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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

北斎「神奈川沖浪裏」についての疑問を検証。波の伊八と葛飾北斎(妻女山里山通信)

2021-08-20 | 歴史・地理・雑学
『神奈川沖浪裏』(かながわおきなみうら)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『富嶽三十六景』の中の一作品。製作年は、1831-33年(天保2-4年)70歳過ぎといわれています。1999年に、アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインしたことでも有名ですが、この作品は北斎の最も有名な一枚といえるでしょう。しかし、私は以前からこの作品と題名に疑問をいだいていました。映画「HOKUSAI」を観ていっそうその思いが強くなり検証をはじめました。

 まず思うのは『神奈川沖浪裏』の沖という文字。マリンスポーツをやったことのある方なら分かると思いますが、こういうチューブができる波は通常、沖では発生しません。波打ち際です。若い頃にスキンダイビングや430級のディンギーやブラジルでボディーサーフィンなどをしていたので、余計あり得ないと思うのです。しかも下の波の写真で分かる様に海岸から観たらこんな感じで、北斎の波は横から見たものだと分かります。更にこの船は当時、活魚輸送などに使われた押送船だそうですが、こんな大波がある時に船を出すなんてあり得ません。神奈川沖というのは、50歳過ぎに描いた『賀奈川沖本杢之図』があるように、横浜市神奈川区の本牧の沖合でしょう。押送船は、本牧から沖合に出て翌朝に日本橋に着いたそうですから。シチュエーションも含めて北斎のディフォルメがなされた作品と考えてよさそうです。
 富士山に関しては、肉筆画『富嶽と徐福』藤原祐則筆(葛飾北斎)北斎館所蔵を見て欲しい。富嶽は富士山(不二山)で、徐福が目指した蓬莱山です。リンクの記事に絵を掲載しています。徐福伝説とはーも

 では彼はどこでこの様な波を見たのでしょうか。そこで想起されるのが、安房国長狭郡下打墨村生まれの宮彫師「波の伊八」こと、武志伊八郎信由(1751-1824)です。関西の宮彫り師から、「関東に行ったら波を彫るな」と言わしめた宮彫り師。北斎(1760~1849)ですから9歳年上。ほぼ同時代の人です。

 まず北斎33歳(1792年)の作品『江ノ島春望』。七里ヶ浜から見た江ノ島と富士山。波のサイズもリアルです。右の人物たちもどういうシチュエーションなのか興味深いものがあります。

 北斎の『神奈川沖浪裏』に影響を与えたといわれるのは、行元寺の欄間彫刻「波に宝珠」といわれていますが、そうではなく、1803年(北斎43歳)に『賀奈川沖本杢之図(かながわおきほんもくのず)』(右)、1805年(北斎46歳)に『おしおくりはとうつうせんのづ(押送波頭通船之図)』(左)で、この様な波を描いているので、影響を受けたのはこの作品だと思われます。同時代の二人ですが、親交があったという確かな事実は確認されていません。しかし、北斎は千葉県を訪れており、伊八の作品や外房の大波を見たことは間違いないでしょう。ただこの波はまだ北斎の波にはなっていません。
 下の絵を観ると、これを描いた当時は北斎が船に関してほとんど知識がなかったことが分かります。左の絵では、後ろの波がブレイクしたら船は上を向いて沈没します。右の絵では、横から大波を受けたら簡単にひっくり返ります。大波に向かうときは、船の後部に全体重を掛けて波を船底で受け流しますが、チューブの壁面に突っ込んだら先端が潜り込んでひっくり返ります。バウ沈といいます。ディンギーは船に浮力があるのでひっくり返っても起こせますが(何度もやりました)、押送船ではかなり困難だろうと思われます。20年後作の『神奈川沖浪裏』では、そんな知識も得たのでしょうか、かなりディフォルメはされていますが、それなりに合理的な描写になっていると思います。

『神奈川沖浪裏』は、晩年に北斎が伊八の波を超えるべく想像力と創造力を働かせて作り上げた傑作だと思います。この作品がよく言われるように、伊八の波の模倣というのは全く間違いです。北斎の伝えられている性格や言動を考慮すると模倣はあり得ません。『神奈川沖浪裏』が世に出た頃の北斎の名声は伊八とは比べ物になりません。よく観ると伊八の波とは波頭や飛び散る海水の粒などが違います。おそらく房総や神奈川の海に何度もでかけ、高速度撮影した一瞬の一コマの様な瞬間を発見したのでしょう。もの凄い観察力です。
 この作品は、後の宮彫り師、諏訪立川流の立川和四郎富昌や北村喜代松らに多大な影響を与えただけでなく、1870年代にヨーロッパに渡り、ゴッホが絶賛するなど特に印象派の芸術家に多大な影響を与えたのです。北斎の絵は、時に外連味たっぷりであり得ない大胆不敵な構図や題材を描いています。常人では計り知れない感性と創造力の持ち主なのです。

 千曲市興正寺山門の子持ち龍。諏訪大社秋宮を造った諏訪立川流の富昌の傑作です。毎年春、杏が満開の時期に必ず訪れブログにアップしています。波は北斎以前から宮彫り師達は彫っていたので、渦の表現とか水流の表現とかは確立されていたのですが、鯉の滝登りなど渓流ですね。そこに海の波の彫刻を確立したのが、「波の伊八」です。二人は後の宮彫り師や浮世絵師に多大な影響を与えたと思います。

 富山県朝日町の鹿島神宮の北村喜代松の宮彫り。彼の作品を求めて、野沢温泉から上越市、糸魚川市、富山県まで撮影に訪れブログにアップしています。宮彫りは、漆塗りの綺羅びやかなものから欅のむくを使ったものに変化して行きました。結果、より厳しい造形性が求められることになりました。私も美大生時代に木彫をしたことがありますが、木目を読む難しさに閉口した思い出があります。北村喜代松は、そんな欅の限界に挑戦しています。水流の渦というのは、縄文式土器にもあるように、火炎とともに古代から生命の息吹を象徴するものなのです。
 ただ、宮彫り師はあくまで職人なのです。仏像を彫る仏師の様な社会的地位はありません。経済的にも裕福だったとはいえません。浮世絵師は、美人絵や役者絵がヒットすると、それはもうスターです。ただ北斎は金には無頓着だった様ですね。着るものや食べるものにも無頓着だった様です。結婚して娘を二人授かっています。特に応為は北斎の右腕として、数々の傑作を残しています。吉原を女性の目で描いた作品や見事な春画も。世界的に有名な北斎ブルーは、日本には延享4(1747)年に初めて輸入されたと伝えられます。「プルシアンブルー」とも呼ばれるこの青色絵具は、発見された地名をとって「ベルリン藍」、省略して「ベロ藍」と呼ばれました。高校時代に油絵を描いていた頃、このプルシアンブルーに魅了されましたが、扱いが非常に難しい。下手に使うと他の色を全て食ってしまうのです。それ以外にもトルコブルーやラピスラズリなど絵の具の多くは高価な輸入品でした。そういうものには糸目をつけなかったのでしょう。根っからの「画狂人北斎」だったのです。

圧巻の葛飾北斎。北斎館で「旅する浮世絵」を堪能(妻女山里山通信):鳥瞰図「東海道名所一覧」。後世の大正広重といわれた吉田初三郎にも影響を与えたと思われる鳥瞰図など。おそらく見たことがないと思います。肉筆画も必見です。

世界で最も有名な日本人 葛飾北斎の「北斎vs北斎」を観に小布施へ。圧巻の展覧会でした(妻女山里山通信):特筆すべきは肉筆画。北斎が描いた生の線と彩色が観られる。秦の始皇帝の命で不老長寿の薬を探して村人3000人と来訪し、裏切って帰らなかった大和王権の祖ともいわれる徐福の絵も貴重。


前述した、若い頃にブラジルを放浪してバイーア州のサルバドールの海岸でボディーサーフィンをした時のエッセイです。北斎には関係ないので読み飛ばしてください。
----また、別の日には、やはり早稲田のS君とバスで郊外のビーチまででかけた。ほとんど人のいない長い砂浜を見つけ降りていくと、15歳ぐらいの少年がいた。彼は、浜辺で十字を切ると3メートルはある大西洋の荒波にむかって飛び込んでいった。そして、うち寄せる高波に身を任せると、波の斜面を斜めに滑り落ちてきた。ボディーサーフィンだ。面白そうだね、とS君が言う。
 少年のやり方、波への入り方、乗り方を注意深く見て頭にたたき込んだ。入り方は、高波がブレイクする前に、高波の壁に自分から突っ込んで裏側に抜ける。浮きながら後ろからくるうねりを見て、思い切り海岸へ泳いで波に乗る。自分の体をサーフィンボードにしなければならないのだから結構タイミングが難しそうだ。少年も度々乗り遅れたりしていた。
 やってみることにする。押し寄せる波の壁に飛び込み少し沖に泳ぎ、波を待つ。大きなうねりが来たら、岸に向かって一気に泳ぎ出す。なかなか上手く乗れない。何度もトライしてやっと波に乗る。波のピークから、生身で一気に滑るというより落ちていく感覚は恐怖心もあるが、何とも言えない快感だ。そしてそのままだと波のブレイクにのまれてものすごい海水の渦にまきこまれてしまう。それを回避するには、落ちながら右腕を伸ばして最後に手のひらを波の裏側に出るように傾けるのだ。後は次の大波が来る前に海岸げ駆け上がる。
 コツをつかむと面白い。しかし、ものすごく疲れる。ヘトヘトになって浜辺にやっとの思いであがろうとすると真後でブレイクした高波にのまれる。高速回転の洗濯機の中に入った気分だ。浜で見ていた少年とS君が大爆笑で迎えてくれる。彼らも代わる代わる同じ目にあった。
 サーフィンボードを買えない彼らは工夫して遊んでいる。サッカーもそうだ。手縫いの布のボールを大事に蹴っている。そういう中から、ロナウドやリバウドが生まれた。ブラジルの子供たちもまた遊びの天才だった。


