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モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

野尻湖の朝日・奴奈川姫の絶景ヒスイ峡・道の駅マリンドリーム能生の夕焼け。センチメンタル&レクイエムの旅(妻女山里山通信)

2019-10-20 | 歴史・地理・雑学
 翌日は、日本海へ向かうことにしました。無性に海が見たくなったのです。

 翌朝の道の駅しなのから見上げる黒姫山。右上に満月から少し欠け始めた白い月が見えます。昨夜はどんどん冷え込み始め、最低気温は信濃町で3.5度まで下がりました。車の温度計は5度でした。

 妙高山。海を見に新潟に向かいます。

 道の駅を出てすぐの野尻湖に立ち寄りました。朝霧に包まれた弁天島。

 北西を見ると妙高山。しばらく散歩を楽しみました。

(左)遊覧船。(右)寒くなるのは予報で分かっていたので、寝袋に30年ぐらい前に原宿の事務所の近くにあった店で買ったペンドルトンの毛布を持ってきました。充分に寒さをしのげました。

 太陽がのぼり、弁天島の霧も晴れました。国道18号を北上し、8号を海沿いに西へ向かいます。

(左)道の駅マリンドリーム能生で休憩。なんとシンボルだった風車が解体されていました。台風で倒壊の危険があったのでしょうか。昼食を食べにタラ汁を求めて親不知を越えてなんと富山へ。(右)朝日町のドライブイン金森のタラ汁ごはん。1000円。トラックドライバーが立ち寄る店なのでボリュームが凄いのです。このタラ汁、タラコも入って非常に美味です。どこの店で食べてもタラ汁に外れはないと思います。満足して翡翠峡(ひすいきょう)に向かいました。

(左)糸魚川から148号を南下して標識に従って橋を渡ります。左のオレンジの欄干が現在の橋。その隣に古い橋の遺構。こういうのが大好きなんです。たまりませんわ。(右)その向かいにある東京発電株式会社の新小滝川発電所。いい雰囲気出してます。

 ここから林道入山線をヒスイ峡に向かうのですが、これが舗装はされていますが、とんでもない道でした。しかも工事用の大型車が通るとか。こんな狭い道で!? 途中でこの日は工事がないことが分かりホッとしましたが、対向車は来ます。日中でもライトを点灯して、カーブではクラクションが必須です。ガードレールがない箇所もあり細心の注意が必要です。
 で、目の前に突然出現したのがこの明星山。現地で見ると物凄い迫力の岩山です。川からの高さ440mの絶壁。

 展望台から更に車を走らせて下り、川原へ。あちらこちらに翡翠がゴロゴロしているのでしょうけど、ここは国の管轄で監視カメラもあり、盗掘や持ち帰りは犯罪になります。拾いたい人は河口か海岸へ。

 3億年前はサンゴ礁だった明星山。ロッククライミングの名所でもあります。翡翠といえば、やはり大国主命に略奪婚をされた土豪の妻、奴奈川姫(ぬなかわひめ)を思い出します。諏訪大社の祭神である建御名方命(たけみなかたのみこと)の母です。諏訪大社に参拝すると、翡翠を使ったお守りが買えます。今回は、林道入口の店で、翡翠の小さな原石が入った小瓶を買いました。糸魚川のフォッサマグナミュージアムに行くと分かりますが、翡翠は緑だけではないのです。6色あるといわれています。

 ひすいの湯に入ってマリンドリーム能生へ。かに横丁や土産物屋、レストランは5時で閉まりますが、コンビニは9時までやっています。

 前回ほどで派手ではありませんが、夕陽はやはり心に沁みます。信濃町と違って標高が低いので温かい夕方です。明日は信州に戻ります。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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戸隠中社・鏡池・伝説の黒姫山古池種池・道の駅しなの。センチメンタル&レクイエムの旅(妻女山里山通信)

2019-10-19 | 歴史・地理・雑学
 長野市、千曲市、上田市や上信越道や中央道も一部で不通。鉄道も各地で不通です。私の集落はあと50センチ千曲川が増水したら大災害でしたが、奇跡的に無事でした。しかし、周りは各地で浸水。理由は、堤防の決壊、越水。水門を閉めたことによる浸水。しかし、やらなければもっと大災害になりました。
 そんな中、私は極めて個人的な理由で旅に出ました。センチメンタル&レクイエムのひとり旅です。国道18号は赤沼や穂保の水害で不通なので上信越高速道で信濃町に向かいました。

 戸隠神社中社。戸隠五社のひとつ。戸隠神社は修験を元にする社です。古くは飯縄神社とも縁があります。古代ユダヤの失われた11ユダヤ部族のひとつ、大和王権の祖となったといわれる徐福との関係も想起されます。それ以前に、中国春秋時代に越に滅ぼされた呉のエリートが渡来して出雲系の祖となったかもという古代史。倭国大乱は、その後滅び来訪した越と呉の壮絶な戦争だったのかも。弥生時代後期、日本にたった60万人の人口しかなかった中で起きた大乱を説明するには、かなり説得力のある原因と理由が必要です。新潟県上越市の鮫ヶ尾城近くには、倭国大乱の時にだけ住まわれたという東日本最大級の弥生時代の遺跡があります。その後、住民たちはどこへ行ったのでしょうか。我々信州人の祖かもしれません。

 御神木。戸隠の三本杉といわれます。御神木に手をあててずっとその力を感じている女性がいました。樹の鼓動を感じるには、聴診器を買い求めることをおすすめします。2000-3000円ぐらいのものでかまいません。樹の鼓動が聞こえます。

 鏡池に向かいました。前回は西岳が見えましたが、今回は稜線は雲の中。紅葉が素晴らしい。昔、家族とも来ましたが、赤子の長男がミルクを飲み終えると哺乳瓶を思い切りバシッと投げ捨てるので参りました。怒るわけにもいいかないですしね。

(左)ウルシの紅葉。(右)ユモトマユミの可憐な実。

(左)戸隠自然植物園の遊歩道。ここも息子達が小さい頃訪れました。その頃はなかったのですが、現在はツキノワグマが頻繁に出ます。前回訪れた時は横の笹薮で熊の荒い息吹がしたので引き返しました。普通に遭遇します。熊鈴やホイッスルは必須。出会った時は刺激せず、静かに後退りします。これに関しては、下で紹介している拙書のコラムで詳しく書いています。(右)鮮やかで美しいマムシグサの実。誤って口にすると口内が酷くただれます。

(左)戸隠自然植物園から10分ぐらいで奥社参道入口へ通じる木道。先に外国人男性が数人。話しかけるとオーストラリアからの人たち。なんでもモテギのオートバイのレースを見に来たのだとか。石碑の説明を聞かれて信州大学がここの森を保全活動したメモリアルだと説明したり、私のザックにある鹿の角を本物かと聞かれてニホンジカのの本物の角だよと説明したり。実は現在、仕事で英語やポルトガル語を使うことが多いので、もっと会話力を磨かなければなと思っているのです。(右)戸隠神社の奥社参道。CMで有名になったのでパワースポットとしても有名になり観光局が押し寄せています。この日も観光バスが数台。駐車場はほぼ満杯。私は何度も参拝しているので今回はパス。

 そこから東へ。黒姫山登山道の途中にある古池へ。なんと水が抜かれていました。ちょうど中部電力の人が来ていて、補修のために水を抜いたんですと。来年の雪解けの頃に注水しますと。黒姫山の山頂は雲の中。
2001年夏 家族で登った黒姫山。8時間の登山でしたが、小さな息子達がよく登れたものだと思います。もちろん無謀ではなく、その前に充分な経験を積んでいました。そして、万一の場合も考慮しての登山でした。


 帰路に種池に寄りました。どんな活水のときでも絶対に枯れないと伝わる池です。赤とんぼが乱舞。

(左)昼は信濃町から飯綱へ向かう途中の田園の中にある蕎麦処「仁の蔵」へ。新蕎麦の天ざるをいただきました。黒姫の霧下蕎麦は絶品です。たぶんどこの店でも満足できると思います。(右)実は上越市の道の駅あらいに行きました。時間的にきときと寿しには入れなかったので、鮮魚センターで買いました。上は河豚の唐揚げ。左は翌日の朝食用に買った鯖のフライのサンド。いずれもわざわざ買いに行ってよかったと思う味でした。夜は、ユキ・ラインハートのA・O・Rを聴きながらカシオペア座が光る道の駅しなので夕食。昔家族で訪れた時は、黒姫山下山で訪れましたが、山頂が雷雲で覆われて稲妻が光っていたのを思い出しました。ラジオから流れてきた山口百恵の「美・サイレント」が心に沁みました。特に年心なファンではなかったのですけれど。

美・サイレント


駅/竹内まりや
竹内まりや 駅 (梅艷芳裝飾的眼淚原曲)

 今回の旅で流れてはこなかったのですが、今回の旅の途中で、ある時突然脳内を流れた曲です。マリンドリーム能生の夕焼けにシンクロしました。心に沁みる名曲だと思います。

 明け方道の駅しなのから見る朝焼けの妙高山。明日は、海を見に新潟に向かいます。昔、家族でよく見ていたのは日本海ではなく湘南の海でしたが。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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上杉謙信が築城し、景勝と景虎が争った「御館の乱」で有名な鮫ヶ尾城へ。「倭国大乱」の頃からの斐太遺跡。秋桜(妻女山里山通信)

2019-09-19 | 歴史・地理・雑学
 二泊三日、日本海へ車中泊の旅の二日目です。前日は暑くて汗だくでした。夕方になっても27度からなかなか下がらず参りましたが、日没後は海風も吹いてしのぎやすくなりました。翌朝は、8時頃に出発。国道8号を東へ向かいました。6月には春日山城跡へ行きましたが、今回は「御館の乱」でも有名な鮫ヶ尾城(さめがおじょう)へ。

(左)道の駅・マリンドリーム能生の朝。連休なので車中泊の車もたくさんいました。キャンピングカーも数台。(中)散歩をしていると息絶えたオニヤンマがいました。餌の羽虫を抱えています。尾部に産卵弁が見えるのでメスでしょう。成虫の寿命は2ヶ月ぐらいなので、命を全うしたのかもしれません。(右)ピンぼけですが、富山といえば鱒の寿司。朝日町の道の駅で買いました。夕食です。これに信濃町で焼きとうもろこしを2本とツマミを買いました。ビールと赤ワインで晩酌です。

(左)国道8号から63号を南下し、鮫ヶ尾城跡へ。駐車場脇に鎮座する延喜式内社の斐太神社(ひだじんじゃ)。周辺には弥生時代後期後半の「倭国大乱」の頃からの斐太遺跡があります。北方に観音平古墳群、南方に天神堂古墳群があります。200軒を上回る竪穴建物跡を有する東北日本最大規模の遺跡です。越の国からの渡来人と関係があるのでしょうか。
 呉越というときには、春秋時代、呉(ご…BC585~BC473 春秋時代に存在した国。現在の蘇州周辺を支配した。紀元前478年に越王勾践によって滅ぼされた)と越(えつ…BC600~BC334 春秋時代に浙江省のあたりにあった国)と、紀元後の五代十国時代に呉越という国があったので混同しないよう注意が必要です。「呉越同舟」は、前者の話です。もし、両者が渡来したのなら、倭国大乱が起きても全く不思議はありません。また別の説では、高句麗の襲来によって倭国大乱が引き起こされたというものもあります。(右)数分登って鮫ヶ尾城跡へ。斐太遺跡の古墳時代の竪穴式住居の再現が見られます。奥に案内所。係の女性に行き方を教わりました。

