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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

妻女山から上杉景勝も布陣した清野氏の鞍骨城跡(鞍骨山・鞍掛山)へ登山道整備の好日(妻女山里山通信)

2016-02-29 | 歴史・地理・雑学
 晴れた週末は、妻女山から鞍骨山(鞍骨城跡)までの登山道の点検と整備をしました。真田信繁(幸村)を描いた大河ドラマ『真田丸』の効果もあってか、昨秋辺りから全国からハイカーが訪れています。日曜の放送では、ちょうど上杉景勝が赤坂山(現在の妻女山)から鞍掛山(鞍骨山)に御旗を建て、海津城の北条氏直を威嚇したというのをやっていました。、上杉についたものの真田昌幸に調略され、挙句の果てに殺されたという春日(高坂)昌元(春日信達)は哀れでしたが、史実はどうだったのでしょう。

 妻女山駐車場の奥の右手の林道を登ります(左)。入口に斎場山や鞍骨山までの略図と説明があります。約15~20分で長坂峠(中)。鞍骨山は左へ。右に見えるのは上杉謙信が本陣としたと伝わる斎場山(旧妻女山・地元では妻女山というとこの山のことです。昭和41年の地形図にはここを妻女山と明記。その後昭和47年に地形図を改定した時に現在の妻女山(本当は赤坂山)に三角点を置き、名前を国土地理院が勝手に移動してしまったのです)。約15~20分で林道を離れ天城山(てしろやま)経由で鞍骨城へ(右)。

 途中、謙信が七棟の陣小屋を建てたという陣馬平へ。貝母(編笠百合)がかなり大きくなってきました(左)。ゴールデンウィーク頃に満開になります。今回、一番切ったのがこのヤマガシュウ(中)。ノコギリやカマでは切れないので剪定ばさみを使います。非常に鋭い棘で、刺さると悲鳴をあげるほど痛い。これが登山道を塞ぐと前に進めなくなります。他にはノイバラとエビガライチゴも。いずれも棘があり放っておくと登山道が塞がれてしまいます。満開の福寿草(右)。綺麗ですが毒草なので要注意。
 この陣馬平にオフロードバイクで侵入した大馬鹿者がいます。最低の環境破壊です。私有地であり、個人の敷地や畑に無断で侵入するのと同じ犯罪です。

 尾根に出て振り返ると斎場山が眼下に見えます(左)。左手には目指す鞍骨山(中)。ここから1時間弱ですが、作業をしながらなので普段よりかなりゆっくりです。天城山は巻道を使い、二本松峠を通過(右)。左へ下ると清野。右は倉科。鞍骨城跡まで850mの標識。天城山は尾根が十字に出ているので、下る方向を間違えると大変です。先日も2名ほど間違えたというハイカーに出会いました。標識の地名をよく確認してください。拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』では、コースを記載した地形図と詳細な説明やコースの写真を載せています。

 尾根の一本道を進むと、駒止と呼ばれる深い堀切(左)。更に進むと突然目の前に鞍骨城跡が現れます(中)。芽吹いてしまうと見えなくなりますが。明るい尾根を進み高圧線の鉄塔をくぐると、二条の堀切(右)。奥の堀切からは左へ林道倉科坂線へ下る登山道があります。以前ここはエビガライチゴとヤマガシュウの酷い藪で通れませんでした。今回も3mにもなったエビガライチゴを伐採。

 堀切を越えると鞍骨城の全貌が見えてきます(左)。尾根の両側は4mほどの長い削平地があり、馬場跡などともいわれています。尾根には4月にはカタクリ、5月には猛毒のヤマトリカブトが咲きます。城跡へは左手(北側)から登ります(中)。登り口が分かりにくいという声を聞いたので、今回かまぼこ板に矢印を書いたものを付けました。また補助用にトラロープを設置しました。大きなケヤキのある二つ目の広い郭(右)。ここで右手(南側)に回ります。斜めに細い道が付いています。

 そこから本郭を見上げたところ(左)。本郭の石積みが見えます。斜めに登って行くと南面のやや広い郭に出ます(中)。ここからはつづら折れで南面の虎口へ。足元がかなり不安定なので要注意。標高798mの本郭に到着(右)。
 武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、 1582(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂(現妻女山)と云所に御馬を立てられ、・・・鞍掛山へ御上がり云々」との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかともいわれています。そんな城跡を500年前の石垣かと思って触れると、色々な事を思います。なぜ人は戦ばかりするのだろうとか…。
「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態 (妻女山里山通信)大河ドラマでは見えてこない戦国時代の姿

 本郭から東へ痩せ尾根を30mほど行くと二ヶ所の展望岩があります。まず西の展望岩から、出発点の妻女山を見下ろしたカット。妻女山から陣馬平、天城山、二本松峠を経由して鞍骨山。普通なら約90分ですが、今回は体調がいまひとつだったのと作業で2時間以上かかりました。
「妻女山」「妻女山 行き方」「妻女山 地図」「斎場山」「さいじょざん」「さいじょうざん」

