長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、日々感じること、
昭和から平成ひとケタ時代の街かどでの
想い出話などを紡いでいきます。

鱗雲

2018年10月17日 23時55分55秒 | 折々の情景
 鰯雲、という映画がありましたね。
 火曜日の朝、まだ虫は鳴いているだろうか…と心配しながら玄関から外を覗いてみましたら、青い空が広がっておりました。
 ♪母より早く朝起きて…という「こいのぼり」の替え歌を思いつきました。思いつきなので季が違います。

 さて、今日は旧暦の平成卅年九月九日、重陽の節句なのでした。

 秋深し…だんだんに深まってゆく秋というより、突然深まってもう冬が来るんじゃないか、という気配の、平成最後の年の白い秋です。
 昭和の者の体感では、9月の終わりごろ…な、この1週間でした。

 移りゆく四季の、変わり目の風情が愉しめることも少なくなりました。
 
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消息

2018年10月03日 10時03分38秒 | 近況
 初夏、馥郁たる星の如き白い花をつけた檸檬の樹。
 ベランダ栽培ながら、三株あるうちの二株ほどが、一本につき一つずつの青い実をつけ(あんなに花が咲いたのに受粉とは難しいものですね、私も筆でお手伝いしたのですが…)、徐々に太り始めた初秋。

 嵐の晩に、私は彼らの身を守るため、風当たりの強くない物陰に鉢を移動したり、防護ネットが飛ばないように紐で括ったり、幹ともつかぬ茎のような樹体を添え木で補強したり…大わらわとはこういうときに使う言葉と思い知ったのでした。
 個人的な趣味の園芸でさえこのような有様であるのに、本職の方々のご苦労はいかばかり…お見舞い申し上げます。

 もう20年前に時々、昼の憩い、というNHKのラジオ番組を聞くのを楽しみにしていたのですが、久しぶりにつけたAMラジオから、同番組が流れてきて感激しました。当時は、お手紙を寄せていた方々が○○通信員、という敬称で紹介されていたので、明るい農村のような、共同体のイメージでその番組をとらえておりましたが、今ではそのスタイルはなくなったようでした。
 いろいろなものが解体、変容したのが、この西暦2000年からの時の流れというものなのでしょうか。

 今年は金木犀が遅いなぁ…と案じておりましたところ、人間の心配などどこ吹く風、ちゃんと先週木曜日には、ご近所の金木犀が香り始め、昨日、往きがかった御濠端の公孫樹並木では、銀杏の実が匂い始めておりました。

 さて、だいぶ前からパソコンの具合が悪かったのですが、一昨日の朝、バッテリーの充電中に、シュワシュワッと白い煙を吐き、グツグツ言っているのを発見。慌ててバッテリーを外し一昼夜ほど放置し、案じながら電源を入れましたら、どうにか使えて、こうして日記をしたためておりますが、いつどうなることか知れません。
 (ウルトラシリーズの再来のような今日この頃、それでも使えるパソコンの謎…)
 見学ご希望の方のメールも届いていないことが昨日発覚し、まことに申し訳なく思っております。

 すわ、バミューダ三角地帯に突入? 消息が途絶えたのでは…?と、お気にかかることがありましたら、ご遠慮なく、お電話いただけましたら幸甚です。
 写真は、嵐の過ぎた月曜日の夕暮れです。富士の山影は、関東者には心の拠りどころだったりいたします。
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おとうさん

2018年09月22日 07時45分41秒 | 近況
 「あっ、お父さんだ!」
 テレビを見ていた母が叫んだ。指さすほうを見ると、大岡越前の加藤剛であった。
 あれ? 昔聞いた母のお父さん、つまり私の母方の祖父は、高橋幸治から甘さを抜いた感じの男前だった、と言っていたように思ったけど……
 待て待て、そいえば、この前は、田村高廣を、隣に住んでいた人、と言ってたしなぁ。
 街の風情が21世紀になってすっかり変わったように、しゃべる言葉や食べるものが変わって顎の筋肉の動き方が変化したためか、人間の顔もやはり昔とはずいぶん違ってきた。昭和のころ撮影されたフィルム群を見ていると、記憶の中の知り合いによく出会う。

 親戚付合いが先代で絶えて、消息はもう分からなくなってしまったのだけれど、子ども心に鶴田浩二にそっくりだと思っていた母方の大叔母の弟は、予科練の生き残りであった。
 婚約者が不治の病で入院していた時に、お見舞いに来た婚約者の友人との間に恋愛感情が芽生え、駆け落ちした。
 戦後のゴタゴタした時代には、身近に様々なことが起きるので、劇作家はドラマチックなストーリーを編み出すのに、今ほど苦労はしなかっただろう。

 さて、母の父は、ずいぶん風邪が長引くなぁ…と周りが思っているうちに、母が高校生のとき白血病で急逝したので、私は祖父の顔を知らないのだ。
 きりっとした鼻が高い大正生まれの好男子で、第二子出生の折、連れ合いを亡くした。曾祖父の代に内陸のT県OT原から海に面したI県K浜に出て、主にランプとその油を商い、電気が浜辺の町に通い発展するにつれ、塩やたばこの専売品、郵便切手、生活雑貨、青物、食料品などを扱うようになった。
 夏になると、店の横合いに床几を出し、ところてんを、今でいうセルフで出していた。水を張った大きな桶の中に、心太が一本売りされている。その中から、ところてんを取り出してもらい、自分で突いて、酢醤油で食べるのがおいしかったのを覚えている。

 母が学校から帰ってくると、おとうさんは女の人に誘われて、いつもお茶屋さんに行ってなかなか帰ってこなかった。母はそれが嫌だった。それを案じてか、商店を切り盛りし、残された二人の子供の面倒をみていた曾祖母が、祖父に後添えを迎えた。
 曾祖母は、私が中学1年生の時に亡くなった。気持ちのしっかりとした、頭脳明晰な刀自であった。子どものころはあまりにも長いこと生きている時代がついた古びた感じの、その存在がとても怖くて、私は曾祖母と話ができなかった。曾祖母の葬式の時、“スイ(萃…という字だったか翆という字だったか…)”という、彼女の名をはじめて知った。…ぁぁ、おばあさんにも名前があったのだ、同じ人間だったのだ…と、うかつにも気が付いた。


 お彼岸に、妹夫婦が母を墓参りに連れて行ってくれるというので、小旅行用の鞄を探していたら、戸棚の中から大事にしまっていた平成16年・東方出版刊『柴田是真 下絵・写生集』が出てきた。いや、出てきたのではなくて、いつもそこにしまってあったのを、改めて取り出してみたのである。

 夏の終わりに、母の新しい塗り絵帳を探しに出向いたら、なんということでしょう、『柴田是真の植物画 季節のぬりえ帖』というのを、書店の棚の中に見つけたのだ。
 がびーーーん、世の中は再び進化した。青月社、という美しい名前の会社が版元だった。

 やはり蛙の母はカエル。元気なころは美術館の解説ボランティアをしていた母も、柴田是真がたいそう気に入った様子で、ここ2週間ほど、一心不乱に塗り絵に没頭した。
 しかし、それがために宮沢賢治の書き取り帳がおろそかになり、先週、字が読めなくなっていたので、私は慌てた。
 そんなことがあって、今まで見せたことがない画集を母に見せてみようという気になったのだ。