 鮫ヶ尾城の図(上越マイスターと呼ばれた大塚直吉氏作)。分かりやすく非常に美しい図絵ですね。これを頭に叩き込んで出発です。
 鮫ヶ尾城は、武田信玄の北上に備えて上杉謙信が築城したものです。拙書でも紹介の信州の北国街道沿いの髻山城は、善光寺平を見張る橋頭堡の様な山城でした。この鮫ヶ尾城
は謙信の死後、二人の養子の景勝と景虎が争った「御館の乱」で、敗走した景虎が自刃した悲劇の城としても有名です。

(左)池の周りを歩いて向こう側の城跡へ。(右)斐太遺跡の図。奴国大乱で軍事的緊張が高まった時期に、短期間に使われた一過性の集落だそうです。その後、人々はどこへ行ったのでしょうか。信州へ逃れた人もいるのではないでしょうか。春秋時代の紀元前480年頃に越により滅びた呉のエリートが渡来。紀元前330年頃に滅びた越が渡来とすると、日本全体で60万人といえども渡来した地域は近かったはずで、奴国大乱が起きても不思議はないと考えます。5月に鳥取で弥生時代の110体におよぶ人骨が発掘されましたが、皆頭や体に襲われた大きな穴が開いていました。奴国大乱の証拠かもしれません。先に渡来した呉の民が越の民を襲ったのか。逃れた人々が斐太遺跡に隠れ住んだとはいえないでしょうか。
 後の古墳時代初期。古代科野国の崇神天皇に任命された初代科野國造の武五百建命は大和系。その妻の會津比賣命は出雲系。政略結婚かもしれませんが、大国主命に略奪結婚をさせられた奴奈川姫のような悲劇性は感じられません。もしかしたら、奴奈川姫は越の末裔かと。大国主命は呉の末裔かと。
 そしてその後中国を統一した秦の始皇帝。その皇帝に上申し、不老不死の薬を探すと村人一同と渡来し戻らなかった徐福。中国では歴史家が、神武天皇は徐福であり、大和朝廷の元祖である(後の葛城氏)という説も唱えています。徐福は、古代ユダヤのいなくなった11部族のひとつとも。伊勢神宮などに残るユダヤの印。八咫烏や烏天狗。古代史の謎は深海の様に深く神秘的です。

(左)城跡の尾根に乗ります。広くなだらかな斜面です。(右)やがて急になり、郭跡と思われる平地も出現します。前夜雨が降ったために湿度100パーセント。立ち止まるとヤブ蚊に襲われるので、立ち止まることもできません。

(左)シロオニタケの幼菌。毒キノコです。テングタケ科のキノコは猛毒のものがあるので要注意です。一度は食べられますが、二度目はありません。(右)堀切が各所に見られます。

 城跡の等高線地図。下から尾根を登ってきました。本来の正面は左の尾根で、虎口もそちらにあります。帰りは右の谷筋の道を下ります。等高線が詰まったところは崖といっていいほどの急斜面で、敵の攻撃を防ぎます。

(左)本郭。キアゲハが舞っていました。(右)本郭からの眺め。四阿のベンチに座ってしばらく沈思黙考。兵どもが夢の跡。

(左)下ってすぐに咲いていたセンニンソウ(仙人草)。キンポウゲ科の毒草ですが、いい香りがします。(右)フジバカマ(藤袴)と似ていますが、葉が三裂していないので、ヒヨドリバナ(鵯花)でしょう。妻女山のヒヨドリバナでは、アサギマダラが吸蜜する姿が見られます。

(左)たぶんシシウド(猪独活)。セリ科シシウド属の多年草は、似たものが多く、なかなか見分けが難しいのです。花火の様な美しい花です。(右)ツリフネソウ(釣舟草)。色といい形といい艶めかしい花です。こんな風に濡れると余計に。

 案内所に戻って係のおばさまにお茶とふかしたサツマイモをいただきながら談笑。撮ってきた植物やキノコの写真を見てもらうと興味を示してくれました。ではと、拙書を出して上杉謙信が布陣した本当の妻女山(斎場山)の話も。
 すると、ここはカタクリで有名だけれど、アケボノシュスラン(曙繻子蘭)の群生地があるので行ってみませんかと。花は見られませんでしたが、右は蕾(つぼみ)でしょうね。花期はこれからの様です。新潟では普通の山野草ですが、長野県では準絶滅危惧種です。咲き終わって種になったキンラン(金襴)も見せていただきました。色々楽しい話をさせていただいて出発。開花期にまた来られるといいのですが。早春のコシノコバイモ(越の小貝母)も見たいですね。

 お腹が空いてたどり着いた道の駅あらいのきときと寿し。連休ですから大混雑。それでも30分でカウンターへ。今回はおすすめメニューをいただきました。ホウボウ・松かれい・かわはぎ・活ばい貝・しまあじ。そして締めは高級魚ののどぐろ。アサリの味噌汁を添えて。他に三皿食べたのですが忘れました(笑)。小雨降る中を関山神社へ向かいました。

 関山神社。 妙高山岳信仰の神社。妙高山は奈良時代の和銅元年(708年)に裸行上人が開山したと伝えられています。平安時代後期に木曽義仲、戦国時代には上杉謙信も戦勝祈願をしています。現存する火祭りは修験道の証。

(左)木鼻の唐獅子と貘。(右)関山三社権現の本尊仏。中央に聖観世音菩薩。左右に十一面観世音菩薩と文殊菩薩。

(左)荘厳な神輿。(右)近くにある仏足石。中央に釈迦の左足形。右に華判(釈迦の実印)、左に舎利塔が彫刻されています。奈良の薬師寺の仏足石に次いで二番目に古い南北朝時代の作と考えられています。

 結局この日も汗だくだったので信濃町の苗名の湯に入り、道の駅しなのへ向かう途中で道路脇にコスモス(秋桜)が咲いていました。しばし車を止めて鑑賞。脳内を山口百恵の「秋桜」が流れていきました。
秋桜 山口百恵 コスモス



 道の駅しなのの夜。夜半に霧雨が降り出しました。FM長野のユキ・ラインハートのA・O・Rの8時からの特集は、映画『ロケットマン』が上映中のエルトンジョンの特集でした。次の三連休には必ず観に行きます。バニー・トーピンとの逸話など素晴らしい番組でした。微かな雨音を子守唄に眠りにつきました。

(左)翌朝は6時に起床。秋桜の向こうに黒姫山。6時半に斑尾高原に向けて出発。斑尾高原は雨でした。(右)今回買い求めたお土産の一部。マリンドリーム能生で買った鮫の歯のお守り。翡翠のお守り。店の女性が一緒に選んでくれました。一番透明度が高いものを購入。関山神社で求めたキャッツアイの御神籤。御神籤はともかく、地球の歴史を語る宝石というか鉱物が好きなのです。マリンドリーム能生では、カニ味噌の瓶詰めを。道の駅しなのでは、前回も買ったお気に入りのヨーグルトのお酒「信乃大地」と妙高高原ビール一番人気のダークラガーを買いました。

 斑尾高原から飯山に下りました。千曲川の上に雲がたなびいています。左には信越トレイルの山並み。飯山から木島平へ、中野から小布施へ。松代から戸倉上山田温泉へ。入湯して帰りました。いい旅でした。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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箕輪町もみじ湖キャンプ場の朝。蔵造川水路橋。塩尻平出遺跡と博物館。井筒ワイン五一わいん。そばカフェ水舎(妻女山里山通信)

2019-08-23 | 歴史・地理・雑学

 箕輪町のもみじ湖キャンプ場の朝6時頃。こちらのサイトには5つのテントが。川向うの入口近くのサイトにも5つのテントがありました。名前の通り紅葉がたくさん植えられています。秋には素晴らしい紅葉が楽しめるでしょう。

(左)長男が教えてくれたヒトリガ。一人蛾ではなく火取蛾です。熟睡しています、ちょっと触ったぐらいでは動きません。(右)シオカラトンボのメス。ムギワラトンボとも。

(左)朝食は豊丘道の駅で買った美味しい食パンにハーブソーセージ、ベーコン、ニンニクのスクランブルエッグ、ピリ辛のワカモレ(アボガドディップ)、トマトとキュウリ、エキストラバージン・オリーブ油にリコピンリッチ、烏龍茶と麦茶。(右)爽やかな木漏れ日の下で朝食を済ませてゆるゆると出発。まず萱野高原へ向かいました。箕輪町の休憩所や宿泊施設とキャンプ場がありますが、展望以外特筆するものは特にありませんでした。北上して小野宿から塩尻へと向かいました。

(左)蔵造川水路橋(めがね橋)。貴重な明治時代の土木遺産。明治39年頃の写真。(右)現在の姿。本来は五つのアーチですが、外側の二つは土に埋もれています。この後、塩尻へ向かいます。

(左)塩尻の「平出遺跡」。縄文から平安の住居が見られます。これは縄文の住居。(右)その内部です。囲炉裏や縄文式土器が見られます。

 古墳時代の住居と、穀物を蓄える高倉。屋根の下部が切り取られ、切妻に煙抜きが。高倉には鼠返し。

(左)平安時代の住居。そうなんです。庶民の家は、縄文時代から平安時代までほとんど変化がなかったのです。(右)実は小学校の修学旅行でここを訪れていました。50数年ぶりの訪問です。感慨深いものがありました。

(左)縄文博物館へ。(右)先日訪れた野尻湖畔の遺跡が。

(左)長野市の松原遺跡で発掘された美しいトロフィー形土器。(右)長和町で発見された黒曜石。鏃(やじり)などに使われたもの。この黒曜石は、青森まで流通していました。

(左)ドラムではなかったかと思われる壺。(右)縄文時代の一軒の住居で使われていた土器はこんなにもたくさんあったそうです。大きいのは水瓶か。

(左)勾玉を使った装飾品。勾玉は古墳時代になると、突然姿を消します。しかし、この小さな宝石にどうやって小さな穴を開けたのでしょう。弥生人のもの凄く高度な技術を感じます。春秋戦国時代に越に滅ぼされた呉のエリート達が渡来したと考えるのが必然かと思われるのですが。歴史家がなぜ古代中国の史料を研究しないのか不思議です。(右)祭祀に使われたと思われる銅鐸。これが鳴り響く村の風景を想像してみました。レプリカの小さな銅鐸を買いました。

(左)様々な縄文式土器。芸術性も技術も高く、当時の人々の豊かな感性が偲ばれます。(右)石棒。男根は豊穣と多産、子孫繁栄の守り神です。

(左)奈良時代の五重塔を再現した瓦塔。実物も展示されていました。(右)それを焼いたと思われる菖蒲沢窯址。

(左)そこから北上して井筒ワインへ。(右)向かいの五一わいん。たくさん試飲しましたが、私が気に入ったのは、エステート五一のシラー。2700円。日本のワインではシラーは珍しい。ふくよかな果実の風味とスパイシーな香り、深いコクのある美味しいワインです。ビーフステーキやビーフシチュー、ビーフストロガノフ、ブラジル料理のシュラスコやフェイジョアーダなどに合うと思います。

(左)更に北上して山形村へ。そばカフェ水舎へ。(右)私は、伝統の奈川蕎麦の十割蕎麦を頂きました。腰があって美味でした。できれば新蕎麦を食べたかった。

 松本から新島々の松本電気鉄道上高地線。安曇野に戻り、息子達と別れて帰路につきました。台風10号もあって心配しましたが、充実したオートキャンプになりました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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自然科学歴史民俗学と豊かな展示の飯田市美術博物館へ。伊那でローメンを食し箕輪町のもみじ湖キャンプ場へ(妻女山里山通信)

2019-08-20 | 歴史・地理・雑学
 飯田市と南木曽町の間の木曽峠(大平峠)近くの山奥にある携帯も通じない熊が出るキャンプ場から、無事に下山し飯田市街に戻りました。まずは評判の飯田市美術博物館へ。

