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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信)

2015-12-28 | 歴史・地理・雑学
 週末から寒気が入って日曜の朝は粉雪が舞っていました。しかし、盆地は積もることもなく日中はよく晴れました。12月はまだ一度も積雪がありません。所用のついでに妻女山へ。斎場山から久しぶりに北へ延びる尾根の天狗山へ行ってきました。最初は、陣馬平からログハウスへ寄るつもりでしたが、その奥の谷から狩猟の銃声が聞こえたため引き返しました。ヤマドリを狙っているようです。正月の鍋や雑煮の材料にするのでしょう。ヤマドリは絶品ですからね。

 斎場山へ。第四次川中島合戦で、上杉謙信が最初に本陣としたと伝わるのがこの斎場山古墳の上なのです。下の妻女山展望台のある場所ではありません。古名は赤坂山。斎場山が地元で言う本来の妻女山なのです。夏は樹木の葉が生い茂るのでほとんど展望はありませんが、今の落葉期で積雪がない時が一番の見晴らしが得られます。妻女山から20分。ぜひ訪れてください。拙書でも詳しく紹介しています。

 一旦長坂峠へ戻って、天狗山へ向かう北東面の巻道をトラバースします。5分ぐらいで天狗山の先端に着きます。ここから前阪といって西側に下りる道があり、つづら折れで下って行くと旧岩野駅に出ます。この道は江戸時代の絵図にも登場する古道です。写真は、その天狗山から妻女山(旧赤坂山)方面の眺め。松代PAの向こうに松代城跡(海津城跡)が見えます。意外と近いのです。松代PAからは高速には乗れませんが、403号からPAを利用することができます。松代PA辺りは猫島といい、その北には猫ケ瀬といって猫でも渡れるほどの浅い瀬があったといわれています。展望台と招魂社の手前の斜面は、酷い藪になっていますが、2枚下の写真で分かるように昔は梅林でした。現在も少し残っていて春には花を咲かせますが、ほとんどが老木となり枯れました。手入れをしないと里山はこんな風に荒れてしまうのです。

 これは江戸時代後期に榎田良長という人が描いた『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』という斎場山に布陣した上杉軍の布陣を描いた絵図です。「出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)」
 それに分かる限り地名を入れてみました。これだけ記入できるというのは、この絵が極めて事実にそって写実的に描かれているということなのです。千曲川は戌の満水以後の瀬直し後の流路なので、推定で戦国時代の流路を入れてみました。堤防もないわけですから好き勝手に流れていたわけです。赤い線は山道なのですが、驚くべきことに現在もほとんど辿ることができます。笹崎の中腹を通る谷街道は、江戸時代にできたので戦国時代にはなかったはずです。笹崎の先端は、瀬直しの際に大きく削られ崖地になっており、上信越自動車道の薬師山トンネルがぶち抜いています。
 赤坂山(現妻女山)下の蛇池は、千曲川の河道の名残で、高速道路ができるまでは残っていました。赤い丸は上杉軍を現します。上杉謙信槍尻ノ泉が現在と異なる場所にありますが、これは明治時代になり外国から伝染病が入った時に避病院を作るため泉を利用し、泉はその後別の場所に移されたからです。現在の泉も、私が子供の頃はもう10mほど上の桑畑の中にありました。大河ドラマ『天と地と』の時に、うちの父たちが道路沿いに下ろして石碑を立てたのです。かように物語は作られていくのです。
 江戸時代後期は、お伊勢講や善光寺参りなど庶民の旅も盛んになり、川中島合戦の絵図などが土産物として非常に売れたのだそうです。文政のおかげ参りなどは、日本人の8人にひとりが行ったという狂乱ぶり。これも調べると非常に面白くて病みつきになります。

 上の写真は、かなり前、今はない出版社から買い求めた掛け軸になった航空写真で、戦後GHQが撮影したもので、日本の隅から隅までを調べ尽くしたのです。天皇陵までも暴いたことは知られていませんね。そこで田布施システムが浮上するわけなんですが。写真のアングルはほとんど上の絵図と同じなので比較すると面白いと思います。この頃は養蚕や果樹が盛んで、麓から尾根上まで畑がたくさん見られます。それが現在と一番違うところです。黄色い線は、現在の林道や山道です。この頃は、403号から妻女山、斎場山へ行く広い林道はありませんでした。よく見ると今とは違う細い山道が見えます。それらは残っているものもあれば、林道によって切断され消滅してしまった箇所もあります。

