長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

土に食いつき 泣きゐたり

2012年05月25日 15時35分45秒 | 凝り性の筋
 たぶん、日本人は、お腹がいっぱいになるより、胸がいっぱいになるほうが好きなのだ。

 人形浄瑠璃・文楽、東京公演。ここ十年ほど、欠かさず観に行く。
 文楽の義太夫の素晴らしいことといったら、昭和の終わりごろ聴いた素浄瑠璃の会でわかってはいたのだが、若い時は「アタシ、生身の人間のほうが好きなンです」とか言って、多いときには同じ演目を月に7回、歌舞伎ばっかり観ていた。

 しかし、なんだか、四十を過ぎたら、もうピュアな芝居の心というのでしょうか、ただウソ偽りのない、藝の力というもので観客を魅せる技芸員…砕けて申せば、大阪のオッサンたちの生みだすミラクルな藝境、そして浄瑠璃作者の訴えたかったであろう言葉がまっすぐにこの胸に響いてきて、もう、お芝居ときたら、歌舞伎座が無くなってここ数年、人形浄瑠璃ばかり観ているといっても過言ではない。

 正しくは、文楽は聴きに行くものである、という慣用句があるが、私は人形も楽しみなのでとにかく、観に行く。

 俳優が一人いれば事足りるものであろうに、わざわざ三人の人間が一体の人形を遣う。日本人ってもともと、ペイとか原価率とか損益分岐点とかいう言葉とは無縁なのだ。
 しかし、それだからこそ生み出される、たとえようもなく素晴らしい演劇空間が舞台上に現出される。
 人間って、悲しいもんでしてね、どうしても生きてる限り生々しい。
 一個の俳優が演じていると、本人が意図せずして、あざとかったりえげつなくなってしまう瞬間がある。若い時は、ことさらリアルで生々しかったり、品がない不良っぽいものに何となく心惹かれてしまうものだが、年ふりそういうものに現実社会で実際に見聴き触れてきた身には…もうお腹いっぱいです、遠慮申し上げます…という心境に至ってしまうことも事実なのだ。

 それが、なのである。文楽は、人形という物体を介在させることによって、まごうことなく人間が演じているものであるのに、人間が直接演じるよりも、芝居の本質が顕らかになっているのである。
 つまり、役を演じているものが、芝居というものの魂を演じきる、「或るもの」になっている。
 それは人間でもないけれど、人形でもない。
 なんと申しましょうか…あらゆるものを超越しつつ、あらゆるものを内包している何か。

 そんな素晴らしい、何ものかになる可能性を秘めている舞台だものだから、そうたびたびそんなミラクルな瞬間にお目にかかれることがないこともまた、事実である。
 LIVEであるからこその邂逅。当然、演目、日によって、技芸員の技量によって、当り外れはあるのである。
 しかし、そんな目に多く遇っているだけに、かくも宝石のような舞台に出会えたときの嬉しさときたら。日本人てどれだけ、素晴らしい芸術を生み出してきちゃったんだろうと、観るたび涙が溢れる。
 もちろん、そういうわけでアタリハズレがありますから、ァーなんや、今日の芝居はぼちぼちでんなぁ…と堺衆の如き呟きを発しながら劇場を去ることもある。大阪市長の初感がそうだったのは、お気の毒、と言うしかない。

 昨晩、私が聴いたのは「吃又」。歌舞伎では、ほとんど、出来の悪い旦那と口数の多い妻の夫婦漫才のように繰り広げられる。奥さんのしゃべくりと「かか、ぬけた」という空っとぼけた夫のやり取りで笑わかす、コメディみたいな芝居。
 そして長唄に関わるものとして特筆すべきは「藤娘」という定番曲の、大津絵・藤娘の姿絵の産みの親である、ということぐらい。なんでこんな面白みのない芝居をしょっちゅう歌舞伎の舞台にかけるのか、いままで不思議ではあった。

 しかし、また再び、私は奇跡に遭遇してしまった。
 弟弟子に追い抜かれ、免許皆伝の許しも得られぬ、絵師又平の悔しさ。ひとつのことに一生をかけて精進する世界に身を置くものには、この屈辱の痛さが身にしみてわかる。仕事を持ち、社会に身を置いているものなら、みな身に憶えがあろう。
 何とか免許皆伝のお許しを頂きたいと、師匠に懇願し平身低頭する浮世又平夫婦。その台詞のあとの地の詞章。
  ♪…土に喰いつき 泣き居たり

 竹本住大夫のこの語りで、私は突如涙腺が決壊した。
 人様にお願いをする土下座だよ。いまの人はシャレ程度にしか思ってないかもしれないけど、自分の人間性、誇りを捨てて、地べたに頭をすりつけて、口の中に土くれが入るほどに、歯噛みしながら泣いているのである。スポ根のど根性ものでもあるじゃん。負けて悔しい。泣きながら詰める甲子園の土だょ。…多少たとえが違いますが。
 そして、どんなに努力しても、人に認められることのない、ツルツルの氷の壁に四方を遮られ、心に冷たい棘が刺さるような疎外感。
 なんだか、歌舞伎では、太平楽な画家夫妻程度にしか感じていなかったこの浮世又平と女房おとくが、たとえようもなく可哀想に思えてきて、思わずもらい泣きしてしまったのである。

 ミラクルを生み出せる芸域に達するまで、人はどれだけの苦労をし、年を重ねてきたことであろうか。
 資本なんかどうでもいいのだ、とどのつまり、結局。
 人はたかだか50年…西暦紀元後二千年をも数えるようになれば、多少は生存条件がよくなって70年、そんな一瞬の星の瞬き程度しか生きられないのだ。
 自分の心の中に飼っている、理念や信念、そんな、何ものにも穢されることのない自分だけの誇りというものの気が済み、まっとうされれば、それで静かに、生きていた、と思えるものなのである。

 三度の飯より好きなもの、一生をかけて打ち込める仕事。それさえあれば霞を食って生きていけそうな気がする…のが日本人なのである。だからさ、精神性より実を取る人々にはさぁ、こんな不可解な日本人の心根はわかるはずもないのである。
 そしていつの間にか…たぶん横文字の合理主義で芳しき双葉のころから育てられるようになって、日本人の心根は絶滅しようとしているのだ。
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まことの花の 咲かぬ国

2012年05月05日 05時05分55秒 | 折々の情景
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