那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

歌女おぼえ書

2011年11月05日 | 書評、映像批評

『歌女おぼえ書』(清水宏、1941年、白黒)



{あらすじ}

時は明治30年代。男3人、女1人の旅役者が山道を歩いている。
ある田舎宿に泊まる。そこには大店の製茶問屋の主人が来ており、芸者の到着を待っている。
芸者の到着までの暇つぶしに、旅役者の女・お歌(水谷八重子)が踊りを披露する。
旅役者の男たちは女が足手まといとなり、この宿に売り去ろうとする。
それを聞いた茶問屋の主人が、同情と酔狂心から、自分の店に連れて帰る。
 大勢の手代や女中から、お歌は邪魔者扱いを受ける。女学校に通う娘も、お歌を嫌う。
突然主人が死亡する。東京の大学にいっていた長男(上原謙)が戻って、家計を調べてみると、借金だらけ。
長男は、全ての従業員に暇を出し、自分は大学を中退して店を一から再興させようとする。
お歌は、二人(小学生の弟と女学生の妹)は私が見るから、あなたは大学を卒業しなさい、と訴える。
長男は考えた末に、突如として、他人のあなたに兄弟を任せることはできないが、女房にだったら任せられる、俺の女房になってくれ、と言って、求婚する。お歌、うなづく。
 広い屋敷にお歌と二人の子供。弟は同級生たちに、お前の家にはお化け(お歌のこと)がいる、と苛められ、姉はお歌になつかない。茶問屋に金を融通していた男の家が弟と姉を引き取るが、やがて、やっぱり家がいいと、二人ともお歌の元に戻ってくる。お歌、長男の言葉を信じて二人を懸命に育てる。
 そこへ、アメリカのトーマス商会の支配人がやってきて、この店のお茶がアメリカで非常に評判が良かったので、今年も注文したい、今休業中なら商標だけでも貸してくれ、と言ってくる。
 お歌、自分を拾ってくれた故人となった主人と長男のために、このチャンスを生かそうと考える。そして商標を貸すだけでなく、製品もこの店で引き受けることにする。そして同業のお茶問屋の経営者たちに何度も頭を下げて、新茶を廻してもらう。
 これを機に、店に再び暖簾が下がり、元通りににぎわい始める。
長男が大学を卒業して店に帰ってくる当日、昔の旅役者の仲間が金をせびりにくる。お歌、何を思ったか、その男と一緒に姿をくらまし、元のたび役者の生活に戻る。
 長男はお歌を探し回る。
遂に、お歌の前に現れる。お歌はわざと嘘をついて「かたぎの暮らしは窮屈です。旅役者なら好きなときに起きて好きなときに寝れるし、タバコも吸える」と悪態をつく。長男はお歌を平手打ちして、「そんな女が自分の弟たちを育てて、店を復興できるわけがない。俺の女房になってくれ」という。
 そのとき、芝居が始まりお歌の出番となる。お歌は鏡の前に座り、嬉し涙を流す。
お歌は、長男の嫁としてお茶問屋に嫁入りする。


{批評}

この作品はあまり評価は高くないが、私は感動して泣いた。
確かに、新派の大物女優・水谷八重子の演技は、他の出演者と比べると「芝居臭く」、少し浮いて見える。
しかし、その欠点は次第に薄れて行き、気にならなくなる。
 この映画でも、清水監督の「実写精神」は生きている。大きな木の林立する中をお歌が歩く場面や、大きな商家の中を自在にカメラが移動して空間の広さを充分に味あわせる場面など、清水宏のロケーションのセンスを存分に生かした演出が冴えている。
 小学校の土手からお歌の歩行を俯瞰で撮るショットなど、土手の部分が画面の3分の2以上を占めており、大変大胆な構図になっている。このあたり、自然の中の「点景」として人物が描かれる「清水調」は健在だ。

この映画は明治時代の旅役者という存在の意味を知らないと本当の感動は味わえない。
川端康成の「伊豆の踊り子」に描いてある通り、旅芸人とはなみの下層階級だった。
だから、茶問屋にお歌が連れて来られた時、女中たちはお歌を嫌うし、娘の女学生も冷たく当たる。
 ところがその下層階級の女が、自分を拾ってくれた主人への「恩」と、自分に求婚してくれた長男への「愛」を
支えにして、一度潰れたお茶問屋を復興させるのである。
そして、そういう卑しい階級の女であることを承知で長男はお歌と結婚する。
 このように、当時の身分制度を理解してこの映画を見ると、実に大胆で奇抜とも言えるストーリーになっており、この映画は一種のシンデレラストーリーだと分かる。
 (余談だが伊藤大輔の傑作『王将』も、主人公の坂田三吉がエタ階級の出身であるという隠れた意味を知ってみないと本当の感動は味わえない)
 お歌が、潰れた店を再興させながら、長男の気持ちを知りながら、あえて失踪する理由は、この身分の違いを本人が知っているからである。そのけなげさ、哀れさが、この映画の主旋律となって漂うために、最後に二人が結ばれるときに感動があるわけだ。

但し、ラストシーンには物足りなさが残る。
長男の求愛が本物だと知ったお歌→芝居が始まり、お歌は長男を置いて小屋に戻り鏡の前に座り、涙ぐむ。
ここでお歌の涙をクローズアップにして音楽を流して映画を終えるべきだった。
 実際にはこの鏡の場面の次に字幕が映り、お歌がお茶問屋に嫁として迎えられることが説明されて終わる。
この、文字による説明、で終わるところがあまりに淡白で頂けなかった。
 清水宏は、「大芝居」を嫌い、ドラマに大げさなクライマックスを持ってくるのを嫌う傾向がある。だから、ラストシーンをわざと恬淡とした形で終わらせたのだろうが、観客の眼から見れば、やはりお歌の言葉にならない喜びをともに分かち合って、思い切り泣いて終わって欲しい。いわゆるカタルシスが最後にもう一つ爆発しない不満が残る。

このような、部分的な欠点が残るものの、全体としては良くできている、現代の映画では決して味わうことのできない感動の残る佳作である。
 蛇足かもしれないが、タイトルの「歌女」は「うたおんな」ではなく「うたじょ」と読む。




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