 何年ぶりであろうか、帙入りの大判の本をテーブルに広げ、二人で眺めた。
 母は歓声を上げて、ページを繰っている。
 「おとうさんはねぇ、何でも買ってくれたの…」
 と、いつの間にか、祖父が母に買ってくれた本であったように錯覚したらしい。

 「こんな本があったの? はじめて見た…」
 もちろん、この本を見せたのは初めてであるが、「こんなのはじめて」というこの言葉は、このところ母の口癖であった。記憶の消失とともに、はじめてのことが矢鱈と多くなったのだろう。母が無邪気で、いつも新鮮な気持ちでいられるのは私にとっても嬉しいことである。

 懐かしい、しかしいつ開いてみても常に新しい、瑞々しい生命力に満ちた是真の筆致。
 “筆”文化の極致。血の通った流麗さは、日常筆に親しんだ者が為せる粋。
 そうだった、母は書道も好きで、殊にかな文字を嗜み展覧会にも出品していたのだった。

 …母が時折、私のことを「おとうさん」と呼んだりするのは、わたくしを自分の保護者と思っているからなのか、それとも、生前の私の父に呼びかけていた日常生活の記憶の断片が、傍らの人に呼びかける無意識の「もしもし、」という感嘆詞になっているためなのか。
 
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菊水のもん

2018年09月14日 01時25分01秒 | お知らせ
 昭和の寄席の話です。
 ある日の新宿末廣亭で、噺家さんはどなただったか…枕だったか、漫談だったか…おもむろに片っぽの足袋を脱いで、高座に置き、立ち上がって往きがかる態で、
「もしもし、たびのお方、旅のお方…どちらのもん(者)ですか?」
「はい、十六文です」
…とかいう見立ての言葉遊びをなさった方がありました。お座敷遊びの転用でしょうね。

 さて、来る10月6日、予てより様々なことでお世話になっている、関西を本拠として活躍なさっている邦楽家の皆さまのご尽力によりまして、家元・杵屋徳衛の大阪にての初ライブが行われます。
 徳衛の母方は杵勝ですが、父方は松永和風門下の松永鉄造(前名・和佐之助)でして、大阪の出身です。

 とくえワールド、この度は、その父方の檀那寺、大阪は谷町の久本寺(くほんじ)さまのご厚意によりまして、お寺の座敷にて催行させていただくことと相成りました。

 大阪市中央区谷町8丁目にございます、久本寺。
 太平洋戦争の空襲により、おびただしい文化財…寺社も焼失いたしましたが、その戦禍を免れ、現在、大阪市では、江戸初期の遺構群を温存し伽藍構成をも残す最古の寺院だそうです。
 永禄5年(1562)、讃岐国の戦国武将・久本重時(ひさもと・しげとき)公により建立されました。
 大坂両陣ののちの寛永6年(1629)、聖徳太子が四天王寺を建立したとき(593)先祖が用材を調達した功があった故事より天王寺屋を称して、元和元年(1615)大坂で最初の両替商を開いた天王寺屋五兵衛が中心となり、本堂を創建。
 泉屋住友家も檀家に名を連ねるという、歴史が好きな方には垂涎の、素敵なお寺です。

 番組の中に、大坂にゆかりの楠木正成公の長唄「楠公」がございます。私も参じます。
 
 楠公の御紋は菊水ですが、実は…徳衛の父祖の紋も菊水で、久本寺内の墓石にくっきり御紋が刻まれていたのを拝見したときは、ぉぉぉ~~~と、思わず声が漏れるインパクトでした。

 大坂に所縁の長唄ということで、紋を意図して楠公を選曲したわけではないようですが、そんなわけで………

 皆さま、是非にご来場くださいませ。10月6日土曜日の午後3時開演です。
 よろしくお願い申し上げます。

 
 
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さらば、五線譜~和楽器オーケストラへのお誘い

2018年09月08日 07時07分55秒 | お知らせ
 暑さが残ってはおりますが、空も風も秋の気配。
 涼やかなる秋到来なれば、身も心も玲瓏たる美しきものを愛でたいものでありますね。

 そこで、夏の騒乱とは一味も二味も違う、心が穏やかになる活動をご紹介申し上げます。

 和楽器オーケストラに参加しませんか?

 武蔵野市で「むさしの」を弾こう!プロジェクト、略して《むさむさプロジェクト》がはじまります。
 11月11日Sunday、武蔵野公会堂@吉祥寺南口での発表会をめざして、本番までの日曜日に稽古します。
 
 参加資格は、武蔵野市に在住、または在学する19歳以下の方です。
 武蔵野市補助金事業ですので、参加費はすべて無料です。
 今回は、合奏曲むさしのの、三味線パートと歌パートを練習します。

 今週末9月9日より開講いたします。日程途中からの参加もフォローいたします。
 五線譜では演奏しませんので、楽理が苦手でも、譜が読めなくても全然心配ありません。

 まったくの三味線初心者の方、ちょっとやったことがあるょ、という方、かなり弾けるから新たなジャンルに挑戦したい、という方々!!

 そしてまた、和楽器でバンドやるのも飽きた…曲が単調すぎる…とか、日本の伝統音楽というとなぜ、民謡だったりする土着文化しかなかったりするのかなぁ…もっと洗練された違う音楽がやりたい!!と、思ってらっしゃる皆さま方。

 五線譜の音楽理論とは別な音楽文化のもとに立脚した日本の音楽、和楽器で奏でる心躍り、且つまた、やすらぐ和らぎの世界への扉を、開いてみませんか?

 詳しくは、電話0422410211番か、メール toku@shamisen.org
 へお問い合わせくださいませ。

 お待ちしております。
 

 
 
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合奏曲「むさしの」

2018年08月30日 07時55分55秒 | お知らせ
 皆さまご存知のように、平成の世にできました天空を凌ぐ塔・スカイツリーは、武蔵の国にあることを由来して、634メートルの高さに定められております。

 武州。
 武蔵の国にある五日市だから武蔵五日市、武蔵の国の小山だから武蔵小山、同じく武蔵小杉、武蔵村山、武蔵小金井…エトセトラ、etc.
 武蔵の国にある野原で、武蔵野。

 関東一円に広がります武蔵野台地。ひと昔前は、よく、時代劇のロケを山背の国=京都でやっておりまして、大川端、隅田川岸が琵琶湖河畔だったり、下賀茂神社が浅草奥山だったりしますが、関東の者には今一つ違和感がある。
 それはね、とても美しい風景でほのぼのするのですが、空が狭い。後ろに山がある。
 関東平野は見晴らしがいいんです。西に富士山、北に筑波山。
 ですから、あまり瑕(きず)のないよくできた時代劇だったりすると、風景に茶々を入れたりする。

 京の都の住人・武蔵坊弁慶が勧進帳で飲み干します大盃(おおさかづき、大阪好き、と変換されちゃいましたが…確かに好きですが…ちゃいます)、あれを俗に武蔵野(むさしの)と呼びますが、その心は?
 はい、広くて野を見尽くせない→野見つくせない→のみつくせない、飲み尽くせない…正解です。

 ひと口に武蔵野、と申しますが、どこら辺を指すかご存知でしょうか?

