ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

須藤洋平 赤い内壁 海棠社

2018-12-30 23:31:35 | エッセイ

 須藤洋平氏の詩は、エロでグロである。どこか避けて通ってきた。

 12月2日(日)、蔵王町の加川広重氏の第18共徳丸の巨大絵画の前で詩を読んできた際、ご一緒だった。須藤洋平氏は、南三陸町志津川の出身。もう一点の巨大絵画は、南三陸町の防災庁舎の残骸であり、かれは、そちらの巨大絵画の前で自作を朗読された。

 帰り際、私の詩集も読んでください、感想聞かせてください、と言われた。送っていただいたまま、机のうえに置きっぱなしになっていたので、どきりとした。

 24日月曜日の振替休日に、ようやく手に取った。手に取ったら一気に読めてしまった。

 「赤い内壁」とは、どこかのほんとうの建築物の内側の壁であるかもしれないが、まあ、こういう場合、大概は、内臓の内壁に決まっている。内臓の中でも特に膣である。内臓の肉質自体の赤であると同時に、どばっと噴出した血の赤であるにも決まっている。切った張ったの血か、月のものの血か。

 

 「偉大なものを信じるとき」の冒頭。

 

「父が死んだ翌朝、そそり立ったペニスを切り落とそうかと思った。

 キスもセックスも効力を失ったが、蛙なんて降らないし、蜜柑を

 投げつけてくれるものなんているわけないし、やっぱり、檸檬は

 爆発しない」(18ページ)

 

 このとおり、エロでグロである。この次の行では、案の定、「血が流れ」る。

 ところで、「檸檬が爆発する」と言えば、梶井基次郎の「檸檬」である。教科書にも載っていた短編小説。

 と思いながら読んでいくとその名の通り「檸檬」という詩が出てくる。「檸檬―定住者の瘡蓋―」第5連と第6連(最終連)。

 

「飛び降りてたまるか

 進むのさ、地下街の洪水を

 平積みされた書物の上に

 もう一度置いてくる

 冷たい檸檬を。

 

 丸善に紙キレが降る

 鋭い紙キレが亀の目玉に刺さるのだろう

 日差しのように刺さるのだろう」

 

 梶井基次郎の檸檬は、京都の丸善の本の山の上に置かれたが、須藤氏の檸檬は、東京の丸善だろうか、仙台のアエルの丸善だろうか。

 

 「雪」は、冒頭に西脇順三郎の詩集「Ambarvalia」所収の「雨」から「この静かな女神の行列が/私の下をぬらした」の詩行が引用してある。この詩も、教科書に載っていた。

 2連目途中から

 

「幸せは黒いのだ

 六人産み落としたわたしのアソコみたいに

 しかし、

 男は屋根を濡らすだろう

 石を濡らし、幹を濡らし

 やがて、

 わたしの喉をも濡らすだろう」(41ページ)

 

 須藤洋平氏の詩は、エロでグロだが、ただ単に生のまま放置されているわけではなくて、その力量によって文学的な枠組みの中に昇華して、一気に読み通せる作品となっているというべきだろう。文学的な営為である。

 楽しませていただいた。

 ところで、「BUS STOP」という詩は「西田朋へ贈る」と献辞が添えられており、発行者も西田朋、あとがきを見ても「親友の西田朋」とあり、この詩集の誕生には、宮城県詩人会の会員である詩人・西田朋氏が大きな役割を果たしているようである。西田氏もまた、蔵王町での詩の朗読に出演されていた。


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