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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

宮彫りの名工・北村喜代松の木彫を求めて行脚の旅=その3 野沢温泉健命寺と湯沢神社(妻女山里山通信)

2020-08-11 | 歴史・地理・雑学
 朝6時40分に曇り空の道の駅しなのを出発。野尻湖から古海を経由して斑尾高原へ。するとワイパーが効かないような豪雨。やっと飯山市街が見えると小雨に。野沢温泉に向かいます。早朝の温泉街を登っていくと雨。健命寺では豪雨の中での撮影となりました。やれやれ。

(左)雨の野沢温泉街。まだ8時前です。(右)大湯。左へ登って麻釜のところで行き止まり。健命寺は右上に見えているというのに。すると上から出勤途中の仲居さんが。下の信号のとこの駐車場に止めて歩いたほうがいいですよと。感謝です。助かりました。

(左)温泉街の山手に鎮座する薬王山健命寺。左に湯沢神社の石段。(右)健命寺本堂。文化2年(1805)の再建。永禄11年(1568年)に草創され、薬師如来が十二神将像と合祀され前立本尊となりました。野沢菜発祥の寺ですが、8世住職の晃天園瑞が京都に遊学した際、大坂天王寺で栽培されている天王寺蕪の種子を持ち帰り、その子孫が野沢菜となったとの言い伝えは、遺伝子的研究から否定されています。では真実は? 山門の修復中で、その棟梁と思われる方と色々お話をすることができました。

 本堂の向拝は、左甚五郎の後裔である後藤政綱によるもの。もの凄い雨で撮影は困難を極めます。

 龍の木彫。左上から斜めに突き刺さる線は何を表現しているのでしょう。波間に叩きつける雨でしょうか。ならば最高のシチュエーションですね。

 その下の木彫。古代中国の故事に由来する仙人を彫ったものでしょうか。黒松の樹下で酒壺と酒盃を掲げる仙人の図に見えるのですが。

 木鼻の象と獅子。

 薬師堂は2層宝形造。内部には上杉謙信の守本尊と伝わる薬師瑠璃光如来が安置されています。正面1間唐破風向拝の北村喜代松作の龍の木彫。

 そのアップ。木目を極限まで活かしているのが分かります。残念なのはこれだけの審美眼や技術を持った宮彫り氏が現在はいないということです。もちろん優秀な宮大工や彫師はいます。ただ手法が違います。コンピューターを使ってルーターで荒彫りの後で手彫り。合理化は分かりますが、そこで失われたものも多いのです。私も編集デザイナーやアートディレクター・デザインプロデューサーとして、活版から写植、DTPからオンデマンド、ウェブデザインやプロデューサーとしてやってきたので、技術の変化によって逆に審美眼や表現力が衰えたり技術の奴隷になる過程も見てきました。また、理由のひとつは、宮彫り氏は仏像を作る仏師と違って社会的地位が低かったことがあげられます。経済的にも決して裕福ではありませんでした。

(左)これは何を表現しているのでしょう。下から光が。竹取物語でしょうか。(右)手狭には雀を追う若鷹。喜代松のお得意の題材。

(左)荒振る貘。(右)幾重にも折り重なった波。この時代の宮彫り氏は、皆葛飾北斎の影響を受けているといっても過言ではありません。

(左)同じ敷地にある湯沢神社。(右)湯沢神社御由緒。

 木彫は、越後の岩崎嘉市良重則の作。

(左)木鼻の獅子も特徴的で面白い。(右)荒波を遡る鯉。温泉にも入らずに飯山に下ると雨は止んでいました。そして善光寺平に入ると晴天。なんじゃこりゃでした。

 外界は暑いので403を聖高原へ。途中の姨捨サービスエリア上の千曲川展望台へ。右手前に一重山。向こうに斎場山。善光寺平は暑さで霞んでいます。

 聖湖畔から見上げる三峯山。たくさんのグループや家族がスライダーに乗ったりバーベキューをしたりへらぶな釣りをしていました。私は外れの駐車場で傘や濡れたものを乾かしながら休憩。

(左)冠着山へ向かいます。古峠で休憩。右下へは筑北村の冠着駅へ下る道。(右)そこから見下ろす姨捨方面。小さな集落は古峠からの東山道脇道が通る歴史ある御麓。しなの鉄道の線路の先には、スイッチバックで有名な姨捨駅があります。

 冠着山を巻いて戸倉上山田温泉に下りました。温泉に入る前に大上海で昼食。ワタリガニの辛酸っぱ麺をいただきました。スープを干し貝柱でとっていて非常に美味ですが、けっこう辛い。むせました。でも美味しい。さて次の連休には、所要で安曇野の長男のところへ行くのですが、帰路に白馬からみなかた峠を超えて鬼無里の屋台神楽の撮影に行こうかと思っています。北村喜代松行脚の旅の番外編です。

◆北村喜代松(三代正信)は、天保元(1830)~明治39(1906)越後市振村(現糸魚川市)の宮大工建部家に生まれました。北信から上越中越、富山の朝日町や宇奈月などに多くの作品が現存します。有名なところでは、真田信之の御霊屋がある松代の長国寺、鬼無里の祭り屋台と神楽など。
●参考文献:宮彫りの名工 北村喜代松 著者 倉若昭一 写真・文 ; ふるさと草子刊行会 編; 出版社 ふるさと草子刊行会

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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宮彫りの名工・北村喜代松の木彫を求めて行脚の旅=その1(妻女山里山通信)

2020-08-02 | 歴史・地理・雑学
 北村喜代松(三代正信)は、天保元(1830)~明治39(1906)越後市振村(現糸魚川市)の宮大工建部家に生まれました。北信から上越中越、富山の朝日町や宇奈月などに多くの作品が現存します。有名なところでは、真田信之の御霊屋がある松代の長国寺、鬼無里の祭り屋台と神楽など。
参考文献:宮彫りの名工 北村喜代松 著者 倉若昭一 写真・文 ; ふるさと草子刊行会 編; 出版社 ふるさと草子刊行会

 6時30分過ぎに出発。最初の目的地が富山県なので長野インターから上信越自動車道で信濃町まで。新潟へ入って給油。63号から国道8号に入り、再び名立谷浜インターから北陸道へ。親不知で降りて朝日町のヒスイ海岸へ。今回、オリンパスのフラッグシップモデルの一眼レフカメラを買ったので、その試写も兼ねています。標準レンズはライカパナ。いいレンズですが、まだまだ使いこなせていません。次回は、ZUIKOのマクロも使って昆虫を撮影していますが、これがなかなか難しい。まあぼちぼちやります。

 朝日町宮崎の鹿嶋神社。凛とした佇まいに圧倒されます。

 龍二頭が向かい合う向拝の虹梁の上には、スサノオノミコト(素戔嗚命)の八岐大蛇退治の木彫が。喜代松50歳の円熟期の作。欅一本彫りの非常に奥行きのある精緻な木彫です。これを制作するために住んでいた長野善光寺門前町から家族でこの地に移り住んだそうです。

(左)懸魚(げぎょ)の下には、鬼門除けの力神像。(右)木鼻の唐獅子と貘(ばく)。

 味のある阿吽の狛犬。

(左)神社御由緒。(右)そこから新潟方面へ戻り、境川を遡り、糸魚川市の山姥の里といわれる上路(あげろ)の十二社へ。とんでもない山奥で、本当にこの先に集落があるのだろうかと。やっと着くと上から軽トラのおじさんが。不審な表情で見られました。十二社へ行きたいんですがと尋ねると、やっと顔がほころんでここをまっすぐ登ると鳥居が見えるよ。車も止められるよと。深い杉の社叢(しゃそう)に囲まれた十二社に着きました。親不知の南に位置し、親不知の下路に対して上路といわれたそうです。境川から青海川へ超える大平峠が古道の跡でしょうか。限界集落なのでしょうけど、非常に味わいのある村でした。

 向拝正面には、雲龍。宝珠を追う親子龍の木彫。口中などに丹塗の紅が見られますが、完成当時はどんなだったのでしょう。

 木鼻の獅子と貘。心配なのは、拝殿はプラスチックの波板で覆われていて通気性が悪いためか苔生していることです。苔を落として防腐剤を塗り換気ができるようにした方がいいですね。

 手狭には、黒松に若鷹、飛ぶ雀を発見し、襲う様が表現されています。欅の内部をくり抜く籠彫の見事な技法が施されています。

 糸魚川市指定文化財。

(左)朝日町に戻りドライブインきんかいでタラ汁定食。ここのはゴボウの味が効いています。この手前の煮タラコがのったドライブイン金森のも美味です。(右)ヒスイ海岸へ。思わず翡翠を探し始めましたが、いやいやこんなことしてる場合じゃないと、鹿嶋神社近くの明光寺へ。

 しかし、観たい天人(天の羽衣を纏った天女)の木彫は内部の欄間にあるため見られず。木鼻の木彫も喜代松のそれかは不明。

(左)次いで朝日町上横尾の長願寺へ。地図で場所は分かりましたが入り口が分からない。グーグルマップは幅2mの道路とかは載らないのです。やっと狭い道を見つけてとんでもない坂道を登るとありました。檀家の方が草刈りをして帰るところでした。(右)木鼻の貘。

 中央の親子龍の両脇には、波濤の中に激しい形相の蓑亀(みのがめ)。亀は長寿の印で瑞祥(めでたいことが起こるという前兆)を呼ぶとされます。ただこれも喜代松の作にしては造形が甘い。私は彼自身の作ではないと思います。そこから南下して宇奈月町へ。下立(おりたて)にあるらしい下立神社を目指しましたが無い。地元の方に聞きましたが、無いよと。愛本姫神社は小さいし木彫もなし。不思議でした。参考本の作者は、編集、著述、撮影、校正に関しては素人なので、いささか怪しいところがあるのも否めません。

 ここまで来たなら前回入らなかったとちの湯へ入って帰ろうと宇奈月温泉へ。宇奈月ダム。排砂放流が行われていました。

 向こうの建物と比較するとその規模が分かると思います。もの凄い轟音と振動で、ダム上部の通路の手摺がガタガタと震えていました。大迫力です。

(左)とちの湯へ行く途中にある欧州の城塞の様な新柳河原発電所。向こうにトロッコ列車の線路。(右)とちの湯。ひとりだったので露天風呂を撮影。あとから糸魚川市の男性が。色々話すと、以前廃村の戸土(とど)の諏訪社にしか残っていないという薙鎌神事(なぎがましんじ)のことを話すと、生家のある土壁の土壁神社に薙鎌神事がありますよと、貴重な情報をいただきました。ゆっくりしてマリンドリーム能生へ向かいます。

 親不知の愛乃像のある展望台から光る海。

 マリンドリーム能生の夕焼け。

 夕食は名立食堂へ。天ぷら蕎麦とミニ甘海老丼のセット。そこからの夕焼け。イカ釣り船が出ていきます。

 イカ釣り船の漁火。明日は上越市の東本願寺新井別院と沼の原湿原と戸隠自然植物園へ向かいます。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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松本の歴史が詰まった山辺へ。旧山辺学校・兎川寺・林城・林集落・千鹿頭神社。出雲族・安曇族・洩矢族(妻女山里山通信)

