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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

武田信玄の誤算(妻女山里山通信)

2008-07-08 | 歴史・地理・雑学
 『武田信玄の古戦場をゆく』安部龍太郎著 集英社新書という興味深い新書を読みました。副題には「なぜ武田軍団は北へ向かったのか?」とあります。確かに、普通に考えれば上洛を果たし天下を狙うのであれば、東海道、或いは甲州道中から中山道を西へ向かうのが最短距離のはず。しかし、著者は故網野義彦氏の「日本中世社会における武田氏」という講演録に着目し、武田一族が、鎌倉時代より対馬、安芸、遠江の守護をつとめ室町時代には若狭の守護にも任じられていて、戦国時代になっても一族の交流は保たれており、信玄が北進したのは、日本海へ出て日本列島を横断する道を押さえようとしたのでは、という網野氏の説を元に、信玄が辿った経路を年代順に訪れ、信玄の真の野望を解き明かそうとしています。

 21歳で当主になって以来、48歳の最晩年まで、上洛には遠回りと思える北進の戦略を取り続けた信玄。そこまで北にこだわった理由とは何か。武田信玄の狙いは、同族の奥州南部氏や若狭武田氏と連携しながら、日本海ルートで都に迫ることにあったのではないか―、と安部氏は記しています。千曲川の物流をおさえ日本海に進出すれば、武田一族の海運力をもって上洛し天下を取る事も可能と考えたというのです。今川を敵に回して太平洋航路を確保するよりは安全で早いと考えたということです。

 確かに、戦国初期の上杉家は内紛が絶えず、信玄が付け入るすきはあったようにも見えます。しかし、信濃には、信玄を二度までも打ち負かすことになる宿敵村上義清がおり、その背後には関東管領の大義名分をもつ戦おたくの上杉謙信が待ちかまえていたわけです。これが信玄の不幸と誤算というべきでしょうか。なまじ謙信には天下を取る気などさらさらなく、義を重んじて信玄を撃退することに執念を燃やされたことが、知略謀略をつくし戦わずして勝を得ることを最良とし、国を多く取り、いずれは天下もと考えていた信玄にとっては、実に戦いにくい相手だったといえるでしょう。

 戦国武将の中でも、謙信の出陣の回数は飛び抜けて多いのです。そして戦に強い。ところが、12年もの長きに渡って謙信と戦を繰り返しているうちに信長が名門今川義元を敗るという驚天動地の、まさに下克上が起きるわけです。早く日本海に出ねばと信玄が川中島の決戦を挑んだのもむべなるかな。しかし、謙信は強かった。その上失ったものはあまりにも大きかった。永禄12年、信長の仲裁により和議を結ぼうとするも謙信は無視。それでも信玄は北(日本海)はもうよいと方針の転換をしたのですが、時すでに遅し。三方が原までが精一杯でした。

 『武田信玄の古戦場をゆく』は、そんな信玄の足跡を追うように、山城を巡りながら温泉に入り郷土料理に舌鼓を打つとい誠に羨ましい旅を綴った本です。惜しむらくは、いくつかの山城に登頂失敗していることと、「妻女山を鏡台山から北へ延びる尾根が千曲川に突き出した、その先端部に位置している。比高は三十メートルしかないが、平坦な尾根が長くつづき、本陣を構えるには充分の広さがある。謙信は現在招魂社の本堂があるあたりに床几をすえたと思われるが」と記されていること。

 できれば、武田別働隊の経路を辿って妻女山から鞍骨城ぐらいまでは行って欲しかったですね。歴史探究には体力も必要です。そして、これはそれを説明できない地元の責任でもあるのですが、現妻女山(比高60m)は、戦国当時は赤坂山といい、本陣の妻女山は斎場山古墳のある513メートルの頂で、妻女山という名称は当時はまだなく斎場山と呼ばれていたということです。もうひとつ、せっかく村上義清の坂城行ったのであれば、激辛激旨の名物「おしぼりうどん」を食べて欲しかったですね。
 信玄の真の野望を解き明かそうとした良書だと思います。旅日記でもあり気軽に読めるのでお薦めの一冊です。

 妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
 
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