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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

森将軍塚古墳。大和系と出雲系が結ばれ古代科野国の祖となる(妻女山里山通信)

2015-12-04 | 歴史・地理・雑学
 暖冬の影響で曇や雨の日が多く、撮影もままなりません。最大級のエルニーニョのせいでしょうね。2014年の2月の大豪雪があった冬の暮れと似ています。あの年も11月にヤマツツジが狂い咲きしていました。そんな中で、やっと晴れ間が出たので、かねてより再訪したいと思っていた森将軍塚古墳へ出かけました。
 その前に、麓にある長野県立歴史館へ立ち寄って、拙書『信州の里山トレッキング 東北信編』を一冊寄贈してきました。実は執筆にあたり、山の歴史を調べるために何度も通ったのです。そのお礼も込めて。快く受け取って頂きました。

 左は、雨宮の上信越自動車道の脇の道から見上げた森将軍塚古墳。古墳は、後ろの有明山の北側にある大穴山(おおなやま)の山頂にあります。復元される前は、樹木に覆われ遠目からは古墳があるようにはとても見えませんでした。麓が358m、山頂が490mぐらいですから、比高132m。
 中は、麓の屋代清水遺跡に復元された科野のムラ。竪穴住居や高床倉庫などが復元されています。丈夫にするためでしょう。煙で燻していました。
 科野のムラの一番西から遊歩道が始まります。途中バス道路に出ますが、また遊歩道に戻り、約15~20分で右の写真の古墳入り口に着きます。上の遊歩道を行くと、カモシカ広場を過ぎて有明山将軍塚古墳へ行けます。

 森将軍塚古墳全景。科学的に証明はできませんが、埋葬されているのは初代科野国の大王といわれています。崇神天皇の三世紀後半ごろ、神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫・建五百建命(たけいおたけのみこと)が科野国造(しなのくにのみやつこ・しなのこくぞう)に定め賜わりました。そこで森将軍塚古墳の埋葬者が、建五百建命ではないかといわれているのです。古墳の築造は、4世紀代といわれています。
 そして、建五百建命の妻は、會津比賣命といわれ、会津比売神社が斎場山の麓にあります。上の写真で後円部の向こうに見えるのが斎場山(旧妻女山)です。山頂には斎場山古墳(円墳)があり、上杉謙信が第四次川中島合戦の際に、最初に本陣を構えたという伝説があります。
 建五百建命の祖先は神武天皇ですから大和系。會津比賣命の祖先は大国主命ですから出雲系。この二人が結ばれ古代科野国の祖となったということです。これに関しては、信濃の古墳研究の第一人者であった元長野県考古学会長・故藤森栄一氏が、【信濃豪族の系譜】という文章を書いておられるので、以前の記事をお読みください。
古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証(妻女山里山通信)

 前方部からの眺め(左)。後円部からの眺め(中)。左後方の鉄塔の右に有明山将軍塚古墳があります。空の筋雲(巻雲)が爽快です。高さはおよそ5000~13000mで、雲の中では最も高いところに発生します。古墳の周囲や上には、説明板が各所にあります(右)。後円部が曲がっていて正円でないのは、土木技術が未熟で曲がってしまったのではなく、山の地形に合わせたからだそうです。

 前方部の周囲の埴輪(左)。後円部の西の縁の埴輪(中)。大型でベンガラで塗られているのが特徴。埴輪棺(右)。埴輪を棺としても使ったようです。

 前方部から後円部の眺め(左)。前方部は、古墳の主が眠る後円部に至る通路あるいは、儀式の場所ではないかと考えられています。(説明板より)後円部から前方部の眺め(中)。前方部にも3つほど石室が見つかっています。大王はもちろん後円部の大きな石室ですが、妻の会津比売命はどこに埋葬されたのでしょう。後円部の上(右)。四角い石は、石室を表しています。

 前方部(左)、後円部(中)の説明板。竪穴式石室は、「墓壙(ぼこう)」と呼ばれる二重の石垣で囲まれた長さ15.0m、幅 9.3m、深さ 2.8mの大きな穴の中に築かれ、石室内には、遺体を入れる木棺が納められていました。墳頂から石室の底までは、約 3.5mもあり、手厚く埋葬された様子がうかがわれます。(森将軍塚古墳館のサイトより)
 科野のクニの想像イラスト(右)。古墳の北側に古代科野国が広がっていました。千曲川の自然堤防と山際に集落があり、後背湿地が水田になっていたのでしょう。

 そんなことを想いながら、眼下を見下ろした風景。古墳時代の人が、この風景を見たらなんて思うでしょうね。右下にあるのが古墳館。石室が再現されていたり、かなり充実した展示です。左下に見えるのが長野県立歴史館。常設展は一度見ればいいと思いますが、企画展は注目です。12月19日から2月28日まで、地図の「明治維新」(残された明治初期の町村地図)という展示があります。これは面白そうです。
 右奥に長野市民の山、飯縄山。その左に戸隠連峰と戸隠富士と呼ばれる高妻山。左手前に茶臼山。左手に北陸新幹線、右手に上信越自動車道。2キロほど先に長野自動車道との更埴JCTがあります。古墳館の右上は、あんずの里物産館。その上が、あんずの里アグリパーク。いずれも土産物と食事処があります。

 将軍塚の周囲には、その子孫の古墳がたくさんあります。一番右上の2号墳の先にも4基あったのですが、砕石で削られて消滅しました。それに危機感を抱いた地元の方々が、全面発掘調査と復元整備を行ったのです。亡くなった私の伯父も色々尽力したそうです。

 後円部から、西-北-東の180度の大パノラマ。左に篠山から茶臼山。間に北アルプスの白馬三山。北に戸隠連峰と高妻山、飯縄山。右に斎場山から鏡台山への戸神山脈。15枚の望遠カットをフォトショップで繋いであります。オリジナル画像はTIFで、左右が3万ピクセルを超えています。

 後円部の先端から北東の斎場山方面の眺め。この辺りを大穴郷(おうなごう)といいました。土口将軍塚古墳と倉科将軍塚古墳も森将軍塚古墳と同じく、国指定史跡の埴科古墳群です。

 後円部からの白馬三山。中央に杓子岳、左に白馬鑓ヶ岳、右に大きな白馬岳。明治時代に帝国陸軍陸地測量部が地図を作るから山名を記せと言ってきたそうですが、西岳とか岳山とかで明確な山名がなかったそうです。「大昔から住んでいて、日本国中でも少ないこの山の名を知らぬとは、なんという馬鹿者揃いだ」「山に名がないなんてことがあるか」村長以下散々叱られたそうです。しかし、ないものはないわけです。そこで村の長老に相談し、代かきの頃に馬の雪形ができるので代馬岳としようといって提出したそうですが、できあがった地図は白馬岳となっていたそうです。(『北アルプス 白馬ものがたり』石沢 清著より)
 右手前の中腹にソーラー発電のパネルが見えます。強力な有害電磁波を出すので、人家から離れた場所に設置されています。実はソーラーパネルは、その生産と廃棄と両方で、カドミウム、カドミウムテルル、鉛などの有害な物質を出すのですが、その処分法や解決策はまだはっきりしていません。決してクリーンなエネルギーではありません。
 今日、長野市北部や山間部は雪模様ですが、妻女山は時折雨でした。こんな日に鳥を撮影に来た母娘さんがいて色々お話をしました。私は乱視なので鳥の撮影は苦手なんです。なんとかノスリだけは、いつかいいカットをものにしたいんですが。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。
本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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