2020-07-15 | 歴史・地理・雑学
 翌日は雨上がり。まず里山保全と撮影の際に凹んだバンパーの修理を手伝ってもらいました。その後、松本の山辺(やまべ)に向かいました。中心街を通ると混むので、浅間温泉経由で。山辺は縄文時代の遺跡があり、平安時代の『倭名類聚鈔』(わみょうるいじゅうしょう)にでてくる山家の郷(やまんべのごう)にあたるところで、針塚古墳をはじめとして現在も多くの文化財が残っています。

 旧山辺学校は明治6年(1873)、兎川(とせん)学校として発足、この校舎は、明治18年(1885)に建てられました。国宝に指定されている旧開智学校の校舎を見た村人が、おらほうにもこんな洋風建築の学校が欲しいと頑張って建てました。さすが教育県。県宝で、現在は歴史民俗資料館として利用されています。

(左)明治22年(1889)の完成記念の式典の記念写真。里山辺村・入山辺村の2村の生徒児童ですが、大勢ですね。(右)旧開智学校との比較なんですが、規模も違いますし、建築費用も10分の1ぐらいですし、無理に比較する必要もないかと。
旧山辺学校(Wikipedia)

(左)当時の社会科の地理の教科書。(右)懐かしいヤマハのオルガン。1887年に国産第1号のオルガンを完成させました。母校の清野小学校にも何台もありました。当時でもうアンティークでしたが、その柔らかい音が好きでした。

(左)今の中学生ぐらいの年の生徒の作品。よく観察して丁寧に描き込んでいます。デッサンも正確ですね。いい絵です。その形と大きさから善光寺の山門で間違いないでしょう。(右)時代は戦時中。林集落から見る半地下の工場。軍需工場なのでしょう。敵に見つからないようにドーム型の屋根に土を乗せて草を生やしています。

(左)高度経済成長以前の旧家の部屋の再現。子供時代にリアルにこういう家に住んでいたので懐かしい。昔は結婚式も家でしたので、赤黒の漆塗りのお膳や漆塗りのお椀セットや酒器も50人分以上ありました。まるで旅館でした。身内は宴席のお取り持ちをするので、台所仕事は組の女性がします。共同体が生きていた時代でした。(右)唐箕(とうみ)。籾殻や麦殻、小豆や大豆、胡麻などの選別をする道具なんですが、私は帰郷してからこれを使っていました。最近は使っていませんが、まだあります。その旧家は、幕末に長く名主を勤めた逸作爺が建てたもので、その家族や子孫、そして私も11歳まで住んでいました。土間が12畳、台所が10畳、居間が10畳、その北の間が10畳、中の間が10畳、その北に5畳と6畳、座敷が12畳、奥座敷が10畳で北の間から奥座敷まで廊下がありました。11歳の頃築150年で土台が沈下し、松代i群発地震では、梁が抜けて震度5の時には、亡父があと5センチ抜けたら崩壊するという事態でした。このままでは重要文化財になってしまい面倒なことになると、父が新築しました(笑)。でもそのおかげで私は想い入れのない新しい家にいる必然性がなくなり、生来の放浪癖が芽生え、アンデスやアマゾンやらノルウェーやら世界に放浪するきっかけとなったというのは、誰も知りません(笑)。

(左)藍も作っていたのですね。藍染は今となってはむしろ新しい。インディゴブルーが美しい。(右)林城大城の北側では池で氷を作っていたそうです。馬が大活躍。

(左)入山辺厩所(まやどころ)の貧乏神送りで使われる藁馬(わらうま)。念仏を唱え、薄川(すすきがわ)へ運び焼き払います。(右)お船祭りのお船。里山辺の須々岐水(すすきがわ)神社にて、毎年5月5日(御柱祭(干支でいう卯、酉)の年には4日)に行われる祭事です。「日本後紀」延暦18年12月甲戌条に、高句麗から渡来した信濃国人卦婁真老(外従六位下)は「須々岐」の姓を与えられたとあります。梶の木の紋が観られる様に、穂高神社のお船祭りと同様に、安曇族や諏訪社と深い関係があります。安曇族は、古事記によると、出雲族の長が北九州に遊びに行ってそのまま定着したとか。木彫は、宮彫りの名工、諏訪立川流の彫師が携わっています。

(左)小笠原氏城跡と松本平一円の城郭群。城だらけ。(右)針塚古墳。高句麗様式の積石塚古墳。大室古墳群や妻女山山系の積石塚古墳とほぼ同年代の古墳です。墳頂部の竪穴式石室内からは内行花文鏡(ないこうかもんきょう)をはじめ、鉄斧(てっぷ)、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす 小刀)、ガラス小玉、滑石製紡錘車(かっせきせいぼうすいしゃ 糸をつむぐときに使用するはずみ車)、かこ(かねへんに交+具 例えば馬に鞍を取りつけるためのベルトを固定する金具)が発見されました。高句麗は、ツングース系の騎馬民族で、日本に馬産を伝えました。

(左)向かいにある真言宗智山派の寺院、恵日高照山兎川霊瑞寺へ。通称は兎川寺(とせんじ)。本尊は千手観音。約1300年前の飛鳥時代、聖徳太子により創建されたと伝わっています。(右)一文字納経。般若心経のいづれかの箇所一文字を石に書いて納めた後で、書いた経本の文字を黒く塗ります。私は色、息子は波と書いて納めました。「色」はこの世のすべての事物や現象。「波」は波動であり、宇宙全てのものはウィトゲンシュタインのいう様にスパーラル運動をし、渚の様に波打ちその表面で寄せては返し行き交うのです。「色即是空 空即是色」。パルス、フラクタル、相似律、食物連鎖、なんちゃらかんちゃら。宗教であれ哲学であれイデオロギーであれ思想であれ科学であれ信じないことです。常に疑う。信じた瞬間に思考が止まる。それは奴隷になること。専門家や学者が全てを知っているわけではありません、専門馬鹿に陥っていることもあるのです。とにかく自分で考える。限界を知りつつ限界を認めず探求する。それが生きるということではないでしょうか。野生動物は死の瞬間まで生きることを諦めません。
 ボードリヤール、スーザン・ソンタグ、グスタフ・ルネ・ホッケ、R.D.レイン、JG.バラード、ホイジンガー、ライアル・ワトソン、ピカート、バックミンスター・フラー、アラン・ジュフロワ、G.バタイユ等々辺りをもう一回読み直してみようかなと思っている今日この頃です。

(左)小笠原の三段菱の中に兎が。(右)続いて須々岐水(すすきがわ)神社へ参拝。鳥居手前にお船の収納小屋がありました。

(左)薄川の金華橋を渡り、林城への林道を車で登ります。道は細く悪路。上に行くと右側が崖の様な急斜面なので要注意。本郭の手前に駐車スペースがあります。(右)城跡に咲くオカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン。

 本郭にある案内図「林城跡とその周辺」。小城を合わせると非常に大きな山城です。
 信濃国守護であった小笠原氏は、当初は井川館を拠点にしていたが、長禄3年(1459年)、府中小笠原家の小笠原清宗が林城を築城したとされる。後に清宗の曾孫小笠原長棟が同族の松尾小笠原氏を屈服させ、小笠原氏を統一した後に拠点を移した。 天文19年(1550年)に長棟の子小笠原長時が武田信玄に攻められ一夜のうちに落城した。 林大城(金華山城)と林小城(福山城)からなる。麓の大嵩崎集落には館町が形成されていた。(Wikipedia)

(左)林城の本郭。かなりの広さがあります。下山後は、上の図の左の林集落(旧筑摩県筑摩郡林村)へ向かいます。(右)林集落の真ん中を抜ける兎川寺鎌田線。この集落には驚きました。家々が凄く立派で、各家には二つか三つのなまこ壁の蔵があるのです。こんな集落は見たことがありません。途中で左折すると右手に岩波酒造が。近くには昔は名主をやっていたのではという様な立派な屋敷がありました。東西に伸びる町を立町といい屋敷割がされていて武家の町。南北の町を横町といい職人や商人の町だったそうです。ここが我が一族の祖といわれる林采女の生誕の地なのでしょうか。実は、我が家の祖先は林太郎左衛門といい真田昌幸に使えた500騎の騎馬隊を束ねる武将でした。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか。それがここかは不明です。そして、そのうちのひとり、林采女が真田の松代に移り住み帰農したと伝わっています。
 廣澤寺山門前のスペースに駐車して、千鹿頭神社(ちかとうじんじゃ)へ向かいます。廣澤寺の下の田んぼを「兎田」と言います。小笠原清宗の三男、林藤助光政が兎を狩って、徳川有親親子に御馳走したと伝わります。その恩を忘れずにと徳川家では正月にうさぎの吸い物を食べる習わしがあるとか。

(左)千鹿頭神社の林側の鳥居。反対側には神田の鳥居があります。(右)神田側は高遠藩、林側は松本藩。よって本殿も二つあります。古代からの洩矢(もれや)の神の系譜で「千鹿頭大神」を祀り、諏訪信仰と深いつながりのある神社といわれています。この地の産土神(うぶすながみ)です。祭神は、内県命または千鹿頭神で、大国主命の御子で諏訪大社の祭神である建御名方命の御子神といわれています。
 守宅神、生まれて霊異幹力あり、父に代りて弓矢を負ひ、大神に従ひ遊猟し、千の鹿を得る。一男有りて、これを名つけて千鹿頭神と曰ふ。 千鹿頭神、継ぎて祭政を主(つかさど)る。
千鹿頭神(ちかとのかみ、ちかとうのかみ)(Wikipedia)

(左)左の本殿には「林」の文字が。(右)本殿後背にある後宮。かつては服神社(はてがみしゃ)と呼ばれ、先の宮と同等だったといわれます。これも林と神田の二社があります。(林古城会他)

(左)諏訪系の神社なので御柱があります。諏訪直系の神社なのに、松代の産土神の皆神神社と会津比売神社に、御柱がないのが不思議です。(右)遅い昼は、そばの里 六助へ。私は蕎麦150グラムの天ざる小を。天ぷらがつくのでこれぐらいで満足です。海老が味が濃くて美味。平日のランチは超お得。大きな海老天が別盛りでつく鍋焼きうどん(冬期限定)もおすすめ。気取って頂く蕎麦ではありませんが、味もコスパも最高です。信州の蕎麦屋は、東京のようにザルの膨らんだ方を上に向けて盛る様なことはしません。なので、うかつに大盛りを頼むととんでもない量の蕎麦が来ることがあります。ご注意を。満足して帰路につきましたが、豪雨であちこちに被害が出て通行止めが各所にあります。必ず情報の確認を。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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雨の安曇野へ。支那そば凱歌・豊科温泉 湯多里山の神・関西風蒲焼きの大黒屋・豊科の鄙びた飲み屋街(妻女山里山通信)

