どぶろくを頂きました。その名も「ど」。実に明快で簡潔な名前です。元々は「どぶ」だったそうですが、某行政機関からこれではどぶろくそのものではないかとクレームが付き、「ど」と改名に至ったとか。まあ、どぶでは何か臭ってきそうで不味そうですから「ど」でいいのでしょう。どぶろくは濁酒、または獨酒と書きますが、日本酒(清酒)の醸造の中途段階のもろみを搾っただけの、白く濁った酒。澄んだ清酒に対してそう呼ばれるわけですが、歴史は相当に古いようで、三世紀ごろには既に作られ祭礼用に使われていたようです。
今は、酒造免許がなければ、どぶろくは作れませんが、昔は、どこの農家でも自家用のどぶろくを作っていたものです。私の実家もそうだったと聞いています。また酒造免許も持っていたので、明治・大正時代には葡萄酒を作って売ってもいたそうです。昔のように酒税が国の税金の主なるものではないのですから、自家用にどぶろくを作るぐらいは法改正して認めてもいいのではと思います、酒造も庶民の文化ですから。
さてこの「ど」ですが、秋田の地酒蔵、白瀑(しらたき)の大ヒット商品らしいです。なるほどまず芳香がすばらしい。五月の水田を分けて吹き抜ける爽涼な風という感じでしょうか。濃い割には飲み口がすっきりしてキレがあります。なにより発砲しているので喉ごしが軽やか。気が付くとくいくいと何倍も飲んでしまいます。
肴ですが、やはり濁り酒なので白身の刺身よりは、もっとこってりした物が合いそうです。桜鍋なんかはピッタリでしょう。やや甘めの濃い味付けの料理が合いそうです。タラコや貝ひもの甘辛く煮付けたものなんかもいいでしょう。これからは苦味のある山菜も最高ですね。
さて、そんな「ど」をちびちびやりながら、買ったばかりの戦国哀歌川中島の戦い「甲越信戦録」岡澤由往訳 龍鳳書房を読み始めました。この書は、江戸後期、文化七年(1810)以降に、信州は川中島地方の者によって書かれた著者不明のものです。いわゆる史書ではなく戦記物語です。それ故史料としての価値は低いのですが、読み物としては非常に面白く優れたものなのです。
その底には、戦乱に巻き込まれて犠牲になった多くの里人や兵士達への鎮魂の重いが流れているからだと思います。大河ドラマや戦国小説は、戦国大名を英雄として扱い美化しますが、その実像は、欲にまみれ非情な残虐さを持ち合わせたものであったはず。また、地元に住む者でなければ分からない地名などの細かな記述や、伝承が書かれていて、それも興味を惹かれるところです。大河ドラマとは異なる山本勘助についての記述も面白い。しかし同時に、上杉謙信、武田信玄両雄共に12年にもおよぶ長い無益な戦い(有益な戦いがあるかは疑問ですが)を続けたことによる信濃人民の疲弊と絶望は、想像するに計り知れない奈落の底へと突き落としたに違いないと思うのであります。
著者は、-平和の尊さと、戦争の空しさ、人を思う心の大切さを現代の世相と重ね合わせて、ぜひ感じ取っていただければと願い、稚拙な現代語訳文を綴った次第である。-と前分の最後に書いています。
川中島合戦の舞台となった妻女山や清野氏の鞍骨城などについては、モリモリキッズのフォトドキュメントをご覧ください。
今は、酒造免許がなければ、どぶろくは作れませんが、昔は、どこの農家でも自家用のどぶろくを作っていたものです。私の実家もそうだったと聞いています。また酒造免許も持っていたので、明治・大正時代には葡萄酒を作って売ってもいたそうです。昔のように酒税が国の税金の主なるものではないのですから、自家用にどぶろくを作るぐらいは法改正して認めてもいいのではと思います、酒造も庶民の文化ですから。
さてこの「ど」ですが、秋田の地酒蔵、白瀑(しらたき)の大ヒット商品らしいです。なるほどまず芳香がすばらしい。五月の水田を分けて吹き抜ける爽涼な風という感じでしょうか。濃い割には飲み口がすっきりしてキレがあります。なにより発砲しているので喉ごしが軽やか。気が付くとくいくいと何倍も飲んでしまいます。
