気がつけば月暦の七月が往き、夏休みのなんと短いことよ…と、蝉の声がタイムスリップの鍵となって、少年時代に気持ちが還っている私は、サマータイムを謳歌している世上の皆さまに同情するのですが…
今日はなんとまぁ!
江戸シンパには忘れ得ぬアニバーサリー、正しく八朔、旧暦令和四年八月一日です。
…と、このところの塞ぎの虫(ふさぎのむし)をつらつら綴ってみるか…と重いパソコンの蓋を開けたのに、何やら書いているうちに愉しい気持ちが蘇ってしまいました。
何でしょう、私の根っからの朗らかな性根は、昭和という時代が育んでくれた、明日に対する希望、という漠然とした安心から由来するものに違いありません。
昨今、日本人で自らの命を殺めてしまう方が年単位で4万人、国際的基準の統計の試算法によれば10万人ぐらいに換算されてしまうらしいのですが…いらっしゃるというのは、本当に残念で悲しいことです。
たしかに、明日は今日より素晴らしい…という成長期の日本にいた私たちより、現在の日本には絶望の種しかないように思える分、今の若い人々…学生さんも社会人の方々も…にはツライことが多すぎるんじゃないか、と、このような社会をつくってしまった大人はこうべを垂れます…
しかし、このコロナ禍に見舞われた3年余り、ベランダ栽培の檸檬の樹についた青虫たちの生態からつらつら鑑みるに、人間が真実の成虫(いえ、成人)へと生長するのは、たぶん、60年ぐらいかかるのではなかろうか、ということでした。
斯く申します私、還暦を迎えまして、ようようやっと、人並みな人間になれたのではないか、と、お約束の時間に余裕をもって参集することが出来るようになったり、カチンとする目に遭っても心の中で反芻して対処できるようになったり…という体験から実感する今、
人間は本能だけで生きている生き物ではなく、精神的修養があって、完成された一個人、人間…ヒトとして初めて認められる存在になるわけで、生き急ぎたもうな若人(わこうど)よ、長生きしてやっと判ることが人生には多すぎます。
ワカモノとは馬鹿者の転語であろう、と、一歩街へ出れば、日々実感する事柄に出逢いますが、大人たる我々は、まだ至らぬ彼らを導く役割があってこその年長者であります。
少年法を、私は、長唄絵合せの活動でお馴染み、大学時代の恩師・横山實先生から学びましたが、彼らを希望のある生活へといざなうのは、罰ではなく愛です。
江戸時代の少年法も、八百屋お七の事例から鑑みましてもお分かりのように、年端のいかぬ若者は、とかく考えの至らぬ未熟者であるから、吟味や取り調べは成人とは区別しなくてはならぬ…という施政者も仁徳の行き届いたものであったのです。
大岡政談を現代の価値観で測ったら、悉く(ことごとく)を左脳で事務的に計る方々には、ハナで笑ってしまう判例かも知れません。
しかし人間は機械ではなく、生き物なのですぞ。
もう20年以前、アメリカ合衆国での少年院に収監された未成年者を新たな方向性で指導するのに、行き場がなく処分するために施設に集められた野良犬たちが力を貸している、という話をニュースで見ました。
少年院の少年たちは、野犬の保護施設に赴き、自分が世話する犬を選びます。そして犬たちの世話をすることによって、命の大切さと自分ではない他者への思いやりと、生きることと何かを育てることとは手間のかかること、という実際を体験し学びます…というような施策でした。
体験者の少年が目を輝かせて「こいつは僕と同じなんだなぁ、と最初この犬に逢ったとき思いました。誰にも必要とされていなくて、独りぼっちで、行く当てもなくて拗ねていたんです」という言葉に、私は涙腺が決壊。
(今思い返して、ふたたび滂沱の涙に見舞われ、鼻水が…しばしティッシュペーパーにて顔を直すお時間を下さいませ…)
愛とは共感です。
好き嫌いとか恋愛とか、そんな瞬間的なものではなく、日本における愛とは慈愛です。
インターネットで瞬時に、社会の出来事と、人々の心情が分かるツールが登場しましたが、まだ未完成型のヒトという生命体が犯した罪に対する対処の方法は、罰ではなく愛です。
左脳で理論的に事務的に能率的に処断する方策は、日本人に合いません。
なぜなら我々は右脳のヒト、理屈で割り切れない自然という神々に、常に理不尽に蹂躙され続ける宿命を持った、日本列島という苛酷な自然環境の土地に生まれ育って、営々と存在してきた種族だからです。
ですから、われわれ日本人が編み出してきた音楽も、左脳で割り切れる理論的なもので構築されているのではなく、右脳=感情、そしてまた言語で現せない精神的な事象を司る部分を刺激、働かせる手法によって編み出されたものであり、それによって人々を安寧せしめ、悼む性質を持っています。
グローバル化が進み、文化の特性が失われつつある…いえ、喪われてしまった今、ヒトが自分の存在を肯定できる特効薬は、根生いの文化にしかない、しかしそれは土着的な民族音楽でなく、都市生活という洗練された時代を経て醸造された昭和文化にはあったことを、21世紀に生きる皆さまはお忘れではなかろうか…
ひとまずここに記して、朝のひと時を失礼したいと思います。
今日もお健やかに。
今日はなんとまぁ!