2020-07-13 | 歴史・地理・雑学
 雨の安曇野へ。朝あまりの豪雨で出発を30分遅らせました。長男のところへ行って、ドライブレコーダーの取り付けと、里山保全と撮影の際に凹んだバンパーの修理を手伝ってもらいました。

 国道403号を麻績村の聖高原へ。聖湖に着くと小雨になっていました。三峯山は雲の中。対岸の桟橋では何人かの太公望がへらぶな釣りをしていました。10時過ぎに着いて小休止の後ドライブレコーダーの取り付け。悪戦苦闘の末、コードも上手く隠して完了。

 昼は支那そばが食べたいという私の希望で、松本の支那そばの凱歌(がいか)へ。スープは古典的な支那そばの様に澄んではいませんが、こってりではなくコクがある感じ。味玉をつけました。麺はやや硬め。チャーシューは柔らかい。満足でした。

 午後にバンパーの修理をしようと思いましたが、雨が酷くなったので諦めて豊科温泉 湯多里山の神へ。かなり強いアルカリ泉で、ぬるぬるしています。美肌の湯。湯船も小さめですが露天風呂もあります。松本にも近いのに山の中で、秘湯の雰囲気があります。

 夕食は、前日息子に予約してもらっておいたうなぎの大黒屋へ。なぜこの店かというと、信州では珍しい関西風の蒲焼きを供する店なのです。関東風と違い蒸しません。そのため皮がパリパリとして香ばしく中はふんわり。初めて食べましたが、関東風とはまた違う美味しさがありました。肝焼きも美味でした。お吸い物は、海老と湯葉と練り物が、味も関西風の薄味で上品。おそらくご主人は関西で修行されたのでしょう。信州で関西風は、ここだけかも知れません。

 帰りは雨上がりの豊科の夜の街を散歩。駅前通りの南側には、鄙びた飲み屋街があちこちにあります。なんていうか場末の温泉街の様です。左は元映画館をリニューアルして飲み屋街にしたもの。右は向こうにタイ料理屋の亜細亜。

 飲み屋の長屋があちこちに。コロナの影響でしょうね。カラオケが聞こえてきたのは一軒だけでした。帰って色々なチーズセットで赤ワインを飲みながら再開したJリーグの試合を観ました。翌日は、我が一族のルーツといわれる旧山辺学校に林藤助・小笠原長時の林城と、麓の林集落へ向かいます。これが驚愕のものでした。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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妙高山登山口の燕温泉へ。不動滝と惣滝。火祭りで有名な関山神社へ(妻女山里山通信)

2020-06-30 | 歴史・地理・雑学
 三泊四日の旅最終日。窓を少し開けて蚊取り線香を焚いていたのですが、六ヶ所刺されました。おそらくスマホをするために街灯の下に行った時に刺されたのでしょう。

 朝6時半ごろの道の駅しなのから望む妙高山。手前の柵の下には池があって、昨夜はカエルが鳴いていました。満天の星空で、北斗七星が光っていました。今日は、妙高山の登山口にある燕温泉に向かいます。まず杉ノ沢へ下り、399号を池の平、赤倉温泉へ。ここまでは広い道です。

 赤倉温泉で突き当りを少し登ると右に足湯。その先の角を右に曲がると関温泉へ。ここからは道幅が狭いので対向車に要注意です。写真は、大田切渓谷に出たところ。対岸の上に関温泉が見えます。

 渓谷にかかる不動滝。落差は20m。以前はもっと落差があって大滝とも呼ばれていたそうですが、滝壺が土砂で埋まってしまったとか。

(左)橋を渡って対岸へ。道路脇に駐車して大滝不動尊へ。(右)150mですが、高齢者や子供、山登りに慣れていない人は止めたほうがいいほどの道です。こんな風にトラロープもあります。

(左)足元は悪く、幅が30センチもないところも。水たまりもあります。下は崖です。(右)大滝不動尊。

 そこから望む不動滝。

 39号のT字路を左折してすぐに謙信の隠し湯ともいわれる関温泉。そこを抜けて3キロほど登ると写真の燕温泉です。トイレのある下の広い駐車場(無料)に車を止めて登ります。ここでカメラのバッテリーが、予備も含めて切れました。充電ケーブルを忘れたのです。なので、以下の写真はiPhoneです。画質はそれなりです。燕温泉の名前の由来は、イワツバメが大量に営巣するから。

(左)登山道案内図。大倉谷は台風の影響で橋が壊れたのか渡河できないと書いてありました。(右)登ってほどなく黄金の湯。標高1150m。泉質は、硫黄泉・炭酸水素塩泉・硫酸塩泉などで、美人の湯ともいいます。下側に女湯があります。小さな木の物置みたいな脱衣所があります。ここで、入浴セットを持ってこなかったことに気づきました。しかし、下まで戻って取りに行くずくがありません。この先の下には河原の湯があります。両方とも無料ですが、冬期は閉鎖です。

 少し登って落差80mの惣滝。少し危険ですが、遊歩道を伝って滝壺まで行けるそうです。しかし、カメラが使えないのでは。またにしましょう。

 見上げる妙高山(2454m)の雄姿。温泉街に戻る途中で、下から妙高山に登るという青年と邂逅。長野市から来たというので拙書の紹介をし、URLカードを渡しました。昼頃に山頂は厚い雲に覆われましたが、無事に登頂できたでしょうか。妙高山の妙は奇妙を思い浮かべると思いますが、本来は妙(たへ・たえ)といって言いようもないほど優れていることをいいます。妙齢・妙麗といいますね。また、松代には奇妙山という山があり拙書にも載せていますが、本来は帰命山であり帰命無は南無と同じで、身命を投げ出して仏の教えに従うことです。但しそれは思考を止めて盲信せよということではなく、精進するということです。

 温泉街に下ると、土産物店おじいさんが、休んで行きなさいよと。冬に学校に行くときは、スキーで駅まで下って、帰りは担いで登ってきたとか。15キロぐらいありますよね。行きはいいでしょうけどと聞いたら、当時は当たり前だったから辛いとか嫌だとか思ったことはなかったそうです。豪雪地帯ですが、屋根にはパイプが張り巡らしてあり雪下ろしは不要。道路にも融雪装置があります。むしろ下の人がうらやましがるそうです。ただ、後継者がいないなどで、三軒が廃業したそうです。往時ほどではないものの、駐車場はほぼ満車だったので、常連さんは戻ってきているのでしょう。写真の右手は、斑尾山。その奥は志賀高原の山々。

(左)39号を下って火祭りで有名な関山神社へ。本殿は文政元年(1818)に再建されたもの。(右)拝殿の両側の木鼻には、唐獅子と貘(バク)の見事な木彫。上越、中越、北信には、幕末から明治にかけて活躍した宮彫りの名工、北村喜代松がいたのですが、これは彼が生まれる前のものです。先代、あるいは先々代の作でしょうか。

(左)拝殿に奉納された「信州川中島甲越合戰陣取畧繪圖」。左になぜか武田 典厩 信繁の墨絵の肖像画が奉納されているのです。(右)私が持っている資料。「信州川中島合戰陣取畧繪圖」臨江齋画。更級郡北原村(長野県):松屋栄助再板とあるので、左の絵を模写したものでしょう。江戸時代中期以降、庶民の旅行が盛んになります。善光寺参拝の土産として、こういう川中島合戦絵図がいくつも作られ、飛ぶように売れたそうです。南の文字の下にある妻女山の位置は、現在の妻女山(旧赤坂山)ではなく斎場山(旧妻女山)の位置になっています。ここが上杉謙信が本陣としたと地元で伝わる山頂で円墳です。拙書では地図や歴史を詳しく記しています。

 妙高堂。本来は、妙高山の山頂に鎮座していた阿弥陀堂に木曽義仲が奉納したと伝わる阿弥陀三尊像が安置されています。明治政府は、神仏分離や廃仏毀釈、南方熊楠が猛反対した合祀令などにより、日本の伝統文化や自然(鎮守の森)を破壊しました。明治維新は、欧米の金融機関による薩長を傀儡とした軍事クーデターだったのです。

 関山石仏群。平安時代の作で、昔は登山道沿いの各所に置かれていたそうです。そのためか風化が激しい。裸行上人が、和銅元年(708)に初めて登頂したそうですが、当時は登山道などなかったでしょうし、装備も粗末、しかも裸行というように裸だったそうで、想像を絶します。『義経記』(ぎけいき)に、妙高山を妙観音岳と記しているのも目を引きます。
関山神社:その歴史。

 国道18号を南下して鮫ヶ尾城へ。案内所で昨年9月に訪れたときに湿原まで案内してくれたおばさんがいました。コシノコバイモの咲く場所などを教えていただいて山頂へ。山頂の本郭跡から北方の春日山城跡方面の眺め。風が吹くと気持ちがいいのですが、標高が低いので暑いです。さて、そろそろ帰路について温泉に入りましょう。

(左)帰りは北登山道を下ります。ヤマアジサイ。万葉集の二首。
「言問はぬ木すら味狭藍(紫陽花) 諸弟(もろと)らが練の村戸(むらと)にあざむかえけり」(大伴家持 巻4 773)
  (恋を語らない木ですら、紫陽花のように移ろいやすい。巧みな言葉に私は騙されてしまいました。)
「味狭藍(紫陽花)の 八重咲く如 やつ代にを いませわが背子 見つつ思はむ(しのはむ)」(橘諸兄 巻20 4448)
  (紫陽花が八重に咲くように、ますます長い年月を生きてください。紫陽花を見ながらあなたをお慕いします。)
 帰りに道の駅あらいで、スルメイカ10杯380円、幻魚の干物11匹500円、イクラとウニが鮨飯にのった丼1500円を買い帰路につきました。
(右)親不知と、ヒスイ海岸で拾った石の数々。左は、翡翠園で買ったお守りの本物の翡翠。翡翠には七色あるともいわれ、緑色、紫、黒が入ったものが有名ですが、純粋な翡翠は真っ白なんだそうです。こつは大きなものでなく小さなものを探すことです。濡れると透明感があるので波打ち際で探す人が多いのですが、ペットボトルに水を入れて、大時化の時に打ち上げられる様な石が溜まった少し中の場所で探すのもいいと思います。実は、以前に拾った石や大鹿村で拾った石を磨くために、ミニグラインダー60点のセットを買ってしまいました。おまけに、知る人ぞ知る激安通販のwishでサソリの入った琥珀を二つ買ってしまいました。鉱物の魅力にはまると底なし沼が待っています。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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ヒスイ海岸で翡翠探し・宇奈月温泉・生地魚の駅と北洋の館・親不知へとセンチメンタル・ジャーニー(妻女山里山通信)

2020-06-27 | 歴史・地理・雑学
 三泊四日の旅二日目は、富山へ向かいます。6時起床で、7時半に出発。鎮魂と癒やしの旅を追走するセンチメンタル・ジャーニーになりました。日本海は、今回も優しく美しい。それを育てるのが後背の山々です。

