那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

北一輝とは

2016年11月02日 | 歴史

 

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北一機とは熱烈な天皇崇拝主義者と思っていましたが全くの間違いだということがわかりました。以下wikipediaから引用します。

 

明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。

 

すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した。

 

評価[編集]

 

1906年(明治39年)23才の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として大日本帝国憲法における天皇制を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者河上肇福田徳三に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。

 

ゆえに、北を革命家と見る意見がある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている[7]花田清輝は、北を「ホームラン性の大ファウル」と評している。

 

また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉吉野作造と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した[8]

 

また、北は安岡正篤岸信介にも強い影響を与えたとされている。[要出典]

 

宗教[編集]

 

法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、日頃から大きな声で読経していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。

 

 

1929年(昭和4年)4月 - 1936年(昭和11年)2月28日に妻のすず子が法華経読誦中神がかった託宣を自ら記録したもの。

 

北の日蓮理解や法華経帰依の契機などは、彼の天皇観とともに依然として定説がない。

 



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