 東京都心/練馬・板橋・北・中野/杉並・世田谷・大田/武蔵野・三鷹/調布・小金井/府中/立川・八王子・青梅/東村山・清瀬・所沢/平林寺/東武・西武・奥武蔵/秩父/奥多摩/葛飾・成田/多摩丘陵

 …というような記述を、昭和50年に毎日新聞社から刊行されました風景写真集『武蔵野の四季』に見つけました。父の遺品整理の折、本棚にあった一冊です。

 かように、関東に住む者には、武蔵野という言葉は切っても切れない心の風景のよりどころだったり致します。

 そんなことがございます一方で、このところの2020東京五輪関連プロジェクトを拝察いたしますにつれ、自分たちの風土に根差した文化をもっと知り、実践すべきではないか、と思うに至りました。

 さて、「むさしの」という和楽器オーケストラ向けの曲があります。
 編成は尺八、箏、三味線。歌パートもございます。
 国木田独歩「武蔵野」のイメージから、武蔵野市政30周年を記念して昭和52年に委嘱作曲されました。武蔵の野に陽が落ちるトワイライトタイム、雑木林を歩む者の目前に開けた原野を風が吹き抜けてゆく風景を描いた、詩情にあふれた曲です。
 武蔵野を渡る風を表現する、尺八の名手になる独奏パートがオーケストラをリードし、箏が野の下草や梢の葉のうねりやさざめきを奏で音色をふくらませ、三味線が小気味よく歌パートとともに景色に陰影をつける素敵な曲で、さまざまな演奏会で再演を重ねてまいりました。

 武蔵野市がルーマニアのブラショフ市と友好を結んだ数年後の記念の、ジョルジュ・デュマ・ルーマニア国立交響楽団の招聘公演で、日本側の返礼曲として演奏いたしました折も大好評をいただき、先方の楽団責任者の方からスコアを所望されるという、嬉しいエピソードもございます。
 2013年には、花柳衛彦先生(彦六の正蔵師匠のご子息)が振付くださり、舞踊公演もいたしました。
 作曲は、祖父の代から吉祥寺に住まいし、武蔵野四小、武蔵野一中を母校とする杵屋徳衛です。

 
 音源はこちらにございますので、ご試聴くださいませ。
  ⇒ http://www.shamisen.org/musasino.htm

 武蔵野市は、関東に棲むもの皆が共有したいであろう、この武蔵野という言葉を冠する都市です。
 もっと武蔵野市が武蔵野であるゆえんを感じてほしい、というわけで、このたび武蔵野市教育委員会へ申請し、「武蔵野市でむさしのを弾こう!プロジェクト」という、こども対象の文化体験活動支援事業をさせていただく運びとなりました。
 
 9月から始まる市内中学校での練習に参加していただき、11月11日、吉祥寺駅南口の武蔵野公会堂での演奏会で、その成果を発表するというものです。

 なにゆえこのようなローカルな話題をインターネットで…とお思いになるかもしれません。
 なんと!!
 日本では、産土神、根生いである独自の盆踊り大会や子ども会などの衰退に見られるように、昭和末期から平成にかけて地域コミュニティが徐々に崩壊し、現在ではそうした経緯から巻き返した街おこしが結実している場所もあるようではありますが、地元のようで地元でないというような、中途半端に市街地な土地柄では、むしろ限定された地域に対するお知らせ・広報というものが、逆にむずかしい、ということを、身をもって思い知ったわたくしです。

 そんなわけで、上記のようなプロジェクトがございます。
 お知り合いに、武蔵野市に在住・在学する小・中学生がいらっしゃいましたら、ぜひにご喧伝くださいませ。

 小・中学生とポスターには記載されていますが、武蔵野市に在住か在学、在勤の未成年者でしたら、どなたでも参加できます。

 伏して乞い御願い申し上げ奉りまする。
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いざ、おかげまいり

2018年08月27日 16時55分55秒 | お知らせ
 ちょうど10年ほど以前のこと。
 目白にございますシアター風姿花伝で、現代劇の舞台に参加いたしました。
 清水邦夫作『いとしいとしのぶーたれ乞食』を、清水先生門下・南谷朝子さんがプロデュースし、ご自身が作詞作曲した曲に加え、新たに音楽を杵屋徳衛に依頼した舞台で、上演日程の間中、私も地方(じかた)でライブ出演いたしました。
 演出は井上思氏、今は亡きすまけいさん、蜷川幸雄の舞台で常連の青山達三さん、劇団桟敷童子からの客演の方々とご一緒させていただいた、想い出多き芝居でした。

 その後、何度か素の曲として演奏会にかけさせていただきました。
 この度は、今週末9月2日日曜日、第5回全国邦楽合奏フェスティバルにて、演奏することと相成りました。
 NPO法人全国邦楽合奏協会が主催しており、大掛かりなので、全容の把握ができず、うっすらとしたご紹介で恐縮なのですが…
 武蔵野邦楽合奏団の名義にて、参加しております。
 場所は、洗足学園音楽大学溝の口キャンバス、出演時刻は正午ごろの予定です。

 夏の終わりのおかげまいりに、いざ…
 
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邦楽器から和楽器へ

2018年08月18日 11時33分39秒 | お知らせ
 ここ十年ほどのことでしょうか、いえ、もっと以前からだったかもしれません。
 邦楽器と表現していた言葉が聞かれなくなり、日本の伝統音楽にかかわる事柄が「和」という言葉で表されるようになりました。当節流行の和楽器バンド、という言葉に感じられますように。

 邦=我が国の、という意味ですから、たぶん、昭和が終わって平成生まれの方々が世の中をリードするようになってから…という線引きできるものかはわかりませんが、いつの間にやら、日本の伝統文化は我々のもの、わたくしたちのものという身近なものではなく、日本文化、洋に対する和、という、一つの文化のジャンルへと代わったのでしょう。

 このところ気になる災害放送などで、ラジオをまた頻繁に聞くようになりましたが、気分転換に…と局を替えても、私の聞きたい邦楽は全然やっていませんですね、いつだってダイヤルを回せば、箏の音色や尺八の響き、三味線のさんざめきが聞けたものでしたが、これまたいつの間にやら、二、三十年があっという間に経っていて、世の中は変わっていたのでした。…このところ無闇と、自分が化石になった気がしてなりません。

 そこで、邦楽空間たる密室を、この夏開放して、広く和楽器の体験をしていただけるよう、考えてみました。
 題しまして、
 
  【三味っちゃおぅ!夏の子ども・キッズ体験レッスン】
 
 です。子どもサイズの三味線を常備しております杵徳教室の独自企画です。

 (こども、キッズと表現が重複しますのは、邦楽器・和楽器というように表現の統一をはかりかねている筆者の心の揺らぎにもよります…ごめんあそばしませ)

 付き添いの大人の方もご一緒に体験できます。

 夏休みの自由研究にいかがでしょう?

