長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

ツルの日

2018年09月26日 09時26分26秒 | 落語だった
 「つるのふたせんさんびゃくろくじゅうごばん…」
 毎月26日が鶴の日かどうかは知らないけれど、水屋の富とか、富くじの噺を聞かなくなったなぁ…と思ってみたものの、考えてみたら、わたくし自身が落語を久しく聞いてなかったことに気づいた。
 それにああいう宝くじの話は歳の瀬に聞くのがシーズンというものでございましょう。
 
 八月の間、お稽古が夏休みだったりする一方で、この季節ならではの講習、午前中に子ども教室…キッズ伝統芸能体験、へ伺う。常日頃では行かない街を訪れるのは愉しい。ホリデー快速なんという、登山支度の乗客で賑わう車両の中、まだ午過ぎの早い時間に仕事が終わって、私もついうかうかと、遊びに出掛けたい心持ちになっていた。
 この時間からこの、ついふらふらしたい気持ちを昇華させるとすると…

 先ほどの教室で、素敵な手ぬぐいを見かけた。紅色で、亀甲つなぎに鶴の丸。
 いいなぁ。赤の鶴の丸といやぁ、泣く子も黙る国営の航空会社のトレードマークでしたね。
 つーーーーーっ、と来て、る、と留まるのが、ツルってもんですね。
 さて、鶴ならぬ身の落としどころは何処。

 湯島の天神下の交差点に、つる瀬、という甘味処、あんみつ屋さんがあって、この時季はなんてったって、かき氷なのだ。練乳白玉のおいしいことといったら。杏も載せたかったのだけれど、予算オーバーになるのでやめて、デリーのカレー屋さんに行列ができてるのを横目で見ながら…本当は私、すし初さんに行きたかったのです。
 このお鮨屋さんはもう30年来の想い出の場所なのだった。そのころ取引先だったデザイン事務所が、塗師屋の二階に間借りしていて、お昼時間を外れた私が案じながらまだ折れていない暖簾をめくったら、恰幅のいい河津清三郎似の旦那さんが、ちょうど若い衆と交代するところで…
 それから上野方面に用事があると出来うる限り立ち寄るようにしていた…といっても時分時にこの辺りに来ることは滅多になかったのだが。父が生きてた頃、一度だけ連れてきたことがあって…その時は男前の大将は他界されて、女将さんが相手をしてくださった。
 父と女将さんとは、学徒動員で駆り出されて、川崎の東芝の工場まで働きに行った話で盛り上がっていたのだ。

 だから女将さんはご健在かと、店の様子が見たかったのだ。もう10年ぐらい、暖簾をくぐっていないのだった。
 中途半端な時間帯なのと日曜で、お店は閉まっていた。休日の広小路に至る春日通りは閑散として、みつばちとデリーに行列ができて、不思議な雰囲気。

 久しぶりに、鈴本に入った。
 前座さんが「つる」を掛けたのだが、どうしたはずみか加減でか、とちってしまったのだった。それが場内の苦爆笑を呼び、そんなことがありながら淡々と番組が進み、中入り前だったかしら、喬太郎さんが「極道のつる」をかけた。
 これはある意味禁じ手かもしれないけれど、そんなこたぁどうでもいいのだ。
 あまりにも可笑しく面白かったので、身もだえする程に笑った。
 隣席の若き青年が、「…すごい無茶苦茶だ…」と呆然として番組表に何か書きつけていたが(落研ですか?)、いやそれは違うなぁ、無茶苦茶どころか、なんと緻密に計算され尽くしたパロディな「つる」でありましょうか、君はまだ若いなぁ、とおばさんは思いました。
 落語は研究して論ずるものではなく、仕手が実践したものを味わえばよいのです。

 さらっと書いてしまったが、下がれ下がれ、下がりおろう! このお方を誰と心得る、今や日本中で一番チケットが取れない落語家とその名も高き柳家喬太郎師匠であらせられるぞ…とひいきの皆さまに怒られたらどうしよう…と不安になるのですが、寿限無を暗唱する一般的昭和の小学生だったわたくしは、長ずるに及び、昭和の終わりごろ落語と名の付くもの…高座はいうまでもなく、速記本、漫画、映画に至るまで見聞き尽くしていたマイナーなギャルになっていたのでしたが、毎日が落語だった私が見ていたのは、喬太郎さんの師匠が若手と呼ばれていた時代だったのです。そんなわけで……