江戸シンパには忘れ得ぬアニバーサリー、正しく八朔、旧暦令和四年八月一日です。
…と、このところの塞ぎの虫(ふさぎのむし)をつらつら綴ってみるか…と重いパソコンの蓋を開けたのに、何やら書いているうちに愉しい気持ちが蘇ってしまいました。
何でしょう、私の根っからの朗らかな性根は、昭和という時代が育んでくれた、明日に対する希望、という漠然とした安心から由来するものに違いありません。
昨今、日本人で自らの命を殺めてしまう方が年単位で4万人、国際的基準の統計の試算法によれば10万人ぐらいに換算されてしまうらしいのですが…いらっしゃるというのは、本当に残念で悲しいことです。
たしかに、明日は今日より素晴らしい…という成長期の日本にいた私たちより、現在の日本には絶望の種しかないように思える分、今の若い人々…学生さんも社会人の方々も…にはツライことが多すぎるんじゃないか、と、このような社会をつくってしまった大人はこうべを垂れます…
しかし、このコロナ禍に見舞われた3年余り、ベランダ栽培の檸檬の樹についた青虫たちの生態からつらつら鑑みるに、人間が真実の成虫(いえ、成人)へと生長するのは、たぶん、60年ぐらいかかるのではなかろうか、ということでした。
斯く申します私、還暦を迎えまして、ようようやっと、人並みな人間になれたのではないか、と、お約束の時間に余裕をもって参集することが出来るようになったり、カチンとする目に遭っても心の中で反芻して対処できるようになったり…という体験から実感する今、
人間は本能だけで生きている生き物ではなく、精神的修養があって、完成された一個人、人間…ヒトとして初めて認められる存在になるわけで、生き急ぎたもうな若人(わこうど)よ、長生きしてやっと判ることが人生には多すぎます。
ワカモノとは馬鹿者の転語であろう、と、一歩街へ出れば、日々実感する事柄に出逢いますが、大人たる我々は、まだ至らぬ彼らを導く役割があってこその年長者であります。
少年法を、私は、長唄絵合せの活動でお馴染み、大学時代の恩師・横山實先生から学びましたが、彼らを希望のある生活へといざなうのは、罰ではなく愛です。
江戸時代の少年法も、八百屋お七の事例から鑑みましてもお分かりのように、年端のいかぬ若者は、とかく考えの至らぬ未熟者であるから、吟味や取り調べは成人とは区別しなくてはならぬ…という施政者も仁徳の行き届いたものであったのです。
大岡政談を現代の価値観で測ったら、悉く(ことごとく)を左脳で事務的に計る方々には、ハナで笑ってしまう判例かも知れません。
しかし人間は機械ではなく、生き物なのですぞ。
もう20年以前、アメリカ合衆国での少年院に収監された未成年者を新たな方向性で指導するのに、行き場がなく処分するために施設に集められた野良犬たちが力を貸している、という話をニュースで見ました。
少年院の少年たちは、野犬の保護施設に赴き、自分が世話する犬を選びます。そして犬たちの世話をすることによって、命の大切さと自分ではない他者への思いやりと、生きることと何かを育てることとは手間のかかること、という実際を体験し学びます…というような施策でした。
体験者の少年が目を輝かせて「こいつは僕と同じなんだなぁ、と最初この犬に逢ったとき思いました。誰にも必要とされていなくて、独りぼっちで、行く当てもなくて拗ねていたんです」という言葉に、私は涙腺が決壊。
(今思い返して、ふたたび滂沱の涙に見舞われ、鼻水が…しばしティッシュペーパーにて顔を直すお時間を下さいませ…)
愛とは共感です。
好き嫌いとか恋愛とか、そんな瞬間的なものではなく、日本における愛とは慈愛です。
インターネットで瞬時に、社会の出来事と、人々の心情が分かるツールが登場しましたが、まだ未完成型のヒトという生命体が犯した罪に対する対処の方法は、罰ではなく愛です。
左脳で理論的に事務的に能率的に処断する方策は、日本人に合いません。
なぜなら我々は右脳のヒト、理屈で割り切れない自然という神々に、常に理不尽に蹂躙され続ける宿命を持った、日本列島という苛酷な自然環境の土地に生まれ育って、営々と存在してきた種族だからです。
ですから、われわれ日本人が編み出してきた音楽も、左脳で割り切れる理論的なもので構築されているのではなく、右脳=感情、そしてまた言語で現せない精神的な事象を司る部分を刺激、働かせる手法によって編み出されたものであり、それによって人々を安寧せしめ、悼む性質を持っています。
グローバル化が進み、文化の特性が失われつつある…いえ、喪われてしまった今、ヒトが自分の存在を肯定できる特効薬は、根生いの文化にしかない、しかしそれは土着的な民族音楽でなく、都市生活という洗練された時代を経て醸造された昭和文化にはあったことを、21世紀に生きる皆さまはお忘れではなかろうか…
ひとまずここに記して、朝のひと時を失礼したいと思います。
今日もお健やかに。