 東の展望岩からは眼下に松代城跡(海津城跡)。右下の小山は、象山の先にある離山。山頂には離山神社が鎮座しています。その向こう側には、松代文武学校。戦国時代はもちろん、江戸後期の戌の満水後の瀬直しまでは、この松代城の脇を千曲川が流れていました。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信) その2

 結局、今回は行き帰りで200本以上のヤマガシュウを切り払ったと思います。尾根の途中で二ヶ所ほど見つけたタヌキの溜糞(左)。春先は最も食料が乏しい時期。何を食べているのでしょう。何か小動物の毛の様なものも見られますが。雑食性なので樹の実や果実以外に、ネズミやカエル、ミミズなども食べます。ドバトの羽根が散乱していました(中)。襲ったのはタヌキかキツネか猛禽類のノスリかトビか。有毒なので最後まで残っているヒヨドリジョウゴの赤い実(右)。午後になって冷たい南風が吹き始めて腰痛が酷くなったため慌てて下山しました。

 日曜日は、長坂峠でノイバラの伐採(左)。ノイバラも大きくなると木質化し、非常に厄介です。腰痛のため草刈機が使えないため、鉈鎌と剪定バサミでゆっくりと。正面にある数本の木はオオムラサキの幼虫の食草となるエノキ。昼食の弁当は野沢菜漬けのチャーハン(中)。副菜は自家製のキムチとカクテキ。出る直前に作ったのでまだ温かく美味でした。小鳥のさえずりを聞きながらのんびりと昼食。ちょうど知り合いのKさんが通りかかりました。山蕗を採ってきた様です。信州名物? 山蕗とスギヨのビタミン竹輪のかき揚げにでもするのでしょうか。やや早めに下山。妻女山松代招魂社奥の駐車場はかなり広く、上手く停めると20台以上駐車できます(右)。両日とも何人もの歴史マニアや観光客が訪れていました。4月上旬には桜も満開になり、遠足の保育園児や小学生の歓声で溢れます。花吹雪の妻女山に、ぜひお出掛けください。

真田丸の影響か、アクセスも増えています。ご質問やご感想、情報提供などコメントも大歓迎ですが、コメントを表示されたくない方は、その旨を書いていただければ、承認制ですので非表示にします。遠慮無く書き込んでください。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。『真田丸』関連の山城巡りに最適なガイドブックです。鞍骨城跡や上杉謙信の陣城跡と伝わる陣馬平への行き方や写真も詳しく載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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6 コメント

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三角点 (かたくり)
2016-03-07 09:51:09
三角点は測量地点を示すポイントなので山の頂を連想する三角点という名前がそもそも混乱の元になったような気がします。
反面山の頂と一致させて測量することはできなかったのかなあとも思いますが、古墳の上に載って測量というのも罰が当たりそうですね。

山のピークという点で混乱するのは、妙徳山も三角点がある方を明徳山、南の開けたピークを妙徳山と表示されていてそれぞれ高甫小と綿内小の登山記念が書かれているところ。それぞれこだわりが感じられます。
綿内小の遠足は今は若穂太郎山に変えたそうですが。

また、中尾山はどこがピークなのかわかりません。

昔信濃毎日新聞で、信州百山という本を出版しましたが乙山峠という例外的にピークがない山が紹介されていました。

戸隠の荒倉山霧見岳山頂も標識とピークがずれているようです。保基谷岳もピークハンターには悩ましい山です。

で山の命名基準というのはあるのでしょうか?

私的には独立峰のようにはっきりしていない山はいちいち名前をつけず○○山塊とか総称でいいと思いますが。
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三角点 (モリモリキッズ)
2016-03-07 15:56:55
妻女山もそうですが、国土地理院は自然地名が文化遺産であるという認識がなさすぎます。
現在の妻女山は、地元で赤坂山という地名なので、そう表記すべきでした。
ただ、改定が長野市になってからなので、市の担当者が知らなかったのでしょう。小字名が妻女山ですから。そう呼んでもおかしくはないのですが。
なので謙信の本陣が、伝わる本来の妻女山(斎場山でなく赤坂山になってしまいました。
ほとんどのマスコミや歴史家、小説家が間違えています。由々しきことです。
本来の妻女山は、そのせいで名無しになってしまいましたが、私は逆に古代の本名である斎場山を復活させるべく、拙書でもそう表記しました。
斎場山は既に発掘研究がされているので三角点を置いても問題ないでしょう。
拙書でも書きましたが、生坂村の大城も地元で呼ぶ山頂の600mも北にあり、これも間違えると遭難の危険性もあります。
中尾山は白い崖の上の660mが山頂で、旧名は郷内山といいます。
松代東条の奇妙山は、本来は帰命山で、仏に帰依するという意味で、本名を仏師獄、または仏師ケ嶽といった修験の山です。
行政も市井の人ももっと自然地名に興味を持ち、大事にして欲しいと思います。
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地名 (かたくり)
2016-03-07 22:38:35
主旨わかりました。

