昨日夜は受難日礼拝でした。
三分の一はZOOM参加でしたが、
20名を越える方々が参加。
受難に向かい、沈黙のうちに歩まれたイエス様、
ののしり、嘲りの中でも沈黙を守り通された
イエス様の御姿を共に覚えました。
昨日夜は受難日礼拝でした。
三分の一はZOOM参加でしたが、
20名を越える方々が参加。
受難に向かい、沈黙のうちに歩まれたイエス様、
ののしり、嘲りの中でも沈黙を守り通された
イエス様の御姿を共に覚えました。
昨日、関西聖書神学校の入学式があり、参加しました。
https://www.youtube.com/watch?v=mevB3BLL7vA
一名の入学者が与えられたことを感謝し、
学びと訓練の上に神様の祝福を共に祈りました。
「十字架のかたち」が成るように!
姫路城北教会兼任の働きが始まりました。
まずは、私が姫路城北教会に伺いました。
大久保めぐみ教会と姫路城北教会をZOOMで結んでの合同礼拝。
音声面での調整が不調気味のところもありましたが、
何とか最後まで礼拝をおささげできました。
10人位の方々が毎週礼拝をささげる姫路城北教会。
ZOOMでの礼拝が多くなりますが、主の守りの中、
集うお一人びとりの信仰が励まされ、共に主を見上げつつ
歩んでいけたらと願います。
「神と共に生きる」
第十話 実を結ぶ生涯
ヨハネ一五・一‐一六
自分が生涯かけてどのような実を結ぶだろうかと、考えたことがあるでしょうか。イエス・キリストはその生涯の大切な時に、豊かな実を結ぶ生涯の秘訣について、弟子たちに教えられました。
その時、キリストは死の時を目前にしていました。キリストの働きが反響を呼び、人々の注目を集める中、ユダヤの宗教指導者たちはねたみのゆえに、その死を求めていました。そのような中、イエス様ご自身、最後の時が近づいていることをご存じで、弟子たちとの食事会をします。いわゆる「最後の晩餐」と言われるものです。この食事会で、イエス様はキリストを信じる者たちがその生涯においてどのように豊かな実を結ぶことができるのかを語られました。
一、農夫、ぶどうの木、そして枝
ここで、イエス様は、ご自分と父なる神様、そしてご自分を信じる者たちについて、イスラエルの人々にとってなじみ深い果物を用いて表現しておられます。
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。(略)わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。(ヨハネ一五・一、五)
ここで、イエス様はご自分が「まことのぶどうの木」であり、父なる神様は「農夫」だと言われました。そして、イエス様が「ぶどうの木」であるとすれば、弟子たちはぶどうの「枝」だと言われました。
父なる神様が農夫だとすれば、ぶどうの木においしい実がなることを期待するはずです。実は、旧約聖書を読むと、神の民として選ばれたイスラエルがぶどうの木にたとえられている箇所がいくつかあります(イザヤ五・一、二等)。神様はイスラエルの民が神の恵み、神の偉大さを証言し、神の栄光を現すことを期待しておられました。彼らを通してそのような実が豊かに結ばれることを期待されました。しかし、そのご期待はかなえられませんでした。それは彼らの背きと罪の故でした。
その後、イスラエルの中にイエス・キリストが現れなさいました。このお方は「まことのぶどうの木」でした。このお方を通して、世界中に神の恵み、神の偉大さが証しされること…これが神様のご計画でした。
しかし、弟子たちも驚いたことでしょうが、そのようなご計画の中で、弟子たちには大切な役割がありました。イエス様がぶどうの木であるとすれば、弟子たちはその枝だと言うのです。ぶどうの実は、枝に実ります。イエス様は枝である弟子たち、すなわちキリストを信じ、従う者たちを通して、神様のための豊かな実を結ぼうとしておられると言うのです。
二、どのように実を結ぶのか
それでは、枝である信仰者はどのようにして実を結ぶのでしょうか。もう一度確認したいことは、イエス様がぶどうの木であり、信仰者はその枝だということです。
わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ一五・四、五)
「わたしにとどまりなさい」…ここに鍵がありました。ぶどうの枝が実を結ぶためにしなければならない唯一のことは、ぶどうの木にとどまっているということです。結実のための栄養も水分も、ぶどうの幹から流れてくるからです。幹から離れた枝は、どれ程がんばっても実を結ぶことはできません。逆に、ぶどうの幹にとどまってさえいれば、いつしか実を結ぶことができます。
イエス・キリストが十字架に死に、よみがえってくださったのも、そのためだったと言えるでしょう。最後の晩餐の直前、イエス様はこんなことも語っておられます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(ヨハネ一二・二四)キリストの十字架の死と復活は、信じる者たちに豊かないのちを注ぎ、そこに豊かな実を結ばせるためのみわざでした。
人がイエス・キリストを心に信じるとき、その人はキリストと一体のものとされます。ぶどうの木につながる枝とされます。その時から、キリストの豊かないのちが信じる者たちに注がれていきます。信じる者たちがぶどうの木であるイエス様にしっかりととどまりさえするならば、そこに豊かな実が結ばれていきます。
具体的にはどうすればよいのでしょうか。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネ一五・七)
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ一五・九)
キリストにとどまるとは、キリストのことばにとどまることです。キリストのことばを受け入れ、心と生活にしっかりと根付かせ、とどまらせることです。キリストのことばは聖書に記されています。神のことばである聖書を日々読み、味わい、心に蓄え、そのことばによって生きていくとき、私たちはキリストにとどまることができます。
加えて言えば、キリストにとどまるとは、キリストの愛にとどまることです。いつもイエス様が私たちを愛しておられることを覚え、日々そのご愛の中で生きていくことです。
三、豊かな結実
信仰者がキリストにとどまるとき、そこには豊かな実が結ばれます。その形は様々です。
たとえば、祈りの答えが現わされることもその一つでしょう。イエス様にとどまる者に対しては、イエス様の名によって祈るとき父なる神様がお聞きくださると約束されました(ヨハネ一五・七、一六)。祈りの答えが豊かに現わされていくとき、人々はそこに神の偉大さと恵み深さを見ることができるでしょう。
あるいは、イエス様の愛にとどまるとき、人々は自ら愛に生き、喜びにあふれて生きることができます。そうすると、そこにも神の栄光が現わされていきます。
わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ一五・一一、一二)
私たちがキリストを信じ、キリストにとどまるとき、すなわち、キリストが自分たちを愛しておられることを覚え、日々神のみ言葉によって生きるとき、私たちの生涯は豊かな実を結ぶものとなっていきます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(ヨハネ一五・八)
あなたもキリストにとどまることにより、豊かに実を結ぶ生涯を送りませんか。