 思えば、私は喬太郎さんの大驀進をそんなに見ていない。
 中野芸能劇場で殿は国入り…だったかしら、細川のお殿様が総理大臣だったころ、リアルタイムで江戸のかわら版ニュース実況中継のような新作を見た記憶があるのだ。
 昭和の終わりから落語がなけりゃ夜も日もあけぬ私だったのに、平成の5年頃を最後に、私はバッタリと寄席に行くのをやめてしまった。
 その理由はいつかお話することもあるかもしれないけれども。
 だから、師匠と敬称をつけるべきフィーリングがこと喬太郎さんに対しては無いのだった。
 そして、喬太郎さんを喬太郎師匠、と呼ぶと、私の中の落語世界はウソに転じる気がするのだ。そんなわけで…ごめんなさい。
 
 有楽町のマリオンの前で、うっかり空を見上げたら、ビルを凌いでものすごい速さで流れていった雲とか、銀座セブン寄席の薄暗いガスビルから外へ出た銀座通りの眩しさとか、椀屋寄席の、店内を区切る御簾の中途半端なぶら下がりの丈とか……
 …きっと同じ景色を見ていたのに違いないような気がして、旧友と昔話をしているようでなつかしい。喬太郎さんを媒介に私はあの時代にタイムトリップできるのだ。 
 昭和の終わりからのダントツに景気がよくて、でも、非力な若者が過ごした青春の裏通りを多分、同じような気持ちで見ながら過ごしてきたのじゃなかろうかと…
 何の噺だったか、「池袋の人間が表参道へ行ったら撃たれるんですよ」という、言葉の端々が、もう、自分の分身じゃないかと思えるほどである。

 それから私は寝た子を起こされ、どうにか日程が合った池袋演芸場の喬弟仁義に行ってみた。
 そこでまた、これでもかという演題に廻り合わせていただき、笑い転げるしかなかった。
 エンターテイナーが持つ、これほどまでにやってしまうのか…!というインクレデヴィルなサービス精神。先代の澤瀉屋を想い出した。
 客席を観ながら、今日のお客さんにはどんな料理を出してやろうという、客のニーズを読み取る手練れならではのピタリの選球眼。

 そんな喬太郎さんの独演会の切符が手に入るとも思えない。そしてまた、行きずりの寄席で、一期一会の、今日は果たして何を聴かせてくれるのかな…という緊張状態でもって巡り合いたいので、私は敢えて切符争奪戦に参加しない。
 いつまた寄席に行けるかわからないけれど…ちょっとマカロニウエスタンなBGMが私の耳をかすめた。

 それにつけてもほんの出来心で、つーーーーーーーっと来て、るっと着地した場所で、こんなに鶴尽くしの目に遇うとは……
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おとうさん

2018年09月22日 07時45分41秒 | 近況
 「あっ、お父さんだ!」
 テレビを見ていた母が叫んだ。指さすほうを見ると、大岡越前の加藤剛であった。
 あれ? 昔聞いた母のお父さん、つまり私の母方の祖父は、高橋幸治から甘さを抜いた感じの男前だった、と言っていたように思ったけど……
 待て待て、そいえば、この前は、田村高廣を、隣に住んでいた人、と言ってたしなぁ。
 街の風情が21世紀になってすっかり変わったように、しゃべる言葉や食べるものが変わって顎の筋肉の動き方が変化したためか、人間の顔もやはり昔とはずいぶん違ってきた。昭和のころ撮影されたフィルム群を見ていると、記憶の中の知り合いによく出会う。

 親戚付合いが先代で絶えて、消息はもう分からなくなってしまったのだけれど、子ども心に鶴田浩二にそっくりだと思っていた母方の大叔母の弟は、予科練の生き残りであった。
 婚約者が不治の病で入院していた時に、お見舞いに来た婚約者の友人との間に恋愛感情が芽生え、駆け落ちした。
 戦後のゴタゴタした時代には、身近に様々なことが起きるので、劇作家はドラマチックなストーリーを編み出すのに、今ほど苦労はしなかっただろう。

