長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

花がるた 六月 薊

2020年06月22日 23時55分50秒 | きもの歳時記
 新暦の6月、単衣(ひとえ)の着物に夏帯を合わせます。半襟や襦袢(じゅばん)も夏物です。
 紗(しゃ)や絽(ろ)の薄物は7月になってから着ます。
 昭和のころは6月の定番と言えば、紗袷(しゃあわせ)というオシャレの真髄、まさに歩く絵画、美術品というような、惚れ惚れする着物がありました。
 具象的なモチーフ(季節の動植物、たとえば鮎や紫陽花など)が描かれた紗の下地に、上生地に波紋や雲、霧などを描いたり織り出したりした紗を二枚合わせて仕立てた、袷(あわせ)の着物です。

 生地が透ける、紗という織物の特質をよく生かした衣装、そして意匠と言えましょう。
 とてつもなく抒情的な世界が、一枚のきものから広がります。

 ぜいたく品なので、20世紀のある時、上野広小路にお店を構えてらした呉服屋さんが、「うちは紗袷の下の生地を単衣物で拵えたりもいたしますよ」と、耳打ちして下さったことがありました。
 地球の資源に限りがあるように、私の懐にも限りがあります。
 幸いなことに(悲しいことに)お茶などのTPOに厳しい業界と違いまして、パーティでもない限り、演奏会や稽古時に紗袷を着ることはありませんので、有難い呉服屋さんのお気遣いに報いることは出来なかったのですが、6月が来るたび、紗袷という着物に対するあこがれを想い出します。

 例によって例のごとく、日本橋の高島屋さんの売出しを冷やかしていた私の目の前に、どきん!とする帯が現れました。
 ペパーミントブルーのもっと薄い、ガリガリ君にも似たシャーベットのペールなグリーンとでも申しましょうか…ごくごく淡い青磁色の絽縮緬(ろちりめん)地に、薊(あざみ)の花茎が潔い筆致で描かれていました。
 しゅっつとした勢いの、惚れ惚れとする筆遣い。
 これまた何度目かの一目ぼれ。
 絽縮緬なので、まだ6月に入りたての初旬に、ちょうど良い名古屋帯でした。
 
 籠目(かごめ)の江戸小紋に、この帯を締めて6月の歌舞伎座へ、三島由紀夫のお芝居、当時勘九郎だった中村屋と玉三郎の「鰯売恋曳網(いわしうり こいのひきあみ)」を観に行きました。
 ほんの小さな意匠ではありますが、舞台に展開する世界の一端を身に纏うことにより、ますます芝居世界を共有した気がして、言い知れぬ充足感で胸が満たされました。




 同じ籠目のきものに、平絽(ひらろ)の染め名古屋帯を合わせた写真です。
 夏の柄の定番、茶屋辻(ちゃやつじ)が描かれています。
 色数を少なく合わせるのが、涼しげに見えるコツだと、昔、教わったものでした。
 
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檸檬可愛や

2020年06月21日 06時55分55秒 | お稽古
 

 この春、中学校に進学予定だったお弟子さんから、晴れて入学式が執り行われたとのお話を伺ったのがもう先々週のこと。
(本当によかったです。照る日、曇る日、さまざまあれど、心が晴れやかなら万事OK、というものです)
 止まっていた時間が動き出し、旧暦令和二年閏四月も昨日晦日。
 雨もよいの朝、今日は旧暦五月朔日。
 晴れれば日本にても部分日蝕が見られるとの由、夏至に日蝕が重なるのは1648年(慶安元年)以来、372年ぶりという、心慌しき日曜日の始まり。





 この半月ほどは時計の針の廻りの早きこと矢の如し。
 先週末、公園を突っ切って久しぶりの打合せに伺ったら、池のほとりで烏鷺の争い。
 シラサギと鵜の好対照、教育テレビでは毎日曜正午に見られるこのセットを、現実に見かけるのも珍しい(当社比では十数年前、京都は辰巳大明神さまのご町内でお見かけして以来…)。



