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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

松代の祝神社と皆神山の皆神神社(熊野出速雄神社)へ参拝と撮影に行った小春日和の好日(妻女山里山通信)

2017-12-07 | 歴史・地理・雑学
 小春日和の日曜日、真田十万石・松代のお諏訪さんと親しまれている祝(ほうり)神社と皆神山の皆神神社(正式名称は熊野出速雄神社)へ行きました。祝神社は、延喜式内社埴科郡五社の一つで千年以上の歴史があります。『埴科郡誌』によると、元々は屋代の須々岐水神社が本来の式内社・祝神社であったそうですが、諏訪大明神と呼ばれていた現在の祝神社は、宝暦元年(1751)に祝神社と改称されました。松代城のお膝元ですしね。

(左)真田宝物館に駐車して歩いて祝神社へ。10分足らずです。神社の大鳥居。抜けるような青空。中学校のときに友人たちとお祭りの時に来た以来の参拝です。型抜きをしましたね。双頭の蛇の見世物では、いつまでたっても出てこないので餓鬼共が騒ぎ出して親父が困っていました。ガマの油売りも来ていた記憶。(右)これは本殿の左脇にある八幡社(應神天皇)・天神社(菅原道真公)・伊勢社(天照大御神・豊受大御神)の合社の木彫。本殿の看板によると諏訪立川流のものらしいのですが、作者は不明です。モチーフは獅子と牡丹でしょうか。見事です。

(左)左の木鼻の象と獅子の木彫。(右)獅子を別角度から。獅子の方が風雨に当たるので風化が進んでいます。

(左)右の(木鼻の象と獅子の木彫。右)獅子を別角度から。諏訪大社とは異なり、眼に銅板ははめ込まれていません。

 本殿の拝殿。鬼瓦などに六文銭が見えます。今もお諏訪さんと呼ばれています。祭神は、生魂命(いくたまのみこと)健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)八坂斗売命(やさかとめのみこと)。慶長3年(1598)に、生魂命は東条から、健御名方富命八坂斗売命の諏訪二神は海津城二の丸から合祀されました。二度の大火に遭っていて、現在の社は、文化9〜12年(1812〜15)の造営です。入母屋造、桟瓦葺、妻入、正面向拝は唐破風。諏訪社なので後方に二本の御柱が見えます。

(左)龍ですね。(中)木鼻には獅子。(右)雲流ですかね水流ですかね。

(左)本殿。銅板葺きの二間社流造り。(中)遠くて見にくかったのですが正面は龍。木鼻には外向きに象、内向きに唐獅子。(右)脇障子は梅に鷹かと思いましたが、拡大するとこれは梅ではないですね。なんでしょう。鷹と松でしょうか。

(左)宗方社。祭神は、宗像三女神・国家鎮護の神・治水水運の神・漁業守護の神。(中)覆屋の内部の本殿。なんか新しい。塗り直したのでしょうか。(右)境内の図。他に稲荷社、西宮神社(恵比須神社)、猿田彦社など。

(左)真田宝物館に戻りました。公園の南に象山と戸神山脈。小春日和の公園で幼女が隠れんぼをしていました。皆神山に向かいます。(中)南の平林から登っていくと岩戸神社。円墳です。(右)皆神山の南の豊栄を治めた大王の墓でしょう。皆神山を拙書に載せなかったのは、平林の登山口に駐車場がないからです。大日池には3台ほど駐車できますが、そこまで行く道が狭く標識もないのです。ここはなんとか改善して欲しい。