 さて、母の父は、ずいぶん風邪が長引くなぁ…と周りが思っているうちに、母が高校生のとき白血病で急逝したので、私は祖父の顔を知らないのだ。
 きりっとした鼻が高い大正生まれの好男子で、第二子出生の折、連れ合いを亡くした。曾祖父の代に内陸のT県OT原から海に面したI県K浜に出て、主にランプとその油を商い、電気が浜辺の町に通い発展するにつれ、塩やたばこの専売品、郵便切手、生活雑貨、青物、食料品などを扱うようになった。
 夏になると、店の横合いに床几を出し、ところてんを、今でいうセルフで出していた。水を張った大きな桶の中に、心太が一本売りされている。その中から、ところてんを取り出してもらい、自分で突いて、酢醤油で食べるのがおいしかったのを覚えている。

 母が学校から帰ってくると、おとうさんは女の人に誘われて、いつもお茶屋さんに行ってなかなか帰ってこなかった。母はそれが嫌だった。それを案じてか、商店を切り盛りし、残された二人の子供の面倒をみていた曾祖母が、祖父に後添えを迎えた。
 曾祖母は、私が中学1年生の時に亡くなった。気持ちのしっかりとした、頭脳明晰な刀自であった。子どものころはあまりにも長いこと生きている時代がついた古びた感じの、その存在がとても怖くて、私は曾祖母と話ができなかった。曾祖母の葬式の時、“スイ(萃…という字だったか翆という字だったか…)”という、彼女の名をはじめて知った。…ぁぁ、おばあさんにも名前があったのだ、同じ人間だったのだ…と、うかつにも気が付いた。


 お彼岸に、妹夫婦が母を墓参りに連れて行ってくれるというので、小旅行用の鞄を探していたら、戸棚の中から大事にしまっていた平成16年・東方出版刊『柴田是真 下絵・写生集』が出てきた。いや、出てきたのではなくて、いつもそこにしまってあったのを、改めて取り出してみたのである。

 夏の終わりに、母の新しい塗り絵帳を探しに出向いたら、なんということでしょう、『柴田是真の植物画 季節のぬりえ帖』というのを、書店の棚の中に見つけたのだ。
 がびーーーん、世の中は再び進化した。青月社、という美しい名前の会社が版元だった。

 やはり蛙の母はカエル。元気なころは美術館の解説ボランティアをしていた母も、柴田是真がたいそう気に入った様子で、ここ2週間ほど、一心不乱に塗り絵に没頭した。
 しかし、それがために宮沢賢治の書き取り帳がおろそかになり、先週、字が読めなくなっていたので、私は慌てた。
 そんなことがあって、今まで見せたことがない画集を母に見せてみようという気になったのだ。

 何年ぶりであろうか、帙入りの大判の本をテーブルに広げ、二人で眺めた。
 母は歓声を上げて、ページを繰っている。
 「おとうさんはねぇ、何でも買ってくれたの…」
 と、いつの間にか、祖父が母に買ってくれた本であったように錯覚したらしい。

 「こんな本があったの? はじめて見た…」
 もちろん、この本を見せたのは初めてであるが、「こんなのはじめて」というこの言葉は、このところ母の口癖であった。記憶の消失とともに、はじめてのことが矢鱈と多くなったのだろう。母が無邪気で、いつも新鮮な気持ちでいられるのは私にとっても嬉しいことである。

 懐かしい、しかしいつ開いてみても常に新しい、瑞々しい生命力に満ちた是真の筆致。
 “筆”文化の極致。血の通った流麗さは、日常筆に親しんだ者が為せる粋。
 そうだった、母は書道も好きで、殊にかな文字を嗜み展覧会にも出品していたのだった。

 …母が時折、私のことを「おとうさん」と呼んだりするのは、わたくしを自分の保護者と思っているからなのか、それとも、生前の私の父に呼びかけていた日常生活の記憶の断片が、傍らの人に呼びかける無意識の「もしもし、」という感嘆詞になっているためなのか。
 
