副題は、文学部唯野教授・最終講義。
筒井康隆は、小説家にして役者。SF作家だったり、少女小説家だったり、フリー・ジャズ・ピアニスト山下洋介ばりのスラップスティック作家だったりしていたわけだが、いつのまにか私好みの純文学作家ともなっていた。そういえば、蜷川幸雄かだれかの芝居に役者として出演したのを、いちど観ているな。
『虚航船団』とか、純文学化して以降は、何冊か読んでいる。その中でも『文学部唯野教授』は、私好みだった。私のために書いてくれた小説とすら思った。主人公はどこかの大学の哲学教授という設定だった。
ところで、「時をかける少女」の原作者であることは、ご存じのはず。私は読んでいないと思う。映画は、テレビで放映の際に観たと思う。「愛のひだりがわ」というのは読んだけれども、もいい小説だった。少女小説みたいなジャンルになるのだろう。詳しくは忘れたけれども。
で、この本は、1990年にカセットテープのかたちで発売された講演を文字化して、大幅に加筆修正したものとのこと。小説『文学部唯野教授』自体の発売も同じ年のようだ。『文学部唯野教授のサブ・テキスト』も1990年。こちらは小説ではなくて、哲学の本。劇中劇のように、小説中の唯野教授が、講義で使用するサブ・テキストという設定だったはず。楽しんで読んだ記憶がある。
「ハイデガーというのはご存じのとおり、二十世紀最大の思想家といわれているんです。
そのハイデガーが三十七歳のときに、一九二七年ですけれども、書いたのが、この『存在と時間』です。二十世紀最大の哲学書と言われている難解な本で…(中略)…ぎっしりと難しいことが書かれているんです。
…(中略)…ひとつ私のレベルで、いっしょにハイデガーを楽しんでいただきたいんです」(10ページ)
『存在と時間』は、実は、私は高校生の時に、岩波文庫版で読んでいる。難解であった。何が書いてあるのかちんぷんかんぷんだった。でも、なんとか読み通した。
読み通せば、なにか、分かるところはあるものである。
大学に入って、もういちど読んだ。高校の時よりは、分かったような気がした。
曰く「現存在」、「投企」、「世界内存在」、「共存在」、「配慮」とか「顧慮」、そうそう「道具」とは何かということ、「死すべき存在」とか。
筒井氏のこの本は、そういうようなことが、ごく分かりやすい話し言葉の形で書きとめられている。
じつは、私の読んだのは、岩波文庫版で、筒井氏によれば、たいへん分かりにくい翻訳ということのようだが、筒井氏が手元で参照しているのは、中央公論社版の「世界の名著」シリーズのものということで、訳語が少々違っているようだ。
で、筒井氏は内容としてどんなことを語っているのか、だが、それは読んでのお楽しみとしたい。
たとえば、「現存在」とは、現にここに存在しているわれわれ「人間」のことなのだが、その「人間」のことをなんでわざわざ別の言葉で「現存在」と言わねばならないのか?そこには、当然、理由があるわけである。ま、そんなこんなも含めて、読んでみてください。
そのうえで、興味を持った方は、ぜひ、『存在と時間』に進んでいただきたい。なにしろ「二十世紀最大の哲学書と言われている」本である、読んでみたいと思うひとは、読んでみて損はないと思う、たぶん。何種類かの翻訳が出ているようである。
私は、『存在と時間』を読んだ(翻訳のみではあるが)人生しか歩んでこなかったが、損はしなかったと思っている。
末尾には付録として、社会学者・思想家大澤真幸の解説がついている。「『誰にもわかるハイデガー』への、わかる人だけにわかる補遺」である。
「最初にはっきりと記しておく。唯野教授の「よくわかる」解説は、『存在と時間』の理解としてまことに正確である。…よくわかる上に、『存在と時間』のエッセンスをまことに的確に抽出している。…正直、私はたいへん感心した。」(96ページ)
「が、もっと驚いたことがある。…独特の語り口である。『存在と時間』というテクストをつきはなした、ユーモアを含んだ語り口。これは難しい。」(96ページ)
ま、そういうことで、お勧めである。元は、30年も前の講演である。『存在と時間』自体は、昭和初期、戦前の時代の書物である。
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