今日は英会話レッスン終了後、生徒さんとお話していたことが、前後につながっていたなあと実感した日でした。
要は「自分の苦手な人について。」
私は「苦手な人」や「やだな~」と思う人の数が以前に比べ激減しました。
しかし、ゼロにはならない。
最近、「あの人苦手、やだ」という人に出会ってしまいました。そして、面白いことにそういう人に限って、ペアを組む羽目になったりするのです。
宇宙には否定形がないのだから、「あの人と組みたくない→あの人と組みたい」になる、要は意識をするから引き合うだけの話ですからね。
昔ならただただ避ける方向に向かっていましたが、感情では「嫌」って思っても頭では「苦手な人は私の何かを見せてくれてるんだなあ」と分かっているので「嫌」という感情を感じながら自分観察にいそしんでいました。
だいたい、嫌だと思う人と自分が同じものを持っているというのは定説。特に自分が抑えているものだったりする。
ドラえもんの中でジャイアンがのび太をいじめるのは、ジャイアンは普段から「男はメソメソするな。強くないといけない」と言われていて彼なりにがんばっているのです。それを目の前ののび太ときたら、いつもメソメソしているしすぐ泣くし、と~っても腹が立つのでいじめてしまうのです。自分が我慢していることを目の前の人がやるとそりゃ腹が立つ。
私は昔女性という武器で男の人に媚びる女、特に物を買ってもらう女が大嫌いでした。でもよく考えたら私に何の迷惑もかけてないのに、嫌うこと自体がおかしい・・そういう異常に腹が立つことって自分の中にある何か(傷や執着)が表面に出てきている訳で、それを手放すとどんどん生きるのが楽になってきます。
おそらく私は言葉で、面と向かって言われた訳ではないけれど、母から「女というかお色気を利用することはいけないことだ」というのを感じて育ったのだと思います。だから「いけないといわれていること」をせずに守って生きようとしているおに、目の前で「いけないこと」をしている人を見ると腹が立ったのでしょうね。
考えればお金を出すおっちゃんは、おねえちゃんから若いエネルギーをもらっている訳でそこでプラマイゼロな訳です。二人で機嫌ようやってるねんから、私が腹を立てる意味はないのです。今はそんな女見ても「楽しそうでいいよね」「使えるものあるだけいいよね」と思うでしょうね。
そうやって「あいつきらい」という人が出るたびに、ひとつずつ手放していったらどんどん生きるのが楽になってきました。結果的にその人を嫌だと思わなくなるか、その人が目の前からいなくなる。どちらにしても課題が終われば楽なのです。
しかし、最近久しぶりに現れたこの人。自己洞察をしていると「コントロール、支配」というのがキーワードにでてきます。人をコントロールしたがる、自分が中心でないといや・・おそらく、私も本当は自分がいつも中心でないと嫌で、コントロールしたい欲求があるんでしょうね。ま、そこまでは分かってもそこでストップして相変わらず「やだなあ、あの人」と思っていました。
ちょっと前に友達とお茶していたとき、その時も「苦手な人」の話題になりました。私に「『苦手な人』とか『嫌いな人』っていないんちゃう?」と言われて、「いやあ、やっぱりそれはでてきますよん」という話をしていて、私の苦手な人の話を初めて人に話しました。
友達も知っていた人だったので、その「苦手な人」の話題になりました。そして友達が「あの人さみしがり屋なんよね。だからああやって中心になりたがるんだろうな」と言った時、その言葉が私の胸にぐわああああんと来ました。
その時、よく分からないけどその苦手な人の寂しさを感じたのかもしれません。なんだか涙が出そうになりました。彼女の寂しさを私は何にも見てなかったなあって。表面的なことばっかりを見てたなあって。自分の中で固まっていたものが溶けていくような気がしました。
それ以来、その人が前ほど嫌じゃなくなったのですよ。確かに「またやってるわあ」とは思うけど、全然いやじゃない。別に「彼女はさみしいんだろうから」とかそんな考えも浮かんでこずに、ただスルーする。
そうなると展開が面白くって、今日はその人と二人で歩くことに。話してみると面白い話もあるんだなあ、イスラエル行きたいって言ってはったし。二人で歩いていたら皆とはぐれてしまって、私は電車乗るから「じゃあ、さよなら」って手を振ったんだけど、彼女は「みんな居なくなった、無視されたん、私」って言ってた。それを聞いてさみしがり屋というのが何となくわかったし、そう思うと愛しささえ感じました。
お昼に話題になった「苦手な人」についての実践の時間が夜やってきた感じです。
やっぱり苦手な人はギフトです。
何か自分の手放したいものを見せてくれるから。そして、手放したときにう~んと楽になるし、一回り大きくなっている自分がいます。