(左)開館30周年記念で自然・文化展示室リニューアルオープン。(中)カマラサウルスの足の骨。触れるのがいいですね。(右)天竜川花崗岩。中央構造線とフォッサマグナの違いが分かりますか。中央構造線は、日本列島の西半分を縦断する日本最大の断層。それを分断するのが糸魚川・静岡構造線、ナウマンが命名した。フォッサマグナ(大地溝帯)。厳密に言うと糸静線は西側の境界線でフォッサマグナは面ですが。花崗岩はそれを象徴する岩石といえます。

(左)1959年の遠山郷や天竜川。(中)天保国絵図に描かれた伊那谷。細かに地名や山名が書かれています。(右)天竜川の絵図。川にたくさんの帆船が浮かび、水運が盛んだったことが分かります。

 飯田お練り祭りの本屋台「池田丸」。城下18ケ町の本屋台は二層三層からなる豪華なものでした。1902(明治35)年に電線が敷設されて曵き回せなくなり姿を消しました。残った屋台も飯田大火で消失。残るものはわずかです。竜頭彫刻と立波が見事です。

(左)飯田といえば有名な水引。(右)有用植物図説。非常に貴重なものです描写も細かい。伊那へ向かいます。

(左)伊那市錦町。切実なお願いです。(中)馬喰と馬が描かれたマンホールの蓋。(右)飯田線です。

(左)その橋のたもとにある食堂くろねこですが、惜しくも閉店となってしまいました。(中)昼はローメンの発祥の店「萬里」へ。(右)歴史あるローメン。汁は甘めです。店によって味が違うので色々食べてみたいですね。

 箕輪町のもみじ湖キャンプ場へ。テントとタープ、ハンモックを設置しました。紅葉だらけのキャンプ場です。秋は綺麗でしょうね。

(左)夕餉です。ゼブラナスのソテー。(中)モツ煮。(右)椎茸のソテー。すべて美味。

(左)メインディッシュの骨付きラムのソテー。ヒマラヤンソルトと粒黒胡椒にローズマリー。(中)ニンニクと砂肝のアヒージョ。(右)砂肝とネギのアヒージョのオリーブオイルを使った焼き飯。超絶美味。

(左)宴の跡。(右)満腹で眠りにつきました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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関川関所道の歴史館と片貝縄文資料館へ。江戸時代から縄文時代へと歴史をたどる旅を人口の変遷から見る。古代ユダヤも(妻女山里山通信)

2019-08-04 | 歴史・地理・雑学
 三日目の続きです。お昼ごはんを食べに信濃町へ戻ります。午後は、能生からの帰りに見つけた、国道沿いの看板が草に半分埋もれた縄文資料館が気になったので行ってみます。その前に、関川関所道の歴史館へも。

 斑尾高原から野尻湖に戻る道すがら。古海(ふるみ)の水田と集落越しに見る斑尾山。その名前から、古代は湖だったのかもしれません。現在は、関川へ古海川が流れています。左には村社の信隈最上古海神社があります。珍しい名前ですね。立ち寄ればよかった。空腹に勝てませんでした。信州の隅っこの最上の神社という意味でしょうか。祭神は?

(左)信濃町の国道18号沿いにあるレストラン樹香へ。天ざるを。古式製法の腰のある細い蕎麦は、東京の大盛りか二人前はあります。天ぷらは、ぶりぶりの海老天二本に、大きなカボチャとナス、ピーマンとレンコンとキノコとボリュームたっぷり。(右)実は2日前にくるみ味噌ラーメンを食べてずっと使える100円割引券をいただきました。このラーメン美味しいのですが、洗面器の様な大きな丼で、少食な私は食べきれませんでした。野菜の量ももの凄くて、麺までたどり着くのが大変でした。信州では、大盛りにするのが昔からのおもてなしなんです。東京の感覚で不用意に大盛りを頼むと大変なことになります。

(左)そこから10キロ足らずで、新潟県の関川御関所。関川にかかる太鼓橋を渡ります。(右)太鼓橋から見る関川集落への橋と国道18号の橋。

(左)関川関所道の歴史館のジオラマ。地形を見ると、なぜ幕府がここに関所を置いたのかが分かります。(右)田切がどれほどの難所であったかも。館内には詳しい説明があります。

(左)旅をする夫婦でしょうか。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にある様に、お伊勢参りなど、庶民の旅も盛んになりました。60年に一度のおかげ参り、特に文政のそれは8人に一人が参拝の旅に出たという事実があります。庶民不満のガス抜きや文化の交流もあり、幕府にも止められなかったのでしょう。(右)携帯の品々。真ん中が銭入れ。その右上は矢立( 筆と墨壺)。右の大きな筒は、龕灯(がんどう)。中のろうそくが常に上を向くような構造になっています。

(左)関所の様子。奥には出女を調べる部屋があります。(右)入鉄炮出女(いりてっぽう・でおんな)は日本史で習ったと思います。出女とは、通常は私娼の一種。各地の宿場の旅籠にいて、客引きの女性で売春もした。ただ、幕府が江戸に留めおかせた諸侯の婦女(人質)が国元に逃げるのを防ぐのが、関所の最大の役目でもあったのです。その取り調べは相当に厳しいものであった様です。

(左)次に片貝縄文資料館へ。廃校になった小学校の三つの教室が展示室です。係の女性が案内してくれました。最近、宝島社の『最新調査でわかった日本の古代史』というムックを買ったのですが、古代史で新たな発見が相次いでいるのです。写真は縄文時代の女性想像図と土製の耳飾り。(右)石鏃(せきぞく)。黒曜石,ケイ岩,安山岩,粘板岩などの石で作られた鏃(やじり)です。これで猪や鹿を狩ったのでしょう。

(左)魚をとるための丸木舟。ここで偶然紹介された縄文学校の先生をされている博田さんと色々話したのですが、先般台湾からの渡来実験で、丸木舟で成功したニュースがありましたが、丸木舟が出土しているのに、その前に竹舟や葦の舟で失敗しているのがそもそも可笑しいと。まあ私もそう思いましたが。(右)素晴らしい土偶。肩や胸部の文様は、衣服ではなく入れ墨なのではないでしょうか。縄文人は、昔のアイヌの人達の様に入れ墨をしていたといいます。

(左)男根の様な石。底面には溝か穴があり女陰といわれています。豊穣多産のお守りでしょうか。(右)シャーマニズムの前、アニミズムの頃の埋葬。呪術や精霊の世界です。アメリカの先住民に弟子入りし、呪術師になるまでを記したカルロス・カスタネダの『呪氏に成るーイクストランへの旅』や、アイヌ民族のイヨマンテの儀礼を思い起こさせます。この世界のすべてのものに精霊が宿り、パラレルな存在であるという概念というか生き方。
 
 1955年から1964年頃にかけて、アメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループにビート・ジェネレーション(Beat Generation)がありました。ジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズなど多くの作家が傾倒しました。私も70年代の学生時代にたくさんの詩集や本を読みました。カウンター・カルチャーの源流で、日本で生まれたヒッピーやロックシーンに多大な影響を与えたのです。マイルス・デイヴィスやスタン・ゲッツなどのモダンジャズも、そういう時代背景を源に生まれたものです。若い人にこそ知ってほしい歴史です。

 縄文学校の先生と色々話したのですが、私が話したのは縄文時代から古墳時代にかけての人口の変動と、大陸からの移住者の増大と、それに伴う文化人類学的な変化です。
 歴史人口学の研究者、鬼頭宏氏の推計によると、-----縄文時代の人口は約10万人~約26万人であり、弥生時代は約60万人だった。奈良時代は約450万人、平安時代(900年)には約550万人となり、慶長時代(1600年=関ケ原の合戦のころ)には約1220万人となった。-----
 -----縄文時代前半に人口が増えたのは、このころ気温が上昇、日本列島に食料資源がふんだんに用意されたからだ。縄文人はクリなどの木の実やサケ、マスなどの 魚類を食べた。ところが、縄文時代中期から気温が下がり始め、落葉樹林の生産力が落ちる一方、西日本では照葉樹林が広がった。これが食料を減らし、人口を 減少させる原因になった。縄文時代の人口はピーク時26万人だったが、末期には8万人にまで減少したとみられている。
 弥生時代に入ると再び増加に転じ、約60万人になる。大陸からの渡来人が持ち込んだ稲作の普及が主な原因だ。渡来人自体が人口増に貢献するとともに、稲作により食料が確保され、大量の労働力が必要になったことが増加の圧力になった。-----

 大陸から新たな文化がもたらされたのは事実ですが、それは稲作や鉄生産の技術を携えて大量の渡来人が流入したことを意味すると考えられます。生物学的な自然の人口増の範囲を遥かに超えています。そこで必要なのは、どこの誰が入ってきたのかということです。
 私は春秋戦国時代に登場する呉と越がその鍵を握っていると考えます(紀元後の三国志の呉とは異なります)。呉も越も海岸沿いでベトナムとの交易もしていたほど水運が発達していました。相当の航海術を持っていたと思われます。越により滅びた呉のエリート達が大量に日本に来たことが考えられるのです。広島県に呉市がありますが、まさにそれかと。また、和服を売る店を現在でも呉服店といいます。呉布、呉織という名で残っています。高度な文明が日本にもたらされたのではないでしょうか。紀元前480年頃のことです。それが出雲一族かもしれません。

 その後、紀元前320年頃に越のエリート達が来訪した思われます。越中、越後にその地名が残っています。高志(越)の国ともいいました。魏志倭人伝にある奴国大乱は、その両者が戦ったことをいうのかもしれません。奴国大乱は、大和にあった邪馬台国が、北九州の奴国を滅ぼした戦ともいわれています。この日本にたかだか60万人の人口の時代に、あの様なジェノサイドと思われる壮絶な戦いをしたのにはそれなりの理由があると思われます。越後の鮫ヶ尾城麓にある斐太遺跡は、弥生時代後期の奴国大乱の時代に短期間に住まわれた避難的な集落で東日本最大級といわれています。越の人たちではないでしょうか。そして彼らはその後どこへ。おそらく科野国へも逃れたでしょう。

『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎著。春秋戦国時代に国の滅亡ゆえに渡来した弥生人を中国正史から紐解いています。『魏志倭人伝』にあるように、倭人とは当時の日本人のことですが、『晋書』には、日本からの朝貢の者が、「我々は大伯の後(すえ)なり」と言っていることです。大伯とは古代中国春秋戦国時代の呉の開祖といわれる人物です。日本に渡来した弥生人が彼らです。

 更に、紀元前200年頃に、秦に失われた古代ユダヤの一族ともいわれる、徐福を長とした3000人ほどの集落がありました。彼は秦の始皇帝に、日本へ不老不死の薬を探しに行くと言って毎年村人を渡らせ、最終的には全員が日本へ行きました。そして誰も戻りませんでした。秦の始皇帝を騙したのです。しかし、一箇所にいては秦の始皇帝に滅ぼされる危険があるので全国に散らばりました。徐福伝説が全国にある所以です。彼らは高度な技術者集団と共に来訪しました。物部氏の祖という説もあります。そして彼らが大和一族の祖という説があります。飯縄権現の祭神は白狐に乗った烏天狗ですが、それが古代ユダヤ人ともいわれます。秦氏、羽田氏、本多氏、本田氏、波多氏 波田氏、畑氏などは、その系列ともいわれています。
 諏訪氏や諏訪大社、善光寺にある守屋柱など、古代ユダヤとの関連を思わせる名前や建築物、祭祀がたくさんあります。ユダヤ教にのシンボル、ダビデの星(六芒星)を記した神社(例えば伊勢神宮)がなぜ存在するのか。古代科野国の始まりは、崇神天皇に初代信濃國造に任命された大和系の武五百建命(たけいおたつのみこと)で、妻は出雲系の会津姫命(會津比賣命・あいづひめのみこと)です。会津は、福島の会津とも深い関係があります。これらは、日本が縄文時代から弥生時代に移る長い期間の話です。真剣に研究する対象になる事案だと思われます。

