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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

コマイぬ 「ラッツォクの灯」 第2回いしのまき演劇祭参加作品

2017-11-27 23:16:34 | エッセイ

 コマイぬは、黒色綺譚カナリア派に所属する石巻出身の俳優・芝原弘の個人ユニットだという。

 「ラッツォクの灯」は、熊谷達也氏の仙河海シリーズの連作短編集「希望の海 仙河海叙景」所収の短編。仙河海シリーズは、中学校教師として気仙沼在住経験のある熊谷達也氏が東日本大震災のあとに、宮城県北の架空の都市・仙河海市を舞台に書き継いだ小説群。全8作の単行本が発刊されている。他の7作は、それぞれ1巻の長編小説だが、「希望の海」は、連作短編となっている。その中で、「ラッツォクの灯」は、震災後の(恐らく気仙沼中学校の隣の市民グラウンドの)仮設住宅を舞台に、両親を失った高校生と小学生の兄妹を主人公にした、悲しく美しい短編である。

 今回の出演は、黒色綺譚カナリア派の牛水里美、升ノゾミと芝原弘、脚本・演出は同じく黒色綺譚カナリア派主宰の赤澤ムック。原作の年齢設定を、成人である役者に合わせ、さらに、劇中劇として「希望の海」所収の別の短編「永遠なる湊」を組み合わせ、脚色を施している。

 ラッツォクというのは、お盆の迎え火、送り火として焚くワラで、その先端に黒い点火用の火薬様のものが付けてあるもの。

 原作から少し引用する。

 

「ところが去年、市内のあちこちで迎え火や送り火が焚かれる光景が復活して、その様子がニュースで流れた。とりわけ、津波によって土台だけになった家の玄関先で、家族を亡くした遺族が迎え火を焚いている映像が印象的だった。」(希望の海 254ページ)

 

 そして、そのすぐ後に妹のセリフがある。

 

「ねえ、お兄ちゃん、ラッツォク焚こうよぉ」

 

 と、まあ、こう来る。

 悲しくも美しいドラマである。

 私は原作を読んでいるから話の流れは把握しているが、それでも、言葉の、セリフの進行とともにその把握した流れがきちんと立ち現れることに身も心も掴みとられていく。

 3人の役者たちは、熊谷達也氏の描く世界を正確にきっちりと演じていく。言葉は、正確にきっちりと伝達される。書き割も幕もない、何もない小さな会場で、最低限の道具を使いまわして、役者たちは世界を作り上げていく。

 劇中劇として演じられる「永遠なる湊」で、「八十歳を超えた年寄り」を演じた牛水里美さんは、うら若く美しい女優さんであるが、「八十歳を超えた年寄り」を、リアリティをもって演じ切った。

 あくまで悲しく美しい「ラッツォクの灯」の真ん中に置かれて、コミカルでユーモラスで、あたかもお能の中で演じられる狂言のように、笑わせてもらった。そして、気仙沼湾を望む高台のうえという設定で演じられるそのラストでは、泣かせられた。見事な演技であった。

 そして、赤澤ムック氏の脚本の構成。

 6月に、女川の照源寺で演じられた同じコマイぬの「渚にて あの日からの〈みちのく怪談〉」のときにも書いたことだが、この演劇は、被災地において「被災した人々に寄り添い、こころを解放してくれるときとなりえていた…一種の鎮魂の儀式となりえていた」と思う。

 ああ、そうだ、この演劇作品は、一種の能として演じられたのだ。

 ところで、赤澤氏のご親戚が気仙沼にいらっしゃること、また役者の升ノゾミさんが、気仙沼駅前のますや食堂さんのご親戚であることは、ひとつの機縁ではあるが、この仙河海シリーズからの作品が、気仙沼において上演されないということはあり得ない、のではないだろうか。

 まさしくこの気仙沼において演じられる、ということは必然のことだ。

 たとえば、内湾に面したカフェ=イベントスペースであるK-portを会場に。

 期待したいところである。その際には、私もなんらかのお手伝いができればこのうえない。

 芝原弘氏は、いま、まさに、ここ東北において、さらに日本において、成すべきことを把握し、時を得ている、と思う。


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