから、その箱の上に置いたまま、ほったらかしにして逃げたのだ。一人が始めると我も我もと、罪悪感が薄まるせいか、山になって見るも無残な有様なのだった。見苦しいこと堪えられないので見ないようにしていたが、これを直視して片付ける役回りの人は大変だ。

 こういうことが平気な人間になっちゃぁいけないょ…自分の心無い行為がいったいどのくらいの人間の迷惑になるのか、想像できなきゃ、真っ当な大人にはなれませんぜ。
 だいたい、長距離を移動するわけでもない街なかの電車という動く物体の中で、さらに流動してこぼれ易い状態の容器を持ち込んで飲むこと自体、前世紀の人間には考えられないことなのだった。
 駅に入っているファストフードのチェーン店も売れればいいものだから、何の配慮も注意もなく害悪を垂れ流す温床になっていることにも気づかないで、オシャレな人気ブランド店であるとの錯覚の下、商売に余念がない。
 なーんか無策だなぁ。核廃棄物の捨て所がまだ見つからないのに、バンバン原発で電気作っちゃってるのとおんなじだなぁ。

 一事が万事、人間のなすことは不細工ですね。
 この誰とも分からぬ飲み残しのごみの山を見知らぬ誰かであろう駅員さんが片付けるのかと思うと、実に可哀想である。切符を切る作業から解放はされたものの(でも改札口でのあの一連の手際のよい動作がカッコよかった時代もありましたね)、遅延による様々な手当て、酔客の世話やら小間物店の片付け…あれは平成の一桁時代でしたか、職業別寿命、みたいな統計を見たことがあって、平均寿命が一番短いのが、鉄道員、駅員さんだったのだ。
 電車が時刻通りに無事運行できるかという本来の業務に加えて、さらに聞き分けのない自分勝手な乗客の相手まで、どれだけのストレスを抱えながら日々就業しているのかと想像するだに涙が溢れる。

 …余談が過ぎたので、とにかく、私はホームで電車を待ちながら沈思黙考していた。

 己の欲せざるところ人に施すこと勿れ、という言葉を知らないかなぁ…誰が始末すると思ってるんだぃ。
 誰が片付けると思ってるの!!と、やんちゃが過ぎる私は、家の中を散らかしてはしょっちゅう母に叱られていた。子どものころよく叱られたおかげで、今ではどうやら、人並みな思考ができるようになりました。お母さんありがとう、と、カーネーションの時季でなくても、十日の菊になる前に表明しておこう。

 相手の身になって考える、ということができなくなった社会になって久しい。明日は我が身、因果は廻る、情けは人の為ならず…なんてことはことわざ解説の方に任せておいて、長唄人として何ができるだろうというと、それはまぁ、手っ取り早くは曲の解説でもあろうか。
 さぁて、相手の身になって考える→→そんな長唄あったかなぁ→→映画には他人とひっくり返っちゃう映画があったね、…ほら大林宣彦監督の、オレがあいつでアイツが俺で…とかいう原作の、何だっけ…ふたり?いや違うタイトルだったな、何だっけ…ぁぁ脳髄の底の映画ょ、君の名は………

 と、記憶の大海に捨て小舟は翻弄され、映画のタイトルは思い出せなかったのだけれども、そうだ!二人といやぁ、二人椀久!! 長唄の《ににんわんきゅう》があったじゃないの、松山と椀久が入れ替わった振りをするところが…!!

 そんなわけで、駅で電車を待つ間に、ご案内する作品が決まりました。
 『二人椀久』といったら、ついつい浮かれて踊りたくなってしまう魅惑のダンスナンバーなのだ。
 椀屋久兵衛という、大坂御堂前の豪商の御曹司が、新町の松山という遊女に入れ揚げ、家財を湯水の如く浪費したので(散財する前に蓄財したものの苦労を知ってほしいものでありますね)、一族の座敷牢に閉じ込められた、という実在の人物をモデルにしております。(没年は延宝五=西暦1677年、九月七日のこととかや:四代将軍家綱公の治世であります)
 ♪たどりゆく、今は心も乱れ候、という唄いだしの歌詞は、江戸時代の歌謡を集めた元禄十七年刊の落葉集にも収録されていて、長唄としてもかなり古い部類に入り、歌舞伎や人形浄瑠璃にも幾たびとなく取り上げられ、椀久ものという、男の狂乱物の嚆矢として1ジャンルを築いた人気キャラ。
 狂乱して彷徨う椀久が、自分の瞳の中に松山を見出す、その面影、幻影とともに、時には謡曲の『井筒』を引いてしっとりと、時には狂おしいほど狂騒的なテンポでリズミカルに踊りまくる、緩急の差の激しい大曲が、長唄舞踊の二人椀久なのである。

 であるから、二人椀久の舞台を想い出すとき、長唄の地はさておいて、タタタタ、するするする…という本物の音ではない、立方さんから発される擬音のイメージが蘇る。
 踊り上手、というものは、バタバタしないのである。曲芸ではない身体芸術。
 若さゆえの勢いだけではない、年齢を重ねた表現力と技術、というものが日本舞踊には存在するのである。
 だから日本の踊り手のピークは西洋のそれと比べると、たぶんビックリするほど高齢になる。
 
