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高崎自然歩道(山名から根小屋まで)

2013年05月25日 | 散歩
                 (高崎自然歩道歩行マップ<クリックで拡大>)

 高崎自然歩道のうち上信電鉄山名駅から根小屋駅までの約7Kmを歩いた。
うち約5Kmは石碑の路と呼ばれ上野国を詠んだ万葉の歌を刻んだ石碑が道々27碑置かれている。
約1300年前に作られた山ノ上の碑、金井沢碑の石碑があり、実際に幾首かが、このあたりで詠われていたことを物語っており、この歩道は、遠く万葉の時代のロマンの世界に浸ることができるのである。
鎌倉時代(1192年~1333年)には高崎~鎌倉を結ぶ鎌倉街道として栄えており、 また山名城址、根小屋城址へ通じる道は戦国時代の関東と信濃、越後を結ぶ重要な軍事道路でもあったようだ。

 高崎自然歩道は奈良の山の辺の道に似た雰囲気をもつ万葉時代の遺物が残る道だが、山の辺の道は展望が開けて明るい山路だが、ここ高崎自然歩道は左右の展望が良くない印象だった。もうすこし展望を考慮した歩道の整備がされれば、東の山の辺の道として十分に歴史回廊として寄与できるものと思う。

 このブログには一部の万葉歌碑のみ位置がわかる写真とともに掲載しており、
高崎自然歩道全ての万葉歌碑については、別ブロブ<飛鳥への旅>に詳細を掲載している。

 自宅6時21分のバスに乗る
上野発7時23分高崎行き、終点まで1時間40分程ある。
座席に座って、タブレットに入れた資料やマップを見て今日の行程をイメージする。


高崎駅到着 9時8分


上信電鉄高崎駅へ
単線のワンマン電車。カラフルで目立つ存在だ。


上信電鉄山名駅着 9時32分
高崎自然歩道スタート!


①地点:石碑の路碑
山名八幡宮の参道前にある大きな石碑。
土木会社社長であった信沢克己さんが上野国歌の幾首かがこの山名丘陵付近(上代の佐野山)で唄われたとし、心の古里を大切に保存するため、佐野山に石碑の路を作ったのである。


たちわりの石
1600年(慶長5年)高崎藩主・井伊直政の許しを得て、馬庭念流中興の祖である樋口定次が天真流・村上天流と試合をすることになったが、その試合の勝利を祈願して樋口定次が山名八幡宮に参籠し、21日目の満願の日、枇杷の木刀で断ち割ったと伝えられている石。そして見事、天流を破ることができたのだそうだ。


山名八幡宮へ
宇佐神宮(宇佐八幡宮)を勧請したものと伝えられ、
応仁の乱の西軍の総大将として知られる山名宗全の祖である山名義範が文治年間(1185~1190年)に山名八幡宮を造営。
義範は新田氏の祖、新田義重の子で、この山名郷に入り山名氏の祖となった。


②地点:山名宗全
【碑文】 凡そ例というは 其時が例也
過去の例にとらわれずに、その時に応じた対応をしなさい、という意味か。
応仁の乱が勃発したとき、東軍の細川勝元に付くか、西軍の山名宗全に付くか、去就に迷う公家に言ったのが、この宗全の言葉である。


山名八幡宮本殿と絵馬
本殿は銅板葺きの三間社流造りで、みごとに彩色した彫刻が施されている。


山名八幡宮裏から始まる高崎自然歩道


③地点:山名御野立所跡と万葉歌碑
昭和9年(1934)11月、陸海軍を統帥する大元帥である天皇陛下を迎え、群馬・栃木・埼玉を舞台に陸軍特別大演習が行われ、その折山名のこの地に、天皇陛下臨場の野外統監部が設けられた記念碑だという。
当時はなにかと戦意高揚するものを機会あるつど構築したようだ。                            
佐野山に 打つや斧音の遠かども 寝もとがころが おもに見えつる(万葉巻14-3473)
   →詳細は万葉アルバム


これから向かう山名丘陵が見えてくる


民家のわきの狭いところに続く高崎自然歩道


子育地蔵尊(左)、阿弥陀如来(右)
往時の熱心な民間信仰が感じられる。


山名貯水池(左)と山の上碑(右)への分岐点 10時23分


⑤地点:山名貯水池   →詳細は万葉アルバム
ここから山の上碑への分岐点へ戻る


④地点:山の上碑への分岐点にある万葉歌碑
【碑文】吾が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくも悲しも(万葉巻14-3403)
なかなか風格のある大きな石に彫られている。
   →詳細は万葉アルバム


山の上碑への急階段


山の上碑と古墳
山の上碑は碑石の保護及び碑面の劣化・風化から文字の消滅を防ぐため、立派な覆屋で保管されている。


681年に立てられた日本最古級の石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に53字が刻まれている。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、母と自分の系譜を記して顕彰したもの。
隣接する山上古墳は、直径約15メートルの円墳で、精緻な切石積みの石室を持ち7世紀中頃の築造と考えられ、その築造時期は、山上碑よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬したものと考えられている。
 681年は天武天皇の時代であり、まさに万葉の最中であった。