 20日、約2週間ぶりの青空です。前の記事の一枚目のカットとほぼ同じアングルです。堤防から堤防まであった水も引きました。昨日まで降り続いた雨で水は濁っています。

 北の飯縄山方面。これ以上水害が起きないことを願うのみです。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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臥竜公園。須坂市動物園(カピバラ)、須坂市博物館(縄文土器)、餃子のウェイウェイ。枕状溶岩、柴宮・墨坂神社(妻女山里山通信)

2021-07-27 | 歴史・地理・雑学
 四連休の最終日は長男に誘われて須坂市の臥竜公園へ。休日なので小さな子連れの家族が大勢訪れていました。須坂市博物館がリニューアルしたのです。動物園では久しぶりにアマゾンやアンデスの動物にも出会えました。

 竜ヶ池の周りを歩いてまず動物園へ。弁天島にかかる弁天橋。この池は溜池です。高校入学の春に従兄弟と友人と三人で桜満開の臥竜公園に来ました。それ以来です。その時、ボートを私が全力で漕いでいるシーンが夜のニュースで流れました。

(左)D51形蒸気機関車。通称デコイチ。太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両と最大。鉄の塊ですが、温かみがあります。(右)これに会いたくて来ました。カピバラ。和名はオニテンジクネズミ(鬼天竺鼠)。アマゾン川やラプラタ川流域のパンタナルに生息します。私のホームページの[CAPINO]は、このカピバラに由来しています。
[CAPINO] SAVE THE RAINFOREST 【カピーノ:ジャングルを守れ!】:カピバラが主人公の冒険アニメのスライドショー。ト書きはお父さんやお母さんが読んであげてください。

(左)トナカイ。角が凄いです。鼻先のコブはなんでしょう。(右)リャマ。アンデスでは、チチカカ湖の近くでこの群れを放牧する少女と出会いました。近づくすぎると唾液を吐きつけられます。リャマの毛皮の敷物を買ってきて息子達が小さな頃ゴロゴロしていました。

 コンゴウインコ (金剛鸚哥)の中のルリコンゴウインコ。アマゾンでは夕方群れがねぐらに帰る姿が見られます。日系人の農場にもペットして飼われていました。近づきすぎると鋭いくちばしで突かれます。この個体もそうだと思いますが毛引きで神経症になっていると思われる行動がありました。

(左)臥龍山百番観音。虫刺されがあるので夏は無理ですが、早春や紅葉の季節はいいでしょう。(右)臥竜公園といえば、この黒いおでん。見た目ほど塩っぱくありません。こんにゃく90円をいただきました。

(左)リニューアルした須坂市博物園へ。連休で動物園と共に無料でした。米子鉱山で産出された鷹ノ目硫黄。透明な黄色結晶の集合からなる純硫黄。(右)勾玉。翡翠や瑪瑙や水晶など。この小さな穴をどうやって開けたのでしょう。まあ鉄器はありましたが。

(左)古墳時代のある時期から馬具が出てきます。ツングース系の騎馬民族が移民して馬産を始めたからです。(右)帯留めに使われたという鎧塚2号墳から出土の獅噛文の金具。

 古墳時代後期の鉄刀。象嵌があったり刻印があったり。ピカピカなら相当凄いものだと思われます。この刀はたたら製鉄でできる玉鋼を使って作られたものだと思います。日本刀は、普通の製鉄で作られる鋼ではできません。玉鋼でないとだめなのです。たたら製鉄は中国から伝えられたものだと思いますが、現在世界でたたら製鉄で玉鋼を作っているのは、島根県奥出雲町にひとつある製鉄所だけです。現在日本中の刀工が作る日本刀は、すべてここの玉鋼を使っています。

(左)土師器や須恵器。青灰色のものが須恵器。(右)「挙手人面土器」片山遺跡出土の古墳時代前期の作。なんかその辺りの中学生が作って埋めたのかみたいな。ちょっと不気味で可怪しい土器。どういう意図で作ったのでしょう。

「微隆起線文土器出土」。なんと世界で最も古いかもといわれている縄文時代の土器なんです。縄文時代は1万年も続いたという人類の歴史でもほかでは観られない稀有な時代なのです。その文化は豊穣で知的レベルも高く、アンデスや他の文化の起点になったという歴史家もいます。

 昼は中国人のおばさまが一人できりもりしている「ウェイウェイ餃子」へ。焼き餃子定食と水餃子のハーフ。昨今の凄く趣向を凝らした日本の餃子ではなく、中国のお母さんが作る素朴で美味しい餃子です。癖になる味です。テイクアウトもあります。これははまりそう。

 長野県天然記念物の井上の枕状溶岩。2千万年前の溶岩が見られます。2千万年前、長野盆地は海だったのです。

(左)高山村歴史民俗資料館。(右)馬は家族同様大事にされたことが分かります。

 台所と居間。分かる限り名称を入れてみました。そう昔のことではありません。我が家も新築するする前は、幕末に祖先の名主が建てた大きなこんな家でした。柱や戸棚、引き戸が漆塗りで、今思うとかなり豪勢な造りでした。葡萄酒製造や養蚕などをやっていたので、今でも一部道具や器などが残っています。

(左)二階には蝶の展示が。これはアマゾンのモルフォ蝶など。アマゾンのジャングルでは普通にこの美しいブルーの蝶が舞っていました。(右)長野県の天然記念物の蝶。もちろん採取は禁止です。ミヤマモンキチョウは、二回撮影に行き、このブログにアップしています。

(左)最後は、柴宮・墨坂神社へ。先日祇園祭が行われました。403号を挟んで参道。車が見えるところが旧谷街道です。(右)神橋の奥に拝殿。

 拝殿。創祀年代は天武天皇白鳳二年という伝承。住古大和部族移住に際し大和国宇陀郡榛原より墨坂神を遷祀したものといわれています。須坂の地名は、墨坂神を祀る、墨坂の里からという説があります。合祀例の後に六社が境内にあります。

(左)拝殿の木彫。これは鷹に松でしょう。(右)唐獅子と貘。誰の作だろうと思いました。諏訪立川流にも似ていますがどこか違う。帰って調べてみると高井の里には亀原和太四郎一門という伽藍師達がいたことが分かりました。おそらくその一門の誰かの作でしょう。金網ではっきり見えないのが残念です。自転車で帰る息子を下ろして私は温泉へと向かいました。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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宮彫りの名工・北村喜代松の木彫が見られる野沢温泉 薬王山健命寺(妻女山里山通信)

2021-06-12 | 歴史・地理・雑学
 旅館にチェックインして皆を案内したのは、麻釜のすぐ上にある薬王山健命寺。永禄11年(1568年)創建の曹洞宗の古刹です。越後市振村(現糸魚川市)出身の宮大工、名工・北村喜代松の見事な木彫が見られます。喜代松22歳の嘉永4年(1851)には、鬼無里の諏訪神社屋台を手掛けています。これは必見です。私は、北村喜代松の宮彫りを求めて、松代から野沢温泉、新潟県の上越市、糸魚川市、富山県の朝日町へと撮影の旅をしてきました。右上のブログ内検索で「北村喜代松」で検索してください。当該記事がご覧いただけます。
宮彫りの名工・北村喜代松の木彫を求めて行脚の旅=その3 野沢温泉健命寺と湯沢神社(妻女山里山通信)2020.8.11

 健命寺において彼の宮彫りは、薬師堂で見られます。薬師堂は、北村喜代松と息子の北村四海の作。祀られている薬師瑠璃光如来は上杉謙信の陣中守り本尊と伝わっています。薬師堂正面1間唐破風向拝の北村喜代松作の龍の木彫。木目を極限まで活かしているのが分かります。口、鼻、耳の中に丹塗(ベンガラ)の赤が見えます。これを一本の欅から彫り出しているのですから。

 薬師堂は2層宝形造。とにかく造形に一ミリのスキもありません。構成とそのバランスが素晴らしい緊張感を醸し出しています。頭貫には波と亀、さて何匹いるでしょう。9匹までは数えたのですが。

 鳳凰。木目が縦に通っているところはいいのですが、横になっているところは弱いわけで、ギリギリの太さにしているのでしょう。造形にも工夫が見られます。

 左の木鼻の貘(ばく)と唐獅子。貘は、悪夢を食べてくれるという、中国の想像上の動物。鼻は象、目は犀、尾は牛、足は虎で、体形は熊に似るという幻獣です。

 右の木鼻の貘と唐獅子。よく見ると左右で厳密に同じ造形ではないことが分かります。

 左の手狭には雀を追う若鷹。喜代松のお得意の題材です。

 右の手狭にも雀を狙う若鷹。逃げる二羽の雀。これも一本の欅から彫り出しています。

(左)頭貫上の龍の腹部。木目が美しい。龍が爪で玉を掴んでいます。(右)波に遊ぶ亀。喜代松だけでなく、この時代の宮彫り師は、葛飾北斎の波の造形の影響を受けています。