 特に洋楽好きな方におススメのメロディは、織部の薄杯(うすさかずき)で、よいさ、しょんがえ…と乾杯するところ。オペラの何だったろう、紗幕が上がって不動のスタイルで待機していた人々がプロージット!と盃を酌み交わして動き出すシーンによく似た雰囲気を醸し出している旋律が、不思議な類似点だなぁ…と感じて、私は気に入っている。

 さて、20世紀の歌舞伎舞踊『二人椀久』といえば、四代目中村雀右衛門×五代目中村富十郎が決定版でありました。
 あるとき私は、築地の今は亡き先代京屋のお宅に伺って、二人椀久の藝談をうかがうという僥倖を得た。
 まだ二月の寒いころだった。冬の日の明るい午後の陽が、モダンに大きくとった障子の嵌った窓から柔らかに差していた。
 京屋は大きい襟の立った真っ赤な半袖のシャツ、金のネックレスやブレスレットで美しく身支度し、障子紙越しに交差する光と陰の中で、活発で朗らかにお話ししてくださった。
 「今日のために取り寄せたんですよ」と道明寺の桜餅を手ずから取り分けてもくださった。
 京屋が動くたび大ぶりのアクセサリーがジャラジャラと鳴って、なんだか私はアクシデントのため無音のラ・シルフィードを手首に巻いた鎖のサラサラいう音だけで踊った山岸凉子の少女漫画を想い出していた。

 京屋は昭和18年の鳥取大地震の折、巡業先で客死された父君の大谷友右衛門の名跡を継がれたこともあり、子どものころは立役の修業しかしていなかったそうである。
 戦後、いっとき映画の世界でご活躍なさっていたこともあった。
 もちろん時代劇にたくさん出てらして、映画好きの間では市川崑監督の『青春銭形平次』、一般女性客には佐々木小次郎の役が人気だったそうであるが、私には名画座で見た溝口健二監督1954年作『噂の女』の変わり身の早い青年医師の役が面白かった。

 戦争に取られて南方で終戦を迎え、復員して別な職業に就こうと思っていたところ、もう無くなったとばかり思っていた歌舞伎がまだあった。飛ぶようにして観に行き、夢中で見ているうちに涙がぽろぽろこぼれてきて、どうしても役者に戻りたい気持ちが沸き上がってきた。高麗屋に改めて弟子入りし、当時女形が不足していたこともあって、お前がやれ、ということになって転向なさったそうである。
 自分は目が小さかったのでどうしようと思っていたら、ある時おじさん(岳父である七代目松本幸四郎、今の幸四郎の御祖父さんですね)がこれを使えと、黒いものを持ってきて…などと気さくにお話ししてくださった。御苦労をなさっただけ飾り気のない、分け隔てなく万人に優しくすこぶる前向きで努力を惜しまない、とてもパワフルでチャーミングな方だった。
 年とともに枯れてゆく藝境なんて考えられない、ともおっしゃった。
 ある年の雀右衛門の会で、本興行では滅多に掛からない『英執着獅子』を番組になさったことが、とても印象に残っている。
 
 松山を踊る京屋の記憶から椀久の男の狂乱に思いをいたしていた車中(ホームから無事に電車に乗れたのです)、本編の盛り上がりをよそに、主人公がエンドマーク間際、とても寂しい狂乱状態に陥って、何だかなぁ…と思ってしまった映画に、大川橋蔵の『月形半平太』があったことまで想い出した。
 もう25年以前、先代文芸坐だったろうか、一緒に観た友人に、なんでああなっちゃうんだろう、詰まんないですよねぇ、と言ったら、だって原作がそうなんだから仕方ないじゃない…と困ったように呟いた。その困惑した眼差しを、なぜだか今でも覚えている。
 
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平成25年の“ハローアゲイン”

2013年05月31日 00時51分55秒 | 歌舞伎三昧
 ひょんなことから、すっかり諦めていた歌舞伎座5th杮落し興行へ行けることになった。
 ご同道下さったのは、つい半年前から歌舞伎を見始めたという、美しく可愛いお嬢さんである。
 なにしろ切符の争奪戦が激しい、ということもあり、昨年末、番組が公表されたときは、ひとしきり開場熱が一段落ついたころにお邪魔しよう…6月の夜が『助六』。先代さんに別れを告げた同じ演目だし、これは何となく、ここからいらっしゃい、という芝居の神様のお告げかも…と思っていたのだが、成田屋が旅立って、途方に暮れた。
 そこへ、やはり、芝居の神様のご配慮でもあろうか、本当に思いもかけないめぐり合わせがあって、5月の昼の部に突然行けることになったのだ。
 番組は当代・坂田藤十郎『先代萩』、そして仁・玉『廓文章』。