 詳しくは、杵屋徳桜の三味っちゃおぅ!稽古ホームページをご覧くださいませ。
 お待ちしております。
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キヘンのひと

2018年08月11日 22時33分44秒 | マイノリティーな、レポート
 街は再び再開発。無駄のないすっきりしたビルの群れが誕生しつつあるその景色を眺めながら、しかし、新しく美しい街並みを見るにつけ、どうも何か足りない。なんてのか、殺風景なのである。
 …新しくて美々しいのに、なぜ? なにゆえ?? なじょして???
 それはね……ぅぅむ、そうです、樹が、緑が足りないのです。

 植栽なんて、無闇と広くなった舗道にお飾り程度に置いてあるけど、圧倒的に足りないのです。
 だって、ビルって、鉄と砂利と石灰と粘土とか(要するにコンクリとか)、珪砂とか炭酸ソーダとか(要するにガラスとか)、石の塊、鉱物でできてますもん、緑の大地を荒廃させ砂漠にしているわけです。21世紀も東京砂漠。
 皆が知恵と資本を出し合って、寄ってたかって、わざわざ都市を砂漠化させているんですね。

 だからもう、やたらと暑いんだわさ、幕末に日本に来た外国の方が、まるで植物園のなかで暮らしているようだ、と評したことがあったそうだけれど。…ぁぁ、ねぇ……

 そういや、日本語の漢字で一番多い部首はキヘンだと以前、聞いたことがありましたな。
 きへん。
 もう40年前、占いに凝ってた友人が、あなたは将来、手に木を持つ仕事をするようになる、と予言した。
 どうやって占ったのかしら…そもそも私は本名のファーストネームに既に二本の木があるので、気が多い人間なんですょ。そもそもがファミリーネームにすら二本、木が入っていたのだ。キヘンが付く苗字のひとと結婚したら、それはもう、木の生い茂るウッディな世界なのだ。何の話だ。
 材木屋って、シャレてそう呼んでましたょ、気が多い人のことを。…遠い昭和の市井の物語ですょ。



 さて、わたくしが今生の仮の宿は、府下西域にございます。はじめて都内の甲州街道を23区から通り過ぎて西へ西へと車に乗って移動した40年前、両端の欅がのびのびと枝を伸ばし、梢の無数の葉が風にそよぎ、緑の屋根、トンネルをつくって、それはそれは美しい街道沿いでした。

 江戸から新しく、東京という都市を造成するために資材の運搬路としても活躍してきた、青梅街道、五日市街道…etc. 郊外にも大動脈たる幹線道路が何本か拡がっていて、キヘン王国ニッポンの名にたごうことなく、沿道は樹木で縁取られています。
 それが、ですね…あれはもう2年前の晩春から初夏のこと…俗にいう黄金週間のあたりの出来事。

 省線から動物園へ至る吉祥寺通りの、そろそろ新緑が芽吹いて薫風に吹かれようというケヤキの枝が、無残にもバッサリと切り落とされて、私はとても驚きました。
 ただの棒…電信柱が4本ぐらい合わさった木製のオブジェ様になってしまった、欅の木の痛々しいことといったら。
 枝葉末節、というものではなく、幹が拡がって伸びた主要な枝を刈られてしまったのです。剪定はこれで正しいのだろうか…素人が口を出すべきことではないのかもしれないけれど、天才バカボンのパパも含め、私の知ってる記憶の中の植木屋さんは、あんな伐り方しないよなぁ…樹影事典というものまであるほどに、樹の枝の張りようというのは、重要なものなのに。

 それから可哀想なケヤキたちの様子を、蔭無き陰から観察しておりましたが、そこはなんと健気なものたちでしょう、六月ごろになって湿気を帯びた空気に涵養されたのか、太い幹から直に産毛のような葉を生やしはじめ、ヤドリギをたくさんつけたような不思議な樹影になりました。 
 これは何か見たような…そうだ、何年か前に緑の地球博で売り出されたイメージキャラのモリゾーとやらに似ている……。

 こうして、美しい樹影を形づくり、市民の心のやすらぎ、景観のいしづえであったはずの吉祥寺通りのケヤキたちは、幹から直接柳のような細い枝を枝垂れさせて、樹の影から幽霊でも出てくるんじゃないかという姿にさせられておりましたが、さらに驚くまいことか、その年の秋口。
 落ち葉の舞う移りゆく四季の風情が楽しめようという、その、もののあわれも味わわぬまま、黄葉する前に再び剪定作業車がやって来て、ことごとく葉と枝を刈り取っていったのです。

 濡れた落ち葉がすべって危ない…というクレームに忖度したのでしょうか、台風で折れる枝が危ないという提言があったのでしょうか?
 いくらなんでも、自然の摂理である落葉の権利までをも樹々から奪うとは…!! かくも酷薄たる人間たちの所業を、いかにとやせん…
 動物虐待を騒ぐ方は多けれど、かくもむごき植物たちへの仕打ち。こんなことが許されてよいものかいなぁ…(文語体で嘆く私)。

 そんなわけで、昨冬は、吉祥寺通りのケヤキ並木は、電飾用のただの木の台のようになってしまいました。
 季節感のない街で私は、身も心も凍りつき乍ら、その木霊の骸(むくろ)の下、駅までの道を毎日辿ったのです。

 ですから、落ち葉かきの労を惜しんだ報いでもあるまいに、本末転倒というか、負のスパイラルというか…この炎天下、直射日光に曝される舗道を散策するという物好きがいるわけもなく、歩道沿いの商店も閑古鳥が鳴いて、観光客の増える日祝しか営業しないというケーキ屋さんまで出てきました。

 それから二度目の夏を迎え、今年もバッサリ剪定された街路樹は、それでも、太い幹からこんもりと緑の葉を繁らせましたが、ケヤキ特有の、太い幹からすっきりとのびやかに広がる枝葉、それらが生み出す爽やかな木陰が、今さら育つはずもなく……
 さらなる猛暑に為すすべもなく、本来なら樹影のトンネルのもと、木々の緑に目と脚を休ませ一息つく愉しき街角になっている場所なのに…木蔭の恩恵を受けられない街路樹の並木道ってどうょ…と灼熱の日差しを避けて、ありがたや、全国のコミュニティバスの先鞭者たるムーバスに乗車し、私は駅まで通うのです。

 さてまた、今年の秋、彼らはどのような処遇を受けるのでしょう…
 街路樹の美質、長所をいかせぬまま、浅はかな方策でもって街並みを衰退させてゆく、愚なる処方が再来するのか。
 いずれにしろ、年月と人の手によって立派に育てられてきた樹は、伐ってしまったら、いかんせん、すぐには生えてきませんからねぇ……


 付:写真は吉祥寺大通りとは全く無縁の、とある神明社の境内の樹々であります。昨秋11月撮影。


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私をころして

2018年08月10日 11時00分02秒 | 近況
 「私を殺してからにしてくれ!」と今朝のニュースでどこぞの首長さんが啖呵を切った話を聞きましたが、あらら?
 コンチ、流行言葉なのかなぁ、思わず笑いました。このところ矢鱈と聞いちゃう言葉なんです。

 ひと昔、ふた昔…いぇもう何昔も前かなぁ、推理小説、サスペンスドラマにもよくある手法で、タイトルに持ってくることによって読む者にショックを与える物騒な言葉だったりしますが、それが、ふた月ほど前から同居している垂乳根の母のことなんでございます。
 母がときどき、「私を殺して!」と、夜中に迫るんだよなぁ。

 …というのは、海馬がだいぶ委縮して、先生の見立てでは新しい記憶が入らない状態らしく、五歳児のような言動でむしろ微笑ましいことも多いのですが、そこはさすがに年を経た八十路のオババ、いろいろなんですねぇ。
 自分の身の回りのことはそれなりにできて、御不浄なんかもきちんとはしているのですが、時々深夜に粗相をしてしまう、そんなとき人間の尊厳が冒されるのか、自己嫌悪に陥って、先の台詞で寝ている私をいじめるのです。

 「私は死にます、こんなに馬鹿になって生きていてもしょうがないもの…!」
 夏目漱石の夢十夜にも「私は死にます…」って話が在りましたね。

 「あのなぁ…」
 抗うすべのない理不尽な仕打ちに、探偵物語の松田優作の如く、眠気のとりこになって朦朧としている私は絶句します。
 (おかあさん、何もそんなにシンコクにならなくても……)
 母は戦中生まれの真面目な人間なので、一大事なのです。
 まったくもう、近松の心中ものかしらん…