『古代史の謎は「鉄」で解ける』竹村公太郎著。日本に多大な影響を与えた高句麗のことが詳しく書かれています。滅びた高句麗の人々が信州や関東にたくさん渡り定着しました。長野市の篠ノ井や東京の狛江は高句麗に由来します。篠ノ井は、高句麗から渡来した豪族の篠井氏が名の由来です。高句麗の王族、前部秋足(ぜんぶのあきたり)が延暦18年(799)に篠井性を下賜(かし)されています。それが現在の篠ノ井の名称の元でしょう。この時、多くの高句麗の豪族が帰化しています。高句麗人はツングース系で馬産と石の文化を持ち、現在の半島の人とは異なります。長野市には高句麗式積石塚古墳として大室古墳群が、多くが破壊されましたが妻女山にもあります。千曲市には堂平積石塚古墳群があります。この本ではなぜ色々なスタイルの古墳があるのかについても言及しています。弥生時代から古墳時代にかけて、大量の移民があったということです。それは、60万人から400万人へと、当時の激烈な人口動態をみれば分かります。

■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
          大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)



 黒板に無造作に描かれた人類の歴史が、非常に分かりやすい。一番右にアフリカで人類が誕生とありますが、最新の学説では、人類は複数の場所で同時多発的に発生したといわれています。第四紀学会編、東京大学出版会刊行の『図解・日本の人類遺跡』という1992年出版の本があるのですが、もう一度じっくりと読み直してみようと思います。旧石器時代から奈良時代末までの道具の組み合わせ、生産、住居・集落、墓制、祭祀を基本として図示した貴重な本です。形而下での分析が、新たな相似率の発見から歴史分析につながるかもしれません。

(左)発掘された縄文式土器の数々。(右)別の教室には、縄文学校で地元の人達が作り焼いた縄文式土器が展示されています。これが非常に素晴らしい。地元の方たちの郷土愛、縄文愛を感じます。一階の教室では夏休みの子供達が書道教室を開いていました。
 ここまで来たので再び道の駅のきときと寿しへ。信州ではありえない安いガソリンを給油して、苗名の湯に入ってから道の駅しなのに戻りました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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新潟/上越・糸魚川・妙高、富山/魚津、長野/信濃町への三泊四日の車中泊ぶらり旅 その4。苗名滝・小林一茶記念館・ナウマンゾウ博物館(妻女山里山通信)

2019-06-28 | 歴史・地理・雑学
 最終日はまず大瀑布、苗名滝へ。そして、小林一茶記念館と野尻湖畔にあるナウマンゾウ博物館へ。

(左)道の駅しなのから20分ほどです。駐車場から吊橋を渡って対岸へ。堰堤の横の階段を登ります(右)あちこちにタニウツギ(谷空木:スイカズラ科タニウツギ属)が咲いていました。「田植え花」、「ずくなし」、「火事花」とか、地方によって様々な呼び名がある樹木です。

(左)轟音と共に滝が見えてきました。(右)関川にかかる苗名滝(なえなたき)。「地震=なゐ」が名の元とか。落差55m。駐車場からは、10〜15分です。

 間近で見ると轟音がもの凄い。両側の柱状節理も見事です。地震滝という様に、地響きも感じます。撮影場所は、滝上へ登って二の滝方面へ向かう途中です。

(左)ミヤマイラクサ。山菜のアイコです。トゲがもの凄いので、ゴム手袋がないと採れません。(右)遊歩道沿いにはユキツバキ(雪椿)の群生地が。他にはツルアジサイ、ヤグルマソウ、ラショウモンカズラなどが見られました。

 小林一茶記念館へ向かう途中で、息子達が小さい頃に訪れた「黒姫童話館」へ寄ってみました。正面に黒姫山。右奥に妙高山。

(左)一茶記念館の猫館長。毎朝出勤してきて自分で自動ドアを開けて入り、夕方帰っていくそうです。けっこう高齢で病気もしたそうで、少しヨボヨボです。かなり前の記事でも紹介しましたが、一茶は猫の句を300以上詠んでいます。(右)春紅葉の向こうに俳諧寺(一茶佛堂)。
一茶記念館

(左)小林一茶の墓。園内には一茶の句碑や、この地を訪れた山頭火の句があります。(右)少し離れたところにある一茶が最晩年をすごした焼け残りの土蔵。「国史跡小林一茶旧宅」です。綺麗すぎないと思いましたが、解体保存修理が行われています。「これがまあ 終の住処か 雪五尺」という句を思い出します。

(左)野尻湖ナウマンゾウ博物館へ。(右)ゾウの系統樹。必ずしも全部鼻が長かったわけではないのですね。
野尻湖ナウマンゾウ博物館

(左)フォッサマグナの中にある国立公園。野尻湖は、黒姫山の大崩壊でできた湖。デコボコなハート型をしています。(右)オオツノジカ。ヒグマもいたそうです。

 ナウマンゾウの復元像。ボタンを押すと復元された鳴き声が響きます。奥に発掘された歯の化石が並んでいます。発掘の際の写真もたくさん展示されています。

(左)歯の化石。(右)ハインリッヒ・エドムント・ナウマン博士。明治政府の招きで弱冠20才で来日した地質学者。フォッサマグナの発見者でもあります。前の記事の糸魚川市のフォッサマグナ・ミュージアムでも紹介されています。

(左)ナウマンゾウを狩りをしていた原始人たちの石器。あれだけ大きなナウマンゾウを狩ったら、相当食べがいがあったでしょうね。(右)呪術か信仰の対象だったと思われる月を表したのではというナウマンゾウの牙と、星を表したのではというオオツノジカの角。美しい。

(左)昼は苗名滝近くの「そば処 たかさわ」(右)天ぷらそばを。ニハの霧下蕎麦は美味です。蕎麦団子もついてすごいボリュームがあり満腹になりました。三泊四日の車中泊の博物館・水族館、歴史巡礼の旅も終わりです。

 買い求めたお土産。左から根曲がり竹。鯖の水煮缶詰と味噌汁にするのが定番です。焼いて自家製味噌も絶品。上へ。かんずりの酒盗。酒の肴に熱々ご飯に。道の駅しなので作っているヨーグルトドリンクに日本酒をブレンドしたもの。いやこれが美味でした。妙高高原ビール。酵母の旨さが生きています。「猫と一茶」。一茶の猫好きの観察力は驚嘆に値します。一茶手ぬぐい。ナウマンゾウ博物館で買った幸福を呼ぶ石、ホワイト・オニックス。微かに翡翠色を帯びています。同じくオニックスのスタビライザー。親指をこすりつけているとストレス解消になるそうです。確かに心が落ち着きます。アンモナイトの化石と黄鉄鉱の結晶。
 実はこの旅の前の米子不動尊のと今回の旅での三つの御神籤の内容がほとんど同じだったのには驚きました。ナチュラリストでゴリゴリのリアリストなのですが、正直これには驚きました。叶うといいのですが。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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新潟/上越・糸魚川・妙高、富山/魚津、長野/信濃町への三泊四日の車中泊ぶらり旅 その3。フォッサマグナ・ミュージアムと奴奈川姫、高田城址(妻女山里山通信)

2019-06-27 | 歴史・地理・雑学
 3日目は糸魚川へ。まず、マリンドリーム能生の近くにある弁天島へ。恋人の聖地だそうです。そして、昨年の夏に息子達と訪れたフォッサマグナ・ミュージアムと天津神社奴奈川神社へ。マリンドリームに戻って昼食後、高田城址へ向かいました。夜は信州に戻って信濃町の道の駅で車中泊。

(左)能生港の灯台がある弁天島。恋愛成就の恋人の聖地だそうです。なら行かねば。中腹には厳島神社があるのですが、蜂が営巣していて近寄れません。てっぺんには海の神様「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」が奉られている能生白山神社の末社があります。(右)次に8号を糸魚川へ。糸魚川駅への角にある小さな公園に、奴奈川姫と幼少の建御名方命の像。衣服は呉服ですね。出雲系の人々が呉から渡来したことを偲ばせるもの。着物を売る店を呉服店といいますが、それも名残だと思われます。奴奈川姫は、糸魚川の土豪の妻で翡翠を象徴とする巫女だったらしいのですが、大国主命に見初められ夫を殺され略奪婚をしたと伝えられています。建御名方命は、信州一宮の諏訪大社の祭神です。その孫が妻女山麓にある上杉謙信も尊崇した会津比売神社の会津比売命です。出雲系。夫は崇神天皇に初代信濃國造に任命された武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]と伝わっています。武五百建命は大和系。出雲系の後に入ってきた越のエリート達。つまり三国志で滅亡に追い込まれた国の高度な技術を持ったエリート達が来訪したと考えられます。弥生時代にはすでに製鉄技術があったのです。拙書ではそれを「みすずかる信濃の国の鉄バクテリアがずくを出す」というエッセイで紹介しています。
 歴史人口学の研究者、鬼頭宏氏の推計によると、縄文時代の人口は約10万人~約26万人、弥生時代は約60万人。(古墳時代は400万人)奈良時代は約450万人。この急激な人口増は、生物学的には証明できません。大量の移民があったと考えるべきです。それが、呉越、徐福伝説、高句麗からの移民を意味するのではと考えます。日本史を世界史と分けて学んではいけないのです。日本の弥生時代にあたる古代中国の春秋戦国時代にそのヒントは隠されています。
ヒスイと世界ジオパーク~奴奈川姫伝説と地球の営み~:非常に興味深い考察です。ただ、高志の国(越の国)と春秋戦国時代の呉と越に触れられていないのが残念です。魏志倭人伝にある、卑弥呼が平定する前に倭国大乱があった記述は、先に来訪した呉と後から来た越の戦いではなかったかと私は考えています。奴奈川姫は越の後裔、大国主命は呉の後裔とすると、大国主命が越の後裔である奴奈川姫を夫を殺害して妻としたことも、姫が子を生んだ後に入水自殺したということもさもありなんと思えてきます。翡翠だけがそれを知っているのでしょうか。

(左)フォッサマグナ・ミュージアムへ。昨年も息子達と来ましたが素晴らしいのでもう一度。開館時間に着きました。奴奈川姫の象徴ともいえる翡翠。(右)私が大好きな黄鉄鉱の結晶。立方体はまるで人工物の様です。後日、野尻湖畔のナウマンゾウ博物館で買いました。

(左)アメジストやら色々な鉱物が見られます。(右)宝石や鉱物好きにはたまらない博物館です。今回は、開館時に入ったので入館者も少なくゆっくりと観られました。

(左)凄いですね。この色彩は。(右)水晶の色々。今はデジタル全盛期ですが、昔はクウォーツ時計というものがありましたね。

(左)天津神社拝殿。茅葺きの拝殿は寛文二年建立。(右)拝殿内部。越後国一ノ宮です。

(左)拝殿後背の左に奴奈川神社。(右)右に天津神社。
「万葉集」に詠まれた「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳) の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられます。沼河比売はこの地の土豪の妻で、ヒスイを支配する祭祀女王であったと思われます。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となるといわれます。大国主命は、その評判を聞き東征の折に彼女の夫を殺し略奪婚をしたとも。諏訪大社の祭神・建御名方命はその子ですが、元の夫を殺害された奴奈川はふさぎ込んだ不遇の一生を終えたともいわれています。真相は遥か古代の闇の中です。