 当代歌舞伎座との初目見得。番組に合わせた着物でご挨拶したいところである。
 時代物好きな私は、まさに、先代萩対応の意匠、竹にふくら雀を型染した縮緬の名古屋帯を持っている。そして廓文章には、いかにも芝居のなかの室礼を写した繭玉の染め帯も。
 心中、ガッツポーズをしたいところだが…しかし生憎と二つとも冬の衣装。
 5月も下旬に入るところで蒸し暑い日も続いていたので(そして旧暦の四月朔日を過ぎていたので)、大名縞の黒お召の単衣に、燕柄の織り帯にした。
 きものを着てお芝居に…歌舞伎座に行ける…!! なんとこの日を待ちわびていたことか。

 以前は東の塀の向こうに庇が見えるだけだったお稲荷さんが、歌舞伎座の表に遷座ましまして、私ははじめてお参りした。
 開場までの何ヵ月か、新しく出来上がった懐かしい唐破風に櫓が上がった大正面を遠巻きに眺めるたび、この玄関を通ってロビーに入ったら、号泣しちゃうに違いない…と気構えていたのだが、あまり違和感なく設計された新顔の歌舞伎座は、むしろ私を柔和に迎えてくれた。
 そして受付までの両脇にずらりと並んだ番頭さん達。机に、いままで無かった名札が添えられているのも新時代のお客さま対応であろう。

 新しい歌舞伎座は、新橋演舞場や明治座、それから東宝系のミュージカル劇場をミックスしたような、モダンな構造になっていた。なんと、全階エスカレーター完備なのである。
 そして、「想い出の名優」の回廊に行ったとき、この3年間に思いもつかぬほど増えてしまった肖像を見たら、泣き崩れるに違いない…と密かに案じていたのだが、なぜか私は彼らの顔をほほえみをもって、なつかしい旧友たちに挨拶するように受け入れることができたのである。

 それはやはり、1階から3階までをぐるりと見て回って、やはり、このものは、かのものとは別のものである、と…新しい歌舞伎座は新しい歌舞伎座であって、私の歌舞伎座ではない、ということに釈然として得心がいったからなのである。
  
 高砂屋の八汐に、ぁぁ珍しいものを観た、長生きはするもんだね…と独りごちながら、幕間で再び、あらここはこんなふうになってた…キャッキャッとニュー歌舞伎座探検に興じ、さて、廓文章。
 たとえようもなくビックリしたのは、舞台上に、先ほどまでの自分がいたからである。
 放蕩が過ぎて勘当された大家のぼんが、久々に訪れた、かつて慣れ親しんだ遊廓・吉田屋の座敷のあれこれを、懐かしく喜び飛び跳ねて見回している様は、ついさっきの私と一緒だ。
 つっころばしの後ろ頭を雪駄でぴしゃり、と張ることしか思い浮かばなかった自分が、放蕩息子に共感する日がこようとは、夢にも思わなかった。
 …そうか、芝居の神様はやっぱり、今日の私にこのようなドンピシャリの演目を、誂えて下さったのだ。

 そして、松嶋屋の伊左衛門は余りにも可愛過ぎて、ただただ、泣けた。
 つきぬけた天衣無縫の無邪気さ。これは本当に若いものには出来ない。これこそが、世阿弥いうところの「まことの花」というものであろう。
 ここへ来て、この片岡仁左衛門という役者は、さらにバージョンアップしているのである。
 これだ。これです。(ことあるごとに、若い才能を欧米由来の演劇に流出させている現日本の芸能界に歯噛みしながら、恨み節のようにこのブログでもそう言ってきたわけではあるが)
 …こういう藝境が存在し得るのが、日本の演劇の凄いところなのだ。

 帰りしなにも、私はしゃべり続けた。ここにはおでん食堂があってね、カレーのスタンドと、お蕎麦屋さんもあった、そうそう、この置時計はむかし1階の会長室の脇にあってね、そしてこの銅像はロビーの……年寄りの勢いとは恐ろしいものである。
 ご一緒して下さったくだんのお嬢さんは、ニコニコと黙ってうなずいてくれた。
 それが私はとても嬉しかった。
 これから、この新しい歌舞伎座と、この新しい歌舞伎ファンのお嬢さんは同じ時を刻み、この小屋の時代を築いていくのである。

 木挽町をあとにしても、なにやら私の記憶にはよどみがなく、むしろ、かつてあそこにあったあの歌舞伎座の隅々までの姿が、ますます鮮やかさを持って脳裏に浮かんでくるのだった。
 いや、脳裏どころか。目の前に浮かんでくる。そう、いまコンピューターグラフィックならいくらでも描き出される、城壁が崩れるとその向こうに、隠れていたもうひとつの建物の外郭が出てくるという塩梅に。

 なんだ。3年前、私は歌舞伎座に“アデュゥ”なんて別れを告げてもみたのだったが、彼は別にいなくなったわけじゃなかった。
 今もこれ、この中に…私の胸の中、というよりも、五感がすべて覚えていて、ここに…我が身の内に在ったのだった。

 そうして、歌舞伎座は…成田屋や神谷町、京屋、天王寺屋、中村屋、そして大成駒、播磨屋、橘屋、音羽屋、山崎屋、紀伊国屋…etc.私の青春のすべてが詰まっていた、あの芝居小屋が…無くなることは、もうないのだ。
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桜咲いたもご存じない