 建築関係のメンバーが、初層(左)と、二層(右)の垂木の造形の違いを指摘してくれました。二層の放射状の方が遥かに難しい造作です。

 薬師堂全景。初層と二層の屋根のカーブも微妙に違います。昔は屋根も檜皮葺だったのではないでしょうか。

 唐破風の屋根のカーブが美しい。各所に散りばめられた宮彫りのバランスが絶妙です。

 薬王山健命寺の山門から。奥の仁王門は最近新築されたものです。一部に古い材が使われています。

 健命寺の本堂。本堂の向拝は、左甚五郎の後裔である五代目後藤茂右衛門正綱の弟子の間瀬大工、石塚甚助によるものです。こちらも見事です。木鼻は、象と唐獅子です。頭貫上には、古代中国の故事に由来する黒松の樹下で酒壺と酒盃を掲げる仙人の図。

 隣に鎮座する湯沢神社の木彫は、越後の岩崎嘉市良重則の作。

 木鼻の唐獅子。非常に独創的な造形で、迫力があります。

 湯澤神社の鳥居。同行のメンバーも大満足して宿に戻りました。最終日は、北斎館へ。企画展「旅する浮世絵」は圧巻でした。それは、次の記事で。
北斎館

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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国宝「火焔型土器」と超有名な重文「遮光器土偶」が国内初共演:十日町市博物館(妻女山里山通信)

2021-06-09 | 歴史・地理・雑学
 清津峡渓谷トンネルを後にして、本格的な博多豚骨ラーメンの「天池屋」で昼食。その後、新館オープン1周年記念の特別展が開催されている十日町市博物館へ向かいました。
「形をうつす」ー文化財資料の新たな活用ーというテーマで、7月4日(日)まで開催されます。縄文時代は、13000年くらい前から2300年くらい前まで。世界史でも1万年も続いた文明は稀有なものです。決して未開な原始時代ではなく、優れた技術や精神性を持った成熟した文明でした。この前の旧石器時代が分かる、野尻湖畔のナウマンゾウ博物館も超オススメです。

 国宝指定番号4 火焔型土器(深鉢形)笹山遺跡 縄文時代中期。火焔型といいますが、四方に突き出ている突起物は、鶏頭冠突起と呼ばれます。考古学者の大島直行著『月と蛇と縄文人』では、「縄文土器は鍋として作られたものではなく、第一義的にはあくまで「月の水」を集めるという役割を担った祭祀道具の一つとして作られたのだ」と述べています。確かに触れるレプリカを触ってみると、日常使いにはとても不便な形です。何か呪術的な儀式に使われたのでしょうか。

(左)国宝指定番号6 火焔型土器(深鉢形)笹山遺跡 縄文時代中期。(右)国宝指定番号11 火焔型土器(深鉢形)笹山遺跡 縄文時代中期。よく残っていたと思います。日常使いの土器もあったのでしょうか。縄文土器でアマモと海水を煮詰めて塩を作ったそうですが、その時はシンプルなもので、一回で駄目になってしまうそうです。日常使いの土器は、おそらくシンプルな形で、ヒビが入ったり割れると壊して捨てたので残っていないのでしょう。

(左)十日町市博物館。雪の結晶のパンチングメタルの爽やかな外観。(右)国宝展示室。

(左)国宝指定番号21 深鉢形土器 笹山遺跡 縄文時代中期。(右)国宝指定番号3 浅鉢形土器 笹山遺跡 縄文時代中期。装飾的ですが、日常使いできる形です。料理を盛り付けて皆で食べたのでしょうか。あるいは特別な日の器か。

 国宝指定番号1 火焔型土器(深鉢形)笹山遺跡 縄文時代中期。鶏頭冠突起の下部には、水流の渦の様な文様が見られます。「月の水」を集めるの意味が込められているのでしょうか。精巧なレプリカがあり触ることができます。上部のカーブなどは指がちょうどはまるサイズで、手びねりの制作過程が想像できます。

 縄文土器の全国分布図。火焔型土器だけでなく、山梨県釈迦堂遺跡のものとか、長野県の曽利遺跡のものなど、驚嘆すべき造形美です。それぞれに交流があったのだなと分かります。信州和田峠の黒曜石が、青森や北海道まで流通していましたから。

 最も有名な土偶、重要文化財の「遮光器土偶」。本当に遮光器なのかも実は分かっていません。そのあまりに特異な形から宇宙人説まで飛び出しました。縄文人の豊かな感性、想像力と創造力に感服します。頭髪はもちろん、着ている服の文様も、我々が知っている縄文人のそれとは違います。なにか非常に特別なものなのでしょう。呪術師の出で立ちでしょうか。

 土偶の移り変わり。ドイツの日本学者、ネリー・ナウマンの最後の著者「生の緒―縄文時代の物質・精神文化」では、「土偶は女神」とする日本の考古学者の解釈は根拠が乏しいとし、縄文人は満ち欠けによる姿を変える月を「死と再生」になぞらえたと考え、そこに呪術宗教的な価値を見出したのだと指摘。てっぺんがお盆状や皿状のこうした容器が、中国や中近東、アメリカなどの牡牛や牡羊の左右の三日月の角がつくる湾曲した形と同様に、月の水を集める容器そのものと考えられることから、土偶の顔自体が月の象徴とみなしている。
 野尻湖畔のナウマンゾウ博物館には、旧石器時代の人がヘラジカの角で星を、ナウマンゾウの牙で月を表した呪術的な造形が残っています。太陽は命の源を、満ち欠けする月は命の始まりと終わりを象徴するものだったのでしょうか。

(左)常設展の「織物の歴史」。原始機。(右)美大時代に私も使ったことがある機織り機。我が家にもあり、祖母や母が、機を織っていました。奥は、機械化した機織り機。

(左)草木染のサンプル。左上から、アカネ、コナラ、ベニバナ、ヤマウルシ。左下から、ハンノキ、コブナグサ、ヌルデ、キハダ。(右)現代でも充分に通用する明石縮。

(左)昭和初期のポスターや表紙。(右)十日町の織物宣伝ポスター。着物を買っていすゞ・ベレットが二台当たるというもの。1963年(昭和38​年)から1973年(昭和48年)まで製造された名車です。

(左)先染めの糸二色を使って織られた生地。この柄は、どうやって織るのでしょう。図案が頭に入っているのでしょうか。縞や格子模様なら分かるのですが。ムサビでは造形学部工芸工業デザイン学科でテキスタイル専攻。一応織物もやりましたが、シルクスクリーンが専門。但し、社会人になってからは出版関係のアートディレクターやデザインプロデューサーになったので、テキスタイルのプロではありません。しかし、これは凄い。(右)常設展の「雪と信濃川」。赤ん坊がつぐらに入っています。記憶にはありませんが、私も入っていたそうです。

(左)雪と暮らす道具の色々。(右)江連舫(こうれんぼう)の12分の1模型。これで信濃川を行き来したのでしょう。

(左)越後妻有里山現代美術館[キナーレ]。現在は、大地の芸術祭2021に向けた展示室の改修に伴い休館中です。(右)道の駅クロス10の売店に吊るされた巨大な吊るし雛。今回は、魚沼酒造の天神囃子の純米酒と猪のピスタチオ入りハムを買いました。この後、皆をJR東日本信濃川発電所に案内。それは次の記事で。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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山手線や新幹線を動かすJR東日本の信濃川発電所の宮中取水ダムへ。宿は野沢温泉へ(妻女山里山通信)

2021-06-09 | 歴史・地理・雑学
 十日町市博物館を後にして向かったのは、山手線や新幹線を動かすJR東日本の信濃川発電所の宮中取水ダム。

 宮中取水ダムは昭和14年に新潟県十日町市(旧中里村)に建設され、沈砂池で土砂を沈殿させた後、水路トンネルを通り調整池に入り、電力の需要に応じて千手発電所、小千谷発電所、小千谷第二発電所へ送水され、発電が行われています。千手・小千谷・新小千谷の合計最大出力は44万9,000キロワットで、JR東日本で消費する電力量の4分の1に当たります。この電力で、上越線や首都圏の山手線、東北・上越新幹線などの電車を動かしています。

 昨年の10月に訪れた時は、一番向こうの三つしかゲートが開いていませんでしたが、今回は前日に大雨が降ったのですべて開いていました。水も濁っていて轟音が響きます。幅は、330.8メートル。重力式のコンクリートダムです。

 JR信濃川発電所管内鳥瞰図。訪れたのは、一番左上の宮中取水ダムです。小千谷発電所までは水路トンネルで運ばれます。

 水圧がかかっているので、もの凄いスピードで流れていきます。すごい迫力でゾワゾワします。

 大雨で大量の流木やゴミが流れ着いています。綺麗なサッカーボールはどこから流れてきたのでしょう。ペットボトルなどプラスチックゴミが多いですね。

 昔はこの魚道がなかったので、信州まで鮭が遡上しなくなりました。ダムができる前は、秋になると上田や松本まで数万匹の鮭が遡上したそうです。2010年より中魚沼漁業協同組合の協力のもと、「新潟水辺の会」との共催により、宮中取水ダム下流河川敷でサケの稚魚の放流を実施しているそうです。しかし、上流にある東電の上流の西大滝ダムがネックになっているようです。千曲市の土口水門で、鮭が釣れたという話は聞かないですね。ここでも東電が癌ですか。