 「ちょっと、オカーサン、娘を殺人犯にするつもり?」
 なんだ何だ何だねぇ、面倒に巻き込まないでほしいなぁ、日々の生活の苦難に朗らかにけなげに立ち向かう無力な芸人風情に、これ以上むつかしい問題を持ち込まないでほしいなぁ…
 「あたしゃー、人殺しになるのなんて真っ平ですからね」
 もう眠いから明日にしようよ…と、適当にお茶を濁しているうちに、情熱の嵐ならぬ妄執の嵐は過ぎゆき、台風一過の秋の空のようにカラッとはいかないけれども、八月の朝。

 「オカーサン、水羊羹、おいしゅうございますょ」
 「あら、そう?」なんて言って、無邪気に可愛らしいのですけれどもね、人間の脳って不思議なもんですねぇ。

 それにつけても、このところの世の趨勢を見てるとなんだか、酷いねぇ…数の論理でもって道義も何もない理不尽がまかり通るんですねぇ。

 どうなっちゃうんだろうねぇ、どうしたもんかねぇ…と、田村高廣になって、小林桂樹の梅安先生に相談したい今日この頃。
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足技師(世間はそれを夏休みと呼ぶのですね…DV篇)

2018年08月05日 23時55分59秒 | 近況
 どう表現してよいものやら…私が夏休みの宿題の絵日記帳をつけてた時分の、今日の気温はせいぜいがとこ25度C、よっぽど熱い30度越えの日は、40日間のうちのニ、三日あるかないかの時代でしたからねぇ、そりゃー暑くてかないませんけど、人混みで、歩きながらいきなり立ち止まって水分補給なさるのは、やめてほしいもんですなぁ。あぶないあぶない。
 立ち飲みとか口飲みとか、ことさらそういう言葉があって、昔はビンやなんかの飲み口にじかに口をつけて飲むのは下品だからおやめなさい、と窘(たしな)められたものでした。殊に女の子には、ぁ、口のみしてる! と小学生たちは指をさしたものでした。ポカリ何たらが発売されたCMだったかなぁ、ペットボトルから直に、渇いたのどにゴクゴクッと飲むのが気持ちよさげで、あの頃から一挙に流行ったけれど、それ以前は眉を顰(ひそ)められる行いのひとつでした。

 いぇ、それ以前に、歩き“ながら”食べたり飲んだりするのは下の下…乞食がするもんだと言って、一般人でそんなことをする人はいなかったですなぁ、昭和の頃は。
 たぶん戦争で極限状態まで行っちゃったから、文明の先鋭化よりも文化的生活の実践、動物ではない人間のあるべき姿というものに、ことさら敏感、憧憬の思いが強かったのかもしれません。だもんだから、祭りの夜店というのは格別な存在感があったりしたわけです。
 …こう書くと改めて、いまの世の中のすさみように愕然としますけれども。

 夏休みになってから、バスや電車のシートの片隅にお菓子の包み紙が矢鱈と落ちてたりしてて、子どもたちの行儀の悪さというよりも、それを容認して頓着することのない親の顔を想像するだに、悲しくなります。
 あたりをはばかることなく、子どもを連れて大声で歩き回る親御さん方、各ご家庭で展開される日常の様子が、電車の中で平然と繰り広げられる、コントのような目の前の景色。ドメスティック・ビュウ、略してDV。
 会社のことを家庭に持ち込まないのが20世紀の一家の大黒柱たる男の矜持?いやニューファミリーのモットー?であるなら、ご家庭のことを社会に持ち込まないでいただきたいのが、21世紀の赤の他人の所感です。

 「なにさ、一人で大きくなったような顔しちゃってさ…」
 小津安だったか成瀬巳喜男だったか…1950年代の白黒の映画で、お姉さんだったか小母さんだったかが、よくこぼしていましたけれど。傍若無人って死語になっちゃったのかなぁ、と、このところ出掛けるたびに、そんな科白を想い出します。

 太陽がまぶしいせいか、ものすごく動物的、本能的な人が増えましたね。
 昔、奥さまは魔女のエピソードのひとつに、魔女狩りの中世にタイムスリップしちゃう噺ってのがあって、もう40年以前見たのにいまだに覚えてるんですけど…サマンサに、タイムスリップした先の、村の行き掛かりのおばちゃんが、あらっ、あんたどうしたのそんな下着で歩いてたら捕まるわょッって、ものすごい勢いで注意して心配してくれるシーンがあるんですけどね。
 その時の奥様のいでたちは、白い夏のノースリーブの当節流行のミニのワンピースで、背中が幅広のバイヤス布のクロスになってるバックスタイル(…よくこんなこと覚えてるなぁ…世の中の何の役にも立たない悲しき記憶力…)。ここは視聴者の笑いどころで、そんな前時代的なこと言っちゃって、と、当時の頭の固いオバサマ方を揶揄してるのもあったかもしれませんが。彼我の価値観のギャップに、みな一様にドッと笑います。
 そんなシーンを今更のように想い出すけれども、さらに現在は、その比じゃなく、気温に負けまいとするかの如く凄い露出度です。あからさまになって奥ゆかしさがない。立ち居振る舞いがもう、人間じゃなくて動物です。景色を除いて人々の姿だけ見ると、街中の交差点じゃなくて、ビーチだったりプールサイドだったりします。

 何だったかなぁ…これまた「アタシ、脱いでもすごいんです」って品性のかけらもない言葉がCMに出てくるようになってからでしたか。体で勝負する=身体を売るのは最終手段で、人間の尊厳、お金のために自分の誇りを捨てるというそんな前時代的な目に遭いたくないから、女性たちは何とか手に職をつけて自分たちの存在意義を勝ち取りたかった。
 最終兵器的な肉体にものを言わせる労働から解放されて、「脱がなくてもすごい人間」というものを目指していたのに、バブル期で、すべての努力は水の泡になってしまいましたねぇ。

 人間としてどうあるべきか、という哲学は廃れて、快楽主義、享楽に走ったのですね。文化的なことをして自分の内側を高めたいということはなくなって、ていのいい見掛けやスタイル、上っ面を整えることに終始し、おいしいパンやスイーツを求めて三千里、何を買ってどこに行って何を食べて今日は満足、という刹那的な。結局、一億総成金状態。

 子ども向けのミュージカルで、メアリーポピンズだったでしょうか…映画の中で、絵にかいたような銀行家が出てきて、利益という言葉がすべてに優先する、という科白は笑いどころだったのだけれど、今じゃジョークでもなんでもなく、本気でしょう、皆さん。

 なにはともあれ、いくらなんだって周りに気を配るのが、人間が密集した都市部で生活するものの最低限のたしなみってもんです。「公衆道徳」をヨコ文字にすると、なんていうのかしら。横文字にすれば皆が気にするようになるのかしら。

