那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

競馬の話+世界観を詠む歌について

2014年01月26日 | 芸術・表現

このところ硬い話題が続いたので、今日は気楽に書きます。

医師から「ハードワークをしないように」と釘を刺されているのですが、せざるを得ない状況にあるため、週末は俗世を離れて競馬でもしようと2ヶ月ほど前から数年ぶりに再開し始めました。学生時代から続け、競馬攻略本に分担執筆したこともあるぐらい熱中していたので、以前は競馬新聞を睨むと「荒れるか硬いか」ピンと来たのですが、ブランクがあったためにカンが鈍くなり、頭の中にデータが溢れ混乱しています。こんなことにもリハビリの時間が必要なんだなぁ、と実感しました。第一用事が多すぎて真剣に専門誌を読む時間が足りません。1レースを検討するのに最低2時間はかかりますが、その前にやるべきことを済ませていると真夜中になってしまいます。

今日は荒れそうな2レースを予想し、共に本命サイドが来て外しました。即パットを使っています。3百円だけ残っていたので今日はこれでお仕舞いにしようかと思いましたが、京都の最終レースまでに30分余裕があったので、見つめていると16頭立てで11番人気の馬(ゼッケン9番)に穴を開けるファクターが揃っていたため、そこから1,2番人気と、もう一頭さらに人気薄の14番人気の「穴の穴」に馬連の3点買いをしたら、久しぶりに会心の的中でした。結果は以下の通りです。

受付番号:0003 受付時刻:16:18 受付ベット数:3
受付内容
件数 場名 レース 式別 馬組 金額 的中
(1) 京都(日) 12R 馬 連 ながし 軸馬:09
相手:01,10,11
各100円(計300円)
的中
購入金額 300円 払戻金額 7,510円

2番人気→11番人気(⑩-⑨)で決まったわけです。首の差で3着に1番人気(⑪)が来ました。

穴のファクターとは何か?当然言いません。

様々な競馬に関するデータを探していたら、サイトを開くと情報が流れる仕組みがあるのでしょうね、次々と有料予想のメルマガが届くので送信停止の作業に追われています。当たり前のことですが、本当に予想が当たるなら馬券師で生活できるので、それを会員に教えてわざわざオッズを下げるようなことはしません。先物取引の情報を教える電話も時々掛かってくるので、経済の知識として雑談をすることがありますが、本当にその通りなら人に教えず自分が買うでしょう。

一つの喩として言えば、追い切りも競馬予想のファクターの一部ですが、美浦に8つ、栗東に7つ、合計15のコース(坂路を含む)があります。かりにフルゲートで18頭が出走するとして、18頭の馬が調教の段階でそれぞれどのコースでどの程度の力で(馬なり、一杯、強め、ゴール前だけ追う、など)、何月何日に何回調教し、そのときの馬場の状態(良、稍重、重)はどうだったか、などのファクターがあり、さらに坂路以外はトラックマンが手動で計るので0.2秒程度の誤差が出ます。これを比較しているだけでアッという間に時間が過ぎていきます。「調教の読み方」だけで一冊の本が書けるでしょう(血統重視のファンのために分厚くて高価な競走馬の血統事典が出版されていますから、実際にそういう本があるかもしれません)。

いうまでもなく追い切り情報は競馬予想のほんのごく一部です。タブロイド誌なら馬柱(出馬表)の一番下のほうにチラッと出ている程度で、普通は「キリが無いので無視する」部分です。その部分にすら無数と言っていいほどのファクターが隠れているのですから、競馬は奥が深く、単なるギャンブルではない「研究分野」だというのが私の持論です。

矛盾するようですが私はカジノ法案反対で、先日も「パチンコ廃止通信」の紹介をしたばかりです。知られている通りJRAはテラ銭を25%も取ります。さらに、仮に千円を即パット用にコンビニのATMからジャパンネット銀行に入金すると150円近い手数料を取られるので(自分の口座に自分が入金するのに何故手数料がかかるのか永遠の謎です)、800円の軍資金にしかなりません。ただ、パチンコと違って頭を使うから、年金暮らしのお年寄りの遊びとして私はお奨めしています。中央競馬は週末に限られ、いくら続けたくても12レースまでで普通は4時20分に終わりますから依存症が少ない健康的かつ知的な遊びだと思います。私のギャンブルは競馬だけなので競輪や競艇については全く分かりません。

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話題一転。

五行歌について以下のような文章を書いたので、一部編集して転載します。五行歌という文芸運動は草壁焔太先生が草案され、現在世界中に50万人の愛好者がいます。趣味、芸術を通して人柄を磨く、という強い信念があるために、平易な言葉で真実を詠む、という大前提があります。当然私もそれに共感して詠んでいるのですが、一つの壁にぶつかり、八王子五行歌会の掲示板に思っていることを投稿した次第です。以下、編集引用します。

2014/01/24 (Fri) 02:53:29

いま五行歌についてあれこれと考えていることがあります。

 一つは2月に題詠を決め4月号には月刊誌に載せたいのですが、子供から高齢者まで、というテーマに若干の懸念が。というのは今の子供たちは悪平等のために運動会でも全員一等賞になるぐらいだから、投稿して三席から漏れたときに傷つくのではないか、ということ。私は歌会を3回主催しながら毎回選外ですが、全く気にならないけど、子供の心を傷つけたら悪いし、といって同情(愛情)票が入るのも不自然だし・・・これが悩みの一つ。