(左・右)マリンドリーム能生に戻りカニラーメンを食べたのですが、これが残念。蟹は入っていてもスープに蟹風味が全く無い。これは駄目です。蟹欠乏症になり、今夜は信州信濃町の駅の道に宿泊と決めていたので、夕食用にまたまた紅ズワイガニを購入。昨年からご贔屓の海富丸さんへ。一昨日来たのでおばさんが覚えていてくれました。また2000円でとお願いすると、3000円の蟹にもう一杯おまけを。保冷剤と発泡スチロール箱でプラス300円。スタンプも増えました。サービス感謝です。

(左)マリンドリーム能生でしばらく休憩の後で出発。6:00am〜9:00pmまでやっているコンビニもあるので、非常に人気があります。写真の後ろ5mはもう海です。(右)上越市から南下して高田城址へ。

(左)唯一現存する高田城三重櫓。(中)高田城址再現図。(右)紫陽花が美しく咲いていました。色変わりするので「移り気・七変化」ということで武士には好まれなかった様ですが、それはそれとして城跡に合いますね。

 三重櫓の中には、色々な展示品があります。最上階からの眺めも特筆です。

(左)明治時代に描かれた春日山城絵図は必見。(中)ツツジも満開。お堀の美しい城址でした。信州に向かいます。(右)下道を辿って着いたのは野尻湖。信州に入ると快晴でした。

(左)野尻湖は周遊道路がありますが狭いです。ここは左回りが鉄則です。サイクリストやランナー向けの距離標識もそうなっています。ところが右回りの老人が。ネットで調べればすぐ分かるのですが、これはそういう標識を立てるべきでしょうね。ただ右回りですぐ近くのペンションやレストランに行く人や斑尾方面に向かう人は例外です。(中)まず苗名滝近くの苗名の湯へ。いい湯でした。水曜休館です。(右)信濃町の道の駅しなの。ここで車中泊します。

(左)夕飯は、道の駅マリンドリーム能生で買い求めた紅ズワイガニ。いや目立ちすぎるので駐車場の一番端っこの野菜売り場「いっさっさ」のテーブルで。またまた蟹でお腹いっぱいになりました。(中)車中泊の車内。ENKEEOの厚さ10センチのエアマットは2000円。必需品です。寝袋はジッパーでフルオープンできるのがスグレモノ。枕は必須ですが100円ショップのもの。全部で5000円ぐらいです。道の駅は宿泊所でもなくキャンプ場でもありません。基本的には24時間開いている休憩所。テントの設営やバーベキューは厳禁です。宿泊を歓迎しているところもあれば黙認しているところも。禁止しているところもあるので事前にネットなどで調査を。(右)暮れてきました。この夜は十数台が泊まったようです。売店は閉まりますが、自動販売機とトイレは24時間使えます。夕食後には、大好きなユキ・ラインハートのFMラジオを聴きながら、ビールやバーボンのハイボールで晩酌。ふと外に出て空を見ると、北の低い空に北斗七星とカシオペア座が見えました。絶品黒姫霧下蕎麦も堪能。続きはその4で。道の駅での車中泊は宿泊費がいらないので、その分食費や見学費にまわせます。今回は、歴史巡礼と博物館・水族館巡りの旅でした。
 翌日は、小林一茶記念館やナウマンゾウ博物館へ。野尻湖の湖畔を堪能して無事に帰還しました。小林一茶記念館は、昔、小さかった息子達と訪れたときと違って改築され素晴らしいものになっていました。ナウマンゾウ博物館は、地味ですが素晴らしいものでした。鉱物や化石などを買いました。また行きたいですね。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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新潟/上越・糸魚川・妙高、富山/魚津、長野/信濃町への三泊四日の車中泊ぶらり旅 その2。埋没林と水族館(妻女山里山通信)

2019-06-24 | 歴史・地理・雑学
 2日目は富山県の魚津まで足を伸ばしました。林業学部を出て信州で林業関係の仕事をしている長男から勧められた埋没林博物館へ。そして博物館で勧められた魚津水族館へも行きました。そして、親不知に立ち寄り、入浴してから再びマリンドリームへ戻りました。素晴らしい夕焼けに遭遇。秋田から鹿児島まで20日間の放浪の旅をしてきた男性と邂逅。こういう出会が楽しいのです。

 前夜の地震のため遅く出発。新潟県のマリンドリーム能生から富山県の魚津市の「埋没林博物館」までは、約70キロ。遠いです。国道8号を行けばいいのは分かっていますが、それは帰路に使うことにして、朝日町からあいの風とやま鉄道と寄り添うように走る県道60号へ。そのまま2号に入れば着けるはずでしたが、途中で例祭のため通行止め。しかたなく8号へ出て適当なところで2号からしんきろうロードへ。正午少し前にやっと到着しました。
 魚津市は、後背に北アルプスの膨大な水源地を抱えた扇状地です。それがよく分かる看板です。

(左)「埋没林博物館」入り口。カフェが併設されています。通称「ねっこランド」。約2,000年前から地中に眠っていた国の特別天然記念物指定魚津埋没林の展示と、富山湾に現われる蜃気楼の紹介を行っています。根っこなんか見て楽しい?と思われるかもしれませんが、楽しいです。(中)テーマ館の展望台から。あいにくの天気で北アルプスは見えませんでした。(右)晴れていれば見える風景。白馬岳や剱岳が望めます。あの向こうは長野県です。

 水中展示館の水に沈む巨大な古代杉の根っこ。特別天然記念物に指定されています。

 乾燥展示館の巨大な根っこ。触ることもできます。魚津埋没林は、約2,000年前、片貝川の氾濫によって流れ出た土砂がスギの原生林を埋め、その後海面が上昇して現在の海面より下になったと考えられています。

(左)巨大です。(中)テーマ館。屋上に展望台があります。2階で埋没林と蜃気楼のハイビジョンムービーが見られます。(右)乾燥展示館と水中展示館。
魚津埋没林博物館

(左)「埋没林博物館」で、水族館との共通券を勧められました。面白いものいますかと聞いたら。魚津の魚やクラゲにアマゾンの魚もと。何!アマゾン!ということで「魚津水族館」へ。(中)黒部川の清流に棲むヤマメやイワナ。見ていたら昔やっていたフライフィッシングをまたしたくなりました。(右)高級魚のクエが悠々と泳いでいます。美味しそうだなと、つい食べ物として見てしまう性分なのは困りものです。

(左)リュウグウノツカイ。大きいです。下にはホルマリン漬けも。名前は竜宮城からの使いという意味ですが、その生態は謎に包まれています。(右)ミズクラゲ。最もありふれたクラゲですが、美しく見ていると癒やされます。しかし、刺されると痛いです。塩蔵すれば食べられるそうです。やはり、冷やし中華にクラゲは必須ですね。

(左)お待ちかねのアマゾンの生物。これはリクガメですね。昔、泊まっていたペンションで昼寝をしていると、庭でリクガメが交尾していましたが、甲羅がぶつかる音がゴーン、ゴーンと響いていました。(右)ピラニア・ナッテリー。パイゴセントラス・ナッテリーと共に、アマゾンではポピュラーなピラニア。アマゾンでは、赤いピラニアをピラーニャ・ベルメーリャと呼んでいたような。ピラーニャ釣りにも行きました。牛筋で釣ります。ピラニアは骨が多いのでパクチーを入れてスープで食します。

 巨大古代魚ピラルクー。アロワナ目アロワナ科ヘテロティス亜科に属する魚類。現存するアラパイマ属唯一の種です。えら呼吸に加えて、原始的な肺により空気呼吸も行う珍しい魚。体長は3m、体重は200kgにもなる世界最大級の淡水魚です。貴重な魚ですが、アマゾンのメルカード(市場)では、普通に鮮魚や塩漬けが売られています。身はサーモンの様なピンクですが、味は分厚く濃厚なヒラメのエンガワという感じ。私が最も好きだったのは、細かなパン粉でフライにしたピラルク・フリット・ミラネーゼという料理で、何度も食べました。
 ちょうど若いスタッフの方が来たので年齢とか聞いたのですが分からないそうです。水槽には3尾の大きな個体が悠々と泳いでいました。彼とは、私が三度訪れて放浪したアマゾンの魚の話をしました。ピンク色のアマゾンカワイルカを見たいそうです。アマゾン川やボリビアの支流で見ました。ピラニアより怖いカンジルがいたのには驚きました。

(左)珊瑚。海の環境の良さを図るバロメーターになる重要な生物です。辺野古埋め立ては、Queenのギタリスト、天文学者でもあるブライアン・メイも反対を表明しています。(右)透明な標本。作り方が紹介されています。

(左)大きなウミガメ。里山でも動物が誤ってビニールなどを食べてしまうのですが、ウミガメがビニール袋をクラゲと間違えて食べて死亡したりします。廃プラスチックの問題が極まっています。
魚津水族館
(中)いい水族館でした。8号を戻ります。お昼を食べていないことに気が付きました。立ち寄ったのは朝日町の料理旅館ドライブインきんかい。もう午後3時近くでした。(右)一番人気のたら汁定食を。馬鹿旨です。トラックドライバー御用達の店なので、ボリュームも凄いです。

 親不知。実はこの夜は親不知ピアパークで車中泊するつもりでした。しかし、すぐ上を高速が通っていて煩くてここは無理と判断。マリンドリーム能生に戻ることにしました。
 親不知のウエストン展望台からの眺め。もの凄いところを国道8号が通っています。高速道路は海の上です。

(左)昨年はもの凄い雷雨に見舞われて行けなかった旧北陸線のトンネルを見に行きました。(中・右)260段ぐらいの階段を下ってトンネルへ。この親不知レンガトンネルは、土木学会選奨土木遺産です。入り口に懐中電灯があり向こう側へ抜けられますが、ひとりで歩きたくはないので戻りました。歩いてきたご夫婦が、お化けは出なかったけどコウモリがいたと。

(左)キオン(黄苑)キク科。(中)アカショウマ(赤升麻)ユキノシタ科チダケサシ属かな。生薬です。(右)ウツギ(空木)アジサイ科ウツギ属。「夏は来ぬ」も卯の花です。いずれもトンネルへ行く道すがらに咲いていました。他に見られた植物は、ヤマウド、アカソ、シシウド、マタタビなど。

(左)少し糸魚川方面に戻って展望台からの親不知。とんでもないところです。(中)出会った長野から来たご夫婦にいい温泉知りませんかと聞いたら教えてくれた親不知ピアパークの信号を山に少し登ったところにある「親不知交流センターまるたん坊」へ。非常に眺めのいい温泉でした。(右)親不知ピアパークで休憩。昨年、息子達とこのレストピアで、鱈汁付きの幻魚丼を食べましたが、超絶美味でした。

 夕方少し前にマリンドリーム能生に戻りました。しばらくして隣に一台の車が。車中泊ですかと聞かれました。秋田の方で、なんでも20日かけて鹿児島まで車中泊の旅をしてきたとか。印象派の巨匠、クロード・モネの絵画の様な極上の夕焼けを鑑賞しながら彼と色々な話をしながらささやかな酒宴をしました。防波堤にたくさんいたウミネコが次々と沖へ飛び去って行きました。初日に、防波堤の向こうに島影の様なものが見えたのは、佐渡ヶ島と判明しました。地元の釣り師の若者二人と話したり、2歳の可愛い女の子と話したり、楽しい一日でした。
 3日目は、糸魚川のフォッサマグナ・ミュージアムと奴奈川神社へ。マリンドリーム能生で昼食してまたまた蟹を買い、高田城跡へ。夜は信州の信濃町の道の駅へ。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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新潟/上越・糸魚川・妙高、富山/魚津、長野/信濃町への三泊四日の車中泊ぶらり旅 その1。春日山城跡へ。地震にも遭遇(妻女山里山通信)