ほんま人生って面白い。
要は「自分の苦手な人について。」
私は「苦手な人」や「やだな~」と思う人の数が以前に比べ激減しました。
しかし、ゼロにはならない。
最近、「あの人苦手、やだ」という人に出会ってしまいました。そして、面白いことにそういう人に限って、ペアを組む羽目になったりするのです。
宇宙には否定形がないのだから、「あの人と組みたくない→あの人と組みたい」になる、要は意識をするから引き合うだけの話ですからね。
昔ならただただ避ける方向に向かっていましたが、感情では「嫌」って思っても頭では「苦手な人は私の何かを見せてくれてるんだなあ」と分かっているので「嫌」という感情を感じながら自分観察にいそしんでいました。
だいたい、嫌だと思う人と自分が同じものを持っているというのは定説。特に自分が抑えているものだったりする。
ドラえもんの中でジャイアンがのび太をいじめるのは、ジャイアンは普段から「男はメソメソするな。強くないといけない」と言われていて彼なりにがんばっているのです。それを目の前ののび太ときたら、いつもメソメソしているしすぐ泣くし、と~っても腹が立つのでいじめてしまうのです。自分が我慢していることを目の前の人がやるとそりゃ腹が立つ。
私は昔女性という武器で男の人に媚びる女、特に物を買ってもらう女が大嫌いでした。でもよく考えたら私に何の迷惑もかけてないのに、嫌うこと自体がおかしい・・そういう異常に腹が立つことって自分の中にある何か(傷や執着)が表面に出てきている訳で、それを手放すとどんどん生きるのが楽になってきます。
おそらく私は言葉で、面と向かって言われた訳ではないけれど、母から「女というかお色気を利用することはいけないことだ」というのを感じて育ったのだと思います。だから「いけないといわれていること」をせずに守って生きようとしているおに、目の前で「いけないこと」をしている人を見ると腹が立ったのでしょうね。
考えればお金を出すおっちゃんは、おねえちゃんから若いエネルギーをもらっている訳でそこでプラマイゼロな訳です。二人で機嫌ようやってるねんから、私が腹を立てる意味はないのです。今はそんな女見ても「楽しそうでいいよね」「使えるものあるだけいいよね」と思うでしょうね。
そうやって「あいつきらい」という人が出るたびに、ひとつずつ手放していったらどんどん生きるのが楽になってきました。結果的にその人を嫌だと思わなくなるか、その人が目の前からいなくなる。どちらにしても課題が終われば楽なのです。
しかし、最近久しぶりに現れたこの人。自己洞察をしていると「コントロール、支配」というのがキーワードにでてきます。人をコントロールしたがる、自分が中心でないといや・・おそらく、私も本当は自分がいつも中心でないと嫌で、コントロールしたい欲求があるんでしょうね。ま、そこまでは分かってもそこでストップして相変わらず「やだなあ、あの人」と思っていました。
ちょっと前に友達とお茶していたとき、その時も「苦手な人」の話題になりました。私に「『苦手な人』とか『嫌いな人』っていないんちゃう?」と言われて、「いやあ、やっぱりそれはでてきますよん」という話をしていて、私の苦手な人の話を初めて人に話しました。
友達も知っていた人だったので、その「苦手な人」の話題になりました。そして友達が「あの人さみしがり屋なんよね。だからああやって中心になりたがるんだろうな」と言った時、その言葉が私の胸にぐわああああんと来ました。
その時、よく分からないけどその苦手な人の寂しさを感じたのかもしれません。なんだか涙が出そうになりました。彼女の寂しさを私は何にも見てなかったなあって。表面的なことばっかりを見てたなあって。自分の中で固まっていたものが溶けていくような気がしました。
それ以来、その人が前ほど嫌じゃなくなったのですよ。確かに「またやってるわあ」とは思うけど、全然いやじゃない。別に「彼女はさみしいんだろうから」とかそんな考えも浮かんでこずに、ただスルーする。
そうなると展開が面白くって、今日はその人と二人で歩くことに。話してみると面白い話もあるんだなあ、イスラエル行きたいって言ってはったし。二人で歩いていたら皆とはぐれてしまって、私は電車乗るから「じゃあ、さよなら」って手を振ったんだけど、彼女は「みんな居なくなった、無視されたん、私」って言ってた。それを聞いてさみしがり屋というのが何となくわかったし、そう思うと愛しささえ感じました。
お昼に話題になった「苦手な人」についての実践の時間が夜やってきた感じです。
やっぱり苦手な人はギフトです。
何か自分の手放したいものを見せてくれるから。そして、手放したときにう~んと楽になるし、一回り大きくなっている自分がいます。
ほんま人生って面白い。