高橋源一郎は、各種の文学賞の選考委員を務めている。
高橋源一郎と言えば、アナーキーな作家みたいなイメージはあったと思うし、体制の外にいつづける、みたいなイメージはあったと思う。確かに、変な小説を書いている。
だから、なんとなく、賞の選考委員なんていうと、どこか似合わない、とも思ってしまうが、かれの小説家としてのキャリアは、群像の新人賞から始まっているわけだし、明治学院大学の大学教授でもある。似合わないなどというのは、ある種の偏見のようなものだろう。
でも、あ、そうか、このひとも芥川賞はとっていないのか。
現在、私の好きな作家というと、村上龍と村上春樹と山田詠美と高橋源一郎だと言っているが、芥川賞をとっているのは、村上龍だけなんだな。意外だ。そうだったのか。
さて、この本の冒頭は、「鎌倉に住んでいるので、よく海岸を歩く。」と始まる。
「海岸にはいろんなものが打ち上げられる。おびただしいゴミ、海草、貝殻の残骸、魚の亡骸。…(中略)…放っておくと、その中の多くは、また海に戻っていく。子どもが、その中から宝物を見つけようとして、残骸をひっくり返していることもある。でも、目ぼしいものはほとんどない。…(中略)…わたしたち脊椎動物の祖先…(中略)…どのくらいの数の「魚」が陸に上がったのだろう。おそらくは、そのほとんどは、波打ち際で、死んでいったにちがいない。生き残った、ほんとうにごく少数のものが、地上に定着し、やがて、現在のわたしたちになった。だとするなら、わたしたちは、波打ち際で生き残ったものたちの子孫なのだ。」(3ページ)
新人賞の応募作として書かれたものの大半は「ゴミ」なのだという。「とんでもないもの」ばかりだという。しかし、その中に、ほんのすこしだけ、後に小説として読まれうるものが混じっている。
「「新人賞」の選考を何度も重ねているうちに、ここは「波打ち際」ではないかと思うようになった。「海」から、いろんなものが打ち上げられてくる。「宝物」は……そんなに簡単には見つからない。どんなとき、どんな条件で、「海」から上陸することができるのか。そこには、小説や文学にとって、だけではなく、人間がかかわるものにとって極めて大切ななにかがあるように思える。」(5ページ)
高橋源一郎は「愛」に満ちた作家である。同時に、「愛」にみちた選考委員でもある。彼の「愛」に私も応えなくてはならないような気がしてくる。「小説」(あるいは、というよりもむしろ、それモドキの「とんでもないもの」)を書いて、どこかの新人賞に応募しなくてはならない気がしてくる。
というようなことで、わたしも、なにかそんなふうなものでも一丁書いてみようか、と勇気づけられる、ような本であるとは言える。
結構、ハウツーものとして役立つ本だったかもしれない。
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