 レパートリーになかった「船頭可愛や」が歌えるようになった新暦6月初旬。
 案じていた樹脂病のレモンの様子を見ていたところ、植木鉢の受け皿に、ガソリンスタンドの水溜りに時折見掛ける、虹色の油膜のようなものが浮いていることに気づく。
 それを朝の水やり時に捨てておりましたら、



 少しづつ油膜が減り、



 わき目がすくすくと伸びてまいりました。



 閏四月晦日、朝陽を浴びて初々しく。
 さて令和二年旧暦五月は、いかなる月になりましょうか。
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花がるた 四月 藤

2020年06月10日 23時44分55秒 | きもの歳時記
 長すぎた春休みゆえの、夏休みが半分もない…かもしれない…というあまりにも悲しいニュースを目にするにつれ、一個の人間の将来、人生を左右する重大事である、子ども時間の在り方に思い馳せる。
 久しぶりに聴いた志ん朝の四段目で、昔は子ども向けの娯楽というものはあまりなく、大人の遊びにおまけで連れて行ってもらったものだった…と枕にあった。大人の無意識な日常が、子どもの人生を左右するのである。大人の責任は重大なのだ。

 小学1年生の夏休みの研究で、父の入れ知恵、差し金の成果である「アリの研究」で賞状をいただいた私は、でも、小学4年の時は「日本の服飾の歴史」という自由研究をする、オシャレ好きな、ごく普通の女の子に育ってはいた。
 前号で、21世紀のテレビドラマの衣装に対する連綿たる心情を語り損ねたが、1983年の市川崑監督の細雪(私は山根寿子が三女・雪子だった阿部豊監督1950年新東宝作品が好きだけれど)をはじめとして、呉服屋さんが協賛していた映像作品の、きものの豪華絢爛さたるや…娯楽作の常で当たり前だと思って気にも留めなかったけれど、今思えばあれこそが、夢、夢であった…のでございましょう。

 ある年の宗十郎の会の「鬼神のお松」だったかしら、子育てをしながら生業の盗賊に精を出す女丈夫の世にもカッコいいお芝居なのだけれど、煌びやかでありながら、尚且つ渋くて上品な金泥が施された馬簾の四天の出立ちで、花道七三に極まった九代目紀伊国屋が「提供は、千總~!」とこれまたカッコよく宣った姿と声が忘れられない。
 
 今日は旧暦では令和二年閏四月十九日で、ざっと220年前の西暦1800年、寛政12年の今日、伊能忠敬が旅に出たという、歴史地図フェチには忘れ得ぬ記念日であるのだが、さて、忠敬先生の、その日の出立ちやいかに。
 産業革命で蒸気機関が発明されて以来、地球の気温は上がり続け、一方で江戸時代は軽い氷河期(?!)だった、というお説も昔聴いたけれど、時代劇の着物の季節感がやたらと気になる老婆心。

 此の方はというと…20世紀中は猛暑日などという言葉がなかったので、新暦の4月いっぱいは袷(あわせ)を着用していたが、最早、熱中症の恐ろしさには代えられず、4月中にこっそり単衣を着ていたりする。
 着物の仕来りが重視されるTPOとは違い、自分の場合は仕事着のこともある。気候の変動に合わせて規範というものも崩壊した。



 藤は執着深い花である…と何に書いてあったのか忘れてしまったが、古典的な柄では、松の枝の、木の精を吸い取ってしまうかのように絡みついている。
 もう30年以前、金毘羅歌舞伎に出かけた折、高松空港からの道中の車窓から、藪の枝の上部に野生の藤の花が咲いているのを方々で見かけた。白い藤が多かった。
 松見草という別名に、先人の日本語のセンスがしのばれる。命名の妙である。
 ♪いとしと書いて藤の花、という長唄「藤娘」の歌詞はなるほど、葦手の柄行そのものの藤の花房を想い出させる。
 長唄舞踊の藤娘の衣装は、女形の役者さんごとに好みが違って、私は音羽屋・七代目尾上梅幸丈の、オレンジがかった朱と、スモーキーなカーキっぽい萌黄色の、片身替りの衣装が好きだった。