 ダムは二酸化炭素(CO2)を排出しないクリーンエネルギーとして、その存在意義はますます高まっています。田中康夫元県知事が脱ダム宣言をしましたが、不要なダムだったり、経費の捏造だったりゼネコンの利権の温床になっていたからです。環境的に造ってはいけないダムは、海外では爆破されたりしています。ただ、治水や灌漑、発電で必要なダムもあるのです。少なくとも原発より遥かに安全でクリーンです。

 取水口のゲート。このじぶたれた感じがなんともいい。

 沈砂池。ここで土砂を沈殿させた後、圧力トンネルで発電所に送ります。

(左)宿泊地の野沢温泉に向かいます。温泉街の最上部にある麻釜。昔は麻を茹で皮を剥いたので麻釜と。現在は卵を茹でたり野菜を洗ったり。(右)共同浴場の大湯。共同浴場はあちこちにあります。

(左)この後、健命寺に行ったのですが、それは次の記事で特集します。その道すがらにあったカラムシ(苧麻)の群生地。縄文人は、これの繊維を使って布を織っていました。(右)宿泊した清風館の風呂。相当古いです。浴槽は男湯はひょうたんの形。内装はボロボロで、鏡や照明が変なところに付いてます。お湯は熱めですが最高です。
 ところで、この宿は長野県民割で予約したのです。他の高級旅館はすべて売り切れていました。ところが、レベルが3に下がったのに、長野県はこの県民割を無期限延期にしたのです。我々は清津峡に行くことを決めていたので、割引がなくても予約しましたが、周りの旅館、特に高級旅館はキャンセルの嵐だったでしょう。実際に歩いてみると、長野県ナンバーはなく、県外ナンバー(首都圏も)ばかりでした。それも少なめで温泉街は閑散としていました。本当に長野県は阿部県知事は何を考えているのでしょうか。宿泊業者や土産物店は、カンカンでしょう。

(左)夕食です。高級旅館みたいにお品書きの付くお洒落な会席料理ではありませんが、仕出しではなく手作りです。馬刺し、カレイとキノコのホイル焼き、油揚げの山菜チーズ焼き。小田巻き蒸し。豚しゃぶ。蕎麦サラダ。和え物。野沢菜漬け。(右)根曲がり竹の焼き物とワラビ。これにヤマウド、タラの芽、山葡萄の葉、コシアブラの天ぷら。お腹いっぱいでご飯はキャンセルしました。

(左)朝食です。この時期の信州の定番、根曲がり竹とサバの水煮と玉ねぎの味噌汁。ハムとサラダ。サバ塩焼き。ヤマゴボウの漬物と梅干し。ヤマウドの和え物。ナメコと舞茸のおろし和え。豆腐サラダ。温泉卵。焼海苔。メロン。充分すぎる量です。味噌汁とナメコと舞茸のおろし和えが美味でした。(右)向こうの二人は二日酔いか?

(左)翌朝。清風館の裏側です。いい感じに鄙びています。(右)麻釜の隣の土産物屋。彼は塩漬けのコゴミを買いました。私は古漬けの野沢菜漬けを。もう色が変わって乳酸菌たっぷりです。このすんき漬みたいになった酸味のある野沢菜漬けが大好きです。そのままで。蕎麦にのせて。炒めてチャーハンに。おやきの具に。ここの亭主が、観光客もいないので暇だからとどくだみ茶をごちそうしてくれました。野沢温泉の最近の裏話をしてくれました。勉強になりました。ゼンマイは100グラム2000円以上と高価ですが、その理由も分かりました。この下にある土産物屋より自家製の希少なものが売られています。秋はキノコが並ぶでしょうね。オススメ。

(左)野沢温泉を愛した高野辰之記念のおぼろ月夜の館に寄りました。彼の書斎の復元。(右)ステンドグラス。「春がきた」「春の小川」「紅葉」「故郷」「朧月夜」と、彼の小学唱歌は、ほぼ誰もが歌えますね。

(左)小布施に向かう途中で中野に立ち寄りました。古い商店街で見つけたカクアゲ商店。味のある素晴らしいお店です。銚子産のサバの水煮缶詰が3つで499円。大きな切身の三種の魚の粕漬けが500円。お持ち帰りの海鮮丼も魅力的でした。また訪れたい。(右)昼は、近くの金太楼で。私はあんかけ揚げ焼きそばを。無化調でやさしい旨味のあるやきそばでした。地元の常連の人は、皆味噌ラーメンを頼んでいました。一番安くて一番早く出てきます。味もいいのでしょう。さて、北斎館に向かいましょう。

JR東日本信濃川発電所・東京電力信濃川発電所。都民はこれがないと通勤通学も生活もできません 2020(妻女山里山通信)

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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長野県立歴史館の「至宝の名品」ー学芸員のイチ押し 絵画工芸展ーの後期を観に行きました。オススメ(妻女山里山通信)

2021-05-19 | 歴史・地理・雑学
 長野県立歴史館に「至宝の名品」ー学芸員のイチ押し 絵画工芸展ーの後期を観に行きました。もちろん前期も観ました。6月13日(日)までやっています。オススメです。全ては紹介できませんが、オススメの一部を紹介します。

 「川中島合戦図屏風」江戸時代後期の作。川中島の戦いは、江戸時代のバイアスがかなりかかかっています。これもそんな作品のひとつです。江戸時代後期の物語『甲越信戦録』を元にしたものでしょう。

 上杉謙信が、八幡原を本陣と構える武田信玄に一騎打ちを仕掛け、信玄が軍配で防いだという物語を描いたもの。
甲陽軍鑑』はなぜ斎場山を西条山と誤記したのか!?(妻女山里山通信)それ以外の記事は、川中島の戦いで右上からブログ内検索をしてください。

 斎場山がもぬけの殻と知った武田別働隊が、千曲川を渡って八幡原に駆けつける場面。戌ケ瀬とか猫ケ瀬とかでしょうけれど、その季節は渇水期なので、歩いて渡れたと思います。

 その武田別働隊を筏の上から攻撃する上杉軍。渇水期なので筏は要らなかったと思いますが、描写的には面白いですね。

 武田軍が駆けつけました。たくさんいる白頭巾は、信玄の影武者を表しているのでしょうか。武田菱に加えて、武田家本来の家紋の花菱も描かれています。

「永禄四年九月川中島大合戦」1883(明治16)〜1887(明治20)年作の錦絵。作者は、歌川芳藤。これも馬上から大太刀で信玄に斬りかかる謙信を描いています。

 以下の4枚は、江戸の浮世絵師、二代歌川広重の「諸国名所百景」。1859(安政6)〜1861(文久元)年の錦絵。(左)ぶらんど薬師の久寿里山。山藤が咲いています。(右)信州桔梗ヶ原。野に咲く花は、やはりキキョウでしょうか。

(左)木曽の雪。(右)戸隠九頭竜大権現。下から宝光社、中社、奥社。

 これが一番観たかった作品。大正広重と呼ばれた絵師「吉田初三郎」の「長野県之温泉と名勝」1932(昭和7)年作の非常に大きな絵巻物。私が大好きな画家です。右は野沢温泉から左は諏訪湖まで。左奥には門司、右奥には函館まで描かれています(笑)。

(左)野尻湖と飯山。(右)野沢温泉とスキー場。

(左)湯田中から地獄谷温泉。熊の湯はあるけれど志賀高原の開発はまだですね。(右)善光寺界隈。善光寺の右上の電波塔みたいなのは何? 左上の平らな大地は、いまの浄水場でしょうか。

(左)上田と戸倉上山田温泉。岩端も感じが出てますね。(右)真田十万石の松代。地蔵峠スキー場ってあったのですね。

(左)塩田平。別所温泉と生島足島神社。(右)小諸城跡と布引観音。

(左)諏訪大社上社と前宮。(右)諏訪大社下社の春宮と秋宮。大隅流と諏訪立川流の見事な宮彫りが見られます。当時は温泉はここまで。南信にはまだ温泉がありませんでした。1932年といえば、まだモボ・モガの時代。私は「1930年代頃の日本」というスライドショーをYouTubeにアップして、世界中から沢山のアクセスがあります。このお洒落で平和な時代から、一気に軍国主義と変貌して行くのです。今と似ています。
【1930年頃の日本】OLD JAPAN-1930s と 東京復興の父・後藤新平【妻女山里山通信】

 2011年に当館で「観光地の描き方」という特別展示がありました。その時に買い求めた吉田初三郎の昭和5年に描かれた『長野電鉄沿線温泉名所案内』という絵図。かなり写実的なので、実際の山名や地名をあててみました。「信州を描いた絵師達」という展示会をして欲しいですね。

 歴史館の後背には、森将軍塚古墳があります。歴史館にも見学に来ていた小学生が登っていました。あそこからの眺めは絶景です。シャトルバスもあります。歩いても20〜30分で頂上。ぜひ古代科野国に思いを馳せてください。

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「信州の鎌倉」といわれる塩田平に鎮座する「見返りの塔」と呼ばれる梅花が匂う大法寺の国宝三重塔(妻女山里山通信)

2021-03-19 | 歴史・地理・雑学

 その美しさから「見返りの塔」と呼ばれる大法寺の国宝三重塔。そろそろ光背の山に梅が咲いている頃かなと訪れました。「信州の鎌倉」といわれる塩田平は、平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かでした。そして、北条氏の庇護を得てたくさんの寺院や塔が建立されました。子檀嶺岳の山麓にある国保大法寺三重塔は、そんな鎌倉時代の栄華を残す名塔であり、地元の宝です。

