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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

石原孝二 精神障害を哲学する 分類から対話へ 東京大学出版会

2018-11-14 20:32:01 | エッセイ オープンダイアローグ

 石原氏は、東京大学大学院総合文化研究科准教授で、哲学者である。科学哲学、現象学から、最近では、精神医学を哲学的に探究する方向で、2016年からはオープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)共同代表を務めている。

 先日参加してきた、9月23日(日)東大駒場キャンパスで開催の、ODNJPシンポジウム「オープンダイアローグと中動態の世界」に主催者、パネラーとして登壇されていた。

 パネラーとして、基調講演の國分功一郎氏、ODNJPの共同代表である斎藤環、高木俊介、そして、石原孝二氏と4名の方が壇上に並び議論を進められた。

 哲学者國分功一郎氏は、この日のメインの講演者であり、著書「中動態の世界」の行論を中心に語られ、ODNJPの共同代表である斎藤環氏は、精神科医、精神分析ラカン派の紹介者、文芸評論家であり、いまの日本を代表する著述家、思想家のひとりと言える立ち位置から語り、同じく共同代表の高木俊介氏は、精神科医にして、京都という地域において、ACT(Assertive Community Treatment=包括型地域生活支援プログラム)という活動に取り組んでいるという独特の立ち位置から語るということで、このお三方については、印象に残り、このブログの紹介においても、何事か語ったところである。

 しかし、石原氏は、いまひとつ明確に印象に残らなかった、というのが正直なところである。

 と、こう書くと、あたかも石原氏が、壇上におられたことがあまり意味のないことであったと評価しているというふうに誤解されるかもしれない。

 確か、司会進行は石原氏が務められたと思う。

 これは、非常に巧みに進行役を務められたということであり、見事なファシリテーターであったということの証左に違いない。石原氏以外のお三方が語る内容で、この日のシンポジウムの話題の広がりとしては、必要十分であるというふうに判断されたのではないだろうか。

 実は、この本を読みながら、当日の石原氏の立ち位置と本の内容が全く一致しているのではないか、と思われてきたのである。

 哲学とはこういうことなのではないか、と、あらためて気づかされたというか。

 私自身としては、一応哲学を学んだということで、最近では、哲学カフェなどと勝手に始めたりもしているのだが、哲学、心理学、精神分析、そして文学、また別に地方自治論というあたりが、中心の関心領域ということになっている。心理学も、歴史的には哲学の一分野として始まったということにはなるのだが、いまひとつ、それはそれ、これはこれ、というふうに分断されていたというか、むしろ、心理学が神秘なものから離れ、自らを科学として成り立たせようとするなかで、哲学から距離を置こうとし続けてきたというふうに言うべきなのかもしれない。

 さらに、精神医学の歴史について、特段、通史を読んだことがあるわけでもなく、精神医学史の教科書でも読めば何か書いてあったのかもしれないが、この本のように、こういう内容をまとめた書物にはこれまでお目にかかったことがなかった。

 哲学の中で、精神障害がどう扱われてきたかという歴史と、精神障害ということについて哲学的に見直すとどうなるのかということ、そういう書物として、初めて出会った書物かもしれない。

 哲学というと、難しくて専門的な狭い枠の中でのお話しとも勘違いされるかもしれないが、そういうことではない。すべての学問の基礎として、厳密さを追求するとき、どうしても難しい術語に入り込んでしまうきらいはあるのだが、さまざまな物事を見直し、考えなおしてみようという取り組みが哲学である、というふうに言えばよいのか。日常的な対話のなかにこそ哲学はあると言えばよいのか。

 このあたりは、また別に整理して述べてみたいところであるが、いまは、置いておく。

 哲学の中でとは、つまり、世界史の中でどういうふうに捉えられてきたのか、ということと同じことと言っていいだろう。精神障害というものがどう捉えられてきたのかを、通史的に理解することができたはじめての機会というか、整理のし直しがなされたというか。

 そういう中で、アリストテレスとかカントとかの歴史上の哲学者の行論については、それ自体が現在、役に立つというよりも、むしろ、批判するために取り上げたということなのだろう。あるいは、19世紀以降の近代精神医学の、「科学的な分類」志向への批判のためのよき材料となる部分がある、ということかもしれない。

 オープンダイアローグとか、当事者研究とか、現在の「対話」を重視する方向性の重要性を主張したいのだが、その前段として、慎重に、これまでの「分類」の志向を批判するというか。

 この本は、旧来の方法を最初から無視するのでなく、きちんと、通史的に捉えなおす試みを行った、貴重な試論である、と言っていいだろう。

 さて、「はじめに」は、下記のように書き始められる。

 

「本書は精神障害を「哲学する」こと、つまり、精神障害の意味を問い直すことを目的としている。」(ⅰページ)

 

 この本の副題は「分類から対話へ」というものであるが、それについても、下記のように記される。

 

「本書の副題「分類から対話へ」は、精神障害の客観的な分類を重視してきた近代の精神医学から、今日における、精神医学と精神科医療における対話を重視する方向性への変化を指している。現時点において、精神科医療における対話的アプローチが精神科医療に占める位置はわずかなものであり、当事者運動や当事者研究が精神障害者の捉え方に与えるインパクトもごく限定的なものにとどまっている。しかし、治療プロセスと研究プロセスにおいて当事者との対話の重要性が増していくという方向性は、揺るぎないものだろう。精神障害の分類自体がなくなっていくということはないだろうが、その位置づけは、大きく変わっていくものと思われる。分類をおこなうことが優先されるのではなく、当事者との対話プロセスにおいてその分類がどのような意味をもつのかが問われることとなっていくだろう。本書は、そうした転換の端緒を示すことを試みたものである。」(ⅲページ)

 

 というようなことで、一般的に読みやすく、広く読まれるような書物ではないのかもしれないが、私としては、大変にためになり、分かりやすい書物であったといえる。これから、オープンダイアローグとか当事者研究について読書し、学んでいくうえで良き羅針盤となりうる書物である。

 こういうことが、哲学の役割であろう、とも考えているところである。



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