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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

斎場山と妻女山を中心とした旧岩野村と旧清野村の字と小字名。「川中島の戦い」と「古代科野のクニ」(妻女山里山通信)

2024-05-28 | 歴史・地理・雑学
 斎場山(旧妻女山)と妻女山(旧赤坂山)を中心とした旧岩野村と旧清野村の字と小字名をまとめてみました。斎場山は川中島の戦いで上杉謙信が最初に本陣とした山頂で古墳(円墳)です。また古代科野のクニの遺跡です。かなりローカルでマニアックな内容ですが、「川中島の戦い」や「古代科野のクニ」を知る上では極めて重要なことなのです。

 長野電鉄河東線の記述があるので1922年(大正11年)以降の地図です。妻女山と招魂社は清野村に属することが分かります。次の地図では岩野に属する様に変わっています。陣場平は岩野ですが、これも清野に変わっています。岩野側の字名が妻女で、清野側の字名が妻女山。これも地名の混乱の元となっています。御陵願平(ごりょうがんだいら)は竜眼平(りゅうがんだいら)と記されていますがこれは御陵願平の陵願が竜眼に転訛した俗称です。また天城山(てしろやま)に倉科坂とありますが、反対側の倉科へ行く時に登る坂という意味です。地図中央やや左の堤防に川式(敷)という字名がありますが、これは旧千曲川の河道の跡で妻女山にぶつかっていました。高速でなくなりましたが、昔はそれを示すヒビ池(蛇池)という池がありました。御陵願平の南側の斜面に字名の記載がありませんが、土口村誌には字北山とあります。

 1986年(昭和61年)のゼンリンの地図。妻女山と招魂社は岩野側だと分かります。会津比売神社は合津と間違えています。斎場山は記載がありません。ということで私は斎場山の名前復活の活動を始めました。グーグル・マップにも記載されるよう申請して現在はあります。高速道路がまだ無いので、会津比売神社の横から東へ道が続いていました。現在は高速をくぐるトンネルがあります。岩野村の妻女のノケダンは野毛壇。崖と平らな壇という意味です。

 旧岩野村、清野村、西条村の字名と小字名です。〔〕内が小字名。明らかな間違いもあります。清野山の妻女山にチゲ窪とありますが、千ゲ窪が正しい。千ガ窪、千人ガ窪ともいいます。上杉軍が千人の兵を隠したという故事からの命名です。笹崎の御陵安平は御陵願平が正しい名称。転訛して龍眼平とか両眼平とか。長野市は中心部でも字や小字が残っていますが、使わないところは廃れてしまっているでしょう。畑の名前で残っている場合もあります。カタカナで書かれているものは、漢字が想像できるものもありますが、これはなんだろうと思わせるものも。地名には歴史が詰まっているので面白い。安直にディベロッパーが光ケ丘とか名付ける愚かさが分かります。

 明治13年の埴科郡誌から岩野村。岩野は昔、斎野であった。それは斎場山に由来すると記されています。それが上野(うわの)村となり、江戸時代に岩野村へ。岩など無く砂地なのになんとセンスのない命名かと。せめて本来の意味をとって祝野村とすれば良かったのに。妻女山といい松代藩にネーミングのセンスが無かったのが悔やまれます。土口村誌には、斎場山(さいじょうざん)について、「また作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり。」とあります妻女山(さいじょざん)では読みが違ってしまうためでしょう。

 岩野村の続き。斎場山について記しています。斎場山一帯が上杉謙信の陣営跡であるということも。物産の動物の繭は養蚕が盛んだったから。植物に米が無いのは砂地で水田が無かったから。サツマイモを大量に栽培していたことが分かります。ブドウも。我が家の祖先は酒造免許を持っていて、葡萄酒を作って売っていたそうです。

 清野村。土豪の清野氏は源氏村上の系統で、川中島の戦いでは親子で敵味方に分かれて一族の存続を図りました。清野氏の鞍骨城跡は山城マニアに人気の山で全国から訪れます。12月の積雪前か4月の芽吹き前に登ることをお勧めします。当ブログでも何度か紹介しています。豊臣秀吉の国替えにより、清野氏を含め善光寺平の土豪は家族家来を含め全員が会津へ行きました。海津城は、もともと清野氏の清野屋敷・禽(とり)の倉屋敷があったところです。
 『埴科郡誌』や『更科郡誌』などの明治の地方史誌は、もっと注目されていいものです。明治34年発刊の『信濃寶鑑』全3巻や、大正元年(1912年)から同3年(1914年)にかけて全5巻に別けて刊行し、新編信濃史料叢書」全25巻として再編され、昭和45年(1970年)から同54年(1979年)にかけて刊行された『信濃史料叢書』も後の『長野県史』につながるものであり重要です。また、松代藩の『真武内伝』や松本藩の『信府統記』、俳人の瀬下敬忠が宝暦3年(1753年)に完稿した信濃国の地誌『千曲之真砂』なども長野県の歴史を知る上で欠かせないものです。

 地形図において妻女山の名称が指す山が移動してしまったことが分かる地図2枚。左は昭和43年(1968年)発行のもの。妻女山は斎場山の場所を指しています。右は昭和58年(1983年)発行のもの。妻女山は現在の地形図と同じく旧赤坂山を指しています。この一件で赤坂山が妻女山となり、斎場山は名無しになってしまったのです。そこで、斎場山という本名を復活させるべく活動を始めました。長野郷土史研究会の会誌に「妻女山の真実」という小論文を載せてもらったり、ブログで何度も発信し、拙書にも斎場山を入れました。またグーグル・マップにも掲載を申請し記入されました。斎場山という名が徐々に知れ渡る様になり今に至ります。自然地名というのは重要な文化遺産なので大事にしなければならないのです。

「河中島合戰圖」小幡景憲彩色。武田の軍学書『甲陽軍鑑』の編者。斎場山南の陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。合戦後50年位(1610年頃:江戸時代初期)に描かれた絵ですから布陣の位置の正確な描写は無理としても、その内容はかなり正確かも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたのではないかと思われます。数ある川中島合戦戦国絵図の中でも最も信憑性の高い一点だと思います。この絵図は、東北大学狩野文庫に所蔵されているもので掲載の許可を得ています。

「川中島謙信陳捕ノ圖」一鋪 寫本 榎田良長彩色。南が上です。妻女山という名は戦国時代にはありません。斎場山です(誤って西条山と)。妻女山は江戸幕府の命令で作られた正保4年(1647)年の「正保御国絵図」には妻女山と記されています。慶長9年(1604)の「慶長国絵図」では信州は現存しません。赤坂山の下に蛇池がありますが、千曲川旧流の跡です。戦国時代はここにぶつかって流れていたのです。そのため斎場山は天然の要害に囲まれていたというわけです。蛇池は、高速道路ができるまでありました。

妻女山の真実 ー妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である。ー
岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)

真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

好評だったブログ記事:「ブラジルへの郷愁」レヴィ=ストロース 川田順造訳 みすず書房。文化人類学、また構造主義におけるバイブルのひとつ(妻女山里山通信)は、都合によりリンク先の楽天ブログに移転しました。

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