2019-06-23 | 歴史・地理・雑学
 梅雨の中休みらしいということで、三泊四日の車中泊ぶらり旅にでかけました。道の駅での車中泊なので宿泊費がかかりません。その分食費を少し豪華にできます。いつものように歴史と自然探索がメインです。今回は、城跡巡りと古刹巡り。そして博物館巡りでした。素敵な出会いもたくさんあった充実した旅でした。

 早く着きたいので上信越自動車道で。しかし、途中は拡幅工事で片側通行や対面通行だらけ。思いの外時間がかかりました。まず訪れたのは、上杉謙信、上杉景勝の春日山城跡。ガイドの男性から最も効率的に全部を周れる行き方を教えてもらいました。謙信公の銅像が立つ向こうに本丸。春日山城跡は自然地形をいかした土の城なので、この石垣は公園にする際に造られたものです。

(左)城跡のほぼ全貌。非常に大規模な山城です。2キロ四方あるとか。(右)左上が本丸。その下が二ノ丸。斜面は非常に急で、攻めるのは困難です。

(左)甘粕近江守の屋敷跡。甘粕景持は、千曲川に布陣して妻女山(斎場山)から下ってくる武田軍の別働隊と激戦を繰り広げたといわれています。戦いの帰途の際に、上杉本陣に祀り、謙信自ら戦勝祈願の護摩を厳修したと伝えられる不動明王立像を柿崎景家・直江景綱と共に現在の長野県須坂市にある米子不動尊の本尊として安置したといいます。先日参拝に訪れました。二つ前の記事を御覧ください。 (右)広い三ノ丸。この前に、教育委員会の方と邂逅しました。本丸の裏に井戸丸があるのですが、なぜ水が出るのか。重要な資金源だった青苧(あおそ)の話など。そして、お返しではないですが、現在の妻女山が謙信の本陣ではないことをお話しました。

(左)青苧(あおそ)。別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)などがあります。イラクサ科の多年草木であるカラムシの表皮から採れる繊維で、「越後上布」の原料として珍重されました。小千谷縮(おぢやちぢみ)など、高級織物の糸として、武士の裃(かみしも)や富裕階級の夏の単衣などに使われていました。美しい薄青色の織物です。(右)ウツボグサ(靫草)の群生が散見されました。別名を夏枯草(かごそう)ともいう薬草でシソ科の植物です。名前の由来は、円筒形の花穂の形が、武士が弓矢を入れて背中に背負った道具である靫(うつぼ)に似ているから。城跡に相応しい野草です。日本ではハーブティとして用いられ、また、止血作用と治癒促進作用があるとされ、外傷薬として古くから利用されてきた。強壮剤、うがい薬としても用いられる。ヨーロッパでは、セルフヒールという名で知られる(wiki)。

(左)二ノ丸。(右)本丸。「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、芭蕉が平泉で詠んだ俳句ですが、過ぎていった栄華と戦いの日々を想像させます。吹き抜ける爽風が気持ちいい。

(左)本丸から信州の方向を見たところ。今でこそ新潟は米どころ、山梨は葡萄や桃の産地ですが、戦国時代は寒冷期でもあり充分な米は生産できませんでした。川中島や塩田平は、平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かでした。両者とも領民を食べさせるために、信州が欲しかったのでしょう。領主は、小説や大河ドラマの様に絶対的な権力を持っていたわけではないのです。英雄史観では、真実は見えてきません。(右)井戸丸。現在も水があります。礫層があり遠くの山から水脈が通じているのだそうです。彩るのはヤマアジサイでしょうか。
「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態 (妻女山里山通信)

(左)吸蜜するキアゲハ。春型なので小ぶりです。(右)カラスアゲハがアザミで吸蜜。城跡は、また自然豊かな里山でもあるのです。

(左)出陣に際し、謙信公が戦勝を祈願したとされる護摩堂。(右)鎮座する毘沙門天。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神です。謙信の兜の前立ては日月前立が有名ですが、飯綱権現を前立てとしたものもあります。飯縄権現とは白狐に乗った烏天狗。古代ユダヤ人の一部族ともいわれています。徐福伝説で検索を。

(左)木本のシモツケが林下に咲いていました。(右)あちこちで見られたヤマアジサイ。咲き終えたシャガも。

(左)次に五智国分寺へ向かったのですが、間違えて本願寺国府別院へ。ここがまた凄い歴史を持つ古刹でした。(右)本堂。参拝すると、見事な木彫がありました。本堂は寛政10年(1798)に造立、 文化2年(1805)に建立。
本願寺国府別院

(左)左右の木鼻には、唐獅子と貘(ばく)の木彫。材は欅でしょう。見事です。彫師は誰なのでしょうか。(右)壮麗な本堂内部。自由に入って参拝できます。内陣正面の同一須弥 壇上に宮殿(本尊)と厨子(親鸞聖人)が鎮座しています。

(左)鮮やかな内陣。唐獅子と象の木彫りが見えます。(右)鐘楼にも体毛が風になびく見事な唐獅子が。ちょうど参拝に来た地元のおばあさん二人に国分寺への行き方を聞きました。そこを左に曲がってずっと真っ直ぐ行くといいよと。母もそうなんですが、田舎のおばあちゃんの真っ直ぐはやばいです。結局迷いましたがなんとか到着。

 五智国分寺のシンボルともいえる三重塔。五智国分寺は、天台宗の寺院で山号は安国山、院号は華蔵院。本尊は五智如来です。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、越後国国分寺の後継寺院です。安政3年(1856)に宮大工曽武川常右衛門、江崎長三郎の手により着工。その後、慶応元年(1865)に上棟され整備されえたそうです。塔の壁面には高田の名工石倉正義銘の十二支と中国十二孝の半分の彫刻がはめ込まれています。かなり骨太な印象の三重塔です。
越後五智国分寺公式サイト


(左)国道8号を西へ。途中名立食堂という車がたくさん止まっていた店が気になったのですが、通り過ぎてしまったので、「うみてらす名立」へ。二階の店で海鮮丼。ボリュームがあります。(中)宿泊は、「道の駅マリンドリーム能生」と決めていたのですが、その前にネットで調べた「長者温泉ゆとり館」へ。いいお湯でした。宿泊もできます。(右)車中泊する「道の駅マリンドリーム能生」へ。昨年の夏に息子達と訪れたときに訪れた「海富丸」で蟹を購入。スタンプカードを持っているので凄くおまけしてもらいました。結局。蟹でお腹いっぱいになりました。
長者温泉ゆとり館 Facebookもリンクしています。
道の駅 マリンドリーム能生

 海まで5mのところで車中泊。燻製のタンをつまみにビールを。キャンピングカーが4台と普通車や軽自動車が10台ぐらい。他に国道沿いには大型トラックが何台も。色々歩き回って疲れたので、9時半過ぎには就寝しました。
 そして、それは起きました。10時22分、突然の地震に叩き起こされました。これは尋常ではないとすぐにFM新潟を。すると、上越中越下越に津波注意報が出たので海岸べりにいる人はすぐに高台へ避難をというアナウンス。周りの車も次々と出ていきました。さてどこへ逃げようと。震源地は山形沖らしいので西へ逃げることに。そうだ長者温泉方面へ逃げようと。坂を登って北陸道と北陸新幹線の間に広いスペースを見つけて駐車。ラジオに耳を傾けました。まあここなら大丈夫だろうと就寝。2時過ぎに目を覚ましてラジオを聞くと、どうやら津波はなかった様です。戻ることにしました。やれやれ。その後、被害が報告されました。被災された方々には、心からお見舞い申し上げます。
 翌日は、天気が崩れると分かっていたので、富山県の魚津まで足を伸ばしました。埋没林博物館と魚津水族館へ。そして再びマリンドリームへ。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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面白すぎる! 戸隠地質化石博物館。豊かな信州の里山の初夏 その2(妻女山里山通信)

2019-05-04 | 歴史・地理・雑学
 戸隠地質化石博物館(長野市立博物館分館)の続きです。帰路は混雑必至の長野の中心街を避けて、戸隠篠ノ井線を使いました。ここは知っているのでいいのですが、信州の山道は、整備された舗装路が突然なくなったり、昼なお暗いすれ違いのできない山道になったりと、気が抜けないのです。

 信州の里山に生息する野生動物。ここにいる動物すべてに遭遇したことがあります。ニホンザルは、神奈川の山でも遭遇したことがあります。三国山で出会った猿の群れでは、子猿が小さかった次男に興味を示してまじまじ見つめて、後から来た母猿が行きなさいと催促したこともありました。子供は子供が分かるんですね。今回これ以外には、ホンドギツネ、ホンドテン、ハクビシン、ノウサギ、ヤマドリ、キジなど。拙書では、月輪熊に遭遇したときのエピソードを書いています。

(左)化石博物館なので、たくさん展示されています。子供の頃に自転車に乗って茶臼山まで化石を見つけに行きました。(右)地質博物館なので岩石もたくさん。

(左)江戸時代の善光寺地震で見つかった石油。約半世紀ほど使われたそうです。埋蔵量が多ければ、信州も中東の産油国の様に大金持ちになったのでしょう。(右)その善光寺地震で犀川が山崩れでダムができて決壊し、川中島に大災害をもたらしました。左が北で右が南です。善光寺平の最南端から、さらに下流まで大被害を出したことが分かります。

 立体地図。こういうのは子供達が喜びますね。家族連れが来て小さな子が、うちどこうちどこと言っていました。そこまで細かくはありませんが。フォッサマグナと中央構造線。

(左)ナウマンゾウ。こんな動物が今もいたら面白いですね。(右)見つけてしまった製作途中のライオンのオスとメス。どんな仕上がりになるのでしょう。楽しみですね。

(左)授業で使った絵なんですが、レトロでなごみます。(右)懐かしいオルガン。私の母校にもたくさんありました。柔らかな音がします。

 博物館を出て立ち寄った裾花ダム。ダムカードを2枚いただきました。本来は下のダムの写真を撮ってきて見せるともらえるらしいのですが、私は上流から来たので特別に。盆も正月も必ずだれかいるので、インターフォンを押せば必ず出てくるということです。11時頃に放流をしていたそうで、見たかったですね。

 このまま長野市中心街へ下ると渋滞必至なので、小田切の集落を越えて19号線に下る戸隠篠ノ井線へ。裾花川の対岸を登り対岸を見ると、右に柱状節理の山。それより驚いたのは左のガードレール。なにあれ!?