 しかし、歌舞伎座で藤娘が掛かっても、藤の衣装で観劇するのは野暮の骨頂というものなので、変わり縮緬地(一越にしては地厚なので織地不明)の藤の染め帯を、芝居に着て行ったことはない。

 将棋に凝っていたのはもう10年以前で、このたび藤井聡太七段(えっ…もう七段なんですね…四段と書いてしまったので急いで直しました)に棋聖戦で挑戦されている渡辺明三冠が、無敵の竜王何期目かの防衛をしていた頃だった。
 3.11の震災があった春先、チャリティイベントが多く行われた。イベント目当てで旅行することは稀な自分には珍しく、名人戦を追っかけて弘前を訪れたりもしたが、憧れの棋士先生が指導対局してくださるというので、黄金週間の始まりの旗日に、横浜はみなとみらい地区のイベントまで行ったときに締めていたのが、この帯である。

 午前は横浜、午後は日本橋の知人の演奏会へとトンボ返りで忙しかったが、東京へ向かう空いている根岸線の中で、棋士先生の指し手を思い浮かべては、一人にやにやしていた(ほかに乗客がいなくてよかった…)。車窓から射し込む、明るい晩春の日差しのなかで、全身喜びに満ち溢れていた。
  うれしさを 昔は袖に包みけり 今宵は身にも余りぬるかな
 そんな古歌を想い浮かべるほどに、そう、その時なぜだか、私は春だった。

 実はこの帯は、20世紀の美しいキモノ誌読者垂涎の、K先生の作品なのである。
 2000年を過ぎたころ、作家ものとは縁遠いワードローブ生活者の私が、日本橋のT百貨店の、特選呉服売り場の売出しを冷かしていたとき、なんと…!!というお値段で出されていた。
 「えっ!!本当にこのお値段なんですか!?」と訊くと、「まったく嫌になっちゃいますょねぇ…」と実直そうな店員さんが言葉を濁しつつ答えた。
 輝かんばかりの金通しの菊の柄と、あと何だったか…藤のものと合わせて三本ほど、出ていた。買い占めたかったのであるが手元不如意につき、クリーム色と藤の紫の取り合わせが何とも言えず素敵だったので、しかもしゃれ袋ではない、締めやすい名古屋だったので、一筋だけ求めた。

 藤棚の竹の菱形に合わせて、ひげ糸の紬を空色の斜め格子に染めた袷に合わせた。
 朗らかな晩春の空、このいでたちの私は、身も心も春だった。わずか10年ばかり以前のことである。 
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レモンの災難

2020年06月09日 11時39分39秒 | 雑感
 今年は四月が閏月で、そうなるとどうしたって慶応四年の戊辰戦争のことを思い出してしまうのだが、ストロベリームーンなんて素敵な名称が新大陸の先住民間にはあったのか…ロマンだねぇ…の一方で、星をつかみ損ねた近藤さんの、慙愧に堪えぬ表情が水木しげるの新選組の絵面で浮かぶ、長らく生きていると発想がごった煮である。
 世相の混沌さに引き摺られ、わが脳内もカオスなのだ。しかし万物は混沌から生まれるらしいので、ごった煮にする材料は多いほどいいのだ。(あくまで自説ですのでお試しくださいませぬよう…)

 ベランダの植木の世話をしながら(わが庵〈いお〉のスズランは残念ながら花芽が出ず、栄養過多なためかすっかり立派な葉蘭へと成長していた。梅松桜の三人が三人とも、その逞しさたるや、鮨屋に売り飛ばしたいぐらいである)、今年は蝶の姿を見ない…と、茫洋たる世界の片隅で自然界の推移に心を悩ませ、真っ白なスケジュール帖に呆然としながら、なぜか8時ちょっと前に目が覚めて、ここ3週間ほど恒例となった朝ドラを見る。仕事がないほうが規則正しいのである。