 そんなわけで、自分の行儀の悪さを、お天道様のせいにしちゃぁいけませんぜ。

 そーいやクマさんや、行儀という言葉も死語になったねぇ。
 ちょきいて、今日、目の前で起きた能楽堂での出来事を、そっくりそのまま言うぜ。
 正面席上手側通路から左の列の席に座ろうと、列の一番端の人に、スミマセン、失礼します~と声を掛けたと思いねぇ。
 60~70代とおぼしきかなり自由な服装をなさったその老紳士は、なぜだかとてもたくさんの荷物を抱えて立ち上がった。その手からゴロンとヘルメットが転がり落ちた。あらまぁ、拾って差し上げようと私が手を伸ばしたその瞬間、紳士の足がヘルメットを私の反対側へ蹴飛ばした。ヘルメットはヒュン…と飛び老紳士の左隣の席に座っていた二人ばかし先の客の足をヒットした。傍杖じゃなくて傍ヘルメットってやつ。
 いやーーーー、びっくりしたよねぇ。あまりのことに面喰い、呆れ仰天しつつも、失礼します、といって、自分の席に進んだら、その老紳士が一言、跨げばいいじゃない、とのたまった。

 な、な、な、なんですと!!マタゲバイイジャナイ??? 跨げばいいじゃないですと!?
 はぁぁぁぁ!!?? 日本人はね、物をまたいではいけないと、教育されて育つもんなんですょ。
 あんまり呆れたけど、負けん気の強い私だものだから、とても黙ってはいられず、
  それはちょっと、なかなか跨げないですよね、
 と言ってはみたけれど、私のこの呆れ果ててものも言えないというような気持ちは、先の老紳士には通じなかったでしょうねぇ、物が言えたんだから。(まぜっかえしたくはないけれども)

 そいえば驚天老紳士の類例ですが、想い出しました、恐怖の映画館での体験。
 もう25年以前、白山の今は亡き三百人劇場で中華電影(中国映画)大特集があって、何回か通ったある日のこと、映画が始まってから遅れて入ってきたやはり老紳士が、暗闇の通路の中で席を探すのに、ジッポとおぼしきライターで、カチッカチッと、何度も火をつけながら歩いてきたので、もう本当にびっくりしました。
 その当時はフィルム上映でしたから、映画館で直火をつけるなど言語道断です。もう本当に、炎の陰に浮かぶやや猫背の老紳士は、かのスクルージにそっくりで、生きた心地がしませんでした。ここで火事に遭って焼け死んだらどうなるんだろう、非常通路はどこだったかしら、まず連絡が家族に行くのだろうけれど分かってもらえるのかなぁ…へんな服着てなかったょね…救急車で運ばれた場合の最寄りの病院って順天堂かなぁ、いや東大病院があったっけ……とか、例によって勝手な連想に脳内は占拠され、観てた映画とは全然別の想像をしてしまい、気が散ること甚だしく、ほんとうに迷惑しました。

 無茶苦茶な人って、ときどきいてはりますね。

 能楽堂の見所で、そういう呆然とする目に遇っての帰りの電車は空いていて、はす向かいに座った壮年の紳士が、物凄い顔をしてスマフォと睨めっこしていました。細かい字を読むのに目の焦点が合わなくて目を細くしてたらそんな顔になっちゃったのでしょうけれど、陰腹でも切ったんですかぃ? と声を掛けてあげたいほど苦痛に歪んだ苦り切った顔だったのだ。隣りに奥さんらしき方が座ってらして、注意してあげればいいのに、その方もスマフォを見るのに余念がないのでした。
 どうなっちゃったんでしょうねぇ、まったく、日本国の住人たちは。

 正しい足技というのは、一角仙人やら、鳴神上人を籠絡しようとしたかの雲絶間姫のチラリズム、そういう足技であってほしいものでございますな。
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ペスタロッチ先生

2018年07月30日 11時11分06秒 | マイノリティーな、レポート
 蝉の声が音取となって、過ぎにし時の事どもが、前頭葉の斜め30度上方、空気の襞の間に閃く。
 「こんばんは、古谷綱正です」と、穏やかながらも頼もしいおじいさんがブラウン管の向こうから夜6時のニュースを伝えるのを茶の間で見るのが、我が家の常だった。子どもの目にはおじいさんだったけれども、きっと今の私より年齢は若かったかもしれない。
 テレビで伝えることは子供たちが真似をするので、きちんとしていなくてはいけない、というのが昭和の良識でありました。2018年の今、日本のテレビではニュース番組すら、スラングが飛び交っておりますね。記事の文法、てにをはさえもが、怪しい状況なのだ。

 常識の判断で、という言葉があったが、インターネットがここまで普及するとわけのわからない少数意見(私もかも…)が独り歩きするような事態になってしまい、良識ある見解というものがもはや死に体になっている、という状況が、昨今見られる混沌たる世相ではなかろうか。
 アメリカ自由主義の下、核家族化が進み、若者たちはたいそう羽を広げたが、これは歴史あるおばあちゃんの知恵袋の集積だった日本社会にとってはとても勿体ない、惜しむべきことだったかもしれない。
 無知ゆえの不幸、とでも申しましょうか、えっと思うほどビックリする、突拍子もないニュースも増えた。

 未開の新天地は気持ちのいいものだが、裏を返せば荒野なんである。
 何もないから一から始めないといけない。
 もったいないなぁ。先祖が試行錯誤して積み上げてきた叡知、智恵を、21世紀にもなって活かすことができないなんて。
 そしてまた年寄りの意見によって世間のコンセンサスを身につけていたのが、昭和の子供たちでありました。
 大人=社会だから、ぢいさんばぁさんの顔色を見ていれば、ぁぁこういったことをやれば非難の対象になるわけか…などと日常的な知識や見識、常識が身についたのだった。

 地域によっても違うかもしれないが、昭和40年代に関東地方で小学生だった者には、道徳の授業は確かにあって、ただ前時代の修身というほど押しつけがましいものではなく、様々な事例のお話を、どう思うか、どうしたらよかったか、自分だったらどうするのか、子供心に考えさせるような、結論のないお噺集が道徳の教科書だったように記憶している。

 さて、実は道徳の教科書に載っていたのか、世界偉人伝だったのか(そいえば「ちえをはたらかせたお話」という子ども向けの寓話集のようなアンソロジーもありました)何の本から伝え聞いた物語だったのか忘れてしまったのだけれども、教師とはどうあるべきかという命題の一つを顕したお話、というので、忘れられないのがペスタロッチ先生のエピソードなのである。
 記憶に拠っているので、誤った認識、錯誤などがありましたら、ごめんなさい。ご容赦くださいませ。

 18世紀半ばから19世紀にかけての、ヨーロッパのとある国でのお話です(たぶん)。
 とある学校の放課後、子供たちが元気に校庭で遊んでいる。その傍らでキラリキラリと光るものを拾っている先生がいた。それを見ていた学外の者が、あの先生は落ちている硬貨を拾って私しているのではないかと邪推します。
 糺されたペスタロッチ先生のポケットは、たしかに何かでいっぱいになって膨らんでいました。
 でもそれは、校庭に落ちていた石やガラスの欠片、折れ釘などでした。その学校は貧しい子供たちがたくさん通ってきます。みな靴を買うことができないので裸足なのです。子どもたちが怪我をしないように、ペスタロッチ先生は見守りながら、校庭の危険なものを取り除いていたのです。……

