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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

松代藩の祖 真田信之の御霊屋と墓所のある長国寺へ。真田宝物館へも(妻女山里山通信)

2018-02-18 | 歴史・地理・雑学
 松代藩の祖、真田信之の御霊屋と墓所のある長國寺(長国寺)を取材で訪れました。到着直後から雪が振り始め、雪中の撮影となりましたが、趣がありそれは素晴らしいものでした。『真田丸』放映の年は、全国から拝観者が大勢訪れたそうです。
「天文16(1547)年、信濃国の在地領主であった真田幸隆が、畏敬する伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山第一世に招き、一族の菩提寺として松尾(現・)城内に「真田山長谷寺(しんでんざんちょうこくじ)」を建立しました。その後、永禄7(1564)年に松尾城外へと移され、本格的な禅寺として諸施設を整えました。江戸幕府が開かれると、幸隆の孫にあたる真田信之は上田藩主となりますが、元和8(1622)年の松代移封にともなって現在の場所へと移転し、寺号も「長國寺」(國は国の旧字体)と改めて、今日にいたっています。」(長国寺サイトより)

(左)山門の前にある「長国寺の鶴」の民話。(中)総門。(右)長国寺本堂。六文銭が。

(左・中)本堂の左右の木鼻の振り向き獅子。友人の宮彫り研究家によると、長国寺本堂の木鼻の木彫と向拝部の彫物は、北村喜代松、直次郎(四海)親子のものとか。正面蟇股の裏に刻銘があるそうです。また、本堂の内部には彼らの作った寺額、欄間があるそうです。私が持っている北村喜代松の本で確認しました。彼の木彫は、諏訪立川流や大隅流の様式化が完成されたものと比べると荒削りな感じがしますが、実はそうではないのです。より先鋭的で細く深く欅の特性を知り尽くし、その限界の造形を追求したといえます。諏訪立川流や大隅流に比べると非常に動的でダイナミック。個性的です。(右)山号として真田山(しんでんざん)の文字。

 本殿と境内の風景。雪がちらつき始めました。拝観料は300円。ですが、受付の入り口に「しばらくお待ち下さい」の表示が。しかたなく一人で御霊屋へ。黒い木製の塀で囲まれているので中に入れません。

(左)坐禅堂。修行の根本道場。(中)宝冠文殊菩薩。(右)昭和35年建立の戦没者慰霊堂の放光殿。

(左)恩田木工の墓所。松代藩六代藩主・真田幸弘の時代に藩政改革を行い、宝暦12(1762)年に46歳で没しました。彼の業績については過大評価であるとか色々評価が別れるようです。(中)元々は三代真田幸道公のために享保12(1727)年に建てられた御霊屋です。明治5年(1872)に同寺が伽藍諸堂を焼失したため、同19年(1886)本堂再建の際、この霊屋を現在の場所に移築して開山堂としたものです。(長国寺サイトより)(右)松代藩初代藩主真田信之の御霊屋の門。一般の人はここからは入れません。撮影していると男性が一人出てきました。そして受付に連れて行ってくれました。案内のお爺さんがいました。う〜むこの木札は問題ですね。他にも途中で帰ってしまった拝観者がいましたから。拝観料は300円。参拝者は無料です。

 それで案内された雪の舞う真田信之公の御霊屋。黒い建物は、松代藩の流儀なのだそうです。
「万治3(1660)年に建立された、松代藩祖・真田信之の御霊屋(おたまや)です。桁行3間、梁間4間の入母屋造り平入り、屋根は柿葺き(こけらぶき)の壮麗な建築です。いたるところに透かし彫りや丸彫りが施され、なかでも正面の唐破風の雌雄の鶴は左甚五郎作と伝えられています。内部の格天井には狩野探幽筆と伝わる天井画、奥に禅宗様仏壇を据え、現在は信之公と小松姫御夫妻の位碑を安置しています。国指定重要文化財に指定されています。」(長国寺サイトより)

(左)左甚五郎作と伝わる二羽の鶴。あくまでも里俗伝ですが。どうなんでしょう。(中)正面の左右の木鼻の木彫。左は唐獅子。右はおそらく麒麟でしょう。(右)軒下の鮮やかな木彫。松に椿でしょうか。

(左)御霊屋の拝観料は、500円です。案内のお爺さんが開けようとするのですが、何度やっても開きません。しかたなく真田家の墓所へ。(中)御霊屋裏手の真田家十二代までの墓所。(右)初代信之公の墓所。大明神の位を授かっているので鳥居があります。墓は何度か修復した痕跡が見られます。

 さて戻って御霊屋ですが、鍵が開きません。まあ江戸時代の鍵の構造なんてたかが知れていますし構造も想像できたので、「あのう、私がやってみましょうか」といってやると一発で開きました。やれやれです。
 御霊屋内部は畳敷きで荘厳豪華です。許可を得て撮影しました。これらの文様や木彫には全て意味があります。単なる思いつきのデザインではありません。ひとつひとつに全てメッセージが込められているのです。欄間に彫られているのは、孔雀でしょうか。御霊屋は、元々は五棟あったそうです。色々事情があり移譲されたとか。

(左)格天井。狩野探幽の作と伝わるものですが、里俗伝です。(中・右)左右の絵は、松代藩の御用絵師の作といわれています。

 上は梁を支える肘木ですが、描かれている文様が非常に不思議です。モールス信号の様な破線は何を意味するのでしょう。易経の八卦とも違いますし。肘木の下に掛かっている金属製の透かし彫りも初めて見ました。左右の花は菊でしょう。下には武田の四つ菱かと思われる様な文様もあり、興味深いところです。あるいは亀甲に花菱? 真田家の家紋は「六文銭(ろくもんせん)」「結び雁金(かりがね)」「州浜(すはま)」です。ちなみにモーニング娘。18の羽賀朱音ちゃんと世界的アコーディオン奏者のcobaと私の母校の松代中学の校章は結び雁金です。

 その下の欄間の木彫。孔雀かな。孔雀は仏教では鳩摩羅天という天部の乗り物です。中国で、聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)。つまり鳳凰(ほうおう)かもしれません。麒麟・亀・竜とともに四霊(四瑞)と呼ばれました。白い枠からはみ出た頭や羽など、構図感覚も秀逸です。いったい誰の作なのでしょう。これらも左甚五郎でしょうか。

 雪が激しくなってきました。案内のお爺さんはちょっと体調が良くないそうで、そんな中色々お話を聞けて有難うございました。真田宝物館へ向かいます。

(左)善光寺地震の図。中央が山体崩壊した虫倉山。(中)松代城の周囲。左は妻女山山系。上の茶色は土石流に襲われた所。作者不明。(右)松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、120日間をかけて「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)を描き上げました。伊折村太田組とは、現在の長野市中条太田地区のことです。地震当時、虫倉山が大崩壊して太田組11戸54人が犠牲になりました。
『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信):コメント欄で青木雪卿重明のことが分かると思います。名主をしていたわが家の祖先と幼馴染で親友でした。
善光寺地震

(左)太田組11戸54人が犠牲となった山崩れの図です。現在も林内には大きな岩が残っていますが、下の斜面は段々畑の水田となっています。(右)雪に煙る松代城。本当の春が待ちどうしい信州です。

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本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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