 妻女山松代招魂社。六文銭の紋があるように戊辰戦争以降の戦没者を祀った神社で、上杉謙信とは無関係です。本殿の後ろには、亡くなった戦士たちの墓標が並んでいます。そこから北へ歩くと四阿と赤坂山古墳ともいわれる小さな丘。大正天皇と真田氏のお手植えの松跡と、善光寺地震の慰霊碑があり、その先に展望台があります。戊辰戦争で会津若松城をメリケン砲で破壊したのは松代藩でした我が一族の先祖の一人は高遠藩の保科正之に仕え、後に豪商となって会津藩を支えました。その末裔は今も会津で商人をしています。皮肉にも戊辰戦争はある意味信州人同士の戦だったのです。それ以前、秀吉の国替えにより上杉景勝が会津に転封されましたが、善光寺平の土豪は全て家来であったため、家族家来が全員会津に移りました。その後の保科正之の転封と、会津は信州人が作った街なのです。更に私のブログをずっと読んでいる方は分かると思いますが、横浜は松代藩が作った街です。

 展望台から見た八幡原(はちまんぱら)方面。赤坂橋の上に見える森がそれです。初めて訪れた人は、川中島が思っていたよりもずっと広いといって驚かれます。この展望台へは車で行けますが、上杉謙信槍尻ノ泉のカーブが急で、泉の水が溶けて凍っているとスタッドレスでも登れない時があります。冬の晴天後一旦溶けた後の凍結と春先が特に危険です。登れない場合は、高速のトンネル前に駐車して徒歩で約15分です。

 久しぶりにいい天気なので、古書の虫干しをしました。『歴代草書選 5巻』白芝山編 大観堂です。5巻を厚紙を布で覆ったもので巻くのですが、留め金がさり気なく象牙です。意外と状態がいいので明治時代のものと思っていましたが、調べると文化13序、嘉永2(1849年)と分かりました。いわゆる草書辞典です。

 肖像画は、幕末に生きたわが家の祖先で、岩野村の名主を長きに渡って務めた林逸作です。作画は、松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)。家が近所でひとつ違いのためか、近しい関係にあったようで、友の為にと書かれています。逸作爺は、善光寺御開帳の時にたまたま隣り合わせで意気投合した夫婦から、縁ができ小さな頃に養子に来た人物で、享和4年(~2月10日)文化元年(2月11日~)(1804)の生まれ。天保2年(1831)の古文書(妻女山の霊水騒動が起きた頃)、弘化4年(1847)の名寄帖、安政2年(1855)の古文書があり、描画は元治元年(1864)61歳とあることから、少なくとも27歳から51歳、あるいは60歳まで名主を務めたということになります。実は両養子だったので、私の祖母が林一族から婿を迎えるまでわが家には林家の血が一滴もなかったのです。面白いですね。そんなんで私も祖父でなく、祖母の父に似ていると小さい頃から言われました。古い写真を見るとそうだなと思います。
 林逸作の時代は、天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。松代は尊皇攘夷に固まり、官軍として戊辰戦争に参加。その功績から明治新政府には松代から多くの人が入ったそうです。明治政府の事実は、維新などでは全くなく、薩長の田舎侍を使って英米仏の金融資本がクーデターを起こさせて作り上げた傀儡政権ですが。田布施システムで検索を。
 ところで上の草書辞典は、逸作爺が使っていたものかもしれません。と思って肖像画を見ると、彼の後ろの座卓に乗っている本が正にこれではないですか。いや驚いた。間違いないでしょう。167年前の本でした。
 右は、『新字鑑』で、古い漢字を調べる時に重宝しています。これはずっと新しい戦後の本ですが、これについては以前「愛と魑魅魍魎の『新字鑑』」という記事を書いています。編者は、漢学者の名門の家系に生まれた中国文学者、塩谷温ですが、劇的なエピソードがあります。興味のある方は、リンクの記事を読んでみてください。切ない話です。
 今年の更新はこれが最後になります。ご愛読ありがとうございました。自然や歴史記事はもちろんですが、ネオニコチノイド系農薬の記事へのアクセスが非常に目立ちました。来年は2016年、2017年代問題の嬉しくない幕開けです。世の中も非常に不安定です。一人一人が人任せにせず、情報を精査し、疑い、自分で考え行動しないと日本は本当に終わるでしょう。では、皆様が健康で過ごせますように。良いお年を。

◆関連リンク記事
上杉謙信斎場山布陣想像図
『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)
岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)
愛と魑魅魍魎の『新字鑑』

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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2 コメント

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賀正 (かたくり)
2016-01-13 15:32:11
明けましておめでとうございます。

松代藩ゆかりの由緒ある家系だったのですか?
古い書物の管理というのは大変そうですね。

篠ノ井図書館で、もりもりキッズさんの「信州の里山トレッキング」を見つけました。
従来の里山のガイドブックと異なり実に楽しい自然のガイドブックですね。
実に多くの写真が盛り込まれていて見ていて飽きません。
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ご無沙汰です。 (モリモリキッズ)
2016-01-14 09:23:57
おめでとうございます。ご無沙汰しています。

拙書を読んでいただきありがとうございます。
実は山毎に写真を載せているので、乱獲や盗掘を恐れて載せられなかったものも結構あるんです。
大変だったのは地形図で、ダウンドードして山名を消して消えた等高線を引き直して、コースと文字を書き入れるという非常に手間のかかるものでした。お役に立てると嬉しいです。
また、妻女山へも遊びに来てください。
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