2011年03月29日 21時30分00秒 | 歌舞伎三昧
 3.11の四日ほどのち。稽古場へ向かう井の頭線の、いつもなら車窓からの景色など望めようもないほど混んでいる車内はガラガラで、最近凝っている詰将棋の本を読む気にもなれず、ぼんやりと、正面の窓から外の景色を眺めていたら、真紅色の桃の花が見えた。
 「柳はみどり、花はくれない」。いつの間にか、そんな季節になっていた。

 地上に何が起きようと、四季はめぐり、花は再び開く。
 そういえば、今年は沈丁花の匂いに気がつかなかった。…そう思ったあとの彼岸のうちに、知人の葬儀に向かった先で、かの花の今年もあるに気づいた。かすかな香りに在りかを探すと、葬祭場の門柱のわきに、うつむいて咲いていた。

 …そして昨日。気がつけば、桜が咲いていた。偶然、開花宣言の、染井吉野の標本木のある九段の辺りにいたのだが、私は北の丸公園から竹橋のほうへ歩いていた。千代田城の石垣を眺めながらお濠端をゆけば、大寒桜、寒緋桜も、枝をたわわの花盛り。
 「サクラサク」。日本人には特別な呪文であるこの言葉を、迂闊にも失念していたのだった。

 人間は桜の花を、自分が生きていた年数と同じ回数しか、見ることができない。
 考えてみれば、四季折々に咲く花はすべてがそうなのだが、とりわけ桜は人々を、今日を逃したらもうめぐり会えないような、刹那的な切ない気持ちにさせる。
 咲いている期間が短いから、想い出が圧縮される。これが常夏の国のハイビスカスだったら…あれはハイビスカスの花の咲くころ…って、いったいいつだっけ?年がら年中咲いてるしぃ~的な感じになってしまう。

 「…散る花にも風情がある」と、真山青果『番町皿屋敷』の序盤で、青山播磨はつぶやく。梅は咲き初(そ)めたときが絶品だが、桜は散りかかった姿がいとしくて、えも言われぬ。
 以前、現・勘三郎が春に旅立った歌舞伎役者の話をしていた。それが、自身の父・先代中村屋の葬儀の折のことだったか、六世歌右衛門のときだったのか、あいにく忘れてしまったのだが。
 やはり桜のころの葬式で、亨兄さんの棺桶に、桜の花びらがはらはらと降りかかり、それがとてもきれいで、そしてとても悲しかったことを想い出した…と、語っていたことだけ覚えている。

 亨兄さんとは、紀尾井町の初代・辰之助である。連獅子の、キリリきっぱりとしたまなじりが、今も瞼に浮かぶ。私が最後に辰之助を観たのは、亡くなる前年の昭和61年、国立劇場開場20周年記念(たぶん)公演の、『仮名手本忠臣蔵』五段目、斧定九郎である。
 顔色がもう真っ青で、ぞっとするほど鬼気迫る定九郎だった。稲木からぬっと伸び出た腕と手指のかたち。鉄砲の玉が体に入って、口からたらたらと血筋を流してジタバタ蠢くそのさま。
 聞けばその月、実際に楽屋で、血を吐きながら勤めていたそうである。
 圓生や彦六の正蔵の「中村仲蔵」のテープを聴くたび、私はずいぶん長い間、辰之助のことを想い出さずにはいられなかった。

   春しあれば 今年も花は咲きにけり
      散るを惜しみし 人は いつらは
 鴨長明の歌である。
 春になって、今年もまた再び、桜の花は咲いた。昨年、桜の花が散るのを惜しんでいたあのお方(たしか長明の父上のことだと記憶している)は、どこに行ってしまったのだろうか…桜の花は今年も咲いたけれど、花の寿命の短いのを残念がっていた父自身が、今年はもうこの世にいない。
 亡くなった父君への挽歌である。

 そして今年も、桜は咲く。


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男伊達ばやり

2011年01月11日 01時23分00秒 | 歌舞伎三昧
 「男伊達ばやり」という芝居がある。もう十数年前。男ざかりの当代成田屋、市川團十郎がひたすらにカッコよかった。
 国立劇場の花道七三で、畳んだ手拭いだったか半纏だったかをパシッと肩に掛けて、「男伊達を、流行らせようぜぇ」と、舞台の当世菊五郎に言った、あのセリフと姿が忘れられない。話の筋は他愛のないものなのだが、理屈はどうでもいい、おおどかな味わいのある芝居こそ、歌舞伎の醍醐味だと思う。
 また、そういう大ウソの世界を、臆面もなく演じきれるものこそが、歌舞伎役者なのだ。
 今は亡き紀伊国屋の「女伊達」…いや、「女暫」も、かっこよかったなぁ。

 最近巷では、「伊達直人」ばやり。
 このキャラクターは、わが世代には捨て置くことができない。
 小学二年生だったろうか、クラスの男の子が、一晩であの、「タイガーマスク」のマスクをつくってみせる、と、大見得を切ったのだった。
 へえぇ、じゃ、出来なかったらどうする? 「丸坊主にしてやるよ!」と、言い出しっぺのI君は叫んだ。
 小学生はすべてに極端で大胆な発言をしてしまうのだった。 
 翌朝、やっぱりI君はつくってこなかった。成り行き上、賭けの受け手になっていた私は、仕方がないので、すでにして五分刈りだったI君の前髪の一、二本を、二、三ミリばかり、切った。
 クラスの連中も、それで事はおさまった。