 朝っぱらから定期的にテレビを見る…なぞという心の余裕もなく過ごしたここ40年余りだったので、国民的ドラマというものを、一切見たためしがない私には、大層珍しい日常なのである。
 事の始まりは5月の中頃、深夜の時間帯に、やれやれ疲れた、テレビでも見て気休めしよう…とつけた画面、夜11時のBSで、連続テレビ小説の再放送をやっていた。
 おお、そうだった、いま朝ドラで古関裕而の生涯をやっているのだった、どの辺まで進んだのでしょう、この俳優さんは記憶探偵?いやいや、臨床犯罪学者・火村英生の推理に出てた人だわね…と、昨日までのあらましを見ていなくても知っている、情報社会の有難さ。
 そうそう、無事東京オリンピックが開催されていたら、まさに、出場者に対する応援歌ということを当て込んでの『エール』というドラマだったのでしょうに、目論見が外れてしまった番組関係者各位が可哀想である。…とはいえ、この度の禍がなければこの番組が私の目に触れることもなかったわけで、人生どう転ぶか巡り合わせというのは全く不思議なものですなぁ…

 コロムビアをもじった、コロンブスレコードからして爆笑なのであったが、赤レーベル青レーベルという話の最中、青レーベルのレコードのラベルが目に留まった。
 「長唄交響曲 越後獅子」作曲が山田耕筰、唄が松永和風…おお、なんと!! 長唄が現在のエレキギターのように流行していた時代…わが人生の研究テーマである、昭和戦前の文化が描き込まれている。

 どうしたって古賀政男らしい、コガラシィ先生まで出てきて、私は俄然発奮した。
 高畠華宵の絵から抜け出たばかりの、美しい三浦環らしいフタウラ先生といい、やたらとおかしなネーミングセンス。こういうヘンなところが須らくツボだ。演出がまた、昭和の少年誌のスポコン漫画のようにアツい。すっかり心を奪われてしまった。

 いまさら昭和歌謡史をなぞってみようとも思わなかったが、ゲラゲラ笑えて愉快である。ことさらスラップスティックなのである。そして、俳優さんは知らない人ばかり(それでも、10年ほど前に矢鱈と観た東宝系ミュージカルでお見かけした顔もある、高橋掬太郎役の方は将棋の行方九段にソックリである)だが、舞台設定とモデルと思われる方々は、わが心の古き知人たちである。

 番組に描かれた戦前の地方小唄の流行は、戦後の民謡ブームと合わせて、20世紀の日本歌謡史を伝えるものには懐かしいエピソードだ。
 わが杵徳の初代・三世杵屋勝吉にも『前橋音頭』というご当地ソングがあった。戦前のことで、譜も含め一切の資料が失われてしまったので、先年、当地にお邪魔して現行の前橋音頭を拝聴したが、戦後作曲されたものだった。
 日本の文化は、1940年前後に存在した大戦のために、多くの宝を失った。太平洋戦争の罪深さを呪う。

 古関裕而の最初のレコードが出た翌年、私の父は生まれたが、とにかく歌うことが大好きな人で、昭和50年代にはカラオケの8トラックシステムが家に常備されていた。父は絶対音感が自然と備わっていたらしい、小学生のころ音楽の先生に驚かれたエピソードを持っていた。学生時代はwalking dictionaryとあだ名され、書斎には本とレコード、理科の実験道具が堆く積まれていた。
 雑学の宝庫である父の本棚から私も、丘灯至夫先生の「明治・大正・昭和歌謡集」という、私が生まれた年に出版された本を持ち出し、この40年というもの心のバイブルとしてきた。
 橋本治が音楽之友社から『恋の花詞集~歌謡曲が輝いていた時』を出版したときは、おお、わが心の同志よ! と、とてもうれしかったものである。