(左)そうなんです。その上には戸隠の集落があるのです。恐るべし信州。長野県人ですが、善光寺平で育ち、東京に38年在住。こういうときは都民目線になってしまいます。昔は山村の方がむしろ豊かだったのです。林業や養蚕で栄えていました。(右)左に戸隠西岳、右に戸隠、一番右に戸隠富士と呼ばれる高妻山。

 裾花凝灰岩の露頭。石英や長石が含まれるため。足元の砂を見るとキラキラと輝いています。

(左)19号線に下りて村山の信号から茶臼山へ。途中の山布施で布施神社に立ち寄ります。以前紹介しました。
 社伝によると、神護景二年(768)高橋朝臣国是之が、更級郡の大領に任じられ、下総国結城布施郷の人民を従えて当地に移住し、この地を開拓。後の宝亀八年(777)に布施氏の祖・大彦命(おおひこのみこと)を勧請したということです。大彦命は、崇神天皇の命を受けて北陸道を東征し、息子の武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)は東海道を東征し、二人が出会ったところが「相津(会津)」と名付けられたと『古事記』にはあります。その後、大彦命は篠ノ井の瀬原田上の長者窪に住んだといわれています。石川の川柳将軍塚古墳、またはその上の姫塚古墳が大彦命の墳墓と地元では伝わっているようです。
 また『信濃宝鑑』には、光仁天皇の御宇(708-782)、宝祚長久国家安全を祈願して、伊勢神宮の分霊を勧請とあります。更に、安和二年(969)佐久の望月氏が移り住み、氏を布施と改めて布施郷を領治し以後、当社は神明宮と称するようになったが、文化七年(1810)吉田家に請うて社号の許可を得て、布施神社と改称したといいます。(右)社殿は棟札から明治3年の建造。木彫は石川流の山嵜儀作(やまざきぎさく)の木鼻です。この奥には須立之城があります。
山布施の布施神社と石川流山嵜儀作の木彫。布施氏の須立之城探訪。陣馬平のカモシカの親子(妻女山里山通信)

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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面白すぎる! 戸隠地質化石博物館。豊かな信州の里山の初夏 その1(妻女山里山通信)

2019-05-03 | 歴史・地理・雑学
 3日が空いていたので前から行きたかった戸隠地質化石博物館(長野市立博物館分館)へ。昨年の夏は息子たちと糸魚川のフォッサマグナ博物館、一昨年は大鹿村の中央構造線博物館へ行きはまりました。想像以上に素晴らしい博物館でした。いい意味で雑多でカオスです(笑)。おすすめです。

 その前に、ネットで見つけた気になるパン屋さんへ。そのパン屋さんの近くから見る戸隠の西岳の雄姿。手前には長閑な里山の風景。ピンク色はオオヤマザクラでしょうか。

(左)信州鬼無里 野生酵母パン+イートインカフェ ソノマノです。(右)名刺を渡して撮影とブログにアップをさせていただきます。買い求めたのは。いちじくとクルミ(大)920円とマスカットレーズン460円。野生酵母は桑の実だそうです。帰ってBLTサンドにしようと思ったのですが、つまみ食いしたら旨すぎて止まらなく半分ぐらい食べてしまいました。結局BLTとアンチョビのスクランブルエッグをサイドメニューに食べたのでした。
ソノマノ

 406号線を戻って土合の分岐を北上します。戸隠篠ノ井線から標識に従って左折して登ると戸隠地質化石博物館。途中には標識がいくつもあるので迷わずに行けます。柵小学校の元校舎が博物館です。受付で名刺代わりのURLカードと拙書を見せて撮影とブログへの掲載の許可をいただきました。小さな子を連れた家族連れがたくさん訪れていました。

(左)ミンククジラの骨格標本。(中・右)地質化石博物館なのに、昔の小学校の品がたくさん展示されています。これは楽しい。2017年の夏に訪れた遠山郷の旧木沢小学校の展示も良かったですよ。
遠山郷の旧木沢小学校、大鹿村中央構造線博物館、鹿塩温泉山塩館、小渋ダム。大町エネルギー博物館、大町ダム、鬼無里の東京!?(妻女山里山通信)

(左)数字だけなので、これは計算機でしょうか。なんかもの凄く大袈裟な作りがいいですね。(右)ミシン。我が家にも昔足踏みミシンがあって母や祖母が色々作ってくれました。

(左)骨格標本室。その床においてある唐草模様の風呂敷が気になりますよね(笑)。(中)剥製もあります。(右)昔、小中学校の理科準備室にありました。人体模型。無造作に床に置かれた何かの毛皮(笑)。

(左)シロサイの頭蓋骨。笑っています。(中)透明標本。美しい。(右)生き物の体の中。もう本当にそのまんまです。食べ物になるとモツって言いますけどね。

(左)生き物もいます。スッポン。昔、父が千曲川でスッポンを捕まえてきてしばらく飼っていたことがありました。最後は旅館に売ったみたいです。美味です。(中)キイロスズメバチの巨大な巣。(右)蝶の標本。カブトムシの標本も。

(左)水晶。子供の頃、近くの山に水晶を採取に行きました。あれはどこにいったのでしょうか。(中)なんですかねこれは。(右)B型標準携帯音聲(せい)増幅器。いやはや、この様な珍しい機械がたくさん展示されています。

 戸隠に見られる植物の数々。初めて知るものもありました。

 松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3〜1903明治36/1804〜1901の説も)が松代城内の茶室から見える風景を描いた「知身貴亭眺望西北之図」(真田宝物館蔵)。彼は我が家の斜め裏に住み、名主を務めた我が家の祖先、林逸作と幼馴染で彼が描いた祖先の掛け軸があり、友の為にと書かれています。
斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信):青木雪卿と我が家の祖先の関係

 非常に写実的に描かれているのが分かります。御用絵師、青木雪卿は、今でいうと記録を主とするカメラマンの様な仕事をしていたのでしょう。描写は極めて写実的で正確です。川中島は犀川の氾濫原で、大きな集落はなかったことが分かります。人々は山際や自然堤防の上に住んでいました。絵では、茶臼山や陣場平山には樹木がありません。人工の増大で薪が不足し、里山のあちこちは禿山だったのです。明治の埴科郡誌や更級郡誌には、かなりの里山の記述に樹木なしと書かれています。それはプロパンガスの普及まで続きました。逆にプロパンガスが普及し、林業や養蚕が廃れるに至って、里山は急速に荒廃していきました。里山は人の手が入って初めて豊かな自然が保たれるのです。妻女山里山デザイン・プロジェクトは、微力ですがそういう活動をしています。

 その2に続きます。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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屋代高校美術班+1の新年会は昭和レトロが人気の國楽館戸倉ホテルで。新年の善光寺平(妻女山里山通信)

2019-01-13 | 歴史・地理・雑学
 もう40年ほど続いている屋代高校美術班+1の新年会を、善光寺参りの精進落しの湯、戸倉上山田温泉へ。高校の同級生が営んでいる國楽館戸倉ホテルが定宿です。

 長野オリンピックでIOCが泊まった笹屋の斜め前にあります。笹屋は私が披露宴で使った旅館でもあり、陳建民の弟子だったシェフが作る中華料理がお勧めです。写真は國楽館の玄関。しめ縄はどんど焼きの時まで飾られています。入ってこんばんわと言うと同級生の亭主が迎えてくれました。他のメンバーは既に到着して一献あげていました。つまみは、仲間が作った野沢菜漬けと麹が効いたお醤油豆にたくあん漬けなど。

 國楽館戸倉ホテルのロビーです。右のハモンドオルガンがレトロです。左の柱の左には地下室に下りていく階段が。地下室には卓球場があります。温泉は源泉で温めですが非常にいい泉質です。

 宴会の始まりです。普通は目隠しするのでしょうが、皆、肝が座っている連中なので顔も全開で。左四名と私が元美術班。今はむさいおじさんですが、実は油絵を描いていた感性豊かな面々なのです。お膳は食べきれないほどの品数。ここに馬刺し、大きなブリのカマ焼き、とろろ蕎麦、味噌汁、柿のシャーベットが付きます。地物の素材が多く使われた地味ですが滋味ある料理です。ビールで乾杯。純米酒、焼酎の黒霧島と続きます。ご飯は夜食用におにぎりにしてもらいました。

 中居さんに撮影してもらいました。二人が欠席。あとひとりは、昨年の夏に食道がんで亡くなりました。彼を偲んで黙祷。2017年の初夏に夫神岳に一緒に登ったときは、これで大丈夫かなと皆が思ったのですが…。人は平等に年を取らないという中国の諺を思い出します。

 食べながら飲みながら会話が続きます。とにかく米隷属売国奴の安倍自公政権を潰さないと日本は終わるだろうと。会社経営者もいるので事は深刻です。私はマスコミの仕事をしていたので、その観点からの話も。AI社会になる今後はどうなるかという話など。皆、専門職なので会話の内容は非常に深くていつも勉強になります。

(左)食後、カラオケ行きたいねと何年ぶりかに外出しました。不景気ですね通りにはだれもいません。政府の賃金統計とかは全部でたらめです。嘘がまかり通る日本。厚労省の虚偽記載は一部のものです。もっとでたらめがまかり通っているのが安倍自公政権です。タイの女の子がいるカラオケスナックに行きました。タイに行きなれているK氏が、バンコクでもこれだけ可愛い娘が揃っている店はないというほどの店。5曲ほど歌いました。女の子たちは性格も良くて、意外にも英語が話せるのでコミニュケーションもとれました。でも、それがタイの闇なんでしょうね。素敵な女の子達でした。彼女たちに幸あれ!
(右)朝食です。地物の野菜を中心に健康的な朝食です。私は一日二食なので昼食は抜きです。この後、皆と別れて上田アリオのTOHOシネマズに行きました。再びQueenの『ボヘミアン・ラプソディ』を観るためです。さすがに今回は落涙するようなことはありませんでしたが、ライブ・エイドのシーンでは、何度も鳥肌が立ちました。ひょっとしたらもう一回観に行くかも知れません。

 翌日、買い物ついでに妻女山展望台に寄りました。西方の展望。左に鹿島槍ヶ岳。右に白馬三山。一番右手前は茶臼山。平地には積雪はありませんが、日陰や山間部にはあります。

 北方の展望。中央の飯縄山や左の戸隠連峰は雪雲の中です。気温は3度。5度ぐらいにまでなりそうです。穏やかな日です。冬の里山は、積雪があればアニマル・トラッキングもできるのですが。寒いから嫌だと思うかも知れませんが、しかし、落葉しているので展望が効き、山城や古墳探索のトレッキングには最適なのです。拙書では、そんな情報も載せています。

 東方、松代方面の長めです。拙書でも紹介の大きな山体の奇妙山。後背の根子岳と四阿山は雪雲の中です。

 妻女山を下りて上信越自動車道のトンネル。この後ろの上杉謙信槍先ノ泉のカーブが凍結していて危険です。最も危険なのは3月なんです。凍結が解けて再び凍結して更に降雪があるとスタッドレスタイヤでも登れません。酷い冬では10台以上スタックして救助されました。歩いても15分で登れるので、このトンネルの前に駐車して歩いて登ってください。妻女山と斎場山に関しては、右上の検索からプルダウンしてブログ内検索をしてください。
 これだけ降雪が少ないと、2月に大豪雪があるかも知れないと心配しています。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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初詣は国宝の仁科神明宮へ。安曇野大王わさび農場。初積雪。Queen『ボヘミアン・ラプソディー』(妻女山里山通信)

2019-01-04 | 歴史・地理・雑学
 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 大晦日から三賀日は、長男のところに集まるのが恒例となっています。大雪もなく穏やかな正月でしたが、こんな暖冬のときは早春の上雪の大豪雪が必ずあるので心配しています。雪が少なければ田植えにも影響しますが、自然はどこかで帳尻を合わせてくるのです。2014年の大豪雪の再来がないといいのですが。心配です。

 元旦の朝はピーカン。安曇野のシンボルともいえる常念岳の心が洗われるような朝焼けです。右は横通岳。

 我が家は昔から元旦の朝(ブランチ)は、おしぼりうどんなのです。信州でも旧埴科郡更級郡でしか食べられていない伝統料理。(左)最近、長男が諏訪の骨董屋で見つけた田中式の年代物の製麺機でうどんを打ちます。(中)うどんは友人が育てた幻の小麦・いがちくオレゴンで、前日私が打ってねかせて持参したものです。(右)辛味地大根をおろして絞った汁に自家製の味噌と長葱、花鰹をといていただきます。辛いだけでなく、甘味や旨味があります。息子たちも離乳食の頃から信州のばあちゃんが打ったこのおしぼりうどんを食べて育ったので大好きです。この旨さを「あまもっくら」といいます。千曲市や坂城町、長野市南部では供する店があります。うどん好きの方は、ぜひ一度召し上がってください。今回は、粉で600グラムを打ってきました。三人で食べてもお腹いっぱいの量です。