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菊水のもん

2018年09月14日 01時25分01秒 | お知らせ
 昭和の寄席の話です。
 ある日の新宿末廣亭で、噺家さんはどなただったか…枕だったか、漫談だったか…おもむろに片っぽの足袋を脱いで、高座に置き、立ち上がって往きがかる態で、
「もしもし、たびのお方、旅のお方…どちらのもん(者)ですか?」
「はい、十六文です」
…とかいう見立ての言葉遊びをなさった方がありました。お座敷遊びの転用でしょうね。

 さて、来る10月6日、予てより様々なことでお世話になっている、関西を本拠として活躍なさっている邦楽家の皆さまのご尽力によりまして、家元・杵屋徳衛の大阪にての初ライブが行われます。
 徳衛の母方は杵勝ですが、父方は松永和風門下の松永鉄造(前名・和佐之助)でして、大阪の出身です。

 とくえワールド、この度は、その父方の檀那寺、大阪は谷町の久本寺(くほんじ)さまのご厚意によりまして、お寺の座敷にて催行させていただくことと相成りました。

 大阪市中央区谷町8丁目にございます、久本寺。
 太平洋戦争の空襲により、おびただしい文化財…寺社も焼失いたしましたが、その戦禍を免れ、現在、大阪市では、江戸初期の遺構群を温存し伽藍構成をも残す最古の寺院だそうです。
 永禄5年(1562)、讃岐国の戦国武将・久本重時(ひさもと・しげとき)公により建立されました。
 大坂両陣ののちの寛永6年(1629)、聖徳太子が四天王寺を建立したとき(593)先祖が用材を調達した功があった故事より天王寺屋を称して、元和元年(1615)大坂で最初の両替商を開いた天王寺屋五兵衛が中心となり、本堂を創建。
 泉屋住友家も檀家に名を連ねるという、歴史が好きな方には垂涎の、素敵なお寺です。

 番組の中に、大坂にゆかりの楠木正成公の長唄「楠公」がございます。私も参じます。
 
 楠公の御紋は菊水ですが、実は…徳衛の父祖の紋も菊水で、久本寺内の墓石にくっきり御紋が刻まれていたのを拝見したときは、ぉぉぉ~~~と、思わず声が漏れるインパクトでした。

 大坂に所縁の長唄ということで、紋を意図して楠公を選曲したわけではないようですが、そんなわけで………

 皆さま、是非にご来場くださいませ。10月6日土曜日の午後3時開演です。
 よろしくお願い申し上げます。

 
 
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さらば、五線譜~和楽器オーケストラへのお誘い

2018年09月08日 07時07分55秒 | お知らせ
 暑さが残ってはおりますが、空も風も秋の気配。
 涼やかなる秋到来なれば、身も心も玲瓏たる美しきものを愛でたいものでありますね。

 そこで、夏の騒乱とは一味も二味も違う、心が穏やかになる活動をご紹介申し上げます。

 和楽器オーケストラに参加しませんか?

 武蔵野市で「むさしの」を弾こう!プロジェクト、略して《むさむさプロジェクト》がはじまります。
 11月11日Sunday、武蔵野公会堂@吉祥寺南口での発表会をめざして、本番までの日曜日に稽古します。
 
 参加資格は、武蔵野市に在住、または在学する19歳以下の方です。
 武蔵野市補助金事業ですので、参加費はすべて無料です。
 今回は、合奏曲むさしのの、三味線パートと歌パートを練習します。

 今週末9月9日より開講いたします。日程途中からの参加もフォローいたします。
 五線譜では演奏しませんので、楽理が苦手でも、譜が読めなくても全然心配ありません。

 まったくの三味線初心者の方、ちょっとやったことがあるょ、という方、かなり弾けるから新たなジャンルに挑戦したい、という方々!!

 そしてまた、和楽器でバンドやるのも飽きた…曲が単調すぎる…とか、日本の伝統音楽というとなぜ、民謡だったりする土着文化しかなかったりするのかなぁ…もっと洗練された違う音楽がやりたい!!と、思ってらっしゃる皆さま方。

 五線譜の音楽理論とは別な音楽文化のもとに立脚した日本の音楽、和楽器で奏でる心躍り、且つまた、やすらぐ和らぎの世界への扉を、開いてみませんか?

 詳しくは、電話0422410211番か、メール toku@shamisen.org
 へお問い合わせくださいませ。

 お待ちしております。
 

 
 
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