那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

唯識論とは

2016年01月29日 | 

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唯識論

 

簡単に言えば唯識論とは世界像は人によって異なる、実体はない(空)を証明する認識論である。個人にとってあらゆる存在が(ただ)、八種類ののみによって成り立っているという大乗仏教の見解であり、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と、さらに意識、二種類の無意識を合わせた合計八種類である。

 

 

(以前ブログにも書いたことがあるが、この図形は空間的流動的に表示するとより分かりやすくなる)

諸存在は主観的実在であり、客観的存在ではない、それは無常であり時には生滅を繰り返して過去に消えてしまう。しかし「刹那滅」と「心相続」といって刹那、刹那に死んでいくが、その「残り香」が相続される。今の瞬間(刹那)=有り、過去と未来=無い、今だけがあり、過去も未来もない。前5識の次に意識、その下に未那識と呼ばれる潜在意識があり、要するにエゴイズムのことである。

その下の阿頼耶識という根本の無意識があり、これが前五識・意識・未那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」と思っているものを生み出している。これは要するにバイオプログラミングされたもので真妄和合識と呼ばれる。つまり悟りと煩悩が入り混じった全ての種子が入り込み、これを薫習といい着物に線香の匂いが染みつくかのように煩悩が消えないが、それを取り払い悟るまでには一生涯かけても無駄だと言われてる。しかし坐禅による大悟徹底により瞬間の内にに悟ることも可能である。

 

これまでの説明は、阿頼耶識から未那識および六識が生まれる流れだが、同時に未那識と六識の動きが阿頼耶識に還元される流れもある。それがアーラヤ(蔵)という意味であり、相互に循環している。識を含むどのような行為も一瞬だけ存在し、過去に過ぎていく。その際に、阿頼耶識に香を残す。それが種子として阿頼耶識の中に蓄積され、それが成熟して「識の転変」を経て、再び諸識が生じ、再び行為が起こってくる。

 

このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。

 

  1. 遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)構想された存在 凡夫の日常の認識。
  2. 依他起性(えたきしょう)相対的存在、他に依存する存在
  3. 円成実性(えんじょうじっしょう)絶対的存在、完成された存在

 

このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。

 

遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、存在せず、空である。

依他起性とは相対的存在であり、構想ではあるが、物事はさまざまな機縁が集合して生起したもの(縁起)であるととらえることである。阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども、すでにその識の対象が無であることが明らかとなれば、識が対象と依存関係にあるこの存在もまた空である。

円成実性は、仏の構想であり、絶対的存在とも呼べるものである。これは依他起性と別なものでもなく、別なものでもないのでもない。依他起性から、その前の遍計所執性をまったく消去してしまった状態が円成実性である。

なお、諸存在(色)を「空」であり実体のないものである「色即是空」にばかりこだわっていると、空病あるいは沈空に陥り、以前、目の前を走っている電車も「空」と思い飛び込んで死んだ者もいる。「色即是空」が理解できた後は「空即是色」を理解し現実の世俗の中に悟りの慈悲である菩薩行を実践しなければならない。

従って唯識論と西洋の唯心論の違いは、唯識論は心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定するため全く異なる。

縁起説を含め唯識論も、禅の理論は両極端な思想の同時肯定と同時否定であり、これが中庸の意味だと私は思っている。

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以上、二回にわたって縁起説と唯識論について説明してきたが、本当は非常に難解な哲学であり、私がその表面だけをなぞったに過ぎない。唯識三年倶舎八年と言われる通りである(理解するのにそれぐらいの年数が掛かるということ)。

なお、wikipediaによれば次のような逸話が残っている。

 

三島由紀夫の最後の作品となった『豊饒の海』四部作は唯識をモチーフの一つに取り入れている。 第四部「天人五衰」の最終回入稿日に、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決三島事件)した。作品概要は『豊饒の海』の項を参照。

澁澤龍彦は、三島が唯識論に熱中していたことを『三島由紀夫をめぐる断章』で触れ、唯識論とは何かを三島に問われた宗教学者の松山俊太郎が「あれは気違いにならなければわからない、正気の人にわかるわけがない。唯識説のよくできているところは、ちょうど水のなかに下りていく階段があって、知らない間に足まで水がきて、知らない間に溺れているというふうにできている。それは大きな哲学の論理構造であり、思想というものだ」と言った話、それを聞いた梅原猛が「感心している三島も三島だが、こんな馬鹿げた説を得々として開陳している仏教学者もないものだ」と批判した話に触れている。また、澁澤宅を訪ねた三島が、皿を一枚水平にし、もう一枚をその上に垂直に立てて、「要するに阿頼耶識というのはね、時間軸と空間軸とが、こんなふうにぶっちがいに交叉している原点なのではないかね」と言うので、「三島さん、そりゃアラヤシキではなくて、サラヤシキ(皿屋敷)でしょう」とからかった話も紹介している。



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