ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

斎藤環・東畑開人 臨床のフリコラージュ-心の支援の現在地 青土社 2023

2024-03-21 11:34:53 | エッセイ オープンダイアローグ
 この本に掲載されている対談は、私がいま、精神保健福祉士を目指して、大学の通信課程で学んでいる、その直接のきっかけとなったものであるといって間違いない。このお二人は、私にとって、現在、五指に入る最も重要な著者である。
 タイトルについて、購入してからも実際に読み始めるまで《臨床のブリコラージュ》だと思い込んでいた。《フ》でなくて、濁点のついた《ブ》。クロード・レヴィ=ストロースのいう《bricolage》である。日曜大工の、手元にある材料で工夫して間に合わせてしまう手仕事。しかし、これは、振り子とブリコラージュをひっかけた駄洒落であった。
 斎藤環氏によるあとがきをみると、

「本書の最終章にあたる対談を終えて一息ついていたら、たまたまそこに居合わせた医学書院の名物編集者、白石正明さんが呟いたのです。「本のタイトル、フリコラージュ…ってどうですかね?」。もう全員爆笑。」(p.223)

という経緯で決まったらしい。
 この本、青土社なのに、なぜ、医学書院の白石さんがいるのか、細かな経緯は置いて、このひとが、精神医学とか臨床心理学とか、こころにかかわる専門分野において、非常に重要な人物であるからに他ならない。医学書院の「ケアをひらく」のシリーズなど、このひとの仕事は現在、とても重要なもので、このところ私もずいぶんと読ませていただいている。間もなく医学書院を退職なさるという白石さんの特集を組んだ精神看護2024.3月号は、既に読み終えているので引き続き紹介するつもりである(ちょっと数冊、同じ周辺の本がたまっているのだが)。

【メンタルヘルス界隈を俯瞰して社会の中に位置づける】
 まえがきは、東畑開人氏が書いている。

「この本では、…僕は自由気ままに、なんの遠慮もなく、心の臨床オタクを丸出しにしてこの対談に没頭した。…
 …どの治療法の話、どの病気の話をしても、斎藤さんは全部押さえている。…パーフェクトな対談だった(僕にとっては)。
 …思う存分好きな話をした。…僕は人生で初めて、完璧に話が合う人と出会ったのだ。」(p.9)

 語り合っている本人たちも楽しいだろうが、読ませていただくこちらにとっても刺激的で面白い、という幸福な書物である。
 さて、心の問題、メンタルヘルスは、現在の社会において、大きな関心を集めている。このお二人とも、精神科医であり、臨床心理士・公認心理師であり、メンタルヘルス界隈の住人であることは言うまでもない(私も、その隅っこの方に寄寓している、といえれば幸いである)。

「メンタルヘルス界隈とは、その名の通り、心の問題やケア、回復に関心を寄せる人たちのふんわりとしたコミュニティである。…この界隈は日に日に巨大化している。
 …それは…むしろ小さな村たちの集合体である。
 そこには、精神科医や心理士、看護師やソーシャルワーカーのような専門家たちの村があり、それはさらに精神分析、認知行動療法、オープンダイアローグ、生物学的薬物療法などの学派村…あるいは、病院、学校、児童相談所、企業などなどの現場村に分かれている。…当事者たちの村もある。さまざまな障害や病気ごとの村があ…る。」(p.11)

「僕は精神分析村ですみっこ暮らしをしていて、斎藤さんはオープンダイアローグ村とかひきこもり支援村の顔役である。」(p.12)(斎藤環は、ラカン派精神分析のオタクとして著作活動を開始したが、精神科医として精神分析家ではないと言っている。今はむしろ批判的というべきだろう。)

「それらはときに重なり合うこともあるし、交流したり、連携したりすることもあるが、基本はお互いのことをよく知らない。…ときには反目し、いがみ合ったりする。」(p.12)

 言われてみれば、確かにそういう事情かもしれない。
 そういうなかで、

「…僕と斎藤さんにはオタクの側面があった。つまり、自分の専門分野についての歴史を知り、全体のなかでの位置づけを知りたいという欲望…自分がいる村を俯瞰して、広い社会の中に位置づけたいという欲望を持つことである。」(p.12)

 このあたり、私の興味関心と大いに重なるところである。
 東開氏は、

「これが人生で初めて完璧に話が合ったと思えた理由だ。」(p.13)

 と、続ける。読ませていただいている私も、膝を打つ局面だらけであった。

【心理・生物・社会モデル、あるいは、現在の精神医学への懸念】
 で、第一章と入っていくわけであるが、気になるところをまず挙げるとすれば、

「斎藤…最近の傾向で懸念しているのは、超早期発見に関する研究です。…統合失調症の徴候を子ども時代に発見して、発病する前に治療してしまおうとする発想ですね。東大や東北大などで研究が進められていますが、そもそも早期発見のエビデンスが不確定であるうえに、スティグマという点から見ても大きな問題をはらんでいます。早期介入先進国のオーストラリアでは、…早期の薬物治療まで推奨しようとしていて、これは精神医学の暴走の最たるものだと懸念しています。こうなってくると個人の治療以上に社会防衛的なニュアンスが前面に出すぎていて、ナチス・ドイツのT4作戦とかを連想してしまいます。」(p.63)