 日本国内でも学校の校庭からいろいろなものが出てきて工事が遅れ、開校できなくなった…と、つい最近何かで耳にしたような気もするが、人間の歴史とは、ついこの間まで、そんなに豊かじゃなかったのです。選挙権だってつい70年前まで女性には認められてなかったのです。人間個々人がこんなに自分の権利を主張できる世の中になったのは、ほんのつい最近のことなのに、なぜみんな選挙に行かないの…(余談でした)
 過去の物語の方向性をあげつらったり、校閲・考証をするわけではないので、さて今一読すると突っ込みどころ満載のお話ではあるが、たとえ話というのは、その現象から真理をつかみ出すことを目的としているので、漫才のネタにして笑いどころを探す必要はないのである。

 医療機器や化学工業の先進技術の発達たるや、驚かんばかり。文明の利器によってますます快適な生活ができるようになったのに、先祖がえりどころか、人間の質が低下しているような気がしてならない。肝心の人間が啓かれなくては、進歩どころではないではないか。
 人間が生きていくうえで大切な、思想、情操というものを養わなくては、社会はしあわせにはならない。無念のうちにこの世を後にした先人たちが、浮かばれないというものである。

 夏山シーズンになると、新田次郎原作、森谷司郎監督の「聖職の碑(いしぶみ)」という映画を想い出す。
 その映画のCMを録りたくて、テレビの前でテレコを用意して待っていた女子高生。そのCMのナレーションを日本アニメーション「母をたずねて三千里」のマルコのお兄さん役だった曽我部和行氏が担当していたのだった。
 同番組の挿入歌♪母さんがいなくても陽気に育つ子があるものさ…の歌声がとても好きだった私は、例によってオタク魂を発揮して、贔屓の声優さんの声を蒐集していたのだ。思えば生涯声フェチなのかもしれない。能の御シテ方の先生も、まず、声が佳くなくては好きになれない。
 そして、今でも昭和50年代に活躍していた声優さんの声は一聞にして、どれが誰だか識別できる(なんの自慢話でしょう………)。
 いえいえ、このカンは現在の職業に役立っていると申せましょうか、知恵ではなく耳を働かせたお話ですね。

 行楽の日々、皆さま、本当にご無事で……
 弟子ほどかわいいものはない。師匠ほどありがたいものはない。
 …というのが、修業道に身を置くものすべての、偽らざる心境でありましょう。
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岸田森と森川信

2018年07月27日 07時00分55秒 | やたらと映画
 岸田森が亡くなったのは、私が二十歳の年の暮れだった。TVニュースで知った時は本当にショックで悲しかった。訃報を伝える画面を今でも覚えている。
 子ども時分から「怪奇大作戦」は欠かさず見ていたし、中学生の時、掃除当番をさぼって男子が早く下校したがるのは「傷だらけの天使」の再放送を見たいがためであった。高校生だった時ラジオドラマで我がヒーロー、ブラック・ジャックを演じた。狂喜の配役であった。これまた欠かさず聞いていた。

 勉強をしながらラジオを聴くのは昭和の中・高生の常であった。ラジオドラマの全盛だった。朗読ではなく、ラジオドラマなのだ。
 深夜ともなると、ささきいさおのセイ!ヤングとか那智チャコパックとか、スネークマンショーとか、城達也のジェットストリームとか、もぅぉ、枚挙にいとまがない…というのはこういう時に使う言葉なのだと、今知った。
 テーマ曲はもとより、西国に去った方々の息遣い、喋り方の特徴など、耳からの記憶は今でも鮮やかに、耳のうちに蘇ってくるのだった。

 淀長氏の熱意の賜物か、萩尾望都の「ポーの一族」ゆえか…いえいえ、ここで申しましょう、山本廸夫監督と組んだ岸田森ゆえか、吸血鬼は昭和の少女たちには永遠の憧れだった。
 岸田森にシャーロック・ホームズを演じてほしかった。鹿打帽とトンビマントがこの上もなく似合うはずであった。

 時々、ひどく岸田森が居た時代に戻りたくなることがある。リアルタイムで見なかったことを悔やんだ「近頃なぜかチャールストン」を中野の名画座で観たのは、もう20年も前のことになってしまった。同じ劇場で観た「哥」もかなりなエキセントリックさだった。岸田森が存在する世界に失望させられたことは、一度たりとてなかった。
 
 寅さんのおいちゃんは森川信でなくてはつまらない。
 森川信は、私にとっては「おくさまは18歳」の校長先生である。
 同作の主役を勤めた岡崎友紀は、昭和40年代少女の永遠のアイドルだった。相手役の男の子のことはどうでもいいのだ。岡崎友紀のコメディエンヌっぷりが小学生の私のハートに火をつけたのだ。
「なんたって18歳」は長いこと私のカラオケの持ち歌だったし、「だから大好き!」の南洋の島の王子さまは、なんてったって沖雅也なのだった。ファンでなくとも沖雅也が王子さまであることに疑いないのは、昭和の定石であった。

 さて、森川信の得難い芸達者ぶり、そのことに改めて気がついたのは、もう25年以前、映画に大層詳しいとある落語家の師匠から、寅さん映画再見すべしとの御説を伺って後のことである。
 昭和末期の映画少年たちは、メジャーな大衆邦画シリーズである、寅さんを観に行くなんて、ベタなことはできないのだった。オタクの沽券にかかわるのである。三百人劇場でルイス・ブニュエル監督の映画を見たりするのが、映画ファンを自負する青少年の正しい在り方である、と信じて疑わなかった。
 それから4,5年が経ったやはり20年も前のことだけれど、昭和の終わりごろに上杉鷹山など、歴史上の人物を経済小説風な切り口で描いて名を上げたD先生が、書斎兼事務所の書棚に「男はつらいよ」シリーズのビデオ全作を揃えていると聞いて、なるほど、と感じたものだった。
 50歳になったら私にもあの映画の良さがわかるのかもしれない…と、当時30歳代後半だった私は思ったが、案の定。数年前から寅さん映画をこっそり見て心の平衡を保つという、私の中の映画に対する愛情が新しい時代を迎えた。

 昭和50年代のディスカバリージャパン。銀幕の中のロケ地の風景の美しさが切なくて、胸がざわざわっとして泣きたくなるのだった。
 その景色があったあの時代に、自分自身がいた場所をまざまざと感じ取ることのおののき。記憶でしかないのに肌にまとわる空気感はどうしたことだろう。フィクションである物語映画は、実はノンフィクションの記録映画でもあったのだ。

 失ってしまったものたちへの郷愁、挽歌というおぼろげな感情ではなく、自分がフィルムの中に取り込まれてしまうような実感を伴う錯覚があまりに怖くて…そして、完パケされている昭和時代が懐かしくて…ついついのついのついつい。
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志向のよろめき

2018年07月26日 11時10分00秒 | お知らせ
 ついこの2週間ほどのことだったのではなかろうか…何の講義で伺ったのか、気候のもやもやが記憶のモヤモヤに輪をかけるので断言できませんが、分かりやすいのでメモしておいた言葉があります。

 いわく、歴史は人がつくり、時代が人をつくる。

 うーーーむ、分かりやすい。人にものをお伝えするにはこうでなくちゃなりません。
 さて今朝もまたもや回りくどいタイトルのようではありますが、人の嗜好というものはどんどん変わっていく、そしてそれは時代の志向によって変遷していく移ろいやすいものである、ということに端を発したお話です。

 半世紀を越えてなんとか生きてきた今の私は、野菜の春菊がとてもとても好きなのですが、小学生の頃は全然違いました。こんなものが…殊にお浸しにしたシュンギクなるものが、この世の中に食べ物として存在することが許せませんでした。
 香りといい味わいといい、食感といい、こんなに美味しいのにねぇ……