肴ですが、やはり濁り酒なので白身の刺身よりは、もっとこってりした物が合いそうです。桜鍋なんかはピッタリでしょう。やや甘めの濃い味付けの料理が合いそうです。タラコや貝ひもの甘辛く煮付けたものなんかもいいでしょう。これからは苦味のある山菜も最高ですね。
さて、そんな「ど」をちびちびやりながら、買ったばかりの戦国哀歌川中島の戦い「甲越信戦録」岡澤由往訳 龍鳳書房を読み始めました。この書は、江戸後期、文化七年(1810)以降に、信州は川中島地方の者によって書かれた著者不明のものです。いわゆる史書ではなく戦記物語です。それ故史料としての価値は低いのですが、読み物としては非常に面白く優れたものなのです。
その底には、戦乱に巻き込まれて犠牲になった多くの里人や兵士達への鎮魂の重いが流れているからだと思います。大河ドラマや戦国小説は、戦国大名を英雄として扱い美化しますが、その実像は、欲にまみれ非情な残虐さを持ち合わせたものであったはず。また、地元に住む者でなければ分からない地名などの細かな記述や、伝承が書かれていて、それも興味を惹かれるところです。大河ドラマとは異なる山本勘助についての記述も面白い。しかし同時に、上杉謙信、武田信玄両雄共に12年にもおよぶ長い無益な戦い(有益な戦いがあるかは疑問ですが)を続けたことによる信濃人民の疲弊と絶望は、想像するに計り知れない奈落の底へと突き落としたに違いないと思うのであります。
著者は、-平和の尊さと、戦争の空しさ、人を思う心の大切さを現代の世相と重ね合わせて、ぜひ感じ取っていただければと願い、稚拙な現代語訳文を綴った次第である。-と前分の最後に書いています。
川中島合戦の舞台となった妻女山や清野氏の鞍骨城などについては、モリモリキッズのフォトドキュメントをご覧ください。
戦記もので思い出すのは時代はずーっと下って大岡昇平の「俘慮記」「レイテ戦記」「野火」です。自らの従軍の体験をもとにした鮮烈で重厚な筆致であの大戦の一側面を的確にあぶり出した名著だと思う。しかし、あれを読んでいて思ったのは京都の帝大の学徒で召集されたインテリである筆者の日本兵に対する描写があまりにも姑息で卑怯な小市民的存在として描かれている事です。一兵卒として召集されビルマのインパ−ル作戦に従軍し命からがら帰って来た父を持つ身としてはなにもそこまで貶めて書かなくてもと思ってしまうのです。
戦記物というのは、どうしても英雄話しになってしまうものがほとんどですね。「甲越信戦録」は、地元の人間が書いているので、里人の思いもよく分かるのだと思います。信玄、謙信の和睦交渉が決裂したときに、集まった村人達が、また戦か今度はどこの山に逃げようかとか落胆して去っていった、というようなことも書かれています。
また、信玄は仁(思いやり)なきによって滅び、謙信は仁あって栄えているとも書いています。最近の二世三世議員や官僚やらの体たらくを見ていると、その仁がないのではと思えてなりません。
伊那の方で馬肉を入れたコロッケ、その名もバロッケちゃんを売り出したそうです。この頃長野県の南信地域は「南信州」ブランドを立ち上げて地域活性化に意欲的です。県の公共施設が北信地域に集中しているので、本当は名古屋あたりへの方が便利だし近いんではないでしょうか?
「甲越信戦録」では、上杉軍は善光寺から川中島ではなく、川田から尼厳山と奇妙山の間の候可(そろべく)峠を越えて、東条から関谷川を渡り、象山の法泉寺北の多田越えをして妻女山に陣を布いたとあります。兵は山の上だけでなく、赤坂、月夜平、岩野十二川原、笹崎にまで置いたと書かれています。眼前に千曲川があるので、そういう布陣も可能だったのだと思われます。
いずれにしても里人には、12年もの戦は大迷惑だったろうと思われます。
馬肉コロッケのレシピは、「マリンレシピ」の日本料理にもありますよ。なかなか美味です。桜串カツも旨い。