⑥地点:古墳脇の歌碑と続く自然歩道
【碑文】日の暮れに 碓氷の山を 越ゆる日は 夫なのが袖も さやに振らしつ(万葉巻14-3402)
   →詳細は万葉アルバム


自然歩道もここから山道らしくなってきた。奈良の山の辺の道の雰囲気に似てきた。


⑦地点
【碑文】あすか河 塞くと知りせば あまた夜も ゐ寝てこましを せくとしりせば(万葉巻14-3544)
   →詳細は万葉アルバム


⑧地点
【碑文】遠しとふ こなの白峰に あほ時も あはのへ時も 汝にこそよされ(万葉巻14-3478)
   →詳細は万葉アルバム


山名城址への分岐点 11時15分
山名城址は南北朝時代に前城として築かれ、戦国時代になって鉄砲が使える要害城として改築された。
今日は山名城址には行かず直進する。


⑨地点
【碑文】ささの葉は み山もさやに さやげども 我が妹おもう わかれきぬれば(万葉巻2-133)
   →詳細は万葉アルバム


⑪地点


商科大駅への三叉路 11時24分


⑫地点
【碑文】利根川の 川瀬も知らず ただ渡り 波にあふのす 逢へる君かも(万葉巻14-3413)
   →詳細は万葉アルバム


⑭地点
【碑文】伊香保ろの さやかの堰手に 立つ虹の 現はろまでも さ寝をさねてば(万葉巻14-3414)
   →詳細は万葉アルバム


根小屋城址への分岐点 11時32分 
戦国時代の武田信玄が築いた城郭で、上州での軍資金を根小屋城近くの尾根に埋め事に備えたといわれている。
埋蔵金を見てみたいが、今日はパスしよう。


23地点すぎの下り


24地点


26地点
【碑文】夕闇は 道たづたづし 月待ちて 行かせ吾が背子 その間にも見ん(万葉巻3-709)
なかなか形の良い石である。
   →詳細は万葉アルバム


27地点への途中


27地点
【碑文】伊香保風吹かぬ日ありといえど 吾が恋のみし時なかりけり(万葉巻14-3422)
   →詳細は万葉アルバム


左側丘陵地をみる
やっと眺望が開けた場所に出た感じである。


石畳下り路


さらに木道下り路


金井沢川の小橋 12時12分
小橋から車道にはでないで、金井沢川に沿った散策路があり、信沢克己さんが亡くなったあと万葉歌碑が5基ほど放置されたままだった。
それがつい最近になってこの散策路上に整備されて置かれるようになったという。


新①地点:小橋の上
一嶺(ひとね)ろに 言はるものから 青嶺(あをね)ろに いさよふ雲の 寄(よ)そり妻はも(巻14-3512) 
   →詳細は万葉アルバム


新②地点
巌(いわほ)ろの 岨(そひ)の若松(わかまつ) 限りとや 君が来まさぬ 心(うら)もとなくも(巻14-3495)
   →詳細は万葉アルバムへ 


新⑤地点
あしひきの 山のしづくに 妹(いも)待つと 我れ立ち濡(ぬ)れし 山のしづくに(巻2-107)
   →詳細は万葉アルバム


新⑤地点は自動車道との分岐点


28地点:金井沢碑への分岐点
【碑文】吾を待つと 君が沾れけむ 足曳の 山の雫に なりますものを(万葉巻2-108)
   →詳細は万葉アルバム


29地点:金井沢碑入口 12時22分


金井沢碑覆屋(左)、石碑(右)
神亀 3(726)年に立てられた石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に112字が刻まれている。山上碑・多胡碑と合わせて上野三碑と呼ばれている。古代豪族三家氏が、先祖供養のため造立したもの。


根小屋駅への道路


根小屋駅着 12時50分
無人駅で一時間に一本程度の電車が通っている、とてもひなびた味わいのある駅舎だ。

このあと高崎と反対方面の一か所立ち寄りする。


馬庭駅着


馬庭念流道場(左)飯玉神社歌碑(右)
馬庭念流(まにわねんりゅう)は在野の剣法。
代々草ぶかい田舎に土着して、師弟ともに田を耕しつつ先祖からの剣法を修業し、官に仕えることも欲せず、名利ももとめないとした。山名八幡宮のたちわりの石は関連した遺物でもある。

飯玉(いいだま)神社(高崎市吉井町)の万葉歌碑
多胡(たご)の嶺(ね)に 寄綱(よせつな)延(は)へて 寄すれども あにくやしづし その顔よきに(巻14-3411)
   →詳細は万葉アルバム

このあと高崎駅に戻り、遅めの昼食を食べた。上州名物「ソースかつ重」。

帰路は高崎駅から赤羽・日暮里・松戸を通り、18時前に自宅に帰ることができた。

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