 昭和40年代の小学生にとっては、大山といえば将棋の大山康晴名人ではなくて、大山倍達。少年誌では、相撲界に代わって、野球界の長嶋・王か、プロレス界の馬場・猪木の、各界の黄金コンビが表紙を飾っていた。プロレスはもっと、一般紙の新聞でも、スポーツ欄のトップに来ていた時代だった。
 子供向けTVアニメ番組では、「空手バカ一代」「キックの鬼」など、「巨人の星」「侍ジャイアンツ」というような野球漫画以外にも、多種多様なスポ根ものがひしめいていた。ユーモア小説味が強かった「いなかっぺ大将」も面白かった。女子に人気があったのはバレーボールの「アタック№1」。
 (私にとって「ドカベン」「エースをねらえ!」は中学生時代のスポ根なのだ)
 実写ドラマでも「柔道一直線」「サインはV」、「金メダルへのターン」という水泳もの、タイトルが想い出せないが、プロボウラーのスポ根ものもあって、あの時代流行った♪中山律子さん、というメロディとともに、ライバルの執拗な嫌がらせと謀略を描く、ある試合の1シーンを、よく思い出す。

 「さすらいの太陽」という、芸能界根性マンガもあった。シンガーソングライターを目指す少女の、出生の秘密という母子物の定石である設定を軸に、長谷川一夫の芸歴エピソードなどを主人公に当てはめて、まさにその時代のテレビドラマの要素を網羅した、手に汗握るメロドラマ・スポ根だった。
 「タイガーマスク」のエンディングと双璧の、秀逸なバラード系のエンディングテーマが、いい曲だった。今でもたぶん、そらんじて歌える。
 世の中すべて、ど根性、だった。

 今思えば、日本国中、みな、しみじみと健気な生き方をしていた。
 いつからだか日本人は、心の満たし方を間違えたのだ。
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国境

2010年11月07日 19時09分00秒 | 歌舞伎三昧
 川端康成の『雪国』の冒頭に、「国境の長いトンネルを抜けると…」という記述がある。
 この国境はみな「こっきょう」と読むが、作者本人は「くにざかい」というつもりで書いたのだと、昔、誰かに聞いた。
 最近散見する、文章の読み仮名が滅茶苦茶だ。邦(くに)の言葉、訓読みで読むべきところを、音読みでルビが振ってあるので変なのだ。
 歌舞伎の大向うでも、間違った声のかけ方に、客席でヤキモキしていたことがある。
 「九代目」は「くだいめ」、「四代目」は「よだいめ」。「きゅうだいめ」とか「よんだいめ」なんて、言わんといて。車じゃないんだから。

 この感覚は、日常、日本語で読み書きしていた者には自然に身につくものだったが、平成時代になってから、気がつかないうちに、日本文化は日常に身につかないものとなっていたのだった。

 このところ、世の中が騒がしくて、本当に気が気じゃない。
 お隣との境界は、個人宅でさえ遠慮して、曖昧にしている。あまりに明確に主張し合うと、ぜったい争いになる。昔は生け垣だったりして、子供は植え込みの根方の隙間をくぐって、往ったり来たりできたから呑気だったねぇ。いい時代でしたョ。
 お互いさま、という言葉が日常にあって、隣同士のことだから…とご近所づきあいは持ちつ持たれつ、互いに遠慮したり気を遣ったりして、ある程度許せるようなことには目くじらを立てなかった。みな、お互いの我慢の限度というものを察知していたからだ。

 以前読んだ本にあったことで詳細は忘れてしまったが、元禄時代、とある人が朝鮮半島との国境付近にある無人島を開墾したいということで、幕府に嘆願書を出した。
 時の五代将軍・綱吉政権では、「あの島は隣国に近いので、相手の国のことも考えて、触らないようにしたほうがよい」という意味合いの理由から、却下したそうである。

 なんて奥ゆかしい、と、そのとき私は膝を打った。21世紀の日本の国がこのようになるとは思わなかったから、そういう曖昧な状態が容認される世の中に、喝采を送ったのだ。

 こんな感覚、古い日本人にしか分からない。
 最早、そういう奥ゆかしい隣人幻想は通用しなくなってしまったのだ。
 自分の主張をすることしかしない、ある意味、西洋的感覚に覆われた地球で、日本も何とか生きていかなくてはならない。
 …いったい、どうしたもんでしょうねぇ。

 江戸から明治にかけて七五調の名調子のセリフで大人気、現代にもファンが多い、歌舞伎脚本家の河竹黙阿弥は、「なんだか、世の中が戦争をしそうな感じになっちゃってきたし、もうこんな世の中イヤだから、俺はもう死んでしまおう」と言って、亡くなったそうである。
 その翌年、日清戦争がはじまった。

 このエピソードを聞いた時、私はもう、胸がいっぱいになってしまって、ぼろぼろ涙を流した。
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アデュー,歌舞伎座