地名は文化遺産というご意見はいたく同意します。

読みが同じで漢字が異なるのは漢字がもともと借り物なのでそういう変遷は有だと思うし、そこにも歴史や信仰と文化を感じますが、経緯を無視して合理性だけでつけていう名前が増えました。
大森と蒲田で太田区とか同じノリで更科と埴科で更埴市と命名されましたね。

名前の吟味と整理が必要ですね。

ところで長野県山岳ガイドhttp://www.naganoken.jp/mount/index.html
では妻女山ではなく祭場山とありますがこれはキッズさんもしくはお知り合いの方たちがレポートを書かれているのですか?
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祭場山 (モリモリキッズ)
2016-03-08 08:58:57
松代は旧町名を復活させようという運動をしていますが、全国的な流れのようですね。
行政や大手ディベロッパーが勝手につけたものは本当に酷いものがありますから。

ところで祭場山ですが、これは斎場山が松代藩により妻女山と改名されたことを怒った地元土口の人が本来の意味と読みが同じ祭場山と呼んだもので、明治の埴科郡誌にあります。
「斎場山、または祭場山といい、近俗作なる妻女山はもっとも非なり」と否定しています。

斎場山は、本来はいつきなる場といい祭祀を執り行う神聖な場所の意味だったのですが、仏教伝来とともに単に葬儀を表す言葉となり忌避されるようになったのでしょう。
麓の岩野も本来は斎野村(いわいの)でしたが、室町時代の疫病の流行で上野村(うわの)となり、江戸時代に藩に同名の村があったため岩野村となった経緯があります。ちょっとセンスがないですね。どうせなら祝野村とすべきだったのかも。

信州山岳クラブの岩渕さんは存じています。妻女山奥の陣馬平で二度ほど出合いお話したことがあります。私のブログなどを参考にされたのだと思います。今日は鞍骨まで登山道の整備をしてきます。
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「七度の飢饉より一度の戦」・・・云々 (かたくり)
2016-03-09 14:07:28
ハイキングコースの整備お疲れ様です。

以前、茸を探しに天城山あたりまで歩いたことはありますがまだ鞍骨山には行ったことがありません。
大分わかりやすくなったみたいなので近いうちに足を延ばしてみたいと思います。
今なら、フクジュソウの群落を見られそうですね。
~~~~~~~~~~
山新田から妙徳山の林道に入る手前あたりに謙信古道が通っていて案内板に川中島の合戦で付近の農民が大勢かりだされたことやその戦の負荷があったことが書かれていました。
地元の農家には賦役であり、遠方より遠征してきたの農兵にとっては乱捕りも大きなモチベーションになったでしょう。

今回の真田丸では村上方から武田の軍門に下った国人衆まで皆、信玄を偲んでいますが非常に違和感を感じてしまいます。
幸隆に調略されて武田方に下った国人はまだしも、茂菅の葛山城、上山田温泉の荒砥石城、海ノ口城・・・など攻め方が凄惨で、強いから軍門に下ったけれども本音は信玄は甲斐の侵略者という意識が信濃の国人衆の本音ではなかったかと思います。

少なくとも、北信は越後との交流が昔からあり南信や安曇野とも文化圏が異なるのでまして甲斐の武田に親近感は持たないと思うのですが・・・・

松代の人たちはどうなのでしょう?

葛山で地主さんにあって話を聞き焼きその場で焼米を掘りだして見せてもらって、落合氏と小田切氏の悲運に心から同情しました。
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兵どもが夢の跡 (モリモリキッズ)
2016-03-09 18:49:55
福寿草は堂平大塚古墳に個人が植えたものなので群落はないです。
鞍骨城跡は、全国から山城マニアが訪れています。ぜひ登ってください。4月半ば以降ならカタクリに出会えるでしょう。5月以降はヤマトリカブト。
5月の連休には陣馬平の貝母が満開になります。

上杉と武田に対する感情はどうでしょうね。川中島の戦い以降は武田方になり甲州から大量の移住者がありましたが、景勝の領地になってからは上杉方ですし、国替えもあり両者の家来の末裔が混在しています。
土豪では、形勢に応じて主を替えていますし、親子で替えてもいますし、実際は生き延びるために必死だったというのが本当のところではないですかね。

当時は足軽はさむらいですが、その下に地下人というのがあり、いわゆる純粋な農民というのは存在していませんでした。戦が起きれば逃げ、終わると死人から鎧や武器を奪い、奴隷市や泥棒市がたった時代です。

謙信や信玄も絶対的な権力を持っていたわけでもなく、陰陽道やら男の嫉妬にかられた俗人だったと思います。神社の願文を読むと殊更そう思います。
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