 皆神神社の広場から望む仁科三山。うららかな日で大勢のハイカーや歴史好きが訪れていました。釧路産の焼き鯖寿司と豚汁で昼餉。寒風もなく、なんともゆるゆるとした贅沢なお昼でした。皆神山は、標高659メートルの30~35万年前にできた溶岩ドームです。ピラミッドなんかじゃありません。麓からの比高は280mほど。合祀されて神様の集合体ですが、別に特別なパワースポットでもなんでもありません。神聖な場所ではありますが。
 皆神山については、以前も記しましたが、1965年(昭和40 年)8月3日から約5年半もの間続いた、世界的にも稀な長期間にわたる松代群発地震の震源地のほぼ中心でした。有感地震は6万2826回、あまりに長期に渡ったためノイローゼになる住民も出たほどです。幸い死者は出ませんでしたが、怪我人や家屋の倒壊はありました。近所の古民家の屋根瓦が全て落ちたり、土塀が倒れたりしました。震度5の時に太い梁が抜けて白い部分が見え、あと5センチずれたら家が壊れるという状況がありました。
 私も目撃しましたが、地震時の宏観現象として皆神山や妻女山などの発光現象があり、大きな話題になりました。このような目撃例は安政の大地震など古くから目撃例があり、岩盤の崩壊による放電が原因のようで特に珍しいことではないそうです。また、この群発地震で山は1m高くなったということです。
 皆神山付近には低重力域があり、地下には、縦800m、横1500m、高さ200mのマグマ溜りが起源と考えられる空洞があって、地下に巨大な貯水池があると推定されています。皆神山溶岩は150m程度の厚さがあることが確認されていて、その下に湖水堆積物が見つかっています。また、山頂には川の跡の河床礫が見られます。
 つまり溶岩がまだ地上に出る前は、ここは池や川があったということです。地蔵峠から流れ出る蛭川と藤沢川が、現在山のある一帯で合流していたのでしょう。山頂に泉があるのも豊富な地下水脈があるからと理解できます。皆神山を形成した溶岩は極めて粘性が強く噴火したり流れ出したりせずに、そのままプリン状に固まったと考えられています。
 ノイローゼ患者が出るほど長期に渡った松代群発地震は、最終的に大量の深層地下水湧出という事態になり、火山性群発地震という当初の想定が、水噴火群発地震であったとの考えに変わりました。しかし、最新の学説では地殻の継続的な変形による応力速度の上昇によって説明できることが分かったということです。

 魚眼レンズで撮影するとこんなです。真上の空は宇宙を感じるほどの深い群青色でした。プルシアンブルーと言ってもいいかな。左向こうの山脈は。妻女山から鏡台山へ続く戸神山脈。下の舗装路の上から二番目の道を右へ10分ほど下ると、後述の小丸山古墳です。

(左)皆神神社の山門。(中)右脇の長野市指定の天然記念物クロサンショウウオが生息する池。(右)菅原道真公を祀った天満宮。

 皆神神社。正式名称は、熊野出速雄神社。本殿は、天保14年(1843)起工、弘化3年(1846)に竣工。木鼻と懸魚(げぎょ)は消失しています。盗まれたのでしょう。会津比売神社や妻女山松代招魂社の木鼻も、韓国人の窃盗団によって盗まれたといわれています。
以前書いた記事をリライトして再掲します。
 皆神神社は、大国主命の子で諏訪大社の祭神・健御名方命(たけみなかたのみこと)の子・出速雄命(いずはやおのみこと)が祭神で、熊野出速雄神社ともいいます。(本殿は室町時代のもので長野県指定県宝)本来は出速雄神社で、熊野信仰は中世に加えられたものです。
 出速雄神は、貞観二年(860)二月に信濃国従五位下の位を授かっており、斎場山(旧妻女山)の麓にある會津比賣神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと)が御子といわれています。會津比賣神は、貞観八年六月に妹の草奈井比売命と共に従四位下を授かっています。これは上から八番目の非常に高い位です。
 その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)四月に従五位上に、元慶二年(878年)二月に正五位下を授くとなっています。『日本三代實錄』