2010年04月17日 19時19分24秒 | 歌舞伎三昧
 昭和の歌謡映画みたいな表題になってますが…。
 歌舞伎座の本当に本当のさよなら公演、平成22年4月公演の切符が取れない、ということで、私は諦めていた。
 思えば昭和の50年代後半から三十年近く、よくまあ芝居に通ったものだ。特に、平成2年、今は亡き紀伊国屋の「女鳴神」の雲絶間之助に魅入られてから、月に幾たびとなく通うようになり、今世紀になってその熱が衰えたとはいえ、考えてみたら、三月と空けて歌舞伎座に行かなかった日はなかった。
 知人からは、こうなると、ことさら感慨深いのではないか、と水を向けられたが、これまでも何回となく建て替えの話が出ては消えしていたし、もう遠い日の夏の花火みたいに感じる…とか、偏屈な隠居のような返事をしていた。
 実際、昭和から今まで、自分が好きだった寄席、映画館など何軒となく閉場していったが、最終日に立ち会うということは、前の池袋演芸場が建て替えの際に閉まった時以外、まったくなかった。池袋の最終日、売店の名物売り子さんだった松本のオバちゃんが「みんな、最後だから持ってってね~~」と独特の言葉尻で、下足の木札を配っていた。しかし、私はもらわなかった。なんだか屍に群がるハゲタカのようになるのが厭だったのだ。

 …そんなわけで、このたびも、そうと知らぬ間に別れて、それが今生の別れになりました…というように、サラリといきたかったので、ことさら別れを告げるのを諦めていた。
 ところが番頭さんが骨を折ってくださって、思いがけなく4月公演に行けることになった。最後の歌舞伎座だ。
 その日はあいにく、冷たい氷雨が降っていた。歌舞伎座へのはなむけに絶対着物でいこうと思っていたが、洋服に変更した。そういえば、昔、台風の日に芝居に行って、歌舞伎座の玄関先で長靴を履きかえたことがあったっけ。偶然同日になった後援会の知人が、あ、あたしも一緒だ、と笑ったのだった。彼女、今どうしているだろう。
 番頭さんが手配してくださった切符は、なんと2階の東の桟敷なのだった。劇場のいろいろな席からどう観え方が違うのか…なんてことを密かに研究してみたこともあったので、2階の桟敷も座ったことがあったが、それは奥の桟敷だった。
 それだけで、もう、私は感激してしまった。1階の桟敷は照明も当たるし、舞台の一部分のようであるから役者からも客席からもよく見えて、気恥ずかしい。その点、2階の桟敷は見晴らしもよく、東ということで花道もよく見え、他人を意識することもなく、ことさらに気持ちがいい。
 この僥倖は、ひょっとすると、この二十年余りの忠孝皆勤への芝居の神様からのボーナスなんじゃないかしらん、と、驚喜で頭がクラクラしながら、まだ定式幕の舞台や、ざわめいている客席を俯瞰していたら、突如、この一つ上の階の、3階の東の袖の席に、若い時分、やたらと座っていたことを想い出した。
 三等席で、幕見を除けば歌舞伎座で一番安い席にも関わらず、東の袖は花道がよく見えるのだ。バブルで一等席から先に売れていた時代、私はこの席の確保に必死だった。質より量、切符をいかに算段するかに、日々腐心していた。

 それからずいぶん歳月が過ぎ、私も歌舞伎座も、いろいろ変った。
 いつだったか、「め組の喧嘩」で鳶職の総見があって、半纏にパッチ姿、信玄袋を提げたおにいさんと2階の廊下ですれ違った。かっこよかったなぁ。…そうそう、2階のジュースコーナーに、秋吉久美子に顔が似ているのにやたらと不愛想だった売り子のおねえさんがいたっけねぇ。1階の喫茶室ではまだ総理大臣になる前の、自由人・小泉代議士をよく見かけた。
 舞台は終幕の「助六」が開いていた。次々と当代の役者が出てくる。一人ひとりに、あのときはこうだった、あんな役もやっていたなあ…と、それこそ、走馬灯のように、芝居のいろいろな場面、歌舞伎座での出来事が浮かんでくる。そしてまた、この役は、今は亡きあの人がよくやっていたなあ、と、次から次へと、その姿が瞼に映る。
 いつの間にか私は妙な興奮状態に陥り、涙をぼろぼろこぼしていた。…「助六」でこんなに泣くなんてあり得ない。たぶんこれが今生の最初で最後だ。1階で間近に役者の顔を見るよりも、ちょっと離れた2階から巨人の星の明子姉ちゃんのように、そっと眺めていると、ワタシノ歌舞伎座年表…のようなものが、ますます脳裏に翩翻とたなびき、あの時この時がよぎっていく。
 それからずっと、初めて担任した生徒たちを送り出す卒業式でのごくせんか、一人娘を嫁にやる父親のように、終始ぐすぐすしくしくしていたのだった。

