疲れて転寝していたら午前0時を過ぎたので昨日の投稿が出来なかった。
私は大学院の修士課程を修了した後、様々な事情があり郷里愛媛に10年間ほど妻子を連れて帰郷していた時期がある。
そのとき映像作家・金井勝氏のHP「映像万華」にエッセーを投稿した。「愛媛からの手紙」というタイトルの連続ものだったが、インテリや研究者には非常に評判がいい。簡単な話、芸術というものは人間にとって必要不可欠なものではない、ということを証明したエッセーである。
以前からロジェ・カイヨワを含めて色んな「遊び」「笑い」に関する文献を集めて「趣味学」のような研究をしようと思っていた。過疎の盆地で10年の間に芸術家一人いない環境で暮らし、人間は趣味、遊びがないと狂ってしまうが、芸術はあってもなくてもいいオマケである、ということが分かった。
そこで趣味と芸術の構造を比較し、芸術研究者が現れ議論が沸騰して○○学会などができ、制度化されると大学教育システムの中に組み込まれ、本来持っていた芸術の危険性が消えてしまう・・・・・凄く簡単に言えばそういうことを書いた。
すると案の定、ケチを付けたがる人間は一杯いるから、「那田の言ってることは当たり前じゃないか」と2ちゃんねるかなにかに書いた人物がいる。そういうのには嫌というほどあっているので無視した。
リンゴが落ちるのは当たり前、という人間の中で、何故リンゴが落ちるのかと疑問に思う人間が稀にいる。そして万有引力を発見する。当たり前のように見えることに対して、何故?と疑問を抱くのが研究というものだ。万有引力というと私は、地球儀がイメージされて、南極と北極で人間が逆さまに立ってい様子が浮かび、なんとなくウキウキしてくる。
たしか太宰治のお兄さんだったか「一言で書けば済むものを、なぜそんなにダラダラと長ったらしく小説にする必要があるのか」と小言を言ったとき、太宰は「それで人が納得するならね」と応えた記憶がある。
無念無想になれ、というのが本当に分かるには一生かかっても無理かもしれない。頭の先で理解するのと、体得するのとでは天地の開きがある。
芸術、この過剰なもの。無駄なもの。愛しながら憎む腐れ縁の恋人のような存在です。
そういえば、この数年全く遊んでないなぁ。
私は大学院の修士課程を修了した後、様々な事情があり郷里愛媛に10年間ほど妻子を連れて帰郷していた時期がある。
そのとき映像作家・金井勝氏のHP「映像万華」にエッセーを投稿した。「愛媛からの手紙」というタイトルの連続ものだったが、インテリや研究者には非常に評判がいい。簡単な話、芸術というものは人間にとって必要不可欠なものではない、ということを証明したエッセーである。
以前からロジェ・カイヨワを含めて色んな「遊び」「笑い」に関する文献を集めて「趣味学」のような研究をしようと思っていた。過疎の盆地で10年の間に芸術家一人いない環境で暮らし、人間は趣味、遊びがないと狂ってしまうが、芸術はあってもなくてもいいオマケである、ということが分かった。
そこで趣味と芸術の構造を比較し、芸術研究者が現れ議論が沸騰して○○学会などができ、制度化されると大学教育システムの中に組み込まれ、本来持っていた芸術の危険性が消えてしまう・・・・・凄く簡単に言えばそういうことを書いた。
すると案の定、ケチを付けたがる人間は一杯いるから、「那田の言ってることは当たり前じゃないか」と2ちゃんねるかなにかに書いた人物がいる。そういうのには嫌というほどあっているので無視した。
リンゴが落ちるのは当たり前、という人間の中で、何故リンゴが落ちるのかと疑問に思う人間が稀にいる。そして万有引力を発見する。当たり前のように見えることに対して、何故?と疑問を抱くのが研究というものだ。万有引力というと私は、地球儀がイメージされて、南極と北極で人間が逆さまに立ってい様子が浮かび、なんとなくウキウキしてくる。
たしか太宰治のお兄さんだったか「一言で書けば済むものを、なぜそんなにダラダラと長ったらしく小説にする必要があるのか」と小言を言ったとき、太宰は「それで人が納得するならね」と応えた記憶がある。
無念無想になれ、というのが本当に分かるには一生かかっても無理かもしれない。頭の先で理解するのと、体得するのとでは天地の開きがある。
芸術、この過剰なもの。無駄なもの。愛しながら憎む腐れ縁の恋人のような存在です。
そういえば、この数年全く遊んでないなぁ。