 塔は、大正9年の解体修理の際に発見された墨書により、鎌倉幕府滅亡の年である1333年(正慶二年)に建立されたことが分かっています。塔のある大法寺は、大宝年間(701~704)藤原鎌足の子上恵が開基し大宝寺と称したといわれ、平安初期の大同年間(801~810)に坂上田村麻呂の祈願で僧義真(初代天台座主)により再興されたと伝わっています。
 ここにこのような壮麗な塔が建ったのは、北条氏の庇護とともに、この麓を東山道が通り、浦野駅(うらのうまや)(古代に30里毎に置かれた人馬の施設)があったからなのです。大法寺はその駅寺(うまやでら)でした。
 三重塔の構造は、天王寺から来た工匠により造営が行われたということで、当時の都の洗練された美しさを今に伝えています。三層の屋根は桧皮葺で、高さは18.56m。相輪を備え、天頂部には美しい水煙があります。初重の組物は「二手先」、二層・三層は「三手先」で、裳階【もこし】(ひさしようなもの。あると四重の塔のように見える)がありません。裳階をつけずに初重内部を広くとるためだそうですが、そのため初層が大きく非常に安定感があり荘重、重厚な感じがあります。また、裳階がないためシルエットがシンプルで軽快感もあります。
 この造りは、他に奈良の興福寺三重塔(鎌倉時代初期)と石川県の那谷寺(なたでら)三重塔(江戸時代)だけといいます。内部には、金剛界大日如来坐像を安置しています。また、文化庁の調査の結果、国宝大法寺三重塔の一層内壁に壁画が描かれていたことが判明したそうです。これは興福寺の三重塔と同じです。また、長野市保科の阿弥陀山清水寺には、同様の三重塔がありましたが、大正時代の大火で消失。もし現存すれば間違いなく国宝だったでしょう。下の記事で、その在りし日の写真がご覧いただけます。大法寺三重塔とよく似ています。
長野市南部の保科に鎮座する牡丹と紅葉で有名な阿弥陀山清水寺へ(妻女山里山通信)

 塔の九輪の上にある水煙。合わせて相輪といいます。釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚であるストゥーパの上に重ねられた傘が起源とされます。本来は、荼毘の火焔なのですが、木造なので水煙という様になりました。

 屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。檜の樹皮を何層にも竹釘で止めていく非常に重厚で耐久性のある屋根です。檜皮を採取する技術者を『原皮師(もとかわし)』といい、樹齢50~60年の檜の樹皮を剥いで使います。その樹木を枯らさないように剥ぐのが高度な技術です。剥がれた樹皮は、8~10年で再生します。独特の鋭い曲線を描く屋根のライン。この屋根の反りについて、『日本美の特質』(鹿島出版会)の書の中で吉村卓司氏は、日本刀の反りと共通する日本人の独特な美意識について非常に深い洞察を述べておられます。

(左)三重塔の初層にある「庭照」の額。「庭を照らす」という意。「我々は仏の子であり、皆仏の庭で遊んでいる。その庭を照らしているのが仏の慈悲である」というようなことなのでしょうか。この額は後世にかけられたものの様です。(右)地塗りに用いられた白い胡粉(ごふん)の顔料が見られます。軒を支える肘木(ひじき)には 丹塗(にぬり)の赤い顔料が残っています。いずれも創建当時のものです。つまり往時は、朱色の壮麗豪華な三重塔だったわけです。探してみて下さい。

 梅林越しに望む相輪とその向こうにそびえる独鈷山。拙書でも紹介しています。里山ですが、非常に厳しい山です。同時に本当に面白い山なんです。地元の小学生が登るコースもあります。

 梅の花のアップ。日当たりの良いところは満開。日陰は三分咲き。全体では七分咲きでしょうか。境内の桜の見頃は4月10日頃かな。

 その下に咲く菫(すみれ)。日本に200種以上あるアリ散布植物です。アリがいないと増えられません。庭に植えた覚えがないのにスミレが咲いていたら、それはアリの仕事の結果なのです。右は本堂に登る石段の脇に咲く水仙。若葉はニラと似ているので要注意。

(左)大法寺裏の山道を登るとある看板。始めて見ました。これはいつか歩いてみたいですね。(右)見返りつつ大法事をあとにして道の駅あおきに向かいました。今回買い求めたもの。青木村で栽培されているタチアカネの生蕎麦。風味が豊かでとても美味でした。村内には提供する蕎麦屋が何軒もあります。左上は、クラフトチューハイのシナノリップ。リンゴ果汁が入っていて、やや発泡していてとても美味でした。右は伊那スズキヤの鹿ジン。何度か食べていますが、馬鹿旨のジビエです。4月の妻女山里山デザイン・プロジェクトのバーベキューに持っていきます。

 その道の駅あおきから見上げる子檀嶺岳。拙書の表紙の写真の山です。「こまゆみだけ」というルビがないと読めない山名ですね。拙書では、その名前の由来も詳しく記しています。山頂は狭く真田の山城の跡といわれますが、南面は断崖絶壁。非常に険しい山ですが、魅力ある里山です。この記事のページに、大法寺三重塔の写真を掲載しています。

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別所温泉の安楽寺へ。国宝の八角三重塔に参拝。日野出食堂で馬肉蕎麦。別所駅で北条まどかに邂逅?(妻女山里山通信)

2021-02-16 | 歴史・地理・雑学
 仕事休みの日に、久しぶりに別所温泉へと向かいました。安楽寺へ国宝の八角三重塔に参拝するためです。上田丸子線を南下したのですが、本郷を過ぎて右折するところを見失い、拙書でも載せている独鈷山の麓まで行ってしまいました。ここから別所温泉へ向かうルートも行ったことがあるのですが迷いました。グーグルマップを見ているのになぜ?面倒なのでナビは使わなかったのです。ということで戻ってああここだと思い出し、やっと別所温泉へ。

 国宝の八角三重塔。参拝者は私一人。何度目でしょう。しかし、誰もいない一人きりは初めてです。祈り、思う存分楽しみました。中国風な建築様式は、鎌倉時代末期のもので、非常に美しく希少なものです。塩田平には、もう一つ国宝の大法寺三重塔は拙書の子檀嶺岳(こまゆみだけ)のページに載せています。ここへは、梅か枝垂れ桜が咲く頃に訪れたいと思います。

 初層と二層。初層の下には裳階(もこし)があります。屋根を支える複雑な蟇股(かえるまた)に目を奪われます。よく見るとかなり虫に食われています。国宝なので勝手に防虫剤や防腐剤を塗布することはできないのでしょうけれど、このままでいいのかなと心配になります。日本最古の禅宗様式建築物です。

 雲が激しく流れる晴天に塔の九輪(五大如来と四大菩薩)の上部にある水煙(水烟:すいえん)。本来は火焔(かえん)なのですが、木造ですので忌避して水煙と呼ばれます。ただただ美しい。なぜこの塩田平に国宝が二つもあるのか。北条氏の庇護があったからなのですが、信州の鎌倉といわれるこの地の歴史は、拙書でも子檀嶺岳の語源や独鈷山の歴史と共に記していますが、調べれば調べるほど、訪ねれば訪ねるほど奥深いものを感じます。当ブログでは、塩田平についてたくさん記事にしています。右上のブログ内検索で「塩田平」と記入して検索してみてください。

 北向観音の入り口の門の向かい側の小路を入るとすぐに崇福山の門が。この先150mに駐車場があります。

 山門を登っていく途中で正午になり、鐘楼から鐘の音が聞こえてきました。低い鐘の音が体の底に染み込みます。

(左)元禄年間に塩田平に四国八十八箇所霊場の仏様が迎えられ、お遍路さんで賑わったそうです。(右)見事な高野槇(こうやまき)。

 本堂とその内部。荘厳ながらなんとも穏やかな佇まいでした。世の中の平穏、己や家族一族の無事を願う心は昔も今も変わりません。

 拝観料300円を払って八角三重塔へ。安楽寺開山の禅師と二世の禅師の像。重要文化財。もともとは臨済宗でしたが、桃山時代に曹洞宗に転じたとあります。

 ここに参拝する前に近くの日野出食堂で昼餉。いつもは馬肉うどんなのですが、今回は馬肉蕎麦。ここのは砂糖甘くないので一番好きです。店の左隣に二台分の駐車場があります。それ以外は、向かいの石湯のもの。別所温泉の立ち寄り湯は、大湯、大師湯、石湯とありますが、一番小さなこの石湯が私は一番好きです。食堂の向こうには、昨秋に息子達と泊まった上松やがあります。会席料理やアメニティ含めてとてもいい旅館でした。

 ついで別所線の終点、別所駅へ。駅員のお姉さまが別所線のキャラクターの北条まどかの格好です。素晴らしい。もうすぐ電車来ますよと教えてくれました。そしたら、「北条まどか公式@別所線にのろう」さんからこんなリプライが。「この方の服装は私のコスプレではなく、別所温泉駅の駅長さんの制服なんですよ😉鉄道むすめの「八木沢まい」ちゃんが、別所温泉駅の制服を着ているので、良かったら見て見てくださいね♡」ということだそうです。