 こうして当代の役者たちを、歌舞伎座のこの舞台で観るのも、今宵が限りだ。
 それぞれのひっこみの背中に拍手を送りながら、中村屋の通人の「親父の祥月命日にまたぁくぐらされるとは…」に爆笑し、いつしかいつものように芝居に引き込まれて、私は思う存分泣いたり笑ったりしていた。それで、すっかり気が晴れた。
 ハネてみれば、空は雨だが、心は晴れだ。そして、いつものように、なんだかほのぼのとして、あぁ、芝居って、いいもんですねぇ…と独りごちながら歌舞伎座を後にしたのだった。
 主人が居なくなってしまった1階の会長室の扉のわきに、大きな時計があった。記憶では振り子時計だったが、今日見たら違っていた。帰り際にしみじみと見てみた。大きな文字盤の下に、碑文が刻まれていた。
 「わが刻はすべて演劇  大谷竹次郎」
 ……そうだった。この二十年余りというもの、自分もそうだったのだ、と、私は深く、吐息した。
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大向うの目玉おやじ

2010年04月11日 05時55分50秒 | 歌舞伎三昧
 昭和40年代を小学生で過ごした世代にとっては、ゲゲゲの鬼太郎は、もはや血肉になっていると言っても過言ではない漫画である。
 白黒のアニメで夕方、学校から帰ってきて、おやつを食べながら異形の者たちがブラウン管の中を闊歩している様を見続けた。スポンサーのココナツサブレが、南洋の妖怪譚で出てきたサボテンジュースとマッチしていて記憶に残る。
 そのころ妹がとっていた学年誌「たのしい幼稚園」の付録に、鬼太郎ハウスの紙製組立て模型がついていた。ただそれだけで、私は妹がうらやましかった。
 シニカルな視線で世の中を描く水木しげるの独特な人生観…モーレツだとロクなことはない、人間社会は虚しさと怪しさで満ちている…というような人生訓を子供のころから刷り込まれていた同世代は、新社会人になったときに、世間から「新人類世代」と呼ばれたものだ。
 二十代の私は、手元に残したいコミックスとして水木しげるの『虹の国アガルタ』と、山上たつひこの『真夏の夜の夢』の二冊を大切に持っていた。『…アガルタ』はメガネで出っ歯の日本人キャラ・山田が、イースター島やアンコールワットなどの世界の遺跡を尋ね、その悠久の妖かしの世界にハマり還らぬ人になっていく、という一話完結の連作集である。
 これは、テレビアニメで鬼太郎シリーズとしてアレンジして放映された。

 私がもっとも歌舞伎座通いをしていた1990年代、大向うにとてもいい声をかけるおじさんがいた。
 勢いがあるタイプではなく、「なりこまやぁ~ぁ…」「音羽屋ぁ…」「ナリタや~ぁぁ」などと、感極まったように情感を込めて、これがまたよい場面でかける。それで客席一同も、うぅむ、まったくだよ、成駒屋はほんとにいい役者だよねぇ、とか、まったくもって昔の人はよくこんな話を考えたもんだよねぇとか、ますますうっとり、しみじみしてしまうのである。
 私は密かにそのおじさんを贔屓にしていた。
 その声が、鬼太郎の目玉おやじの声にそっくりだったのである。もちろん、あのキャラクターのままの発声ではない。演じていた田の中勇が地声でかけると、そんな感じ、の大向うだったのである。
 私は、今でも密かに、あの大向うさんは田の中勇だったのではないかと思っている。
 田の中勇さんが他界なさった今となっては、もう確認するすべはないのだけれど…。
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忘れじの桜③六世中村歌右衛門

2010年03月29日 00時35分36秒 | 歌舞伎三昧
 今の福助が襲名した時だから、もう十八年も昔になろうか。平成の福助が誕生するとて、歌舞伎座で一度きりの記念上映会があった。
 手元に記録がなく、記憶で述懐するので断定できず申し訳ないのだが、昭和28年だったか昭和32年だったかに制作された、六世歌右衛門の『京鹿子娘道成寺』である。舞台の記録映画というだけでなく、一部をスタジオ撮影していて、全篇物語映画風なつくりになっていた。
 その頃の大成駒は、神谷町との『二人道成寺』などで、一人で道成寺全曲通して勤めることはもうなくなっていた。『伊勢音頭』の万野役など、遣り手婆のようないやらしさをこれでもか、と、ねっとり愉しそうに演じていた。
 芝居はライヴ感がすべてである、と思っていた私は、舞台映画を観るのは気が進まなかったのだが、この映画が上映されることは滅多にない、大変珍しい機会なのである、という福助の番頭さんの言葉に促されて、観に行った。
 ありがたい。親の意見と番頭さんの言葉に、百に一つも無駄はなかったのである。
 おなじみの道成寺の釣鐘をぼんやりと眺めているうちに、私はもうその世界に引きずり込まれていた。ただただ美しかった。成駒屋だけではなく、成駒屋を取り巻くすべてが美しかった。山門の朱、草木の緑、舞い散る桜の花びら。一心にくるくる舞い踊る白拍子花子。
 舞台のなかの野山の春。柳はみどり、花はくれない。戦争に負けて焦土と化した国破れて山河ありの、あの時代に、あの失意のどん底にいた日本に、こんなにも美しいものがあったのかと、大道具の書割の青い空を観ているうちに、私は心が空っぽになって、ただただしみじみと感動して、ただただ涙を流していた。
 映画を観て虚心坦懐、悲しいとも可哀そうとも嬉しいとも思わず、滂沱の涙を流したのは、後にも先にも、これと、あと、中学生の時に観た、フランコ・ゼフィレッリの『ブラザーサン・シスタームーン』だけである。

