ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

佐々木中「踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ」河出書房新社

2013-10-13 00:03:45 | エッセイ

  哲学者・作家佐々木中(あたる)の最新の講演・対談集。佐々木中は、ラップやクラブが好きな青年、でもないか。1973年生まれだから、私よりも17歳年下、40歳。不惑。津軽出身。

 私からしたら、充分な若者だな。

 彼の本は、これで三冊目。

 時代錯誤の文語体ふうの小説を書いて、衒学的で、漢字熟語が好きで、樋口一葉や坂口安吾の影響をうけて、ジル・ドゥールーズやらの哲学への造詣が深く、ラップを叫んで、ダンスを踊って、アジテートする。

 「クラブという場所はアートの場所であり、逆にそういう『既成のカッコよさ』を『ダサい』ものにしてしまう『何か』を新たにつくりだす、そういう力を持った場所です。」(13ページ)

 この講演集は、口頭で語ったものだけに、それほど、難解な言い回しは出てこない。しかし、決めゼリフは語る。

 さて、ここでいう「クラブ」は、その昔の「東京ナイトクラブ」とか、「サパークラブ」といったときのクラブではない。いまでも、その手のクラブは繁華街に溢れているはずだが、それとはまた別の最近の使い方での「クラブ」。

 イントネーションは違うのだが、字面では分からない。昔のクラブは、素直に頭の「ク」を高く言うが、最近のは、関西弁風に平らに言う。最近、なんでも、ひとの名前でも平らに言うのは、関西弁の影響だと私は思っている。東京は、このところ、案外、関西の影響が濃い。

 そのクラブだが、どちらにしろ、そもそも、気の合った仲間が集まって、おしゃべりをする場所というもともとの意味合いは言うまでもなく、夜、酒を飲んで、音楽があって(ムード音楽なのか、最近の黒人音楽なのか)、ダンスを踊る(チークダンスなのか、最近の黒人系ダンスなのか)場所というコンセプトは全く同一なので、どうも、言葉にして話すときには紛らわしい思いが避けられない。酒は、水割りかハイボールかとかいうと、昔の「トリス・バー」などというジャンルにおいては、水割りよりも以前にハイボールが主流で、いま、リバイバルしているわけで、さらに紛らわしいことになる。ああ、仕事として社交する女性が想定されているのかいないのかが一番の区別できるポイントか。

 そうそう、ぼくらの時代のディスコが、進化した形のクラブ、だな。ディスコっていうのは、巨大で、音響装置も金がかかって、企業的経営形態のものだったのが、もっと小さく、個人経営でもできる、というか、センスのいいカリスマ的店主が、個人的に隠れ家的に開く、みたいなニュアンス。ロック喫茶やらライブハウスとディスコが融合した形態というべきか。

 その昔、ディスコって言うと、東京の西半分では、相対的に深い音楽でおのおの自由にダンスしていたが、東半分では、軽い華やかな音楽でみんな揃って同じ振付で踊っていると馬鹿にしていたものだった。懐かしい。(というか、そういう差別意識を深く根に抱えている男なのだ、私は。)

 閑話休題。

 本のタイトルになっている冒頭の講演は、風俗営業法による規制の強化、解釈の変更による摘発の強化に反対する意図を持って語られたもののようだ。「クラブ」が、風営法の規制を受けるダンス・ホールであると。従って、夜の12時過ぎには営業できないと。

 昔々の(戦前、戦後の?)ダンスホールは、風営法による規制も必要な場所だったのかもしれないが、いささか、時代錯誤であることも間違いはない。

 さて、哲学者は、法の歴史を遡る。

 「人民によって制定された憲法は、統治を行ういかなる政府にも先行し、これを制定し、そして束縛する。ゆえに、いかなる恣意的支配もこれを禁じている。誰が?われわれ人民が、ですよ。ローマ法のもっとも深く古い原則は、人民全体が法的権威の終局的源泉であるという、このことだったのです。偉大なるローマ人の歴史的遺産は、これに尽きる。」(14ページ)

 憲法は、国民を縛るものではない。権力を持つ政府をこそ縛るものである。ときの政府は、ここをはっきりさせず、都合よく、国民を縛るものであると解釈しようとし、その解釈を押しつけようとする。

 「何度もいいます。われわれが法の担い手であり、権利の担い手であり、政府を法によって拘束しているのはわれわれなのです。その憲法に違反している法を守らなくてはならない、そんな謂れなんてない。(中略)だからこう言い返しましょう―『法を守れ。君たちこそ最上位の法を守れ』と。」(18ページ)

 「ここは単純に、簡単に行くべきです。ありもので行けるんだから、行けばいい。押しつけ憲法云々などという人は、もう論じたことがあるので一言ですませます。安吾でも読み直して来い。それだけです。」(18ページ)

 そうだな、坂口安吾はもういちど読み直して見よう。「堕落論」だろうな。佐々木中に教えられて、坂口安吾を読み返す。

 さて、ダンスについて。音楽家ジョン・ケージの有名な逸話(らしい)を引いて、ひとつも音がしない、漏れてこない無響室においても、実は、ふたつの音が聞こえてくるのだという。「担当のエンジニアにいうと、高い音は私の神経系統が働いている音で、低いほうは血液が循環している音だと教えてくれた。私が死ぬまで音は鳴っている。」(20ページ。ジョン・ケージ「サイレンス」からの孫引きとなる。)

 「われわれが生きているということは、音を鳴らしているということなんです。つまり、ダンスを『ある音に合わせてある身振りをとる』と定義したら、―われわれは常に踊っていることになってしまう。(中略)われわれは、もう踊っているのです。すでに、つねに、いつも。」(21ページ)

 「真の保守主義者の皆さん、真にこの列島を愛する皆さん、一緒に踊ろうではないか…(中略)われわれが太陽の光を浴びて暮せるのは、どうしてでしょうか。『古事記』と『日本書紀』によると、アメノウズメが踊ったから、です。半裸で、彼女は、(中略)アマテラスを、太陽を、光を再び呼び寄せるために、夜の中を「をどりくるひ」神々と笑い合ったのです。(中略)この大地に足踏んで生きる人間ならば、『われわれが夜を明かして踊るからこそ、この世界に朝が来るんだ』と思って欲しいですね。/この世界に光をもたらすのは、われわれのダンスなのだと。」(33~35ページ)

 佐々木中は、西洋史の始原近くにあるローマ法制史と、日本史の始原にある日本神話をあわせて引いて、論を張る。

われわれはダンスを踊り続けよう。屈服してはいけない。

 私の読書の始まりも古事記であり、日本書紀である。小学校五年生の時、岩波古典文学大系で。(その前には、宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」だった。私は当然、長く「邪馬台国九州説」に与しつづけた。)その後しばらくして、西洋哲学に進んだ。(その入り口を覗いただけ、というべきだが。)

 というわけで、この哲学者、作家は、ついつい読んでしまう、ということになりそうだ。相当に年下の、若々しい師。冒頭に「衒学的」とか書いたが不正確だな。東大の博士課程を出て、法政大学の講師をしているほんとうの学者だ。

 次は、何にしようか。「切りとれ、あの祈る手を」かな、それとも最初の小説という「九夏前夜」かな。(すべて、河出書房新社)

 「つねにわれわれは『陽気』で『歓ばし』く『踊る軽い足を持つ』『怪物』でなければならない。」(6ページ 序)そうだ。この『 』でくくられた言葉が、何の意味なのか、何故くくられているのか、何かからの引用なのか定かでないが、つねに私もそうありたいものだと思う。そういう存在に憧れる。


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