那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

下郎の首

2011年01月26日 | 書評、映像批評
『下郎の首』(伊藤大輔、1955年、白黒)

{あらすじ}

 鉄橋を列車が走る。それを見ている富士が辻という場所にあるお地蔵さんの思い出としてこの物語は語られる。
 江戸時代、槍もち(田崎潤)は、主君とその息子に仕えている。主君は囲碁の争いで、ほくろのある男に切り殺される。争いの中で相手の人差し指も切れ、それを手がかりに、槍もちと新しい主君である若侍はあだ討ちの旅に出る。
 貧困の中で主君は体を壊し、槍もちは、「奴さん踊り」の大道芸で金を稼ぎ、乞食で暮らしている。
槍もちは雨宿りが縁で、美しい妾(嵯峨三智子)に惚れられる。その様子を見た「偽いざり」の男に、妾からの金の分け前をよこせ、と付きまとわれる。怒った槍もちが槍でいざりの片目を突く。おこったいざりは、妾を囲っている侍(軍学者)に二人の密通の告げ口をする。
 槍もちが妾と部屋で話しているところに、軍学者が突然現れ、槍もちを切ろうとする。妾の助けで、槍もちが逆に男を切り殺す。殺して人相を見ると、顔にほくろがあり、手の人差し指がない。さてはこれこそ仇であったか、と、槍もちは仕える主君に首実検をしてもらう。確かにそれは探していた仇であった。しかし、あだ討ちを果たしたのは槍もち、主君は彼を打ち付けて、とんでもないことをしたと怒る。
 妾は二人に金を渡して、軍学者の弟子たちからなる追っ手から逃げ、ある宿場で落ち合うように指図する。妾は後から二人と別の宿を取り、出会った槍もちに「郷里に帰ったら妻にしてくれ」と言い寄る。男は承諾する。しかし、仇を討ったのはあくまでも主君で、自分がやったことは一生黙っておかねばならないと言う。
 追っ手が槍もちとその主君を見つけ出す。槍もちを差し出さなければ、主君とも殺す、と手紙が届けられる。
主君は、返事を書くための白い紙を前に懊悩する。槍持ちの首を差し出して、自分が仇を討ったことにして藩に帰れば仕官できる。いや、それでは忠義一筋のこの男に悪いではないか。とうとう夜が明ける。主君は手紙を槍もちに渡して、追っ手たちの待っている河原に行かせ、自分はその後、郷里に向かって逃げさる。
 槍もちが手紙を持って富士が辻に現れる。追っ手の武士一団が待っている。そしてその手紙を読みあげる。なんとその手紙には、この下郎はどうにでもしてくれ、と書いてある。しかし、文字の読めない槍もちはその言葉が信じられない。まさか主君が自分を裏切るとは。あだ討ちの見学に集まった野次馬の中で、文字の読める人にその手紙の内容が本当か確かめる。群衆はその手紙を読むのを嫌がるが、ついに一人の男が、間違いなくそう書いてあることを教える。
 観念した槍もちは、果し合いをすることになる。多勢に対して一人、見る見る傷ついていく。
果たし合いの噂を聞きつけた妾は駕籠を飛ばして河原に向かう。瀕死の槍もちと手をつないで二人は切られて死ぬ。
 そこへ、一度は槍もちを裏切った主君が駆けつける。家来の仇、勝負しろ、と刀を抜くが、相手は、いまさら家来を見捨てたような腰抜け武士と争うのは無駄なこと、と嘲笑して去っていく。主君は泣き伏す。
 時は現代に戻り、それを見ていた古びた地蔵が映って映画は終わる。

{批評}

時代劇の神様・伊藤大輔の傑作の一つである。
実験的な技法が3つ見られる。
まず、追っ手に返す手紙を前に主君が悩む場面。画面一杯に白い紙がアップになり、主君の心の声がヴォイス・オーバー・ナレーションで語られる。真っ白なスクリーンの中に響いて来るのは、忠義の足軽を捨てて逃げるか、それとも一緒に戦うか、エゴイズムと良心との葛藤である。延々と続く白いスクリーン。非常に大胆な実験的テクニックを使っている。
 次いで、果し合いの後、敵方に嘲笑されて一人残される主君を、カメラは前後左右からカットを短く変えて前進移動する。それが何度も繰り返される。槍もちを殺させ、武士の面目も失った侍が、心の底から自分を恥じ入る心の苦悩をこのカメラワークが際立たせる。
 三つ目は、乞食の面々の有様。槍もちが「奴さん踊り」をする連れ合いは、メクラの娘とライ病のために鼻が溶けた老婆だ。槍もちに付きまとうのは「偽いざり」で手に下駄を履いて、手を使って前進する。このような身体障害者の使い方は、エイゼンシュテインの「アトラクションのモンタージュ」に影響されたものと思われる。

一瞬も気を抜けない、非常に面白い時代劇であるとともに、人間の究極の良心とエゴイズムの葛藤が問題視されている。この点で、テーマは時代劇というよりは現代劇でもある。
この作品は傑作とされており、私もそれに異存はない。
 ただ、私は冷静な目でこの映画を見ることが出来なかった。というのは、嵯峨三智子という女優は私にとっては、アニマというかファム・ファタールというか、とにかく、永遠の憧れの女性なのだ。嵯峨三智子のうりざね顔の美しさ。妾という役柄に実に見合った色気とアダっぽさ。槍もちに一途に惚れて助けようとするいじらしさ。
 私は嵯峨三智子が現れるたびに胸がキューンと締め付けられて辛くなった。
こうなると、冷静な批評は出来ない。この映画を見るのは二度目だが、二度とも嵯峨三智子の色気にクラクラして、映画そのものが表現している世界を忘れそうになった。

それはともかく、伊藤大輔の全盛期は戦前だった。実験映画ともいえる大胆なテクニック、「移動大好き(伊藤大輔)」と呼ばれたすばやいパンニングや、極端なアップ、フラッシュモンタージュなど・・・・・・・戦後になるとそれらの大胆なテクニックは次第に薄れ、職人映画監督のように手堅くなる。この作品ではかろうじて実験的な手法を残している。そして、彼の大好きな「悲壮美」が描かれる。主君に忠義一筋に生きながらも裏切られて、切り殺される運命に立たされる槍もちの、最期の必死の格闘。彼に一途に惚れて、一緒に切り殺される女。エゴイズムのために武士の面目を失い、生きる意味を失って立ち尽くす主君。娯楽性と人間のエゴイズムと悲壮美を追及した心に残る名作である。
 北野武の『HANA-BI』がベネチアでグランプリを取り、『座頭市』が監督賞をもらうような映画のレベルの落ちたこの時代、『下郎の首』が出品されたら、グランプリを5個分もらうぐらいの価値がある。まったく、最近の国際映画フェスティバルのレベルの低さぶりには呆れる。審査員が馬鹿なのか、映画芸術が終わったのか、実に嘆かわしい。今村昌平の『うなぎ』もカンヌだかでグランプリを獲ったがくだらなかった。1950年代以前の日本映画には、賞とは無縁だがレベルの高い映画が一杯ある。それらと比べると、最近の話題作はクズだ。

それにしても嵯峨三智子は最高!!!


 
 
 
 



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