 物事の魅力、面白みをどこに感じるかということは、その人が重ねた年月、経験などでどんどん変わっていくものなのです。ですから、大量に消費される世間一般の興味の動向というものは、その時代、時々に、世の中に流通する媒体の中心で働いている年代(つまり働き盛りの20、30~40歳台)の方々の嗜好、志向、商売っ気に左右されるものなので、ある程度、社会の最先端を通り過ぎたものには、まったくもって、お前の話はつまらん、という心境でいるのが本当のところだと思います。

 そしてまた、生まれ育った時代によって、文化の志向性も異なりますから、第2次東京オリンピックゆえに世の中が文武両道ではなく、武=体力=健全な肉体の育成に舵を切るあまり、文=知力=健全な頭脳の育成、そして、情操教育というものがおろそかにされて来てやしないかなぁ…と思ったりもしてしまうのでした。

 昭和の修業時代、「そんな音で弾かないで」と、平均律に準じすぎる演奏をしたことを師匠にとがめられたエピソードを同年代の同業者から聞いたことがありましたが、それも前時代の記憶になっちゃうんでしょうかねぇ。



 思考を積み重ねる作業を拒絶させる、この外気温をどうやり過ごすか…が日々の命題であった前年までを通り過ぎてしまった、平成時代最後の夏。もはや人間の知恵と工夫は、大自然の前に無用、無力である、と悟った我々が見出した活路が、対自然無抵抗主義であるのかもしれません。

 そんなわけで、やはり、暑い夏は身の毛もよだつ、血も凍る怖い思いをして涼むのが日本列島に住む者らしい遣り過ごし方でありましょう。
 昭和の小学生にとっては、淀川長治氏が推奨するドラキュラ映画の連作物が、夏の風物でもありました。エドガー・アラン・ポーの怪異譚、そして江戸川乱歩。昭和の中学生にとっては、出版・映画界がこぞって展開させる横溝正史シリーズも恐怖の対象でした。
 
 これまで幾たびとなく映画・ドラマ化されてきた金田一耕助シリーズですが、2000年を過ぎたころ、モボモガが闊歩する戦前の都市文化を意識した、たいそうスタイリッシュなアレンジメントを施されてTVドラマ化された『悪魔の手毬唄』を見たことがありました。
 愕然としました。全然怖くないのです。
 尊属殺人という概念が破棄されたのは平成になってからでしたが、家社会という枷から解放され、ようよう個々人の幸せを第一義とすることに、罪悪感を抱かずに生きていけるようになったような気がした昭和50年代後半の日本。
 その時代に生きていた人々には、旧来の日本の風土と因習にからめとられ、引き戻されることが怖かったのです。

 タブーが存在することによる人々のためらいと、破戒することにより生まれる悲劇、というものは、もはや現代人にとっては体感し得ない、意識の埒外です。怖いどころか笑い話になり兼ねないのでした。

 時代が変わって人心が変わると、怖いものの概念も変わるのです。解釈は様々あれど、原作を生かす解釈でもって演出しないと、作品というものは本来の魅力を現出できずにミイラ化してゆくものなのである、それはそれで非常に怖い話ともいえますけれども…



 来る29日日曜日の午前10時半から、下北沢稽古場にて第4回観余会を行います。
 夏の風物である怪談、幽霊の芝居のお話と、実技は、もちろん、妖異譚には欠かせないあの音色なんですが、近づきつつある自然の大脅威、どうなりましょうか…
 参加費は1500円で、どなたさまでもご参加いただけます。
 お待ちしております。
 
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2018年07月17日 17時17分00秒 | 美しきもの
 しろと言ったら犬だし、あかと言ったら牛、そして、あおと言ったら馬の名なのだ。
 …その常識は20世紀までのことだったのかもしれないけれど。
 常識、社会通念、共通認識があると話が早いのだ。無いと一から説明しなくちゃならない。

 ときに、八っつぁん、きっぱりはっきり厳然として人間の個人的な都合なんざ聞いてくれないお役所仕事が多い中で、歴史ある苗字はともかく、なぜまた名前という大事なところに使う漢字に、漢字自身の出自とは全く関係ない、各々勝手な読み方をさせて人名として命名することをOKとしてしまったのだろう…ねぇ。
 もはや当て字でもなくなぞなぞでもなく頓智クイズでもない。日本語の崩壊、文化の後退である。

 そんなこんなで、ブルーな日常でも、蒼い空を見上げると心が晴れやかになる。
 碧い海を見ると心が浮き浮きと躍りだす。
 青ってステキな色ですねぇ。
 出藍の誉れとか、藍より青く、とかいう言葉があるけれど。



 去る五月中旬の土曜日、M駅近くで素謡会を覗いた帰り道、ついふらふらと水中書店(三鷹駅北口に現存する古書店なり)に寄ってしまった。
 そこで、なんとした奇遇、何としたサザエのつぼ焼き、なんと間がよいことでありましょう、松岡映丘の生誕130年展の図録が出ていたのだった。
 …というのは、そのまたつい先週、野間記念館で1921年作「池田の宿」を観て、もう20年来片想い状態だった松岡映丘の絵よ、more…と、もやもやしていたところだったからである。

 私が初めて松岡映丘に出会った…Eikyuという画家の存在を意識したのは、藝大美術館が開館した20世紀も終わりのことだった。
 大学付きの資料館ではなく、新しく美術館として開館した折の記念展覧会で、私は松岡映丘の大正14年作「伊香保の沼」を見た。
 遠景に青々とした榛名山、同じく青を湛える湖、そして湖水に着物の裾もろとも足を浸し物思いにふけるニョショウ。
 美しい。美しいのではあるが、どちらかというと、怖い絵である。女性の目があらぬ彼方へ視線を投げているからである。風景に心象を宿し、群青と緑青が絶妙に融合した映丘描くところの、やまと絵の色遣いが、私の胸に深く刻み付けられ、網膜に焼き付けられた。
 彼に出会った帰り際、美術館の前庭で、ちょっとした開館記念の野外能があった。薄く暮れていく上野の森で時折薪がぱちぱちとはぜる音を聴きながら、仮設舞台の前に点在する椅子席から三山を見た。得難い夕べであった。

 その一枚の絵が怖かったこともあり、私は松岡映丘のことをあまり知らずにいた。
 …いや、調べようにもその当時、資料がなかったこともあったかもしれない。
 松岡映丘は昭和13年に56歳で亡くなった。

 もう20年以前、とある仕事で当時、雅叙園美術館が収蔵していた浅見松江の絵をお借りするため、ご遺族に連絡を取ったことがあったが、彼女が松岡映丘の弟子であったことを初めて知った。そしてまた、橋本明治も映丘の弟子だったのだ。映丘の家塾は当初、常夏荘と称せられたそうである。

 20世紀終わりの出会いから20年ほどを経て、そうした偶々通りがかった街角のめぐり逢いで手に入れた図録から、私はやっと松岡映丘の生涯を知ることができたのだった。
 そして、映丘blueと名付けたい青の色遣い、それゆえに、彼の存在は私にとって絶対無二となっているのだと気がついた。



 群青色の海、白い波頭、岩陰に身を寄せる浜千鳥。
 平福百穂の1926年作「荒磯」にそっくりの海だなぁ…と見入ったのが、昨夏訪れた初島の磯の岩。
 松が枝の手前から眺めるのは俊寛か、はたまた樋口兼光、松右衛門か。
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