 そんなわけで耳に胼胝ができるほど、明治・大正・昭和期の流行歌がリアルタイムで再生され、空気のように浸かっていたこれらの音曲を(子供時代の刷り込みというのは恐ろしいもので今でも諳んじて歌える自分の記憶力が怖い)、取り立てて聞こうとも思わなかったが、昨秋初めて知ったタブレット純氏のライブに出掛けたりして、改めて聴き直すと、タイムマシンがなくとも耳からの記憶の断片が現出させる、かつて在った時代の空気が肌にまとわりつき、蘇る世界の錯覚が恐ろしい。

 歴史上の過去の遺物を聴いたことがない若い世代が、昭和歌謡に対して持つ一種の郷愁的な憧憬でもって、リバイバルブームが起きているようでもあるのだが、翻って、現在の日本には、人生の機微、心の琴線にふれる魅力的な音曲が無い、と言えるのかもしれない。

 高畠華宵の美女・ふたうら環女史が口から出たセリフ「プロってのはね、たとえ子供が死にそうになっていても舞台に立つ人間のことを言うの」…ううむ、うら若き女性はいつでも、選択を迫られる人生の岐路に立っているのですねぇ…
 
 思えば私が鬼畜となって家を出たきっかけとなった本は、木々高太郎『人生の阿呆』創元推理文庫でありました。
 医学博士でもあった木々高太郎は、理知性を軸とする推理小説に、人間の本能である感情、人間性をも眼目として、一つの小説として共存させ得るか…という実験作だと、言っていたように記憶している(1997年に知人に貸して帰ってこなかったので今手元にないのです。それ以来私は大切な本は人に貸しません…体験というのは優れた人生の教師ですね…)。
 この作品は、昭和11年、第4回直木賞を受賞している。

 新青年に代表される戦前の推理・探偵小説を心の糧としていた10代を経て、世間知らずのままな20代半ばに、復刊されたこの本を読んだ私には強烈だった。戦争へ突入せんとする世相、選択肢がないところで自分の生き方を模索する女性の覚悟、社会の厳然たる価値観、道義的問題と、個人の生き方の折り合いのつけ方などなど…

 そういえば、あの本はまだ市中に出回っているのだろうか…と、ふと思って、10年ほど前に探してみたら品切れという、絶版状態になっていた。とはいえ、もう一度読み返したいかというとそうでもなく(その当時自分が置かれた状況を克明に思い起こすには荷が重すぎて)、若い時分には心を遊ばせる空想の世界はこの上もなく大切なものだったけれど、今の私にはもう、フィクションの世界は必要ないのだった。

 そしてまた、ここ3週間ほど愉快に見てきた朝ドラであったが、脈絡なく強烈なインプレッションを与える場面ばかりで連続していく、雰囲気だけで流れていく短絡的なストーリーテリングに、小学生のころ祖母と見ていた鳩子の海や雲のじゅうたん、藍より青く…などの番組とはずいぶん趣きを異にしていることに気がついた。
 やはりこれは、小説ではなくマンガである。大袈裟な感情表現を見どころとした手軽なドラマが、子供たちではなく大人を対象にした、巷間を賑わす世相というものをどう考えたらよいのだろう。時代背景や思想、風俗の掘り下げがなく、表面的な、上っ面ばかりの絵面に終始するので、ことにシリアスなシーンになるほど現実味がない。

 台本はさておき、昭和バブル期に至る潤沢で、あの異常なまでの贅沢な文化投資の時代を過ごしてきた目には、貧弱な(つまり手が込んでいない)セットや美術(たとえ脚本や配役がポカ~ンとするものであっても、映像ドラマはその世界を構築する優秀な美術さえあれば成り立つのである)から展開される虚構世界はどうにも見ごたえがなく、特に売れっ子となった作曲家が故郷に錦を飾るべき祝賀会会場がこれでは…和室、日本間の大広間における宴会というもののありようを知らない世代の方々が作るとこうなるのかなぁ…さて、考証を一生懸命やっても実現させる予算がないということなのだろうか…

