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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

劇団黒テント気仙沼公演 「物語る演劇山崎方代(やまざきほうだい)」のこと、というよりは、むしろ、この場所のこと

2017-07-08 00:47:26 | エッセイ

 今夜は、プロの芝居を観せてもらった思いだ。

 佐藤信の劇団黒テントは、その昔、寺山修司の天井桟敷、唐十郎の状況劇場(紅テント)、あるいは、鈴木忠志の早稲田小劇場などと並び称される前衛演劇の雄、というところなのだが、私は、残念ながら、当時、そのあたりには出会うことなく青春をやり過ごしてしまったということになる。

 今夜は、気仙沼市魚町の再建なった角星酒造店の店舗2階での公演である。この建物は、文化庁の登録文化財であり、気仙沼の内湾に面した風待ちエリアの代表的な建造物であった。不等辺四辺形の敷地に合わせた、同じく不等辺四辺形の鋭角と鈍角を有する建物は、その角度に合わせて切り出した同じく不等辺四辺形の木材を柱に使った奇妙な建築物である。(平行四辺形とか、ひし形とか思い浮かべていただけばよいが、対辺が平行ですらないのだ。)

 津波に流された元の建物の材木をできる限り再利用し、復元されている。2階は、しきりのない空間で、今後もイベントスペースとして使われることが期待されているらしいが、だまし絵のような、目の錯覚を利用して、ものの大きさを変えて見せるトリックに使われる部屋を想像していただいてもいい、そんな空間である。

 この2階のスペースのお披露目を兼ねての公演ということになる。

 山崎方代というひとは、歌人であるらしい。酒飲みの、無頼の、頼りない、人間に失格しているような人物であったらしい。

 彼自身の短歌とエッセイ、関係する人びとの彼についてのエッセイなどを寄せ集めてコラージュして作り上げた演劇作品。タイトルにある「物語る演劇」とは何か。特段の説明はない。セリフと動きだけで進行する通常の演劇ではなく、短歌やエッセイの原文を読む、というところに特徴を置くスタイルを、劇団黒テント独自の用語として創ったものかと思われる。

 演劇倶楽部『座』の壤晴彦氏が創案した、名作の原文をそのまま役者が演じる舞台に上げる「詠み芝居」とも通じるものだろう。

 冒頭、5人の役者が、自己紹介しながら登場する。それは、まだ、演劇の始まる前の挨拶であるという。それぞれ、短歌を紹介する。

 最初の男は、落合直文の「砂のうえにわが恋人の名をかけば波の寄せきてかげもとどめず」の歌を読みあげた。

 気仙沼に来たのであるから、短歌といえば 、落合直文を取り上げないわけにはいかない。内湾に面したこの場所で、この歌を取り上げないわけにはいかない。

 そういう文脈である。

 「恋人」という言葉を、明治以降の近代短歌の翻訳語文脈において初めて使ったと言われる直文のこの歌から連想して、盛岡の歌人石川啄木の「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」も取り上げ、「砂」、「恋」ということばの繋がりを語る。

(実は、落合直文の弟子が与謝野鉄幹で、鉄幹が創刊した明星に投稿したその弟子が石川啄木である、この「恋人」の歌は、直文がまさにこの明星創刊号に寄稿したものだ、という流れの中で、直文の歌と啄木の歌が繋がっているのは、ことの当然なのである。とは言いながら、この「砂」、「恋」という符合には、私も、今夜気づかされたところである。)

 次には、若山牧水の「白鳥は悲しからずや~」。あとひとり、ふたり高名な歌人が紹介されたかと思うが、その場で聴いた記憶なので、忘れた。

 そして、4人目かの女優が、気仙沼の西の山峡の歌人、熊谷龍子を取り上げる。

「森は海を海は森を恋いながら悠久の愛紡ぎゆく」。

 畠山重篤氏の「森は海の恋人」の名乗りの元となった歌である。

 はじめは、この芝居がまさしく歌人を主人公にするものだということは忘れていた。どの役者も、落語でいう枕のような、前説のような語りに、短歌を取り上げながら、どれも、本息で語る、というか、しっかりと見事に語っているものだな、と感心していた。

 しかし、5人目の女優が、それまでの前説のようなそれぞれの語りを回収して、本筋のところに持っていく。

 ああ、そうだった。今夜の主人公は、酔いどれの歌人である。その短歌が、数多く、この芝居の中で詠みあげられる。そこにつなげていくための前説であった。

 今夜の5人の仕事は、まさしくプロの仕事だったと思う。語りはもちろん、歌も、ハーモニーもみごとであった。舞台の上にいて、その存在に揺るぎがない。私がこんなことをいうのは、大変に失礼なことなのかもしれないが、そう思う。

 プロになりきれない役者は、どうにも耐え難い不安定な、気恥ずかしさが表れてしまうものだ。

 今夜は、そんな心配が一切なく、安心して、役者を見て、その物語世界に身を委ねることができた。笑わせてもらったし、ほとんど泣きそうになる瞬間もあった。

 しかし、なるほど、山崎方代という歌人は、崩した言葉づかいと見えながらも、見事に端的に何ごとかを表現しえた歌人であったに違いない、と思わされた。

 黒テントの芝居、また観る機会があれば大変に有難いことだ。

 ところで、角星店舗の2階のこのスペース、いろいろ使えそうである。私の「気ままな哲学カフェ」、詩誌霧笛の朗読会、などなど。

 なお、黒テントのHPに、この気仙沼公演の告知が掲載されてた。

http://www.ne.jp/asahi/kurotent/tokyo/


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