 来ました。一昨年の台風19号で壊れた千曲川の橋梁は、3月28日に開通の予定です。長かったですね。でもこれで復活です。地元の方たちもやっと一安心ですね。

 駅にある丸窓電車。私が中学の時に松代中学へ通っていた長野電鉄屋代線(河東線)の古い車両は、大正10年と書いてあった記憶があります。小さいけれどアルミではなく鉄の塊なので重いのです。懐かしいです。

(左)駅から見る左に拙書にも載せている烏帽子岳。手前の日帰り温泉の旗は、別所温泉 相染閣 あいそめの湯。入館料500円。5分ほど歩きますが、 大湯は150円。オススメです。(右)知り合いの女子高生が、上田のドンキホーテには、ブラジル食材がありますよということで、帰り道なので寄りました。左下の缶詰はベトナムの鰯のトマト煮。その右はパッションフルーツのジュース。ペルー産。オリーブオイルはスペイン。右手前の瓶詰めは、やっとブラジル産のパルミット。ヤシの芽です。美味しいです。右はこれ安いねと購入したモエシャンドンのシャンパン。外国人のお姉様方との打ち上げパーティーに持っていきましょう。最高気温は8度になった様ですが、寒風が強く思いの外寒い日でした。しかし、最高のミニ・トリップでした。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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初詣は潮神明宮へ。旧国鉄篠ノ井線廃線敷を歩き、夜は野生の鴨料理を堪能(妻女山里山通信)

2021-01-05 | 歴史・地理・雑学
 初詣は潮神明宮(うしおしんめいぐう)へ。正月太り予防のために旧国鉄篠ノ井線廃線敷を歩きました。とにかく三密を避ける場所と時間を選んでの三が日でした。

 まず潮神明宮に参拝。参拝者は数人がパラパラと。平安から鎌倉時代にかけて、この地方が伊勢神宮の御厨になったころに創建されたとされています。毎年5月4・5日の例大祭にあわせ「 柴舟」とよばれる船の形をした山車2隻が地区内を曳き回されます。穂高神社のものが有名ですが、安曇族との関係が考えられます。
平安時代は荘園で大麻の名産地だった麻績村の初雪に佇む郷社・麻績神明宮へ(妻女山里山通信)
日本最古の神明造りの国宝・仁科神明宮と、七色大カエデとカミツレの咲く大峰高原(妻女山里山通信)

(左)戦国時代には、麻績神明宮の神主が来て神事を行った記録があると書かれれています。(右)28センチ砲(二十八糎榴弾砲)の砲弾。日露戦争にも投入され激戦地として知られる203高地の戦いや、旅順港内のロシア艦隊への砲撃などに使われました。

 潮神明宮の駐車場脇にある遊歩道の地図。明科駅にはハイカー用の駐車スペースがないため、ここから歩き始めるのがいいでしょう。今回は、潮沢信号場の少し先までの往復だったので、往復8キロほどです。
 旧国鉄篠ノ井線は明治35年(1902)に全線開通。昭和45年(1970)に蒸気機関車が姿を消して電化され、昭和63年(1988)に新線が完成した事で86年間の役目を終えました。私は高校時代に信大の先輩の家に友人達と訪れた時や、学生時代に夜行列車(篠ノ井線から中央線)で上京する時に乗ったことが何度かあります。

(左)歩き初め。その先で右に曲がって三五山トンネルへ。(右)晴れていればあの里山の向こうに北アルプスの絶景が見えるのですが。

(左)三五山トンネル。(右)雨天時に滑って上がれないため勢いをつけて上り直すという記述が生々しい。

(左)電化される直前に露対策でモルタルを吹き付けたとありますが、現在はネットも張られています。(右)人気の遊歩道ですが、おすすめは桜の4月、新緑の5月、紅葉の10月下旬から11月です。

(左)山の上に手打ちうどんや手打ち蕎麦、おやきがいただける「かしの木」が。(右)東平の踏切。線路が残っています。遮断器は新しいもので、当時のものではありません。

(左)これが当時使われていた信号機。かなり風化しています。(右)けやきの森公園。山崩れ防止のために欅がたくさん植えられたそうです。

(左)漆久保トンネル。明科で作られたレンガが非常に良く残っています。上には覚明・普寛の像。(右)柏尾の家からおばあさんが大きなゴミ袋を二つかかえて反対側へ越えて行きました。

(左)潮沢信号場跡。スイッチバックの跡が見られます。単線で駅間の長い明科=西条間の列車本数を増やすために作られました。昭和47年地元の潮沢上長寿で、8月に善光寺と戸隠神社参拝の旅行を計画。年配者が多いので信号所から乗降できないかと、所長に交渉。1回限りの条件でOK。30数名分の明科=長野往復の団体切符を用意してもらったとか。凄いですね。これって所長裁量で決定なのか、ずっと上の上司の決定なのか。しかし、粋なはからいですね。(右)ここで戻ります。お腹が空きました。
旧国鉄篠ノ井線廃線敷を歩く:信州あづみの公式観光サイト

(左)やや遅めの昼食は、明科の中華上手(わで)へ。あんかけトンカツのせチャーハン(中)麻婆豆腐定食。ミニラーメン付き。(右)やわらかあんかけ焼きそば。いずれも優しい味で美味でした。高級中華料理店ではありませんが、その辺りの町中華の食堂でもありません。斬新なメニューもあり、眺めもよくおすすめのお店です。

(左)晩餐は、長男が新巻鮭と引き換えに頂いたカルガモとマガモのジビエ。ささみは前夜に雑煮で。左から胸肉、脚、手羽先。(右)胸肉は岩塩と黒胡椒でソテーしました。ジューシーで野生の滋味がギッシリ詰まった最高の逸品になりました。私はというか我が家は昔からジャンクフードやファストフードは、ほとんど食べません。世界的に見て異常なほど食品添加物が認可され使われている異常な国です。人工的な味に慣れている多くの国民の舌は麻痺しています。柔軟剤や芳香剤など香りに関しても麻痺しています。体に悪い化学調味料や砂糖を平気で使う料理人も無知すぎます。日本人の味覚を壊したのは、明治維新と戦争、大量生産とスーパーマーケットなどの量販店です。遺伝子組換え作物が寡占したら、伝統的な日本の味や香りは、このままでは滅びるでしょう。

(左)実際に空を飛ぶための手羽先の凄さを感じました。肉が閉まって腱が噛み切れません。濃厚な味でした。(右)ハツ、レバー、砂肝などのモツは、玉ねぎ、シメジを入れてトマト煮に。パスタと和えました。これも超絶美味。

(左)ワインは、上田で買ってきた五一ワインのカベルネ・メルロー。ジビエとよく合います。クラッカーにチーズディップ。シーザーサラダ。(右)デザートは、これも長男が古いガスコンロと引き換えに頂いたリンゴをまるごと1個使ったアップルパイ。中央には白餡。上品な甘さでした。

(左)今回の土産。左から信州諏訪のソウルフード、テンホウの餃子。右の上下はしょうゆ豆と麹。これで醤油豆を作ります。右のおやきは少し甘すぎました。信州サーモンのディップは全粒粉のクラッカーで。原信で買ったリンゴとカシスのフルーツエール。2019年秋の地ビールコンテストで1位になったもの。美味です。右は幻の宇宙ビールのラズベリーとブラックベリーの入ったフルーツエール。これも美味です。その下は、八幡屋礒五郎のガラムマサラの入った七味唐辛子。(右)雪の姨捨サービスエリア。眼下の善光寺平はホワイトアウトしていて全く見えませんでした。未来が全く見えない新年を象徴する様な景色でした。12歳年下の亡き愛妻と結婚後まもなくの冬に帰省中、まだ高速も豊科までしか開通していない中、麻績村の403号を轍もない深い新雪の中を越えて善光寺平に下った日のことは鮮明に覚えています。轍の全く無い道を走る恐怖が想像できますか。30センチの積雪ならバンパーに雪が溜まり立ち往生。春先に溶けて積雪ならスタッドレスでも無理です。スパイクアタッチメントが必須です。信州の雪道はなめてはいけません。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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GoToトラベルで別所温泉へ。上田城址博物館の真田展示・馬肉うどん・常田館製糸場(妻女山里山通信)

2020-12-03 | 歴史・地理・雑学
 今年最期の三連休に、息子二人とGoToトラベルで別所温泉の上松やに宿泊。翌日は上田城址の博物館や重要文化財の常田館製糸場へ。三密を避けての旅でした。
 
(左)上松やのすぐ上にある真田幸村のレプリカの鎧とつるし雛(右)その斜向かいにある共同浴場の石湯。狭いけどいい湯です。信玄の隠し湯とも。

 上田城址へ。城内は何度も訪れているので今回は入りません。

 とりあえず記念撮影。まだ観光客はまばらです。三連休なので、善光寺、松本城、軽井沢は激混みでしょう。
 
(左)上田市立博物館別館の真田氏の展示へ。(右)珍しいシダ植物をあしらった兜。

(左)鞍と鐙(あぶみ)。(右)陣旗。いいデザインです。

(左)昔の大法寺三重塔。裳階(もこし)がなく美しく見帰りの塔と呼ばれます。過去記事もあるので参照を。(右)柱状節理の断面。

 大河ドラマ「真田丸」の頃は激混みでしたが、落ち着いた様です。

(左)上田城址二の丸の堀の跡にある上田温田北東線。(右)線路跡。

(左)ホーム跡。(右)真田方面の紅葉。

(左)レトロな上田映劇。映画の街、鎌倉には映画館がひとつもなくなりました。こんな映画館が残っているのは感動的です。若い頃シネマフリークだったので、余計そう思います。映画フリークだった頃の記事は、村上春樹さんのことなどを綴った「村上春樹さんの国分寺ピーター・キャットを中心とした70年台のクロニクルまたはスラップスティック」に記事があります。(右)フェデリコ・フェリーニ映画祭とか、懐かしくマニアックです。生誕100年なんですね。私が好きなのは、やはり『道(LA STRADA)』ですね。
Gelsomina (ジェルソミーナ) - La Strada (道)/ Nino Rota / Katyna Ranieri



