ぼくは行かない どこへも
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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

精神看護 2020.9 斎藤環氏による読書会『開かれた対話と未来』その3 医学書院

2020-09-28 21:59:26 | エッセイ オープンダイアローグ
 齋藤環氏のオープンダイアローグについての読書会の報告の3回目、最終回が、『精神看護』9月号に掲載されている。取り上げた書物は、齋藤氏監訳、ヤーコ・セイックラとトム・アーンキル著『開かれた対話と未来』(医学書院)である。(前2回の報告についても、すでにここで紹介している。)
 それとは別に、今号の特集は、「思春期のゲーム依存、ネット依存」であり、他の連載も含め、興味深い記事満載である。そのいちいちも紹介したいところであるが、省略する。
 ただ、そうだな、巻頭コラム「間の間」で、東京工大准教授、美学者の伊藤亜紗さんがオンライン授業で、ある時、ジョン・ケージの≪4分33秒≫を演奏、というか、体験というか、してみた経験を書かれている。この〈楽曲〉は、ご存じの通り、具体的にはいかなる楽器も演奏しない休符のみの作品である。ここでは詳細は省くが、なかなかに興味深い事態であったようである。
 このほかにも、このブログで紹介したばかりの樋口直美さんの『誤作動する農』との関連で言えば、「当時者が研究者にアドバイスする活動「J-SUGAR」始まる」というレポートだとか、紹介したい記事だらけである。
 それはそれ。
 ということで、斎藤環氏の読書会「専門職はオープンダイアローグにどうかかわったらいいか」、連載の3回目は「会場で即興オープンダイアローグ」、実際にロールプレイをしてみての報告である。このロールプレイの様子は、抜粋して紹介するということでもないだろう。誌面にあたっていただきたい。ただ、スタッフによるリフレクティングのところは、少々、引用してみたいと思う。

「斎藤 …(クライアントが)じっとしていられないとかいうようなことを見ていくと、何がしか診断名が浮かばないわけでもない、というところはありますけれども。そういった対応をすぐに言っていいかどうか、少しためらいもあって。とりあえずは通常の解決策を試してみて、それで、どうしても難しい場合については、なにがしかの診断の可能性を吟味したいという気がするんですけれども。…
心理士アンドウ:診断ですか。
齋藤:そうですね。
心理士アンドウ:ちょっと言いにくい感じがありますね。
齋藤:言いにくさは大事にしたいですね。
心理士アンドウ:でも、そのぉ、片づけられないとか、準備が間に合わないとか、じっとしていられないというのを聞いてしまうと、どうしても、ADHDという診断名が浮かんでしまうんですけれども。
齋藤:そうですね。連想としてはね。
心理士アンドウ:連想として、です。でも、すぐにそう言いたくない気持ちもあって。ちょっと、躊躇しちゃいますね。」(454ページ)

 その場で、ずばりと診断することを避けている様子がある。
 専門家が客観的な正しい診断を宣告する、というようなことはしない。どこか隙間がある。私としてはこう思える、私の立場からはこういう風に見える、というように、あくまで一個の仮説として提示する。

「齋藤:…(診断名について)アイディアとしては出しておくけれども、いったん保留にして、そうじゃない場合どうするのかといった可能性をいろいろ考えてみたいと思うんです。」(454ページ)

(ところで、上で触れた樋口直美氏の『誤作動する脳』で、あの中井久夫が、診断とはあくまで治療のための仮説であって、宣告ではないという趣旨のことを書いていると引用されている。中井久夫という人は、優れた臨床の精神科医なのだ、と改めて認識させられる。)

 後半に、ロールプレイを終えて、素に戻って感想を語り合っている。
 母親役の女性が、具体的な方向も示されないまま終わった感じで、「不安の揺れが治まらないままだった、という感じ」だったと発言したことに対し、

「斎藤:オープンダイアローグをやったあと、あんまりすっきりしなかった、もやもや感が起こったという感想はしばしば聞かれます。居直るわけではないんですけど、私はそれでいいと思っているんです。と言いますのも、事例でも示したように、全然解決していないのに、次回までの間に勝手に何かが起こるということが結構あって、やっぱりそれは、当事者の方たちの自発性が刺激されるんだろうと。モヤモヤ感とか、うまく解決しない感があると、自分でなんとかしようという意欲が刺激されるのかもしれないと思っていて。こちらがそこを残すまいとしすぎると、どうしても指示形になっちゃうんですよね。命令・指示になると、本来のオープンダイアローグからはかけ離れたものになってしまいます。」

 最後に、齋藤氏はこう発言している。

「斎藤:…何よりも、いろんな人のポリフォニックな意見を聞く中で、しゃべったことがご自分の本音かどうかわからなくなってきたというのは、まさに対話の醍醐味であって、そういうことに気づいて、次回はさらに深まっていくのではないかなと思いますので、そういう気付きをどんんどん生かしていただければと思います。」(460ページ)

と、この読書会の報告が終わる。なるほど。
 この紹介もここで終わる、となるところだが、次のページを開くと、今号からの新しい連載がスタートしている。
 齋藤環氏による「「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ」である。第1回は「なぜ対話ごときで治癒が起こるのか?」
 この雑誌、読んでみると毎号興味深い記事が満載であるが、とりあえずはオープンダイアローグのことなど、特に私として読むべき特集がある場合に選択的に買い求めたいと考えていたところであった。
 この連載、何回続くのか不明であるが、困ったな。どうしようか。あとで、単行本になってからまとめて読むことにした方がよいか、どうか。
 というところで、次号予告を見ると、中島裕子氏による「琵琶湖病院でオープンダイアローグを見てきた件」などという記事も掲載されるようである。少なくとも次号は、買う選択しかないか。
 で、この新連載は、オープンダイアローグとはいったいどういうものなのかという探求がテーマのようである。齋藤氏が、深く依拠してきたラカン派などの精神分析と断絶しているところ、一方で継承しているところなども深く追究されるもののようである。

「オープンダイアローグの実践には、こうした逆説が至るところに見て取れます。なかでも究極の逆説は「改善や治療を目指してはいけない」でしょう。」(466ページ)

「しかし私は、むしろラカン理論の可能性の中心は、まさにその否定神学性にあると考えています。本連載の最初のもくろみは、「オープンダイアローグの否定神学性」を詳しく検討し、その積極的な意義を確立することです。」(466ページ)

 否定神学、か。否定神学とは何ものか、という考究はここでは置いておくが、なんとも興味深い。これは、まさに私のために書いていただける、とすら言ってしまいたい。読まざるをえない、だろう。



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