 朝9時に富山県朝日町のヒスイ海岸に着きました。左奥に親不知が見えます。すでにヒスイテラス前の海岸では、何人もの人が翡翠ハンティングをしています。親不知海岸がほとんど観光客なのに対して、こちらはガチです。ほぼプロの人ばかり。装備が全く違います。ウェーダーを履いて海に入ったり、長い柄の先に網のお玉をつけたり。拾った石の量も凄いです。私も一時間少し探しました。成果は最後の日のブログにアップします。

(左)ヒスイテラスの屋上から、あいの風とやま鉄道と国道8号。トラックドライバー御用達のドライブインきんかい。ここのタラ汁定食はおすすめ。ずっと左にある食堂金森のタラ汁も絶品でした。(右)ちょうど上り下りの電車が来ました。国道8号から県道13号に左折して、田園地帯を宇奈月温泉に向かいます。

(左)富山地方鉄道本線宇奈月温泉駅前の噴水。温泉です。(右)駅前の風情ある踏切。車は宇奈月公園の横にある駐車場へ。無料です。温泉街は狭いので歩くことをお勧めします。

 黒部峡谷鉄道の宇奈月駅は、宇奈月温泉駅から200m。通称トロッコ電車がやってきました。右の青い階段を下ると、左の赤い橋へ続くやまびこ遊歩道。左のトンネルから宇奈月ダムまで行けます。昨年の11月に訪れた際は、紅葉が見事でした。川魚を追って黒部川をさかのぼってきたのでしょう。カモメが舞っていました。

 トロッコ電車が出発しました。乗客はわずかです。ただ温泉街のホテルの駐車場には、たくさんの車が止まっていました。県外ナンバーも多く、団体客も見かけました。ここから県道14号、53号を走って生地(いくじ)の魚の駅へ向かいました。約30分です。

(左)生地の魚の駅。左に鮮魚店と土産物店。右にレストラン「航海灯」と案内所。昨年と比べると客は少ないですね。(右)目の前に黒部漁港。ここであがった地魚が食べられます。

(左)昼は「航海灯」へ。はずれはありません。幻魚の天ぷらもお勧め。(右)前回はしろえびかき揚げ丼をいただきました。今回は番屋の飯。刺し身はもちろん鯖の煮付けも美味。つみれ汁が馬鹿旨でした。食後は隣のとれたて館へ。夜のつまみを買います。

(左)ここの売りは地魚。黒鯛、真鯛、スジガツオ、カレイ、マトウダイ、クロムツなど。(中)ウマヅラハギ、ホウボウ。(右)トヤマエビ、キジエビ。信州ではお目にかかれません。ホタルイカ同様、富山湾の恵みです。

(左)左上がげんげ(幻魚)。げんぎょ、どぎ、みずうお、すがよなどとも呼ばれますが、正式名称はノロゲンゲ。深海魚で見た目はあれですが、これがめちゃくちゃ美味いのです。コラーゲンたっぷりで女性にお勧め。煮物もいいですが、天ぷらをのせた幻魚丼は絶品です。
(中)ニギスとハタハタ。ニギス(正式名称)は信州では新潟系のスーパー原信でメギスとして売られています。唐揚げや天ぷらに干物も美味しい。ハタハタはきりたんぽ鍋には必須ですね。左の小バイはバイ貝の小さなもの。煮付けてほじくりながらビールのつまみに。
(右)きときとの刺し身。鯛やヒラメもいいのですが、真ん中のアラとタチウオで迷いました。結局タチウオを。他に晩酌のあてに、カニの甲羅に身と蟹味噌を詰めたものとホタルイカの沖漬けを。この沖漬けが感動ものでした。こんな大きなホタルイカは見たことがありません。味付けは醤油、酒、本味醂のみ。しかも薄味で旨味が凄い。10匹入って500円弱。これは絶品でした。

(左)10キロを超える大きなメダイ。21600円という値段も凄いですが、こんな大きなものは初めて見ました。美味しい白身で、きときと寿しなどで食べられます。(中)アラ。クエと同じ仲間ですが違います。これも信州では見たことがありません。右はイシモチ。シログチともいいます。きときと寿しへ行くと分かるのですが、北陸のお勧めはマグロではなく白身魚なのです。
(右)あからはちめ。なんですか?煮付けがいいそうです。アクアパッツァにも。右は鮎。岐阜産。これぐらいだと塩焼きよりも、昔上野の鈴本演芸場の小料理屋で食べた、中骨を抜いて素麺で巻いて揚げ、天つゆでいただく俵揚げがいいでしょうね。そのお店はなくなった様ですが。

(左)海岸べりの道を北上してほどなく北洋の館へ。漁師小屋をリニューアルしたお洒落で居心地のいいカフェです。(右)昨年の11月に案内所で勧められて訪れて、お店のお姉さんから生地という地名の由来を聞いたり、拙書の紹介をしたりと楽しいひとときを過ごしました。今回も彼女と色々話すことができました。新型コロナウィルスで来られませんでしたが、GWに大きな蜃気楼が見られたそうです。う〜ん見たい!

(左)手作り感たっぷりのお洒落で温かいメニュー。シフォンケーキとコーヒーのセット。いいですね。(右)お昼も食べてきたのでアイスコーヒーを。ブラックで。クッキーとチョコがつきます。お店のおばちゃんたちもあったかくて、いつまでも長居したくなるお店です。お土産に秋刀魚の糠漬けを買いました。若狭地方ではへしこといいます。鯖のへしこ、フグ、イカ、ハタハタなどのへしこなどがあり、私の大好物です。

(左)併設の漁具や写真の展示も必見です。昔の漁の様子や祭りの写真もあります。味のある写真ですね。(右)古い漁船の舵輪。仕事をし尽くした感があります。帰りは魚津生地入善線を北上。味のある入善の街を過ぎたところで通行止め。仕方なく国道8号へ。

 親不知に寄りました。右の洞門は現役の国道8号。アップダウンと急カーブの連続で暗いので点灯とスピードダウンを。下り坂ではシフトダウンしてエンジンブレーキを。これを知らない人が多いのは困りものです。高速道路は海の上を走っています。

(左)歌川広重が描いた親不知。江戸時代はこんなだったのでしょう。加賀藩が参勤交代でここを通るときは、人の盾を並べて殿を守ったそうです。正式には親不知子不知といいます。まず自分を守るのに親も子もない。津波てんでんこと同じです。(右)親不知ピアパークの上にある糸魚川市のまるたん坊で入浴。宿泊もできます。日本海が一望できる展望のいいお風呂ですが、いつ行っても客は私だけ。もったいないです。お勧めです。

 マリンドリーム能生に戻りました。もう観光客はいません。たくさんのカモメ(海猫)が漁船の帰還と一緒に来ました。ニャーニャーと騒がしいこと。おこぼれはゲットできたかな。

 日の入りは7時10分。長野の北アルプスに沈む夕日も感動的ですが、日本海の水平線に沈む夕日も染み染みといいものです。色々な想いが交錯します。生地で買った魚介類をつまみに、辛口の白ワインで晩餐。明日は信州の高原に戻ります。ハーフの可愛い女子大生と邂逅した湿原へも。

マリンドリーム能生から親不知へ。黒部峡谷の入り口の宇奈月ダムへ。富山湾へ。魚の駅「生地(いくじ)」と北洋の館(妻女山里山通信):昨年11月の旅の記録です。紅葉の宇奈月ダムも。前後の記事もご覧ください。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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初詣は京都の清水寺の元寺という山形村の標高1200mの清水寺へ。驚くべき古刹でした(妻女山里山通信)

2020-01-04 | 歴史・地理・雑学

 初日に輝く北アルプスの常念岳(左)と横通岳(右)。雲ひとつ無い清々しい元旦の朝です。

(左)東山から登る初日。草間彌生の水玉の様なフレアーに今年の幸運を予感してしまいました。(右)突っ伏している次男はごめんなさいと懺悔しているのではなく、ドローンを飛ばしてその画像の確認をしているのです。ドローンは100mの上空にいて北アルプスのパノラマを撮影しています。後方は左から燕岳、仁科三山。白馬三山です。

(左)霜がおりた田んぼの畦道。(右)朝食は我が家恒例の太く長く生きろよとおしぼりうどん。信州でも旧埴科郡と更級郡でしか食べられていない極めて貴重な伝統食です。強烈に辛いねずみ大根の絞り汁に信州糀味噌をといていただくのですが、今回のはすすれないほど辛く、食べると胸焼けならぬ強烈な胃焼けがして参りました。ただ辛味は揮発性なので、時間が経つと辛味はなくなります。篠ノ井や戸倉上山田、坂城に名店があります。うどん好きでこれを食べたことがない人はマイスターとはいえませんね。小麦粉は友人が作った幻の伊賀築オレゴンと信州地粉のブレンド。

 山形村の清水寺からの展望。正面は美ヶ原の王ヶ頭。アンテナが目印。眼下には松本空港。飛行機が飛び立って行きました。

(左)清水寺の仁王門。(右)山形村指定天然記念物アララギの巨木。林業関係の長男も何?と思ったのですが、管理人のおじさんがイチイの木だよと教えてくれました。方言ですね。

 仁王門の阿吽の仁王像なんですが、今まで見たことのない不思議な造形です。白っぽいものと緑の違いはどういうことなのでしょう。凄いです。しかも石像。木像がほとんどです。はじめて見ました。非常に貴重なものだそうです。

(左)左右に三体ずつ地蔵が並んでいます。(右)趣のある山門。

 銅板葺きの本堂。銅板は近年のものでまだ新しい輝き。年月を経ると緑青色の趣のある佇まいになるでしょう。右上には鐘楼が。

 慈眼山 清水寺の御由緒。

(左)参拝していると管理人の方が来られて、本堂の扉を開けてくれました。撮影してもいいですかと問うといいですよと。前立本尊。手前の写真は秘仏の千手観音。(右)坂上田村麻呂の東征の絵で、最も古い絵だろうということです。現在は住職はいませんが、過去には6人の住職がいたとか。ここから京都の清水寺に嫁いだ方がいて、昨年90歳で大往生したとか。

(左)なんでしょう、薬箱ですかと聞いたら、いや御神籤(おみくじ)ですと。ただ番号を出す棒が箱から出せないんですと。(右)箱の中の御神籤を見せていただきました。驚いたのは、山号が慈眼山ではなく、京都の清水寺の音羽山ということ。これは管理人の方も不思議だねと。これこそ元清水寺の証拠かもしれませんね。いやこれは京都の清水寺で使われていたものではないでしょうか。それを新しくする時にこちらに寄贈されたのではないでしょうか。それなら納得できます。本来ここに安置されていた行基作といわれる千手観音は京都の清水寺に安置され、ここの秘仏は江戸時代のものとか。

(左)毎年5月に行われる秘仏御開帳の写真を見せていただきました。京都の清水寺から今年の漢字を書かれる森清範貫主とお孫さんも訪れるそうです。当日は秘仏の千手観音が公開されます。(右)見事に刈られたイチイ。

