気仙沼の人間としては、「食」について、書くべきことは山ほどあるが、それは、さて置き。
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の、高名なマドレーヌの場面。
「…私は、無意識に、お茶に浸してやわらかくなったひと切れのマドレーヌごと、ひと匙の紅茶をすくって口に持っていった。ところが、…私は、自分の内部で異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとしたのである。素晴らしい快感、孤立した、原因不明の快感が、私のうちにはいりこんでいた。」(第一編スワン家の方へⅠ八六ページ、鈴木道彦訳、集英社)
このほかにも頑固な女中フランソワがつくるさまざまな料理など登場する。
スパゲッティの「アルデンテ」ということを始めて知ったのは、下北沢の友達のアパートで読んだ伊丹十三のエッセイだった。本の名前は忘れたが、スパゲッティの、正しい茹で方が、写真入りで紹介されていた。それ以来料理が得意になった、と思っている。
当時、下北沢にもパスタの専門店というようなものがようやく出始めたところだった。
須賀敦子の本にも、当然、イタリアの料理、食品がたくさん登場する。
たとえば、「霧のむこうに住みたい」の冒頭は、「七年目のチーズ」。
「薄暗い電灯の下、まっしろな『よそいき』のテーブル・クロスをかけた食卓のまわりで、私たちは息を呑んでナンド伯父さんが地下の貯蔵庫から大切そうに持って上がってきたチーズを見つめていた。」(九ページ、河出書房新社)
で、「森は海の恋人」のわが畠山重篤氏の最新刊、「牡蠣礼賛」。
「東京にオイスターバーが開店したという話は聞いていた。大いに繁盛しているという。/牡蠣の旨さはなんといっても殻からむきたてを食べることである。」(七ページ、文春新書)
結局、気仙沼の「食」のことを書いてしまった。
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