(左)初詣は国宝の仁科神明宮へ。参道の大杉が倒れそうで支えていますが心もとない。(中)手水舎ですが凍っています。冷たいこと。(右)伊勢系なので鳥居もシンプル。反りもなく、下の横木も突き抜けていません。しかし、他の伊勢系神社では例外も見られます。

(左)社務所の売店では、おみくじや破魔矢などを買い求める善男善女が大勢いました。私は前回も買い求めた自然石のおみくじを。今回は翡翠でした。黒曜石と共に諏訪大社のシンボルともいえる宝石です。(中)神門で参拝。(右)後背の中門・釣屋・本殿が国宝です。

 左から国宝の中門・釣屋・本殿。古くは伊勢神宮のように20年毎に遷宮していたらしいのですが、江戸時代にお金がなくなりそのままに。それが時を経て古くなり価値が出て国宝に。なにが幸いするかわかりません。
日本最古の神明造りの国宝・仁科神明宮と、七色大カエデとカミツレの咲く大峰高原(妻女山里山通信)

 参拝後は、神社後背の大峰高原へ。途中の展望台から観る根子岳(左)と百名山の四阿山(右)。右手前の三角は冠着山(姨捨山)。左は聖山。いずれも拙書に載せている歴史あるいい山です。

(左)向かいにはゴールデンウィークに咲くヒカゲツツジで有名な京ヶ倉と大城。もちろん拙書でも歴史やコースの紹介をしていますが、初心者や子供、高齢者が登れる山ではありません。転落死亡例もある厳しい里山です。(中)有明山。後背の北アルプスは雪雲に覆われています。(右)大峰高原の七色大カエデ。カミツレ(カモミール)の大きな畑や温泉もあります。

 山を下りて途中の大王わさび農場に寄りました。黒澤明監督の『夢』のロケ地で有名です。万水川・蓼川の合流地点。水車は凍りついていました。熱々の山葵コロッケが美味でした。土産に山葵鶏ハムを買いました。家族で来たのは、もう20年ぐらい前ですね。息子たちが緑色のお揃いのチェックのシャツと緑色の半ズボンを着ていて、売店のおばさんに「山葵色だね」と言われた思い出。

(左)安曇野インター近くのモンベルへ。アウトレットでパンツを探したのですが、いい色とサイズがなく断念。次男は煉瓦色のお洒落なパンツを、長男は手袋を購入。(中)夕食はチーズフォンデュ。カフェモモの全粒粉パンにアンガスビーフ、赤海老、シルクスウィート(薩摩芋)、ひょうたんカボチャ、人参。美味しくて食べすぎました。(右)ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを観ながら過ごすのが我が家の恒例です。ラデツキー行進曲が始まる頃にはかなりいい酔い心地になっているのが例年ですが、今年は疲れて眠ってしまいました。

(左)二日朝は3センチくらいの積雪がありました。(中)箱根駅伝を観てから湯多里(ゆったり)山の神温泉へ。ナトリウム炭酸泉のぬるぬるしたいい温泉です。美肌の湯。拙書でもすべての山に登山後に入れる立ち寄り湯を紹介しています。信州は温泉天国なのです。(右)夕食は、インドネシア料理のミーゴレンと牡蠣のナンプラーのバターソテーに本場タイ産の激辛トムヤムクンスープ。正月からエスニックと、よく分からないメニューですが美味。私が持参したものです。

 三日朝。息子たちと別れて403号の道の駅さかきたから観る聖山。そして、このあとは戸倉上山田温泉で温まってから上田のTOHOシネマズへ。『ボヘミアン・ラプソディー』を観に行きました。この曲がヒットしていた当時、学生だった私は春休みに5週間ほどフラットを借りてロンドンに住んでいました。映画の冒頭でフレディーがBIBAへ行くシーンが流れたときは鳥肌が立ちました。私がロンドンコートとウェスタンブーツと銀細工のリングを買ったところです。同じ頃に同じ空気を吸っていたんだなと。フレディの彼女がBIBAの店員だったというのも今回初めて知りました。
 そして、ライブ・エイドのシーンでは思わず落涙しそうになりました。観客には若者もいましたが、多くは私と同じ当時若者だった人達でした。親子で来ていた人達もたくさんいました。私の息子たちも観ています。トランプが壁を造ることに拘泥したり、パリもロンドンも移民や難民の流入で街も汚くなり、治安も悪くなっています。本当は来たくもない人々を生み出しているのは、貧困や内戦などですが、それらを生み出しているのは欧米列強の国々です。たった1%の大富豪たちが、世界の富の80%以上を得ているまさに狂気の現代。そういう輩がテロや戦争を起こすのです。自分の富を守るために。
 ボヘミアン・ラプソディーはマイノリティを歌ったものです。誰しも人生の中でマイノリティになることはあります。でも、どんな人もチャンピオンなんです。
77年の3月、羽田空港からロンドンへ、空中分解しそうなアエロフロートで飛んだ」村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック『国分寺・国立70sグラフィティ』

Queen - Live at LIVE AID 1985/07/13 [Best Version]


Love of my life & Bohemian Rhapsody - 1080 HD

 さすがにオペラパートはライブではできなかったんですね。でも上手くつなげてあります。素晴らしい。

『ボヘミアン・ラプソディ』がゴールデングローブ賞最優秀作品賞に輝きました。最優秀主演男優賞も。
 30歳まで私は文学青年で映画青年で夢想家でした。概念芸術家も目指していました。29歳から30歳にかけてクリエイターとしての引き出しを作るためにカルチャーショックを受ける放浪の旅に出ました、南米に200日の命をかけた旅から帰還して私はリアリストになりました。分かっていないことの中にしかロマンはない。ロマンは分かっていないことである。それを追い続ける人を支持します。役に立つこと、儲かることだけでは人類に未来はないのです。1本のブナの巨樹には、4000種類の生物が共生しています。それは宇宙なのです。

クイーンのギタリスト、ブライアン・メイが辺野古埋め立て中止請願への署名を呼びかけ 署名しました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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平安時代は荘園で大麻の名産地だった麻績村の初雪に佇む郷社・麻績神明宮へ(妻女山里山通信)

2018-12-28 | 歴史・地理・雑学
 信州は諏訪系の神社が多いのですが、そんな中で伊勢系の国宝仁科神明宮を訪れたブログを以前アップしましたが、麻績村に神明宮があると知り訪れました。28日はこの冬初めて善光寺平に積雪がありました。積雪のある403号の峠越へはこの冬初めてで緊張しましたが、国の重要文化財で郷社を名乗る神社は非常に趣のある佇まいでした。

 国道403号の姨捨上の千曲川展望台からの善光寺平の眺め。高層には筋雲(5000=13000m)が、その下には雪雲(1500〜2500m)が。不思議な光景です。晴れて陽がさしたり、突然雪雲に覆われて雪が降り出したりとドラスティックな天気の日でした。夜にかけて降りそうですが、善光寺平は大雪にはならないでしょう。この冬初めての積雪道路の運転でかなり慎重になりました。どんな有能なスタッドレスでも万能ではありません。長野県では車に雪を積んだまま走るのは条例違反です。後ろに落ちれば事故を誘発する危険性が。前に落ちればフロントガラスを覆って視界がなくなり非常に危険です。必ず雪を落として走行を。
 右手前は、姨捨の棚田です。屋代市街の向こうに坂城まで続く五一山脈。その向こうに上杉謙信が布陣した斎場山(旧妻女山)の鏡台山まで続く戸神山脈。いずれも拙書で紹介しています。

 麻績村の三峯山。もちろん拙書でも紹介しています。さすがに積雪が少なくてスキー場はまだ開いていないようです。麓の聖湖のへらぶな釣りも来春までお休みです。
 信州の冬に来る際は、スタッドレスやチェーンはもちろん、融雪剤スプレー、ウィンドウの雪かきスキージ、雪かきスコップ、車中泊のための毛布や寝袋、食料を積み込むことをお勧めします。笑い事ではありません。賢い雪国の人は皆そうしているでしょう。

(左)筑北村方面へ左折して暫く行くと鳥居という店の向こうに神明宮への道が。一ノ鳥居。昔は木造だったのですが、車がぶつかって破損。石造りにしたのですが、また車がぶつかって破損。これはその後再建されたものだそうです。安全運転で。(中)神社の右側にある小さな社。猿田彦大神とか色々。南方熊楠(みなかたくまぐす)が猛反対した明治の「合祀令」の結果でしょう。境内にも稲荷や天満宮なども、合祀令の暴挙の痕跡が見られます。(右)神橋の先に二ノ鳥居。ここで氏子のお爺さんと出会いました。貴重な話を色々聞かせていただきました。一ノ鳥居の話や、二ノ鳥居が木造だったが古くなって倒壊しそうになったなので銅板を巻いた話とか。

 御神木の大杉。樹齢1000年とか、500年とか色々説があるそうです(笑)。非破壊検査に調べてもらいましょう。話をした方は、昔は杉に囲まれていて、60本以上を伐採したと。本殿の近くにも巨木があったが、国に本殿と木とどっちが大事ですかと言われて、泣く泣く御神木を切ったと言っていました、その切り株は本殿の左に残っています。国宝の仁科神明宮の事故を見ると、伐採はやむを得ないと思います。今回私が見て、本殿の左の皮の剥けた杉が少しまずいなと思いました。

 舞台。地下にコンクリートの基盤を造り、舞台を組み直したそうです。その完成時には、大鹿村の歌舞伎を呼び演じてもらったそうです。こんな素晴らしい舞台は凄いと驚いていたそうです。屋根は葦葺きです。小川村の屋根職人が葺いたそうです。葦(あし)と葦(よし)は、同じものです。関西で葦が悪しにつながるとして、よし(良し)と呼ぶようになったとか。

 拝殿。初詣はともかく、普段はだれも来ないなと寂しそうにお爺さんは言っていました。平安時代、麻績郷は大麻の生産地で朝廷に献上していたのでしょう。近くにある美麻村もそう。善光寺平の篠ノ井や川中島は布施氏の荘園があり大麻を生産していました。大麻は麻布や綱として用いられただけでなく、神道の重要な儀式のツールでした。戦後GHQが大麻を禁止する法律を作らせたのは、麻薬だからではなく神道との結びつきがあまりにも強かったからなのです。海外ではマリファナの医療仕様や解禁が進んでいますが、そういうものなのです。麻薬と一緒にしてはいけません。特に医療用大麻は一刻も早く認可すべきです。それを阻んでいるのは、全く効果のない抗がん剤で莫大な利益を得ている日本の製薬メーカーと馬鹿な御用政治家です。

 本殿。国宝の仁科神明宮より大きなものです。お爺さんから新旧ふたつのパンフレットをいただきました。まだ読み込んでいないので、追加記述します。

 仮殿。宝暦10年建立。

(左)拝殿から見下ろす風景。(中)御神木の巨木と舞台。(右)本殿の後背に杉の深い森。
麻績神明宮(おみやさんcom)
日本最古の神明造りの国宝・仁科神明宮と、七色大カエデとカミツレの咲く大峰高原(妻女山里山通信)私のブログ記事です。

(左)麻績村から筑北村へ。坂上トンネルを抜けて、善光寺精進落しの湯の戸倉上山田へ。雪の中を万葉橋たもとの亀屋へ。雪が激しく降り始めました。(中)ここのラーメンは無化調で脂っこくなく、やさしく旨味が深い。若者から高齢の人にも人気のラーメン屋です。(右)味噌野菜ラーメン。サービスの豚辛味噌付き。粉も地元産。夢つけ麺は、地粉のユメセイキです。スープも飲み干すほど美味い。
 今年のブログ記事はこれで最後になります。たくさんの御高覧ありがとうございました。来年も研鑽してまいりたいと思います。では皆様、良いお年を。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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