 これは、生物学的な精神医療の暴走ということだろう。大きな問題をはらんでいるというべきである。
 ここに、社会という観点の導入が必要となる。

「東畑 心理・生物・社会モデルといいますが、そのうちの心理学的な治療文化と生物学的な治療文化がこれまでの精神医学と臨床心理学においてそれぞれメインストリームを占めてきました。現在の課題はそれらを「社会」の観点から問い直すことです。それは単にソーシャルワークを重視しようという話ではなく、「心理学的/生物学的治癒とは何か」を社会の文脈から捉えなおすことを意味しています。つまり、この社会で生きるにあたって、どのような状態が「善き状態」であり、「健康」といえるのかという問いです。」(p.63)

 ここで、東畑氏は、社会学的、哲学的な問いの必要性を語る。まったくその通りである。
 念のために言っておけば、「単に…重視…ではなく」と言っているからといって、ソーシャルワークの重要性を否定している、ということではないのだろうと思う。哲学的な問いへの回答は、理念的な考察からのみではなく、臨床のソーシャルワークの実践の中から生み出されるのだ、と言っていいのではないだろうか。東畑氏らもこの書物内で言っているとおり、その両面が大切なのである。

【対人援助の臨床学】
 東畑氏の「社会」の観点から問い直すというのは、次のような箇所のことでもある。ひととひととのつながり、支援、協力。

「東畑 日々自己の状態をチェックし、自分のガス欠がわかるようにセルフマネージメントをしつづける主体が、新自由主義に最適化した主体でもあることをどう考えるか。あまりに自己責任に偏りすぎているかもしれません。人文知的には人間のモデルとして別の可能性を想像できるように、自己批判する回路を残しておく必要がある。」(p.65)

「東畑 …僕らの学問はかなり素朴なところに回帰してきている感じがします。…結局のところ、どれだけつながりをつくることに成功しているのかというベタなところに帰ってきている。」(p.205)

 コミュニティ、であろうか。コミュニティ、と言ってしまうと、また、別の問題が立ち上がってきそうだが。
 柄谷行人が贈与について言っていることに倣えば、昔のコミュニティから一回りらせんを回ってたどりつく新しいコミュニティ、と言えばいいだろうか。
 ここから、対人援助の臨床学の提唱につながっていく。

「斎藤 …世界のどこでも応用が利く、とはいえDSMとは一線を画した新しいタイプの対人援助モデルが生まれ、そのなかに心理療法も統合されていく未来が想像できます。
 東畑 心の学問というより対人支援の学問という色彩が強まっているんですよね。…『ふつうの相談』の最後で「臨床学」という言葉を使いましたが、臨床心理学の上位学問は心理学ではなく、対人援助の学としての臨床学なんじゃないかと思うんです。実際、ソーシャルワーカーや看護師、医師と話していると、普通に話が合いますし、臨床についての新しい発見があります。…学問的な編成を考えるのならば、僕は対人支援をするさまざまな専門家(例えば学校の教師も含めて)が共有するある種の知を体系化して基礎にできたほうがいいと思うんですね。」(p.208)

 つまり、ソーシャルワークが大切と言うことである。

【私はなぜ、精神保健福祉士を目指すのか】
 オープンダイアローグを含め、対人支援の臨床学の専門家たらん、と私はしているのだろう。そのために、そこで何らかの役に立つ存在となるために、精神保健福祉士の資格取得の勉強をしている、ということになる。
 《心理・生物・社会モデル》のうち、《生物モデル》への踏み込みは困難であろうし、じゃ、《心理モデル》は容易かというとそんなこともないのであるが、《社会》と《心理》をキーとして、この三分野の統合に向けて何ごとか役割を果たしたい、といえばいいか。
 あるいは、現実の困りごとへの支援というよりは、「気ままな哲学カフェ」のような小さな場を開いて、もう少し緩く、何か居心地が良くて面白い場を設定し、ミクロの場所から世の中を少しでも生きやすい場所に変えていこう、みたいなこと、と少し遠慮しながら言っておいた方がいいのかもしれない。スクールソーシャルワーカーとか、可能性は探りたいところだが。
 ところで、振り子であること、ブリコラージュであることについて、踏み込んだ紹介はここではできなかった。かんたんに言ってしまえば、理念と臨床の双方に足場を置く、というようなことだろうか。そのあたりは、書物にあたって確かめて欲しい。
 さて、この本には、4つの対談が収録されているが、最初の二つは、雑誌『現代思想』に収録されたものであり、その時点で読んでおり、このブログでも紹介している。精神保健福祉士の資格取得を思い立ったきっかけである。



齋藤環・東畑開人の対談 現代思想2022 12月臨時増刊号 総特集中井久夫1934-2022 その2 - 湾 (goo.ne.jp)



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