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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

上杉謙信布陣の斎場山と陣場平「今昔物語」(妻女山里山通信)

2010-03-15 | 歴史・地理・雑学
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 上の写真は、昭和22年にGHQが撮影した斎場山、妻女山、陣場平の空撮です。黄色い線は、現在の林道や山道。谷から山上まで開墾され畑地になっているのが分かりますが、養蚕が盛んだったため多くは桑畑です。
 下の絵図は、江戸時代後期の榎田良長彩色『川中島謙信陣捕之圖』。それぞれ同じ場所に番号がふってあります。赤い線は山道。赤い●は兵を置いた所。『甲越信戦録』などの軍記物を参考に、江戸時代の絵師が描いた川中島合戦の絵図です。
 写真と同じ場所の番号をを絵図にもふりました。
 1 会津比売神社(従四位下:日本三代実録)上杉謙信が庇護したと伝わる神社
 2 妻女山展望台(古くは赤坂山、赤坂)直江山城守が陣したと伝わる所。赤坂山古墳あり
 3 斎場山(旧妻女山)上杉謙信が円墳の上に床几を置いたと伝わる所。斎場山古墳あり
 4 東風越(長坂峠)斎場越しの道が、赤坂山、斎場山、陣場平(天城山)、土口へと分岐する峠
 5 陣場平(月夜柵)上杉謙信が七棟の陣小屋を築いた本陣跡と伝わる所。積み石塚古墳あり

 絵図は、実際の写真に比べると斎場山の円墳や御陵願平などが誇張されて描かれていますが、尾根や谷の位置などは非常に正確で、実際に現地を見て描いたのだろうと思われます。また赤線の山道も、現在の黄色い線では大幅に違っていますが、写真にかすかに見て取れる旧道ではほぼそのままというのが分かります。つまり、江戸時代以前からの道が、昭和初期までは、そのまま使われていたということです。戦後、トラクターや自動車の普及により幅の広い道路が必要になり、それまでとは異なるルートの道(黄色い線)が作られたというわけです。

 3の斎場山古墳は、かなり誇張され大きく描かれていますが、実際も二段の墳丘裾があります。5の陣場平には、いずれ紹介しますが、北西の角に積み石塚古墳一基と石垣が残っています。近くの堂平のようにたくさんの古墳があったのかもしれませんが、謙信の布陣が史実だとすると、陣小屋を作る際に壊されたのかもしれません。その後畑地になり、さらに壊された可能性があります。写真では桑畑、梅園、薬草園などが写っています。現在は落葉松林や荒れた山林になっています。絵図では陣場平がはっきりと描かれていませんが、それはこの絵が信玄の軍が茶臼山にいるときのものなので(対の絵に『川中島信玄陣捕之圖』茶臼山あり)、まだ陣小屋はなかったとしているのでしょう。

 絵図の2・妻女山展望台の下に池がありますが、実は写真にもその池は写っています。蛇池といい、千曲川の名残です。江戸時代の天明年間まで、千曲川は妻女山にぶつかる様に流れ、その北は広大な氾濫原でした。戦国時代も赤坂山の山際まで千曲川が迫っていたのです。つまり、斎場山は西北東を千曲川に囲まれた天然の要害だったわけです。謙信が布陣した大きな理由のひとつでしょう。蛇池は、現在は高速道路になっています。絵図の千曲川は江戸時代後期の戌の満水以降に瀬直しした新しい流路が描かれています。

 この絵図の描かれた目的と用途ですが、上杉と武田どちらか一方の依頼であれば軍功の誇示ということも考えられるのですが、どうもそうではなさそうです。江戸後期は庶民の旅行も盛んになり、善光寺詣でや川中島合戦の史跡巡りなども盛んに行われたようです。特に1721(享保六)年に大阪竹本座で初演された近松門左衛門の人形浄瑠璃『信州川中島合戦』は、大人気を博しました。また、歌舞伎や浮世絵でもブームになりました。これ以外にも川中島合戦に関する絵図は非常に多く残っています。また、土産物としても縮刷版が売られていました。それほどに川中島合戦の人気は高かったということです。

 しかし、そのストーリーは『三国志』を下敷きにしたうえに『太閤記』も重ね合わせてあるという荒唐無稽なもので、史実とはかけ離れています。武田信玄の子息、勝頼と長尾輝虎(上杉謙信)の息女が、なんと恋仲になっての駆け落ち騒ぎや、軍師山本勘介をめぐる両陣営の勧誘争い、さらには勘介の老母の我が身を犠牲にした悲劇などをからめて、自由奔放に脚色された創作物語です。そこへ『甲越信戦録』などの軍記物語も加味されて、史実とは別のもうひとつの川中島合戦が江戸時代には創られていったのです。

 そんな川中島ブームの中妻女山では、上杉謙信槍尻の泉をめぐって霊水騒動なるものが勃発しました。川中島合戦の色々な軍記物や原作は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、川中島合戦と検索するとたくさん出てきて無料で読むことができます。

★妻女山から斎場山、陣場平に布陣した上杉軍については、「「上杉謙信斎場山布陣想像図」をご覧ください。
★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。

■『川中島謙信陣捕之圖 一鋪 寫本』(かわなかじま しんげん じんとり の ず) 榎田良長 彩色
 榎田良長の図会は、他に川中島全図を描いた『河中島古戰場圖 一鋪 寫本』と『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』があります。いずれも狩野文庫所蔵。
 出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)流用転載厳禁!

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