(左)境内には天宇受賣命(アメノウズメノミコト)が首にかけて踊ったというヒカゲノカズラ(石松)がありました。(右)不動明王の石仏。

(左)夕食の雑煮は、次男がふるさと納税で得た佐世保地鶏で。出汁は濃厚で超絶美味でした。(右)チェダーとかカマンベールとかチーズ六種にエステートゴイチのシラー。

(左)佐世保地鶏とアンガスビーフのソテー。アメリカ牛ですが、抗生物質やホルモン剤を使っていません。信州では西友や原信で買えます。安価ですが美味です。(右)元旦の夜は我が家恒例のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサート。最後のラデツキー行進曲を聴くと毎年寝落ちします。今年こそいい年でありますように。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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2019年の大晦日は濃霧の中を安曇野へ。鎮魂と癒やしと回顧の年末(妻女山里山通信)

2020-01-04 | 歴史・地理・雑学

(左)100m先が見えない濃霧の中を安曇野へ。対向車にフォグランプなど点灯していない車を散見。自分が見えるから不要ではなく、自分の存在を知らせるために必要。そこを知らない人が多い。薄暗い林道では真昼でも点灯が常識。(右)濃霧の国道19号を安曇野へ。東京電力の平ダム。長野県民は1ワットも使っていません。都民のためにあるのです。

 松本市の芥子坊主農村公園からの松本市街の眺め。無料のキャンプ場があり北アルプス始め360度の展望が望めます。大晦日とは思えないほどの穏やかな日です。ただ、このまま冬が終わり春になるはずがないのは皆分かっています。むしろ2014年の様な大豪雪が来る可能性が高いのです。

(左)昼は安曇野の名店、一葉で。私は最近はまっている鴨蕎麦。期待を裏切らない味でした。安曇野には池田町の翁を始め蕎麦の名店が数え切れないくらいあります。(右)大晦日のアルコール。奴奈姫は糸魚川の銘酒。純米吟醸ですがしつこくなく非常に美味しい日本酒です。右のシラーはエステートゴイチのシラー。素晴らしい。信乃大地は純米酒松尾と手作りヨーグルトのリキュール。その右は信州の高級スーパーツルヤオリジナルの100%紅玉のジュース。めちゃくちゃ美味しい。最後は一本1300円ぐらいする有機栽培のデルモンテの葡萄ジュース。

(左)次男が持ってきた山梨のご当地ビール。半端ない旨さです。販売すると瞬間に売り切れてしまうそうです。(右)信州の冬といえば野沢菜の漬物。添加物のない本漬けを買ってください。それ以外は偽物です。

(左)夜は牡蠣の土手鍋。近所のおばあちゃんにもらった甘みたっぷりの長ネギと椎茸。(右)しめは友人が作った幻の小麦、伊賀築オレゴンと信州の地粉で打った自家製うどん。絶品です。

 忘れていました。ロシア産のズワイガニも。なんちゃら歌合戦は観ません。鎮魂と癒やしと回顧の年末でした。初詣は、なんと京都の清水寺の元清水寺は信州だったの古刹へ。秘仏御開帳には、京都の清水寺から森清範貫主もお孫さんと訪れたとか。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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真田宝物館へ。御用絵師たちと真田の大鎧。見どころ満載(妻女山里山通信)

2019-12-07 | 歴史・地理・雑学
 松代藩十万石のお宝が詰まっている真田宝物館へ。「真田美術館へようこそ!/真田家の大鎧(おおよろい)」を観に行きました。

(左)真田宝物館。この向こうには真田邸があります。文武学校も近くですが工事中です。象山神社と記念館も歩いて行ける範囲です。(右)今回の展示。12月23日までです。週末に通ったら県外ナンバーの車も見られました。撮影禁止なので画像はありませんが、平日だったので学芸員の女性がつきっきりで説明してくれました。非常に興味深い話が聞けました。責任者の方にもお会いできてお話できました。真田マニアなら必見の展示です。

真田宝物館
「真田美術館へようこそ!/真田家の大鎧(おおよろい)」
2019年9月25日(水)~2019年12月23日(月)
「真田美術館へようこそ!」
 松代藩のお抱え絵師・三村晴山(みむら せいざん)と、幕末に松代藩の在野で絵を描いた女性の絵師・恩田緑蔭(おんだ りょくいん)を中心に、松代藩で活躍した絵師の作品をご紹介します。
 前期:9月25日~11月4日 後期:11月6日~12月23日(前後期で展示資料の一部入れ替えを行います)
「真田家の大鎧」
 江戸時代後期に作られ、真田家に伝わった4領の大鎧とそれに合わせた鎧直垂、陣羽織などを展示します。

斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信):榎田良長という人が描いた『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』が山の形や古道が超リアルだが調べても何者か分からないのです。
『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信):松代藩の御用絵師のひとりに青木雪卿(せっけい)重明と名主を務めた先祖が友人だったという記事。青木氏の子孫とのやりとりも
真田宝物館へ。戦国時代の英雄史観について(妻女山里山通信)


 江戸時代中期以降になると、伊勢参りとか善光寺参りとか、庶民の旅が盛んになります。十返舎一九のやじさんきたさんで有名な十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にもありますが、特にお蔭参りといわれる文政年間のものは、なんと日本人の8人にひとりがお伊勢参りをしたという驚愕の事実があります。善光寺参りも盛んでした。そんな旅人のために「川中島の戦い」の絵図がたくさん売られ好評を博した様です。そこで、個人的にそれらを集大成した展覧会を開催できないものかと真田宝物館で話したところ、長野市立博物館が最適と思いますと言われて訪れました。
 「川中島の戦い」の本を買い、学芸員の女性にその話をしました。朝日新聞や旺文社、キヤノン、パナソニックなどの仕事をアートディレクターやデザインプロデューサーとしていくつもの企画をしてきたので、個人的に川中島の戦いの絵図の集大成が観たいのです。当館のHさんに以前妻女山の初出を訪ねて行ったときに、江戸時代の人たちが見た川中島の戦いの研究をされたらどうですかといわれました。それは面白いなと思いました。しかし、興味は妻女山から斎場山、古代科野国、どこから出雲と大和は来たのかに興味が移ってしまいましたが、やはり、歴史的には全く重要視されない川中島の戦いが気になり始めました。この展示はぜひ開催して欲しいと思います。八幡原にあるこの博物館に最適な展示だと思います。合わせてグッズを販売していただくと嬉しい。川中島の戦いは人気があるので、県内外からの来場者が多数集まると思われます。
長野市立博物館

(左)博物館前の池には鴨がたくさん。(右)八幡社。祭神は、建御名方命(諏訪大社の祭神・大国主命の子)、誉田別命(応神天皇)。

 有名な上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの像。史実かどうかは神のみぞ知るということでしょうか。川中島の戦いについては、地元ならではの記事を多数掲載しています。右上でブログ内検索をしてください。我が家もそうですが、近隣の家はほとんどが川中島の戦いに参戦し、その後住み着いた家系が多いのです。色々な口伝が残っていますが、それらを聴き集めて集大成した話は聞きませんね。残念なことです。
上杉謙信と武田信玄「川中島合戦陣取りの図」(妻女山里山通信):榎田良長の川中島の戦いの絵図

(左)八幡社御由緒。大分県宇佐市の宇佐神宮が総本社です。八幡神は、誉田別命(応神天皇)で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。誉田は本田、秦氏との関係があるのでしょうか。大和王朝の祖ともいわれる徐福伝説とも関係があるのでしょうか。(右)「執念の石」。作戦の失敗から武田信玄の軍、武田軍の中間頭原大隅が馬上の謙信めがけて槍をついた外れて逃した。原は無念と傍らの石を槍で突き刺したという。まあ、江戸時代に観光用に作られた物語でしょうね。

(左)川中島大合戦図。この上なく大雑把なペンキ絵です。山並みの形が全くリアルではない。当時の長野市がペンキ屋の親父さんに頼んだのでしょうね。話にもならない図です。妻女山展望台の図も、以前、大阪から来たおじさんが、実際の風景と全く違うではないかと怒っていました。長野市観光課のレベルの低さが致命的に痛い。(右)首塚。戦が終ると、位の高そうな侍の首を切り取って洗って塩漬けにし持っていってあわよくば報奨金をもらう。死んだ侍から刀や鎧を奪い、女子供を売る奴隷市が立ちと綺麗事では済まない。そんな中でこの様なことができたのかはなんともいい難い。

 兵どもが夢の跡。手前に見える土塁は当時からあったとは思えません。この公園が整備されたときにもっともらしく作られたものだろうと思われます。川中島の戦いについては、いくつもの記事を上掲しています。右上の検索窓からブログ内検索で探してください。地元ならではの情報が読めます。

 真田宝物館で収蔵品の絵図を買い求めました。右は長野市立博物館で買い求めたもの。バックは真田信之所用の甲冑の兜をモチーフにしたフェイスタオル。左下に真田家家紋のひとつ「結び雁金」の金糸刺繍が。これは母校の松代中学の校章です。運動会では、真田節を踊りました。

 冷えた体を温めに温泉へ。土口水門からの堤防は、台風19号で越水しました。対岸の岩野橋すぐ上の横田河原は、洪水になると大量の土砂が溜まります。それを削除しなおかつしゅんせつ工事をし、流路を広げています。更に河川敷にもう一つの堤防を作っています。真ん中は凹字型の窪みを作って流れが入るようにしていました。これはどういう工法なんでしょうね。非常に興味深いものがあります。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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特別企画「土偶展」国宝土偶と中部高地の土偶。女性を崇めた縄文時代の人々(妻女山里山通信)

2019-12-03 | 歴史・地理・雑学
 長野県立歴史館開館25周年記念の特別企画「土偶展」に行きました。「国宝土偶」〜縄文文化の多様な個性〜は、10.26(土)から11.10(日)まで開催され大盛況でした。駐車場は満車で県外ナンバーも見られました。国宝の土偶が5体も見られるのですから当然でしょう。もし東京の国立博物館で開かれたら、入場まで1時間の行列になっていたかもしれません。今回は、11.23(土)から2.2(日)まで開催中の「中部高地の土偶」〜暮らしに寄り添う小さな女神〜を見に行きました。撮影可能だったので紹介します。

(左)入り口の右側の部屋で、国宝の土偶が展示されています。もちろんレプリカです。有名な「縄文のビーナス」。茅野市の棚畑遺跡出土で、縄文中期のものです。ハート型の顔と平らな頭部。こういう髪型だったのでしょうか。妊娠を示す腹部と大きな臀部。(右)これも有名な「遮光器土偶」。縄文時代晩期の作です。遮光器土偶といわれていますが、実際はなんなのか分かっていないようです。宇宙人説などもありました。色々な想像を掻き立てる土偶です。