 出速雄命の父、健御名方命は、大国主命の子ですから出雲系。出速雄の出は、出雲の出。出雲=伊豆毛(日本書紀)=伊都・伊豆志=伊豆。イヅ=厳で、斎み清めること。『古事記』のみに記されている伊邪那岐命の禊(みそぎ)によって生まれた神々のひとり、伊豆能売(いづのめ)神が元でしょうか。伊豆能売を祀る神社は現存しないため「埋没神」ともいわれています。
 会津とは、崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。大彦命は東征の後で、長野市篠ノ井の茶臼山動物園の下の長者窪という所に住み、薨去したと伝えられています。彼の功績を讃えて父出速雄命は娘に会津比売とつけたのではないでしょうか。

 皆神山の小丸山古墳が出速雄命の、斎場山古墳が會津比賣命の墳墓ではないかという説があるのです。しかし、古墳様式から推察される年代、及び発掘調査から、古墳は5世紀のものといわれているので、両命の墓ではないかもしれない。あるとすれば、もっと古い年代の前方後円墳などではないでしょうか。古墳の推定年代は、かなり曖昧だと思いますが・・。
 小丸山古墳は、ずっと下って飛鳥時代の第三十四代舒明天皇(在位:629-641)の皇子・古人大兄命(ふるひとおおえのみこと)の墳墓ともいわれており、大化の改新に至る皇位継承争いの末に吉野を逃れてこの地に落ち延び、皆神山を開いたという里俗伝もあります。
 そうなると、積石塚古墳群と同様に古墳時代後期のものということになります。実際は吉野で殺害されたといわれていますが。小丸山古墳の側には、古人大兄命の子の墓といわれる大輪王墳墓があります。古人大兄命は、大化の改新の首謀者?である中大兄皇子(後の天智天皇)の異母兄です。古墳の築造年代とも合致するのでありえない話ではないということになります。ま、火の無い所に煙りはたたない程度の話ですが・・。
 ちなみに皆神神社の祭神は、伊邪那岐尊(いざなきのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)、出速雄命、熊野速玉男命(くまのはやたまおのみこと)、予母都事解之男命(よもつことさかのおみこと)、(配祀神)舒明天皇(じょめいてんのう)、古人大兄命で、まさに皆神様です。熊野信仰は、中世以降に流行り付加されたものです。修験地は主に近くの尼巌山と奇妙山(帰命山・仏師岳)の岩山や岩窟だったと思われます。

(左)神社の木彫。右は中国の伝説の女性、太真王夫人の玉巵弾琴(ぎょくしだんきん)だそうです。左は笛を吹く仙人。それと龍。友人の宮彫り研究家の話では、作者は不明だが諏訪立川流のものかもしれないと。(中)拝殿の内部。日如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が安置されています。製作年代は1507年。3体の仏像は、皆藤山修験道場としての熊野出速雄神社の本尊として歴史的に重要且つ、製作年代、作者、願主が銘文で明らかなのが素晴らしい。拝殿の右奥には、小さな旧本殿があります。棟札により、天明元年(1781)に作られたことが分かっています。棟梁は松代の谷源内雅(立川小兵衛、立川与市より秘事を習う)とあります。(右)熊野出速雄神社本殿。康応元年(1389)再建の撞木造(しゅもくづくり) 。屋根の形がT字型となっており独特のもので、善光寺本堂がそれです。

(左)一番高いところにある富士浅間神社。(中)なんとなく予感がして後ろに回ってみると、謎の穴。(右)百躰ノ定所。なんですかねえ。左の墓石は、戦国時代ぐらいの古い様式の五輪塔ですが、里俗伝では村上義清の娘、鶴姫の墓といわれています。

(左)小丸山古墳へ向かいます。大日池へ下る登山道を10分ほど歩くと着きます。(中)小丸山古墳。(右)古墳の上の石祠。歴史考証は上の記事をお読みください。

 松代城北の駐車場から望む皆神山。噴火し損なったコニーデ型の火山です。繰り返していいますがピラミッドではありません。それにしても長閑で暖かい小春日和の好日でした。まあこの3日後には初雪が降ったのですが。信州の長い冬が始まります。どうか豪雪だけは勘弁して欲しいです。

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