 と、気休めに見るドラマにこちらが気を揉むという面倒な仕儀に相成り(そういえば、何年か前の朝ドラ、花子とアンだったか…柳沢白蓮の衣装が付け下げかと思われる地味な着物ばかりだったので、眼福というものがないテレビドラマは、はて、娯楽として見る価値があるのか、などと思ったりもしたのだったが)…日本が凋落した令和時代となった2020年に制作されたドラマに、注文を付けるのは憚られるけれども。

 昭和40~50年前半の、お昼時の奥様劇場、いわゆるソープオペラは内容が濃かった(あくまで子供目線であるけれども)。原作を古今東西の名作全集にラインアップされる文学作品に取材し、さらにご当地ドラマとして翻案し、日本が舞台となった風と共に去りぬ、ジェーン・エアなど、本タイトルは忘れてしまったが、茶の間でお祖母ちゃんと見ていた記憶がある。

 そういえば、1960年代後半だったろうか、高度経済成長に伴い、戦争で失われた文化・教養の穴埋めか、百科事典や文学全集、クラッシック名曲集、世界の音楽(各国の民謡、ラテンやジャズ、イージーリスニングなどの)スタンダードナンバー、映画音楽全集のレコードなどを装備していた一般家庭が多かった。
 手塚治虫の漫画家の心得を説いた本だったか、萩尾望都のマンガABCだったろうか…物語をつくる人になるには、いろいろなことを知らなくてはならない…という偉人たちの玉条を実践するには、よい環境の時代だった。
 数年前…もう10年程にもなるのか、書店で竹内洋著『教養主義の没落』という新刊本を見掛け、21世紀を迎えてからの自分の心境を明文化した書籍が、すかさず、刊行されているものだなぁ…と感心して久しぶりに中公新書を手にしたのだった。



 さて、先月…先々月だったか、四つ葉のクローバーを地下茎ごとお土産に頂いたので、しばらく瀬戸焼のお皿にのせて観賞していたのだが、緑の蕾だったシロツメクサの白い花まで咲いてきたので、ふと、植木鉢のレモンの下草に植えてみた。
 なんと、根付いて新芽が出たのである。
 しかも不思議なことに、初めに出てきた三つ葉は長ずるに及び二つ葉になってしまったのである。四つ葉を生じさせたがための、地下茎自身の帳尻合わせなのであろうか…2番目以降の新芽は普通の三つ葉のクローバーなのだ。まったくもって、大自然の驚異。
 世にも奇妙な怪奇大作戦の世界である。
 今朝見たら、また新たな新芽が出てきたようなので、次なる葉は何枚か、しばらく観察を続けたいと思う。乞う、続報を待たれたし。

 加えて、これまで2シーズンにわたり、律義に結実してきたレモンの一本の幹からベッコウ飴状の樹液が流れ出していることに気がついた。はて、檸檬の樹からメープルシロップが採れるわけでもあるまいに面妖な…と思って調べてみたら、どうやら樹脂病という病らしいのだ。
 昨夏には20頭ほども、主の酔狂に付き合って青虫を養ってくれた檸檬樹だったが、過ぎたるは猶及ばざるが如し、ただただ申し訳なく…去年の今頃は、昼夜を分かたず、シャクシャクいう葉蝕む音で賑やかだったのに…と往時を偲ぶ心持ちさえして、憂鬱な晩春となりにけり。



 とはいえ、禍福は糾える縄の如し…城達也のジェットストリームを1世紀振りに聴いて号泣したり、夕暮れ時に爽風に吹かれながら、キャノンボール・アダレイのボサノバ集に耳を傾けたりしているうちに、元気になって参りました。
 3月中旬から4月、5月…と、お休みしていたお稽古をそろそろ再開したいと思います。
 皆さま、ご無沙汰して申し訳ないことでございます。
 支障のない方はご連絡くださいませ。お待ちしております。
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