(左)縄文時代後期の「仮面の女神)。これも腹部が丸く膨らんでいるので妊婦でしょうか。仮面はなにかの祭祀の再現でしょうか。呪術的なものを感じます。(右)土偶の移り変わり。 縄文文化は、今から約15000年前から始まり、約2300年前まで、12000年以上にわたって続きました。歴史人口学の研究者、鬼頭宏氏の推計によると、縄文時代の人口は、早期の2万人から中期には26万人にまで増えましたが、寒冷化により晩期には8万人にまで減少しました。寿命は30歳ぐらい。乳幼児の死亡率は、非常に高かったと思われます。
 そして弥生時代になると中国から越に滅ぼされた呉の人々が移住し、その後滅びた越の人々も来ました。稲作や鉄器の生産を伝えました。滅ぼされた国と滅ぼした国の邂逅。それが魏志倭人伝に残る奴国大乱なのかもしれません。その後、卑弥呼が国を平定します。さらにその後、秦の始皇帝を欺いて徐福を長とする古代ユダヤの一部族ともいわれる人たちが移り住み、ヤマト王権の祖となったともいわれています。

(左)「中部高地の土偶」。最も古い板状の土偶。国宝はありませんが、重要文化財のものも多数展示されています。(右)三角形の土偶。手や足の便化といいますがどうでしょう。アマゾンの先住民の女性が、性器に侵入してくるカンジルという小さなしかし危険な魚から身を守るために身に付けた焼き物の三角形のタンガと呼ばれるものがあるのですが、それによく似ています。そんな魚が日本にもいたのでしょうか。ちなみに現在はTバックの下着や水着のことをいいます。

 縄文時代中期の「バンザイ土偶」。富士見町坂上遺跡で重要文化財。土偶の体には模様が描かれていますが、縄文人は入れ墨をしていたのでしょうね。衣服にも同じ様な文様があったと想像できます。

(左)非常に特異な形をした「中空土偶」。非常に想像力と創造力豊かな土偶です。(右)弥生時代になって現れて「土偶形容器」。亡くなった人の骨を入れる容器とか。弥生人の流入によって、縄文文化は衰退していきました。他にもたくさん興味深い土偶が並んでいます。

 会場の長野県立歴史館。後ろは、屋代城跡のある一重山(旧小島山)。地元で一重山と呼んでいた山頂は、この右下にあります。国土地理院が三角点を置いて命名する山頂は、地元の呼称とずれることが度々あるのです。妻女山はそのいい例です。

 駐車場から見上げる「森将軍塚古墳」。東日本最大級の前方後円墳です。
森将軍塚古墳。大和系と出雲系が結ばれ古代科野国の祖となる(妻女山里山通信)

(左)記念に買った黒曜石のストラップと黒曜石の破片。(右)前期の国宝展で買ったカタログや手ぬぐい、ピンバッチなど。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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長野市南部の保科に鎮座する牡丹と紅葉で有名な阿弥陀山清水寺へ(妻女山里山通信)

2019-11-30 | 歴史・地理・雑学
 金曜日の午前中は雪もちらついた長野市南部。最高気温が6度と寒い日でした。紅葉はもう終わっているかなと思いましたが。確かに終わっているものもありましたが、見頃やまだ緑色の葉もありました。今年は冷え込みが浅いのでここに限らず里山の紅葉は鮮やかさに欠けますね。
 清水寺(せいすいじ)は、真言宗智山派の寺で、山号は阿弥陀山。信濃三十三番札所の十六番札所です。

 鐘楼の脇の紅葉。白い壁や青空に映えます。お昼頃だったのですが、次々に車がやってきました。

 清水寺の御由緒。国指定重要文化財の説明。
 寺伝によれば天平14年(742年) - 行基が千手観音像・脇侍聖観音像・不動明王像を造像し寺を創建したといい、大同元年に坂上田村麻呂により堂宇が再建されたという。
木造聖観音立像(平安時代末期、寄木造)
木造千手観音坐像及び脇侍地蔵菩薩立像(千手観音は平安時代中期、一木造、地蔵菩薩は平安時代末期、寄木造)
木造阿弥陀如来立像(平安時代末期、寄木造漆箔)
木造薬師如来坐像(平安時代中期、一木造)
木造広目天立像・多聞天立像(平安時代末期、寄木造)
絹本著色両界曼荼羅図
鉄鍬形 金銅雲竜紋象嵌

(左)本堂。(右)本堂左手から奥の院の観音堂への石段が始まります。私は山を登りなれているので13分で着きましたが、普通は20〜30分かかると思います。

(左)登り始めの紅葉は水分が抜けて縮れていました。(右)三重塔跡。1916年(大正5年)の保科大火で消失。大日堂や仁王門、数々の仏像なども消失しました。参道は、豪雨で石段が壊れたり、えぐれていて歩きにくいです。できればトレッキングシューズで。観音堂までは、本堂の右手から車道がありますが、軽トラや四駆の軽がいいでしょうね。

 手水と不動明王か。清水寺観音堂が見えました。

 懸崖づくりの観音堂。京都の清水寺を連想させます。

 重要文化財の千手観音。真言は、おん ばざら だらま ぎりく そわか(唵 斡嚩囉 塔囉痲 紇哩 蘇婆訶)。密教における仏菩薩(ぶつぼさつ)などの本誓(ほんぜい)(人々を救済しようとするもとの願い)を表す秘密語、密呪(みつじゅ)。サンスクリット語のマントラmantraの訳。呪(しゅ)、神呪(しんしゅ)などともいわれる様です。

 観音堂の脇に立つ見事な枝垂れ桜。春はそれは見事でしょう。

 逆光の紅葉。赤い色が少ないのは、冷え込みが浅いのでアントシアニンが増えないためです。まだ緑色の葉さえ見られます。しかし、空気は冬の匂いがします。

 大正の大火で消失した堂宇の説明。三重塔は、裳階(もこし)がありませんね。上田市の塩田平にある国宝の大法寺三重塔と同じ造りでしょうか。だとしたら本当に重要なものが失われてしまったということです。
その美しさから「見返りの塔」と呼ばれる大法寺の国宝三重塔へ(妻女山里山通信)

 羅漢像の向こうに鐘楼と紅葉。暖かい格好をしてきましたが冷えました。温泉に入る前にお昼を。

 篠ノ井の石川亭へ。おしぼりうどんをいただきました。辛味大根(ねずみ大根や信州地大根など)の絞り汁に信州糀味噌、鰹節、長ネギを溶いていただきます。信州でも旧埴科郡と更級郡でしか食べることができない、醤油がなかったころからある相当古い伝統食です。辛くて甘いその味を「あまもっくら」といいます。篠ノ井や戸倉上山田温泉、坂城には名店があります。うどん好きならぜひ召し上がってみてください。我が家では昔から長く太く生きるという意味を込めて、元旦の朝は毎年これをいただくのが伝統です。
おしぼりうどんのオリジナルレシピ

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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上杉景虎が自害した御館の乱の鮫ヶ尾城跡。倭国大乱の斐太遺跡。ナウマンゾウ博物館。錦秋の苗名滝(妻女山里山通信)

2019-11-12 | 歴史・地理・雑学
 妻女山里山デザイン・プロジェクトの恒例の秋のトレッキングは、私が9月中旬にひとりで訪れた上杉謙信が信州からの攻めの備えとして築城した鮫ヶ尾城跡へ。ここは、謙信亡き後跡目相続で、上杉景勝と上杉景虎が争い。景虎が自害した山城として有名です。しかし今回私は、魏志倭人伝に載る卑弥呼の倭国平定(邪馬台国)の前に起きた倭国大乱に興味を持って訪れました。

(左)道の駅あらいから近くの鮫ヶ尾城へ。御館の乱の説明を読みます。向こうは案内所。お茶と柿、漬物を頂きました。(右)斐太遺跡群の説明と自然。

(左)鮫ヶ尾城の図(上越マイスターと呼ばれた大塚直吉氏作)。(右)御館の乱の説明。独身の謙信には子供がなかったため、景勝、景虎共養子です。謙信は跡目相続のことを考えていなかったのでしょうか。

 鮫ヶ尾城跡の縄張り。ちなみに南が虎口になります。最近、熊が目撃されたとか。

(左)斐太遺跡群の説明です。倭国大乱の時に現れた東日本最大級の住居跡。その後も使われたようですが。倭国大乱とは何か。倭国大乱で軍事的緊張が高まった時期に、短期間に使われた一過性の集落だそうです。その後、人々はどこへ行ったのでしょうか。信州へ逃れた人もいるのではないでしょうか。春秋時代の紀元前480年頃に越により滅びた呉のエリートが渡来。紀元前330年頃に滅びた越が渡来とすると、日本全体で60万人といえども渡来した地域は近かったはずで、倭国大乱が起きても不思議はないと考えます。5月に鳥取で弥生時代の110体におよぶ人骨が発掘されましたが、皆頭や体に襲われた大きな穴が開いていました。倭国大乱の証拠かもしれません。先に渡来した呉の民が越の民を襲ったのか。逃れた越の人々が斐太遺跡に隠れ住んだとかもあったかもしれません。越後の地名がその名残かもしれません。(右)残る弥生式土器。縄文末期の日本の人口は8万人ともいわれます。弥生時代に大量の移民があったことが分かります。そして、古墳時代には400万人に。日本は移民の国なのです。
 その後秦の始皇帝の時代に失われた古代ユダヤの一族といわれる徐福を長とした集団が渡来し大和王権の祖となったといわれます。その徐福が連れてきたのが高度な技術者集団の物部氏という説。伊勢神宮の内宮や外宮を裏で支えているのは伊雑宮(いざわのみや)という物部系の伊勢神宮であり、京都においても天皇を守っていた下鴨神社と上賀茂神社を支えているのは物部系の河合神社。伊勢神宮は現在地に鎮座するまで、90年かけて候補地を転々とした。それを元伊勢(もといせ)というが、その元伊勢の中でも最重要な存在が籠神社(このじんじゃ)。これは、特別に本伊勢(ほんいせ)とも呼ばれている。籠神社の裏社紋がユダヤのシンボルであるダビデの星であるという事実。安曇族と徐福。飯縄権現が白狐に乗った烏天狗。これも古代ユダヤとの関連性。諏訪大社にイスラエル人を連れて行ったら、これは古代ユダヤの神殿と同じと。守屋山とか古代ユダヤ語が伝わっているとか、ダイナミックな古代史があったことが分かります。

(左)池の畔を巡って山城へ。太公望がへらぶな釣りをしていました。(右)つづら折れで登るとすぐに広い尾根に乗ります。ここに弥生時代の住居跡があります。

(左)アキノギンリョウソウ(ギンリョウソウモドキ:銀竜草擬)が結実していました。葉緑素を持たない植物です。(右)オオイワカガミの葉。群生地があります。5月に満開の頃はさぞ美しいでしょうね。

(左)足元にグランドカバーの様に赤い実をつけたヤブコウジが広がっています。(右)長く深い空堀。

(左)本郭の手前にある通称東一の丸。(右)少し下って小道を進むと本丸の四阿が見えてきます。

(左)本郭の下にある水場。サイフォンの原理で湧き出しているようです。水場のない山は、山城として機能しません。兵糧攻めに遭ったら生き残れません。春日山城跡もそうです。(右)そこに咲くノコンギク。

(左)山頂です。風もなく穏やかです。(右)上越の平野。遠く米山が見えます。

(左)国指定史跡鮫ヶ尾城の案内。(右)道の駅あらいで買ってきた寿司やあんこうの唐揚げ、ノドグロのさつま揚げ、海老と蓮根の落とし揚げ、メンバーが作ってきたピーマンと長ネギの煮浸し、柿などで昼食。