(左)昼食は、上田駅近くの中村屋へ。馬肉うどんとミニ天丼のセット、1000円を。ボリュームがあります。馬肉うどんは、ある意味信州人のソウルフードです。(右)満腹で次の場所まで歩きます。

 長男の推薦で、重要文化財の常田館製糸場へ。上田駅からすぐです。来場者は我々だけ。明治時代から昭和40年頃まで、信州の経済を支えた重要な産業遺産です。我が家も両親がその頃まで養蚕をしていました。夏になると母屋の畳をあげて台所と寝室以外は全て蚕の生育場になりました。就寝時に蚕が桑を食べるこぬか雨の様な音は鮮明に覚えています。「野麦峠」などは皆さんがご存知だと思います。

(左)場内の説明図。笠原工業により施設の保全がなされています。もっと訪れて欲しいと思います。(右)繭(まゆ)倉庫内部。

(左)繭を運んだ大きな台車。(右)繭を二階に運ぶスロープ。二階から上はエレベーターで運びます。

(左)青木村道の駅へ。台風19号で壊れた別所線の鉄橋。修復中で来年初めに復旧します。(右)青木村道の駅から見上げる子檀嶺岳(こまゆみだけ)。拙書の表紙に使っています。買い物をして帰宅しました。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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小諸城址懐古園・浅間縄文ミュージアム・布引観音。別所温泉の上松やへ(妻女山里山通信)

2020-11-28 | 歴史・地理・雑学
 今年最後の三連休に、息子二人とGoToトラベルで別所温泉の上松やに泊まりました。予約は東京で構造計算をしているアーキテクチャーの次男に依頼。私が出した条件は、料理が美味しい宿。それだけです。長男は林業関係の職員で安曇野在住。私は長野市とバラバラなので、色々候補があったのですが、別所温泉に決定。宿は次男が予約してくれました。いつもはツイッターのDMやスカイプなどで交流ですが、忙しい三人が集まれるのは希少なのですが、充実した旅になりました。
 ただ、GoToトラベルやGoToイートで補填されるのは税金です。平等ではない。本来ならば、全国民に平等に10万円とか配るべきものです。さらに逆進性で、金持ちには薄く、貧困者には厚く配るべきと思います。米を中心に7年間で世界に血税を400兆円もばらまいた売国奴安倍自公政権を継承した菅自公政権も異常です。必要な融資もあったでしょうが、半分の200兆円もあれば、大学まで教育費は全て無料に、介護保険も無料、年金も今の三倍だってもらえます。それでもお釣りが来る。現政権のコロナウィルスの対策も後手後手で利権まみれ。極めて異常です。

 小諸城址懐古園。紅葉は盛りを少し過ぎていましたが、まだまだ美しい。亡き妻と小さかった息子達と訪れたのは、実家に帰省する途中でした。今よりずっと鄙びていました。父が愛飲していた浅間嶽の蔵元を見学したこともありました。
 
(左)懐古園入り口の三の門。(右)城址内の樹木に不思議な物体。ヤドリギ(宿り木 ・ 宿木 ・ 寄生木)です。他の樹木に寄生し、栄養をもらって育つ植物で、黄色い実をつけます。宿主樹木はエノキ・クリ・アカシデ・ヤナギ類・ブナ・ミズナラ・クワ・サクラなど。キレンジャク・ヒレンジャクなどが食べて、その糞が樹上に落ちて発芽する寄生植物です。古くからヨーロッパでは宗教的に神聖な木とされ幸運を呼ぶ木とされており、クリスマスには宿り木を飾ったり、宿り木の下でキスをすることが許されるといわれています。

(左)燃える紅葉。イロハモミジでしょうか。オオモミジ、ヤマモミジとの区別が難しい。日本に楓は80種類以上あります。(右)鹿嶋神社。信州には鹿島槍ヶ岳がある様に、鹿嶋神社が各所にあります。菅原道真を祀る天満宮も城址にはあります。七五三参りの家族が訪れていました。

 天守台から西方の眺め。眼下に千曲川。島崎藤村の『千曲川旅情の歌』の小諸なる古城のほとりが浮かびます。
「千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む」の歌詞が心に突き刺さります。

(左)動物園へ。フラミンゴのつがいが向き合うとハート型に。(右)飼育員のおねえさんが面倒を見るミニブタは子供達に人気です。美味しそうと思った私は罰当たりかな。

(左)川上犬のさくら。なんだかたそがれています。やはり野原を駆け回りたいのかな。(右)眼下に遊園地。息子達が幼児の頃、くるくる回る飛行機とか、バッテリーカーに乗りました。大きな遊園地のない信州では、子供達の貴重な遊び場です。小諸義塾記念館へも訪れました。次いで大手門へも。

(左)小諸脇本陣の粂屋(くめや)。北国街道は参勤交代や善光寺参りで使われました。越後からは塩や米、佐渡からは金が江戸に運ばれた重要な道でした。(右)宿泊施設でもあります。こんな宿に宿泊もいいですね。夕食は外食となりますが、こだわりの朝食が美味しそう。国の重要有形文化財です。

(左)昼は小諸市民の定番風車が目印の洋食ダイニング、レストラン車留夢へ。昭和感たっぷり。(右)私は大浅間爆裂ハンバーグを。パンとサラダを添えて。満足。

(左)昼食後は、私のリクエストで御代田町にある浅間縄文ミュージアムへ。石棒展。(右)縄文の土偶は女性です。縄文ブームなのでしょうか。新潟県十日町市の十日町博物館の縄文展示も素晴らしいものでした。

(左)これが石棒。いわゆるチンコ。男根です。しかし、女性が妊婦を表した全身だったりするのに、男はチンコだけですか!? 縄文時代の男の存在理由ってチンコだけだったのでしょうか。参ったなあ。(右)縄文のお母さんがおあがりと差し出す料理。縄文時代は、木の実が多く、雑穀やジビエはその副菜でした。穀物アレルギーがあっても木の実アレルギーを聞かないのは、人類と馴染んだ時間の長さが全く違うからです。ちなみに縄文人は、入れ墨をしていました。その伝統がアイヌや沖縄の古老に残っています。新説では、アイヌの人々は12世紀に難を逃れて大陸から渡ってきたというので、縄文人とは直接関係がないかも知れませんが。

(左)縄文式土器。十日町周囲の遺跡で発掘された火焔型土器が有名ですが、各地で違った様式の土器が発掘されています。最古の縄文土器は、16,500年前です。世界的にみても、縄文時代が1万年以上も続いたのは奇蹟といえるほどのことなのです。この文様は何を表しているのでしょうか。水流の渦巻でしょうか。縄文人の豊かな感性と生命力を感じます。(右)江戸時代の浅間山の大噴火。何度も大噴火し多大な犠牲を出しています。

縄文人の生活再現

これが完全リアル再現とは思いません。なにせ1万年近くも続いたのですから、初期と晩期ではかなり違ったはずです。穀類を栽培したのは後期でしょう。タイムマシンがあったら行ってみたい。


(左)次いで「牛にひかれて善光寺参り」の伝説の舞台となった寺布引観音へ。行基創建という天台宗の名刹、布引山釈尊寺。信濃三十三観音霊場の第29番札所です。駐車場から見上げる圧倒される岩山。観音へは、この左の谷を登ります。(右)幽玄の谷を20分ほど登ると布引観音が。

(左)釈尊寺本堂。(右)手彫りの洞門の先に観音堂。棟札により鎌倉時代の正嘉2年(1258年)の造立と判明しました。部分的には後世に修復がなされています。

(左)観音堂の木鼻の木彫。唐獅子と象。誰の作でしょう。諏訪立川流の感じもしますが。(右)観音堂の内部。自然の岩盤が天井です。本尊は聖観世音菩薩。江戸時代後期に小諸藩主牧野康明によって、現存する堂宇の大半が整備されたものです。

 見上げる観音堂。神聖さと不思議なパワーを感じます。古刹巡りが好きな知り合いの歴女に教えてあげたい。たぶん訪れたことはないと思うので。

(左)釈尊寺のガラスに映る浅間山。たぞがれ(黄昏・だれぞ彼は)の風情。(右)戻って駐車場から少し下って 布引電気鉄道の橋梁の遺構。1920年からわずか8年で廃線になった線路の遺構。駐車場にはホームの石垣も残っているのですが、目を向ける人はほぼ皆無です。

(左)5時過ぎに別所温泉の上松屋へ。ぬるぬると清少納言が七栗の湯といったともいわれる名湯に入り、楽しみの夕食。目で楽しみ味で喜ぶ品揃え。ひとつひとつが丁寧に作られています。信州産黒毛和牛など地元の食材が楽しめます。数がもの凄いのですが、各量が少ないので少食の私でも充分に満足できました。これに塩田産のコシヒカリや野沢菜漬けなどが付きます。(右)デザートです。シャインマスカットはもちろんですが、リンゴプリンが美味でした。詳細は上松やのサイトで。

