那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

石原莞爾とは(その2)

2016年03月27日 | 歴史

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 太平洋戦争へと到る激動の1930年代において重大な役割を果たした陸軍軍人である。満州事変2・26事件、そして日中戦争に関わり、その個性的な才能は多くの追随者を生み出した。

日中戦争は東アジアの中の仲間内での争いであり、速やかに終わらせることが、必要であると考えていた。

法華経・日蓮信仰と結び付いた独特の歴史観・戦略観を持っていた。

『世界最終戦論』では、最終戦争は日本とアメリカにおいて行われる。そのために日本は力を蓄えなければならない。そのため、現在の戦争(日中戦争・太平洋戦争)は時期尚早である、と主張した。

最終戦争は圧倒的な武器によって一瞬の内に勝負が決まる、と考えていた。

昭和12年(1937)1月の林銑十郎内閣の組閣の際には、板垣征四郎陸相・末次信正海相等を実現しようと画策するが失敗。

東条英機と対立。太平洋戦争前に現役から離れる。在野で、東亜連盟の運動を強力に進める。

国柱会会員。

敗戦後戦犯として裁かれることはなかったが、証人として訊問を受ける。

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父親の転勤のため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であった。まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には、教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし、利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると、一年生で一番の成績であった。また、石原の三年生の頃の成績を見てみると読書算数作文の成績が優れていた[5]

また、病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると、小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている[5]

石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた[5]

明治35年(1902年)、庄内中学二年次途中で仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。石原は、ここで総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で、器械体操剣術などの術科は不得意であった。

明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を施された。石原は、学校の勉強だけでなく戦史哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は、仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には、横山勇、島本正一などがいる。また、東京に在住していたため、乃木希典大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている[6]

明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は、350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。

士官学校卒業後は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここでは、軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、箕作元八の『西洋史講話』や筧克彦の『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。南次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。

連隊長命令で、不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は、初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は、受験に対してやる気はなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし、その試験に合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは、戦術学、戦略軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。

大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。

ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたといわれる。

石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた[7]。昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。

昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している[8]。 この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった[9]。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめないと討伐するぞ」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて、栗原は殺害を中止し、石原は事なきを得ている。

1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく不拡大方針を立てた。

1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

1937年(昭和12年)の支那事変日中戦争)開始時には参謀本部作戦部長であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された。

昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと罵倒し、事ある毎に東條を無能呼ばわりしていく。一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年(1938年)に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長に補せられるが、これは東條の根回しによるものと考えられる。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。

現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に立命館総長中川小十郎が新設した国防学講座の講師として招待された。

日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任した。講師には第一次世界大戦史の酒井鎬次中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。

しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた『国防政治論』を昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。

昭和19年(1944年)6月、柔道家の牛島辰熊津野田知重少佐は、東條英機首相暗殺を企てた[12]。共に東亜連盟で石原莞爾に師事していた。

津野田は、大本営参謀部三課の秘密文書を読み、予想以上の日本軍の惨敗ぶりに愕然とし、牛島辰熊に相談した。「このままでは国民は全滅だ」と悟った2人は、東條を退陣させて戦争を止めるために、皇族への「大東亜戦争現局に対する観察」という献策書を書き上げ、三笠宮高松宮らを通じて直接お上へ渡してもらうことにした。

2人は、献策書を持って石原が蟄居する山形県を訪ねた。石原は献策書を通読すると「一晩考えさせてくれ」と言って2人を泊まらせた。その献策書の欄外には、はっきりと「非常手段、万止むを得ざる時には東條を斬る」と書かれていたからである。次の日の朝6時、津野田と牛島を座敷に通した石原は、「今の状態では万事が手遅れだ」と言って赤鉛筆を取り、献策書末尾に「斬るに賛成」と書いた[13]

石原の賛意を得た津野田と牛島は、勇んで東京に戻り、暗殺方法について話し合った。結果、習志野のガス学校で極秘開発されていた青酸ガス爆弾「茶瓶」を使い、牛島辰熊が実行することになったが、直前になって東條内閣が総退陣となった。しかし、東條退陣後、どこで計画が漏れたのか、2人は9月に逮捕される。

後年、作家の増田俊也は、著書「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の中で、この時牛島は弟子の木村政彦を鉄砲玉(実行犯)として使おうとしていたと記した[14]

石原は、東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。また、実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。

石原は東亜連盟を指導しながらマッカーサートルーマンらを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし、大アジア主義の観点から「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」と主張した。

終戦間もない頃、満洲事変で朝鮮軍-関東軍間の連絡将校を務めた、元陸軍少将で大亜細亜協会幹部の金子定一が石原を訪問した際、石原が自身を訪問したマッカーサーの側近に話したこととして「予は東条個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした。後に来る者はこれに鑑むべきだ。又、日本の軍備撤廃は惜しくはない、次の時代は思いがけぬ軍備原子力武器が支配する。」と語ったという[15]



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