 赤とんぼが舞う穏やかな山頂。遠く日本海も見えます。山に囲まれた信州と違って開放感があります。気持ちがいい。信州の中信、東信、北信の人たちは、上越や糸魚川の海は自分たちのものと思っています。谷浜には信州の海の家があるし、週末は長野、松本ナンバーの車ばかりです。海釣りに来たり海水浴に来たり。道の駅のパンフレットも新潟と長野を同時掲載したものが多く、長野と新潟は愛し合っているのです(笑)。逆に野沢温泉などに行くと長岡ナンバーばかりだったりします。

(左)まったりと昼餉を楽しんだ山頂の四阿。(右)記念撮影。実はメンバーに、台風19号で水害に遭った者がいます。農機具倉庫が40センチほど水没し、農業機械に被害が出たとか。我が家も河川敷の畑が水没し、長芋の収穫に影響が出ています。それでもこんな風に日帰りの山行に来られるだけいい方なのです。妻女山里山デザイン・プロジェクトも妻女山山系の被害をまだ完全には把握できていません。

(左)コムラサキの鮮やかな実。(右)ホツツジが一輪咲いていました。

(左)弥生時代の竪穴式住居の再現。(右)アミタケがありました。

(左)野尻湖畔にあるナウマンゾウ博物館へ。フォッサマグナの命名者であるナウマン博士。(右)ナウマンゾウの臼歯。石器人はこんな大きなナウマンゾウを石槍でしとめていたのです。大量の肉をどうやって保存したのでしょう。干し肉や塩漬けでしょうか。美味しかったのでしょうね。狩りすぎて、ナウマンゾウは滅亡へと向かいました。

(左)石器人が作ったナウマンゾウの牙とオオツノシカの角で作られた月と星と思われる祈りのオブジェ。(右)和田峠で産出し全国に流通した黒曜石。刃物として使われました。

 次に苗名滝へ。観光客でいっぱい。中国からの団体客も。紅葉の季節です。有名な観光地で軽装の人が多いのですが、トレッキングシューズをおすすめします。

(左)滝口。(右)滝壺の水煙。

 轟音が響きます。この後、冷えた体を温めに苗名の湯に入ってから信州に帰郷。

(左)慰労会は、篠ノ井消防署隣の長崎亭。クロソイの刺し身。生牡蠣のフライに酢牡蠣。赤イカの刺し身などを堪能。(右)締めは長崎ちゃんぽん。いい山行でした。

上杉謙信が築城し、景勝と景虎が争った「御館の乱」で有名な鮫ヶ尾城へ。「倭国大乱」の頃からの斐太遺跡。秋桜(妻女山里山通信)

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マリンドリーム能生から親不知へ。黒部峡谷の入り口の宇奈月ダムへ。富山湾へ。魚の駅「生地(いくじ)」と北洋の館(妻女山里山通信)

2019-11-08 | 歴史・地理・雑学
 二日目の朝。信州に比べれば随分と温かい朝です。宇奈月温泉の奥にある黒部峡谷の入り口にある宇奈月ダムを訪れました。そして道の駅宇奈月から西へ。富山湾を望む黒部市の生地(いくじ)の道の駅へ。案内所ですすめられた街のカフェ北洋の館へ。今回もいい出会いがありました。

 朝7時のマリンドリーム能生。夜中に物凄い雨が降りました。曇っていますが昼頃には晴れそうです。釣り人が何人かいます。チヌ(クロダイ)やメジナ、キジハタ、真鯛のシーズンです。アオリイカも。

 道の駅親不知ピアパークへ。海岸には10人ほどの人がいました。皆さん翡翠を探しています。日本海にしては結構波が荒いです。波には一発波という突然来る大波があるので、翡翠探しに夢中になっていると危険です。私も探しましたが、そうそう簡単に見つかるものではありません。それに、どれが翡翠かも分かりません。糸魚川のフォッサマグナミュージアムでは、石や化石の無料鑑定を行っています。詳しくはHPで。

 8号を西へ向かいます。途中で左折して宇奈月へ。9時半頃宇奈月ダムに着きました。元長野県知事の田中康夫氏の脱ダム宣言には私も賛成でした。ダムはゼネコンの利権の塊でしたから。ただ本当に必要なダムもあるのも事実です。この宇奈月ダムもそのひとつだと思います。後で訪れた黒部市歴史民俗資料館では、黒部川の氾濫と戦った人々の歴史を知ることができました。少し面白い形をしたダムですが、それには理由があります。

(左)大夢来館から見るダム。(右)。ダム関係の資料だけではなく、昆虫や自然の展示もあります。

 ダム湖のうなづき湖畔にある欧州の古城のような新柳河原発電所。トロッコ電車が走っています。欅平までは約80分。

 エメラルドグリーンのうなづき湖。奥は黒部峡谷。この右手にはとちの湯があります。冬季は閉鎖になります。

(左)道の駅うなづき。(右)宇奈月ビールと写真のタペストリーを買いました。「日本三霊山越中立山の絵図」。鉄道の線路が描かれているので、明治時代後期か大正時代のものらしいです。なぜかハワイアングッズが豊富な道の駅です。

(左)道の駅の隣りにある黒部市歴史民俗資料館へ。「十二貫野用水ー開削の記憶ー」の特別展を開催中でした。まず案内の女性が、「黒部の流れと宇奈月」のムービーを上映してくれました。非常にいい映画でした。(右)愛本刎(はね)橋の復元模型。山口県岩国市の錦帯橋、山梨県大月市の猿橋とともに「日本三奇橋」といわれます。

(左)黒部川扇状地の絵図。(右)縄文時代の石器。男性器を模したもので、土偶の女性と対と考えられています。

(左)14号を西へ走り富山湾へ。お昼に魚の駅「生地(いくじ)に着きました。(右)紅ズワイガニ。鮮度といい大きさといい抜群です。紅ズワイガニを食べるならここですね。

(左)巨大なそでいか24000円にはたまげました。その他山国信州人なら初めて見たという様な地魚がたくさん。凄い品揃えです。(右)活魚も。ひらめ9800円。魚の駅を名乗るだけあります。今まで訪れた道の駅では最強です。今度は大きなクーラーバッグを持ってきます。

(左)お昼は併設のレストランへ。(右)刺し身は結構食べているので、しろえびかき揚げ丼を。右の味噌汁の具は鯛です。満足です。

(左)生地は名水の里。街中に清水が湧き出しています。地元の方は清水(しょうず)といいます。(右)殿様の清水。僅かに塩気があります。清水によって味が異なるそうです。

(左)道の駅の案内所ですすめられた海岸沿いの漁具倉庫ギャラリー「北洋の館」へ。(右)魚群探知機でしょうか。古い潜水用具もありました。

(左)昔の漁の写真。非常に活気があったことが分かります。(右)帆船の模型。

(左)カフェの店内です。非常に癒やされる空間です。薪ストーブも。(右)カプチーノを頼みました。キューブ状のチョコとクッキーがついてきます。ブラック派なので砂糖もミルクも入れませんが、とても美味しいカプチーノでした。お店の女性に生地の名前の由来を聞いたり、色々お話できて楽しい時間を過ごしました。今度行くときはクーラーボックス持参で、秋刀魚のへしこと丸干しを買いたいと思います。
北洋の館ホームページ:中水産の古い木造倉庫を利用したギャラリーカフェと、地元名産品を取り扱うお店です。

(左)カフェの前にある生地鼻灯台。(右)すぐ先にあるお台場の大砲。黒船襲来で加賀藩が造ったものだそうですが。こんな可愛い大砲で撃退できたでしょうか。蜃気楼は、4月からGWの頃がいいとか。また来ましょう。

(左)そこで教わった菅原道真由来の前名寺天満宮へ。(右)庭園内にある清水。クセのない美味しい軟水でした。

 親不知に戻って公共施設まるたん坊で入浴。親不知ピアパークの信号を山に登るとあるのですが、意外に知られていません。お風呂からは日本海が見渡せます。入浴料300円。宿泊もできます。おすすめ。 
親不知交流センターまるたん坊

 名立のドライブイン名立食堂で夕食をいただいてマリンドリーム能生に帰還。夕焼けを愛でながらワインを。この夜は時々車が小刻みに揺れるほどの西風が吹き荒れました。見上げるとオリオン座。癒やしと鎮魂の旅は続きます。

 今日は千曲市にある長野県立歴史館に特別企画の「土偶展」を観に行きました。駐車場は満車です。なにせ国宝の土偶が5体も展示されるのですから。東京でやったら1時間以上待ちとか、人の肩越しでないと見られないという状況になりそうです。土偶はそれは素晴らしいものでした。縄文人の心の豊かさや技術の高さ、祈りの深さを感じました。10日(日)までの開催です。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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癒やしと鎮魂の旅。道の駅あらい。マリンドリーム能生。糸魚川一ノ宮の天津神社・奴奈川神社。クラシックカー(妻女山里山通信)

2019-11-06 | 歴史・地理・雑学
 車中泊の旅。今回の目当ては宇奈月ダムと黒部市の生地(いくじ)です。早朝に出発。さすがにいきなり高速では危険なので須坂インターからのりました。道の駅あらいのスマートインターでおりました。

(左)道の駅あらいの鮮魚センターで、朝食用に買ったウニ・イクラ丼。朝から贅沢かなと思いましたが、昼になると売り切れるのも知っていたので買いました。ご飯が少なめで朝食向き。(右)前回春日山城跡に訪れた時は閉まっていた上越市埋蔵文化センターへ。謙信公の展示を観に行きました。変な頭の宇宙人?いえいえこの日はこの後お祭りがあるのです。

(左)上杉景勝の書状。(右)川中島合戦の上杉謙信の軍配と太刀。展示品の多くはレプリカです。お祭りなので武士の装束のお姉さんとお話しました。拙書でも紹介の本当の妻女山、本名は斎場山の話も。武士になりきっているので、そうでござるとか言うので笑いを堪えるのに必死でした。でも謙信愛がひしひしと伝わってきます。祭りも見たかったのですが、後ろ髪惹かれつつ能生へ。春日山城跡も必見ですよ。以前の記事を御覧ください。
新潟/上越・糸魚川・妙高、富山/魚津、長野/信濃町への三泊四日の車中泊ぶらり旅 その1。春日山城跡へ。地震にも遭遇(妻女山里山通信

 マリンドリーム能生。三連休なので駐車場は満車。次々に入ってきます。たくさんの人が何をしているかというと、ベニズワイガニを食べているのです。寒風もなく穏やかな日です。

(左)浜焼きにも行列が。(右)昼食はベニズワイガニ。これでほぼお腹いっぱいになります。カニ三昧。

(左)350円のカニパイ。カニがぎっしり詰まっています。これおすすめです。(右)ケニアからのミュージシャン。あちこちで演奏をするみたいです。楽しいリズムに一番反応するのは小さな子供達。昔、セネガルのパーカショニスト、ドゥドゥ・ニジャエ・ローズのコンサートに行ったことがあります。動画もたくさんアップされているので観てください。一緒に行った結婚前の妻が、本当に楽しそうに踊っていたのを思い出しました、