次いで一首で「世界観」を詠みながら、かつ草壁先生のいう「自己神秘化」していない作品の模索です。私は今意識的に掟破りの仏教用語や観念語を使ってそういう歌を試作していますが、誰にでも分かる口語で世界観を表した歌を少し拾ってみました。

生まれ子がしだいしだいに知恵づきて仏に遠くなるぞ悲しき(一休禅師。後世の引用と少し違いますが、こっちのほうが一休らしい気がします)

心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん(伝・菅原道真)

我が我れと思う我が身は天の我れ我がものとては一物(いちもつ)もなし(黒住宗忠)

何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる(西行)

心こそ心迷わす心なれ心に心心許すな(沢庵禅師)

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)

次いで俳句ですが私の大好きな

鶏頭の十四五本もありぬべし(正岡子規)

普通の感性と知性だけでは徐々に訳が分からなくなります。「○○○○ その人と作品」といった解釈学の中で創造的批評により世界観の意味が明瞭になってくるものでしょう。
 普通は歌集や句集といった形で多数の作品を並べることにより言わばスナップショットを次々と見ているうちにその人の世界像や人生観や人柄が分かります。

しかし、一首、一句で世界観や人生観を一気に詠んだものの中にはどうしても謎が混じります。その謎を消そうと模索している訳です。

最後に解釈の仕方次第で意図が大きく変わる典型的作品を・・・と書いたところで夜中の2時半になりました。尻切れトンボですが後日にします。

 

2014/01/25 (Sat) 01:35:59

一首で世界を詠む歌について、凄いのを書き忘れていました。

あわ雪の中に顕(た)ちたる三千大千世界(みちおほち)またその中にあわ雪ぞ降る(良寛)

痺れますね。情景に込められた心境の高さは別格と思います。 また上に書いた

心こそ心迷わす心なれ心に心心許すな(沢庵禅師)

は、リズミカルな言葉遊びとお説教、と思われるかもしれません。しかしこの歌は知る人ぞ知る柳生但馬守宗矩に宛てた手紙(不動智神妙録と言われるが異説もある)に添えられた歌で、その手紙は『五輪書』『兵法家伝書』と並び剣道・武道の極意の書と言われています。これは斬り合いの最中の心の置き所を示したものです。

一首、一句の中に世界を詠み込む、という特殊な歌はどうしても禅など宗教に集中します。神道における言挙げと同様、禅も「言葉で真理は語れない」つまり不立文字の思想が根本にあります。尤も言葉を捨ててこそ言葉が自在になるという逆説が働くので禅者が書いた本は無数にあります。

ところで、辞世の歌も死ぬ間際に残すため思いのたけを詠み込みます。赤穂義士の辞世を紹介した通りです。この事件の発端になった浅野内匠頭の辞世の歌

風誘う花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん

は凄まじい魂魄のようなものを感じます。

出だしの「風誘う花」は、伝統的には逆に「花誘う風」とされているようです。例えば

花誘ふ嵐の庭の雪ならで 降りゆく者は我が身なりけり(入道前太政大臣)

千萬の仇に迎えるもののふも 花誘う風はすべなかりけり(賀茂懸主季鷹)

という具合に「花誘う風」という言い回しは古くから「風が花(桜)を散らせる」場合に使われています。花が散るのを風が誘う、つまり花を風が連れ去っていく感覚でしょう。

「風誘う花」は詳しくは分かりませんがかなり珍しいのではないのでしょうか?花が子供のように風を慕って戯れている情景が浮かんできます。
 この歌を詠んだ旧暦の3月14日は現在の4月下旬で牡丹の花が咲く頃、風が吹いてもまだ散る桜の花が残っている時期と捉えてみます。当時浅野内匠頭は35歳だったことなど合わせると

風が吹いても未だ桜が散り、春の気配が残るこの季節、私はそれ以上にまだ青春の香りを残す年でありながら、お家断絶となって死んでいくこの思いをどのように表せばいいのだろう

という、言葉にならぬ思いを辛うじて言葉にした名歌だと思います。とにかく煩悶の深さが響いています。

ここに私の勝手な解釈を加えます。

春の名残をいかにとかせん、は「張るの名残をいかに解かせん」の掛詞で、「この張り裂けそうな遺恨をどうやって晴らせばいいのだろう」と解釈します。これはコジツケというほど突飛なものでは無く、短歌をかじった人なら普通に読み取る範囲でしょう。

そしてこの浅野内匠頭の魂魄を受けた義士たちが怨霊を鎮めるために討ち入りを決行したと考えます。

ストンと胸に入る歌、ズドンと胸を揺さぶる歌、また解釈の仕方によって益々想像が広がる歌、歌い手の背景を調べ読み手も経験を重ねるに連れてその奥行きの奥が体感できる歌もあります。

長くなりましたが、要するにいい歌を見つけたい、詠みたいものです。



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