東北旅行の最後に、中尊寺に行ってきました。実に40数年ぶりです。人ひと人・・・昔の風情は全くありません。世界遺産になったのだから致し方無いのかも・・・。
初めて訪れたのが、昭和42年頃、今東光さんが貫主に就かれた頃(1966年5月中尊寺貫主に晋山)です。記憶も全く曖昧で、国宝金色堂の「昭和の大修理」の修理中か直後だったと思います。修理中であればたぶん拝観は出来ないはずですから、きっと修理後だったと思われます。国宝に指定されていたとはいえ、月見坂を歩いてもすれ違う人も疎らだったと記憶してます。
旧覆堂
中尊寺には多くの仏様がいる。金色堂の仏様といえば、阿弥陀如来である。一緒に六地蔵が祭られている。金色堂以外では大日如来・薬師如来が目についた。薬師如来は現世利益的で「病気治癒」を願う仏様である。阿弥陀・薬師以外にも多くの如来があるが、如来の頂点に立つ如来が求められて生まれたのが大日如来であろう。折しも「一字金輪佛頂尊」という秘仏大日如来が御開帳されていた。 藤原道長の平等院鳳凰堂にも阿弥陀如来と大日如来とが祭られているとか・・・。平等院はまだ見ていないから、4年後まで生きなければイカンな。
権力者(成功者)はいつまでも続く「権勢と健康」を求めるが、いつかは人は死す。そこで死した後「極楽浄土」に往生し、永遠の命を求めることになるのだろう。現代もある浄土系の宗教に集う「この世的成功者」達がいるが、平安時代の「成功者」達も、「いつまでも」を求めて、薬師如来に今を願い、権勢を欲しいままにと思うのか大日如来を祭る。だが、人は皆死ぬ。永遠を求めて阿弥陀如来に縋ることになる。後ろめたさが有るのか、地獄に落ちてしまったらと恐怖を感じ、もし地獄に落ちても助けて戴けるようにと「保険的意味合いで」六地蔵を祭る。人間とは身勝手なものだ。
阿弥陀様の別名に無量壽仏がある。「壽(寿)」とは「いのち」という意味であり「無量壽(寿)」とは「永遠の命」とでも言えるだろう。結婚式に「寿」を記すのは、自分の命が子・孫・ひ孫・・・と永久に続く事を祈って記すのだろう。
宗教も貴族から武士へ、そして庶民に広がっていくが、この世の無常を考えれば「永遠のいのち」を求めるのは、人として当然の成り行きなのだろう。法然さんの浄土宗、親鸞さんの浄土真宗など、阿弥陀様を本尊とする浄土系の宗派は多く有るが、薬師如来を本尊とする宗派は知らない。お医者様に縋り、ぽっくり逝けるようにと願をかけ、極楽に往生できるようにと、最後は諦めの境地のように思う。お葬式は極楽行きの「大乗」に乗せるための儀式となっている。
今回の大震災で本当に多くの方が亡くなられた。極楽浄土が本当に有って欲しいものだ。そこには震災で亡くなられた方々が楽しく暮らしていると思いたい。