(左)糸魚川市へ。糸魚川一ノ宮の天津神社・奴奈川神社へ。拝殿です。七五三ですが、初宮の可愛い幼子を連れて家族が訪れていました。(右)奴奈川姫の本社。奴奈川姫は、糸魚川の土豪の妻で翡翠を象徴とする巫女だったらしいのですが、大国主命に見初められ夫を殺され略奪婚をしたと伝えられています。建御名方命は、信州一宮の諏訪大社の祭神です。その孫が妻女山麓にある上杉謙信も尊崇した会津比売神社の会津比売命です。出雲系。夫は崇神天皇に初代信濃國造に任命された武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]と伝わっています。武五百建命は大和系。出雲系の後に入ってきた越のエリート達。つまり三国志で滅亡に追い込まれた国の高度な技術を持ったエリート達が来訪したと考えられます。弥生時代にはすでに製鉄技術があったのです。拙書ではそれを「みすずかる信濃の国の鉄バクテリアがずくを出す」というエッセイで紹介しています。
 歴史人口学の研究者、鬼頭宏氏の推計によると、縄文時代の人口は約10万人~約26万人、弥生時代は約60万人。(古墳時代は400万人)奈良時代は約450万人。この急激な人口増は、生物学的には証明できません。大量の移民があったと考えるべきです。それが、呉越、徐福伝説、高句麗からの移民を意味するのではと考えます。日本史を世界史と分けて学んではいけないのです。三国志にそのヒントは隠されています。

(左)前から気になっていた天津神社のこの石組み。どういう建物があったのでしょう。(右)そして今回気がついた柱の穴。回廊があったのでしょうか。

(左)次にフォッサマグナミュージアムへ。なんとクラシックカー・フェスティバルが行われていました。フランスの名車シトロエンの2CV( ドゥーシーボー)。30年以上前にパリへ行った時に、このタクシーに乗りました。隣には彼女、助手席には犬が乗っていました。石畳のパリに合わせてサスペンションはフワフワです。(右)スバルの名車アルシオーネ。美しい車です。ちなみにアルシオーネはブラジルの女性の名前で、国民的に有名な歌手がいます。「愛のサンバは永遠に」は名曲で私はブラジルで買ったLPを持っています。素晴らしい歌手です。
◉Alcione - Não deixe o samba morrer



(左)その隣になんとスバル・ジャスティ!。持ち主は若い男性でしたが、取り巻きが多くて話を聞けませんでした。実は長男がこれに乗っているのです。帰って聞いたらフォロワーさんの一人だとか。変わりもんですわな(笑)。(右)ダッシュボード。当時私が乗っていたスバル・レオーネツーリングワゴンと似ていますね。ボタンを押すと車高が4センチ上がるという、パワーボタンがあったり、子供達も大好きないいクルマでした。

 なんかこんなペーパーバッグやゲームがあったのですかね。驚きました。

(左)ジャスティのミニカー。こんなのあったのですね。そしてモーターファン。(右)ジャガーEタイプ。いや美しい。

(左)ダッシュボードとステリアリング。なんて美しいのでしょう。(右)ため息が出ます。このまま空も飛べそうです。この車を作った人の愛を感じます。

 フォッサマグナミュージアムへ。初期の勾玉は色々な形をしています。それが仏教伝来とともに突然消えてしまいます。実は仏教伝来とともに消えたものは、これだけではないのです。それを研究しています。

(左)翡翠の巨岩。(右)プラセンセラスの化石。美しく輝いています。

(左)登山家を魅了した高き峰々。なぜ人は山に登るのか。(右)黄鉄鉱の結晶は、人工とはなんなのか、人為とはなんなのかを問いてきます。お前たちの知っていることは宇宙のほんの一部に過ぎないのだよと言われている気がします。

(左)帰りに参拝者が多くて寄れなかった天津神社の子聖社へ。恋愛御籤を引きました。大吉でした(笑)。(右)その左手にある石碑。見当はつくのですが、説明が欲しいですね。

 夕食は名立のドライブイン名立食堂へ。何度も前を通っていたのですが、初訪問です。

(左)店の後ろでカモメが。(中)店の主人が餌をあげていました。これをしないと店の屋根が糞だらけになるとか。秋が深まると北海道や秋田から大きなカモメが飛来するそうです。(右)いただいたのがミニ甘海老丼と天ぷら蕎麦のセット。テツandトモも絶賛の甘海老丼をおすすめします。たら汁定食も。近所の人やトラックドライバーも訪れるいいお店です。

 美しい夕焼け。信州の北アルプスに沈む夕陽とはまた違った趣があり染み染みとします。車中泊のマリンドリーム能生に戻ります。夜半には物凄い雨が降りました。明日は富山へ。癒やしと鎮魂の旅は続きます。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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道の駅名立・戸隠の紅葉・宝光社戸隠神社・鬼無里・小川の高山寺三重塔・戸倉上山田温泉へ・お土産。センチメンタル&レクイエムの旅(妻女山里山通信)

2019-10-21 | 歴史・地理・雑学
 最終日、信州に帰ります。途中で長野県へ災害復旧に向かう自衛隊の車両にたくさん出会いました。被災地の方にお風呂を提供とか、本当にありがたいでしょう。チケット持参で入浴できる施設もあります。各自治体にお問い合わせを。長野市南長野運動公園でのボランティア募集では、定員の3倍もの人が集まったそうです。帰宅後に仲間と保全活動をしている妻女山に行きましたが、林道は豪雨でえぐれ新たな倒木が何箇所かで塞いでいる様です。次の週末に確認に行きます。
 各地で水害に見舞われた信州ですが、大丈夫な観光地もたくさんあります。戸隠も外国人観光客がたくさん訪れていました。別所温泉などでは松茸のシーズンです。ぜひおいで下さい。

 朝7時半の道の駅名立。ここの風車は健在です。ここの道の駅は、宿泊施設、温泉、プールなどがあるためか、駐車場はほぼ満車でした。後方は、能生、糸魚川、親不知方面です。

 沖合には漁船。夜はアオリイカ漁でしょうか、漁火が見えました。

 9時20分ごろ道の駅しなのに到着。黒姫山。

 北に妙高山。2日ぶりですが、紅葉が進んだように思います。初雪が降るのも間近でしょう。

 戸隠へ向かいます。途中の紅葉。ハウチワカエデやコハウチワカエデ、ヤマモミジなど。赤い色が少ないのは、冷え込みが浅いから。まだ緑色の葉も見られます。見頃は11月に入ってからでしょうか。

(左)宝光社の右隣に見たことがある旅館が。高校時代に美術班の皆で油絵を描きにきた時に泊まった宿です。懐かしい。(右)戸隠神社宝光社。270段余りの長い石段がありますが、左に女坂があります。

 戸隠神社五社(奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社)のひとつ宝光社。社殿の宮彫りが見事です。
戸隠神社公式サイト

(左)木鼻の唐獅子と象。宮司さんに伺うと作者は名工、北村喜代松とのこと。帰って彼の本を見ると載っていましたが彼が作ったのは向拝(ひさしの部分)でこの木鼻の木彫は別の人の様です。北村喜代松の代表作には、鬼無里の山車や松代の長国寺本堂などがあります。今現在これだけの技術を持った宮彫り師はいません。技術だけではなく高い感性を育むことが大切です。日本の教育には、その部分が欠けています。(右)艶やかで荘厳な神輿。二基あります。

(左)御神籤。普通の神社の様にお金を払って自分で選ぶのではなく、数え年を伝えると、宮司さんが奥に入り祝詞をあげてくれます。なんでも戸隠神社が御神籤の発祥の地だとか。それと、もの凄く綺麗な音がする水琴鈴というお守りを買いました。御神籤の文言はまさしく私にぴったりのもので、今後の指標にしようと思います。精進あるのみ。(右)戸隠神社の御由緒。

 ここから県道36号を鬼無里に向かいます。大望峠の展望台から鬼無里の眺め。鬼無里には、その昔、京の都を遷都しようとした名残の東京(ひがしのきょう)という地名があります。
大晦日は鬼無里村の東京へ。賀茂神社春日神社と白髭神社。貴女紅葉の松厳寺。戸倉の水上布奈山神社(妻女山里山通信):鬼女伝説と上に記載の名工、北村喜代松の宮彫りが見られます。これは必見です。

 下って鬼無里の中心部へ。左へ善光寺・長野市中心街、右へ白馬、小川。右へ行きます。前に見えるのは、拙書でも掲載の神話の山、虫倉山。神城断層地震で山頂の4割が崩壊したことは、拙書でも書いています。この右の峠を超えて小川に抜けます。

 36号を登って鬼無里を振り返ります。晴れていれば戸隠の西岳が見られるのですが。

 小川の星と緑のロマン館。宿泊施設や温泉があります。おやきの店も。紅葉の時期に仲間と虫倉山に登り、下山後にここから見た仁科三山に沈む夕陽は忘れられません。

 下る途中に県宝の高山寺三重塔。高山寺(真言宗豊山派)の創建は大同3年(808年)、坂上田村麻呂将軍が戦勝祈願のため観音堂を健立し、弘法大師が自ら彫り込んだ聖観音像を安置したのが始まりといわれています。建立年は、江戸時代中期 元禄11年(1698年)。晴れていればバックに北アルプスの仁科三山が見えます。
 ここから小川の中心部へ下り、36号を信州新町へ越えようとしましたが、台風19号の災害で不通。仕方なく白馬長野有料道路から国道19号へ。途中で86号に右折し茶臼山の峠を越えます。

 茶臼山の中腹から見る善光寺平。写真ではわかりませんが、あちこちに水害の跡が見られます。一日も早い復旧・復興を願います。今回訪れたところや通った峠道などは、昔家族で通ったところがほとんどです。センチメンタル・ジャーニーで、レクイエムの旅となりました。

 昼は戸倉上山田の本格的な中華料理屋「大上海」へ。ワタリガニと高菜のすっぱ辛味スープ麺をいただきました。ワタリガニがたくさん入っていて美味です。この後、痛めている腰を養生しに万葉超音波温泉に入り帰宅しました。

(左)今回の土産。道の駅おがわで買ったおやき。市販のものは砂糖が入っていてくどく人工的な甘さのものが多いのですが、これは野菜の甘味や旨味がたっぷりで気に入りました。砂糖を使う料理人は、どんなに有名でも私は認めません。素材本来の甘さか、サトウキビ100%の黒糖、麦芽糖、蜂蜜などを使うべきです。調べれば分かります。(右)マリンドリーム能生で買った糸魚川市の猪又酒造の純米吟醸「奴奈姫」。奴奈姫とは、大国主命の妻で諏訪大社の祭神の建御名方命母の奴奈川姫のことです。非常に美味しい日本酒でした。

 命ある限り、あなたの、私のショーは続く。
Freddie Mercury Tribute - The Show Must Go On


『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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