那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

中城家の話

2017年09月01日 | 歴史

 

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(既に増補改訂版を購入された方には決定版を無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

 また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。これからは医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。

私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会日と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記して下さい。以上、会員になりたい方はこの口座に会費を振り込りこんで下さい。

______________________________

 私の母方の苗字を中城と言います。先祖の話をすると、また、先祖自慢だという人間がいますが、事実は事実なのでここで子孫のために書き残すことにします。父方の先祖については見性体験記の「父の面影」の中で簡単に触れていますが、「森家文書」を海南市の下津図書館から送ってもらったのでいずれ報告します。

私の母から数えて3代前の先祖は中城武七郎と言いました。明治政府になってから最初の戸長(現在の村長や町長のこと)でした。生まれは現在の西予市城川町です。地元の古文書館で調べてもらったところでは、庄屋を補佐する、組頭ではないかとのことでした。wikipedia には次のように書いてあります。「一般にには庄屋・名主を補佐する役職である。あるいは、組合村の代表者を「組頭」と称することもあった。」。ただ普通の組頭では無かったようです。名前から見ても武士の流れを引いており、昔の東宇和郡(ほぼ西予市全域)で事件が起こった時にはこの人が行かないと収まらなかったようです。今は無くなりました、知り合いのおばあさんに聞いたところでは、刀を差し、籠に載って遠くの事件を解決するために出かけて行ったと聞きました。母が面倒を診た池田家の御婆さんは死ぬ前に、刀を差した偉い人が目の前にいるがお前には見えないのか、と幻覚を見て母に問いかけたと聞いています。

中城武七郎の子供は養子で中城文太郎と言います。この人は酒飲みで仕事をしないために、財産を使い果たしてしまいました。その子供、つまり母の父、私にとっては祖父に当たる人の名前を中城周三郎と言います。この人の名前を知らない人は、城川町の役所には一人もいないと聞きました。位は助役でしたが、当時は今の特定郵便局と一緒で、中城家は役所の代わりを務めていて、朝になると数十人が家の前に列をなしたので母たち子供はその接待をするのが役目でした。この周三郎という人は「万語読み」(天才)と呼ばれていました。というのはほぼ2千人いる、城川町の全員の家の地番と、山林の地番を丸暗記していたからです。それだけではありません。城川町という名前は日本で最も凝った町名の2つに入っています。これは、土居、魚成、高瀬川、という3つの地名と川の名前を組み合わせたものです。城川町の歴史には公募して選ばれたと書いてありますが、それは中城周三郎が町民に花を持たせたのでしょう。またそれだけではありません。年に一度、算盤大会が行われて、算盤自慢が競い合いましたが、他の人は、イチイチ駒を動かすのに、周三郎はほとんど暗算で時々、パチリパチリと駒を動かしただけで、毎年優勝し、米一俵などの賞金を持って帰りました。また、詩歌にも秀で、「伊予竹に 土佐紙貼りて 阿波ぐれば 讃岐涼しき お四国の風」という作品を残しています。これは、四国4県を短歌の中に読み込んだもので、意訳すると、愛媛の竹に、土佐の紙(土佐は紙の産地です)を貼って、扇いだら、こんなにも涼しい、四国の風という意味です。周三郎の子供たちはみな高等小学校しか出ていませんが、それは旧制中学に通うには高知か宇和島に行く必要があり、子供の足では2泊しないと行けなかったからです。私はそのことが分からなかったので、母の子供時代は貧乏だったのだと思っていましたが、母に聞いたところでは「貧乏と言ってもレベルが違う。毎日、抹茶を立てて飲んでいたし、周りの家が、父親のことをオトン、母親のことをオカン、と呼んでいた時に、中城家では、トトさま、カカさま、姉のことを姉様、と呼んでいた」と聞きました。また周三郎の妻、つまり母の母、私の祖母は中城ヨシと言って、ミス城川のような美人でした。私は子供の頃に一緒に遊んでもらったことがあるので、お婆ちゃんが無くなった小学生の時は大泣きしました。今でも中城家の子孫は美男・美女が多いようです。

中城周三郎の長女が私の母・中城満留です。母は親のために家を建てただけで無く、戦争に協力したくない、軍事工場で働きたくないという理由で、18歳の若さで軍属として満州に渡り、看護婦助手を務めました。今でも産婆の免許は持っているそうです。(その母を、あなたは従軍慰安婦だったのでしょう、といった、島田市の八木と、審理中に母の家に行って恐喝した松山の織田は、今は罰が当たって死んでいるに違いありません)。母は終戦の後もしばらく満州に残り、中国語の通訳になるつもりでした。そこで最後の病院船に乗って舞鶴に戻ってきました。母の叔父がその知らせを聞いて大喜びしたことを母は今でも時々思い出して感謝しています。舞鶴から上野に移動した時は焼け野が原で母は土地でも買おうと思ったそうですが、こんな焼け野が原が今のように復興する筈は無いと思って郷里、城川町へ戻ってきました。そして私の父と再婚して、30歳そこそこで、「嬉野」という高級料亭兼置屋を経営しました。私が赤ちゃんの時の写真には私が芸者さんに抱かれたものがあります。そして、私が最初に覚えた言葉は「散財しよう」でした。これは、酒を飲みながら奇麗な芸者をはべらして、思い切りお金を使おうと言うものです。

私が八王子芸者と遊んだとか、石和のコンパニオンと遊んだとか、鬼の首でも取ったように言う愚かな人間がいますが、藩の財政を立て直した山田方谷ですら、次のような狂歌を残しています。

楽しみは(世の中は、の場合もある)、後ろに柱、前に酒、左右に美人、懐に金

これは落語にも出て来るので山田方谷のオリジナルではないかもしれませんが、節約で藩の財政を立て直した彼ですら、このような遊び心を持っていたわけです。およそ、男は遊びを知らないとロクな人生観は持てません。私は今はせいぜいスナックでカラオケを歌う程度ですが、リッチになったら、昔のように石和温泉に一週間ほど泊まり込み、コンパニオンと遊びたいと思います。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。