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観劇のきもの

2010年03月20日 00時56分25秒 | 歌舞伎三昧
 昭和の終わりから平成の初め、私が二十代のころの歌舞伎座には、いわゆる着巧者のおねえさま方がたくさんいて、とてもとても、くちばしの黄色いヒヨッコが着物姿で観劇を、などという度胸が生じる隙とてなかった。
 ある日のこと。私は俳優祭へ行くために支度を急いでいた。もちろん洋装のオシャレだが、気合が入っていた。玄関先に2種類の靴を出して、出掛けに、最終調整として最もしっくりするデザインのほうを履こうと目論んでいた。
 …しかし、二十代の女子というものは、お出かけの支度にいくら時間があっても足りないものなのだ。結局、出かけ際のスタイルをチェックする間もないまま、私はドタバタと玄関を飛び出した。
 中央線の快速に乗っていた私は、御茶ノ水駅を過ぎて人がまばらになった車内で、向かいのシートのキャリア公務員風ご婦人が、しげしげと自分を眺める視線に気づき、何となく不安な心持になった。そこで、自分の本日の観劇姿に何か齟齬が生じているのではないかと、他人にそうと気取られないよう、密かにチェックしてみた。
 ……!!!!! 自分の足元を見た瞬間、私は気が遠くなった。なんと、左右、違うデザインの靴を履いているではないか。
 心臓が凍りつく、というのは、こういう時に使うべき言葉だろう。このままじゃとても歌舞伎座に行けやしない。…そうだ、新しい靴を買って履き替えてゆこう。
 しかし、靴屋さんにたどり着くまでがあまりに恥ずかしすぎる。私は急遽、降車駅を有楽町に変えて、駅から近くて、品揃えがある程度あって、しかもそんな買い物をしていても恥ずかしくない、フランクなプランタン銀座で靴を購入し、履き替えた。
 結局、ものすごく愉しみにしていた俳優祭に少し遅れてしまった。
 この事件以来、私は洋服で歌舞伎座に行くのをやめて、意地でも着物で観劇することを決意したのだった。
 
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歌舞伎座

2010年03月17日 02時33分58秒 | 歌舞伎三昧
 昭和の終わりごろから平成の12年ごろまで、私はなにかというと歌舞伎座の周りをうろうろしていた。歌舞伎も好きだったが歌舞伎座も好きだった。
 世の中は、バブル全盛から弾けて、でもまだ、昨日よりよりよい明日が来るという、日本経済の不死鳥性を信じていた。日本の伝統芸能にうつつを抜かしている人なんて、よっぽどの物好きと思われていた狭間のような時期だった。
 同じ芝居を月に7回ぐらい観ていた時もあったから、客席スペースは無論のこと、仕事の関係で地下の吉田千秋さんの仕事部屋に伺ったり、お世話になった長唄の先生や、後援会に入っていた役者の楽屋にお邪魔したり、その頃『歌舞伎座百年史』を編纂していた4階の幕見席の奥の小部屋を訪ねたり、とにかく、やたらとうろうろしていたのだ。
 ある時、昭和通りを東武ホテルのほうから、歌舞伎座に向かって歩いていた。歩道から、あの歌舞伎座の唐破風が少しずつ見えてきて、もうそれだけで私は、その姿の美しさにうっとりして、何となく笑みを浮かべた。
 その時、斜め前から今は亡き松助さんが歩いてらして、ハッと気がついたときには、私のデレデレとほうけた顔を見られてしまって、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
 私は歌舞伎座に惚れていたんである。籠釣瓶の見初めさながらに。
 今の歌舞伎座のもともとの設計は、帝大の教授だった岡田信一郎の手になるものである。昔読んだ本に、まり奴という芸者を落籍して奥さんにしたという、明治の偉人らしいエピソードが載っていて、何となくシンパシィを感じるお人柄だ。
 今は建て替わってしまったが、琵琶湖ホテルという、桃山式唐破風のそれはそれはすてきなホテルが琵琶湖畔、膳所城址の近くにあった。
 これも岡田信一郎の設計で、平成の初年頃、一度だけ滞在したことがあったが、その時、歌舞伎座との瓜二つぶりに驚嘆して、後日調べてみてそれとわかったのである。
 一階のティールームから春の海のように穏やかな湖面が見えて、これは、行ったことはないけれど、黒海のほとりの保養地のソチとかこんな雰囲気なんじゃないかしら、と思えるぐらい、1910年代の革命前夜のロシア貴族社会のイメージだった。
 その後、タイトルを失念してしまったが、2002年ごろCSで放送された1960年代の東宝の、加山雄三と司葉子が主演の映画に琵琶湖ホテルが出てきた。
 1990年に観た景色を、1960年代に撮影された映画の中で懐かしむという、なんだか不思議な体験をした。
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