(左)翌朝の食事。右上の粕漬けの信州サーモンはヤバい美味しさと次男が。銀鱈や鮭の味噌粕漬は、私も自家製味噌で作りますが、ご飯が進みすぎる君で困りものなんです。息子達も幼い頃から馴染んだ味です。市販のもののように砂糖は使いません。酒粕、信州麹味噌と本味醂のみ。(右)上松や外観。私達が泊まったのは、この背後の別館の8階です。アメニティ、おもてなしいずれも満足できる宿でした。さて、翌日は上田城址に向かいました。お目当ては勝手知ったる城址ではなく、博物館です。それは次の記事で。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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真田十万石の城下町、松代の旧樋口家住宅で、「松代の歴史と自然」について講演をしました。松代城址と妻女山陣馬平と川中島の眺め(妻女山里山通信)

2020-11-14 | 歴史・地理・雑学
 真田十万石の城下町、松代の旧樋口家住宅で、ひまわりの会の方達の依頼で、「松代の歴史と自然」について講演をしました。樋口家は江戸時代、松代藩10万石を治めた真田家の家臣として、藩の目付役などを務めた家柄。松代城や真田邸、真田宝物館にも近く、この日も休日とあって県内県外ナンバーの車がたくさん訪れていました。

(左)旧樋口家住宅の門。向かいには新御殿(真田邸)と公園。入場無料です。講演中も何人もの観光客が訪れました。(右)松代の歴史ですが、戦国時代以降は皆さんご存知ですので、今回は古代史を中心にお話しました。松代の古名は海津ですが、その由来となる一説を解説し、倭国大乱から春秋戦国時代の古代中国史へと話は遡りました。信州に関係の深い出雲族、安曇族など古代科野国へ。縄文時代と石器時代へも言及。そして、行くべき歴史館や美術館なども紹介しました。諏訪大社と守矢氏、世界的な建築家、藤森照信氏についても。松代の長国寺にもある幕末から明治にかけて活躍した宮彫り氏の北村喜代松の話も。基本小難しい話なので、途中では笑いもとりながら。楽しんでいただけた様で幸いです。関連記事は、右上の検索窓に知りたい単語を入力し、プルダウンメニューでこのブログ内でを選ぶと当該記事がご覧いただけます。こんな形での地域参加や貢献は、色々な形でしていければと思っています。

(左)講演後は散策。向かいの真田邸の長い土塀。観光客がたくさん訪れていました。左手に進むと、リニューアルされた松代文武学校が。プロジェクションマッピングなど、楽しい展示があるそうです。いずれ行きたいと思います。(右)真田邸前の公園。穏やかな日でした。

 そこにある真田節の石碑。松代町民でこの歌を知らない人はいないでしょう。松代中学の運動会で踊りました。象山佐久間と欧米の様にひっくり返っているのは、メロディに当てはめるためでしょうけど、世界に目を向けた彼には合っているかも知れません。近くに象山神社と象山記念館があります。ぜひ訪れてください。
 象山の正室は門弟勝海舟の妹順子ですが子がなく、嫡子は側室お菊の生んだ恪二郎です。象山の敵を討つべく新撰組に入りましたが、生来のわがままで役立たず、後に司法省に入りましたが、食中毒で29歳で亡くなっています。象山はケツがでかい女がいいと言っていたそうですが、勝海舟の娘はたぶんそうだったのでしょうね。でも子ができませんでした。多産とお尻の大きさは無関係です。
 母校の清野小学校の裁縫室には、彼の大きな肖像画がありました。豪放磊落で世界を見る先見の明があった彼ですが、常人離れしすぎていて、なかなか受け入れられませんでした。彼が暗殺されず存命していたら、明治時代はもっと違ったものになったかも知れません。明治維新は、欧米の金融機関によって薩長の田舎侍を利用して起こされた軍事クーデターでした。興味のある方は、「田布施システム」で検索を。学校では決して教えられない現代史が分かります。歴史は時の権力者によって都合のいい様に変えられるものなのです。それは記紀(古事記・日本書紀)でも同じです。真実を見極める洞察力を鍛えましょう。

真田節復刻盤フルコーラス



 松代城址へ。休日で観光シーズンなので大勢の人が散策していました。

 お堀には鴨が泳いでいます。左に見えるのは第四次川中島合戦の際に、上杉謙信が布陣した斎場山(旧妻女山)です。標高は512.8mで、山頂は頂上が平らな円墳です。もちろん拙書でも詳しく紹介しています。

 櫓台(ろだい)。天守閣はありませんでした。北西の角にあります。千曲川を挟んで善光寺平、川中島が一望できます。上に江戸時代の善光寺平を描いた絵図が展示されています。小さな子供達も訪れて景色を楽しんでいました。

 櫓台からの南方の眺め。左に狼煙山。武田信玄が狼煙を上げさせた山です。拙書でも紹介しています。右に象山。その後ろは、鞍骨城から鏡台山へと続く戸神山脈。川中島の戦いで武田別働隊が超えた山脈であり、現在はハイカーやトレランの人が愛好する山脈です。

 鮮やかな紅葉に映える古城の石垣。結構荒い石積みで、野面積みというのでしょうか。松代中学の時代、夏に遅くなった帰りに文武学校から象山駅への途中に、脇の用水から青い人魂が浮かび上がりフワフワと浮いて行きました。リンの成分の仕業と知っていたので驚きませんでしたが、その美しさは今もはっきりと覚えています。真冬に電車を待っていて、前の小川で氷渡りをしていたら、割れてドボン。下半身ずぶ濡れのママ電車に乗って帰ったこともありました。

 翌日は、妻女山奥の陣馬平へ。第四次川中島合戦の際に、上杉謙信が陣城とした場所ですが、現在は私が仲間と貝母(編笠百合)を保全している場所として有名になりました。3月に芽生え、4月中旬に満開となります。現在はセリバオウレンも移植して育てています。来春にぜひ訪れてください。必ず感激すると思います。全国でこれだけの群生地はここだけです。4月の茶花なので、茶道をしている方にはお馴染みの慎ましやかな美しい花です。薬草で毒草です。毎年の4月のアーカイブでは、満開の様子がご覧いただけます。
 そして下りて来ると、四阿でスケッチをしている少女。実は登り始めにスケッチをしに来たの?と聞いた女の子。話すと松代中学の後輩でした。松中の先輩で屋代高校からムサビに行きアートディレクターなどをしていたことを話しました。すごく素直ないい子で、待ってて家に帰ってURLカード持ってくるからねと。そして拙書もあげました。絵に技術的な上手下手はありますが、それといい絵は無関係です。人の心を打つ絵は、必ずしも巧い絵ではないのです。自分の想いや感じたことを素直に表現することが大事なのです。何をしていいか分からない、何が好きか分からないという子は、親の過干渉が原因です。何をしたいか、何をどうすればいいかは、子供に任せるべきです。自分で考えることが大事。親は最小限のアドバイスでいい。見守ることです。私は息子を叩いたことも無ければ怒鳴りつけたこともありません。その代わりどう思う?どうしたい?と問いかけ考えさせました。勉強しろと言ったことも一度もありません。困っている時も、アドバイスは最小限に。自分で解決する様に仕向けました。しばらく彼女と歓談して山を下りました。いい子に出会えました。


 妻女山(旧赤坂山)の展望台から松代の眺め。左に拙書でも紹介の大きな山塊の奇妙山。里山は紅葉の盛りです。

 北方の眺め。善光寺平、川中島が一望できます。手前は長芋畑。長芋の成分は膵臓癌の予防になるといわれています。すりおろした長芋に卵や納豆、牡蠣などに醤油、出汁を加えて焼くパンケーキは美味です。具をチーズやベーコン、ハムにしてオリーブ油で焼くと洋風に、中華風もできます。強火で焼いて外をカリッと、中をフワフワにするのがコツです。

 左は長野冬季オリンピックの開閉会式の開場になったスタジアム。右はAC長野パルセイロのホームスタジアム。コンパクトでとてもいいスタジアムです。試合のある日は、ここまでチャントの声が聞こえます。サッカー小僧だったので、それを聞くとワクワクします。
 当ブログはgooブログですが、300万以上あるブログの中でアクセスランキングは常に1000番代を維持しています。皆様のお陰です。最高位はグーグルボットの巡回もあった3位です。実は検索で来られる方が8割なのです。自然、歴史、旅(放浪癖あり)、アイドル(若い頃はアイドル雑誌のデザインや撮影のディレクションを。今はハロプロのJuice=JuiceとBABYMETALのファン)、ジャズ(ハードバップとフリー・ジャズ)、ロック(QUEENのボヘミアン・ラプソディは7回観ました)、クラシック(アリス紗良オットが大好き)アニメ(天気の子)、グルメ(MORIMORI RECIPEというオリジナルレシピのサイト)、山菜キノコ、70・80年代(村上春樹さんのジャズ喫茶でバイトしたはてなブログは左のブックマークから)、映画(シネマ小僧でした。村上春樹さんのブログに記事あり)、サッカー(松代中学のサッカー部創設者のひとりです)、約40年暮らした東京、イベントなどとバラエティにとんでいます。それぞれ、興味のある記事をブログ内検索して楽しんでいただければと思います。リンクのYouTubeもふたつアカウントがあります(saijouzan/capinojp)。お問い合わせや情報提供なども、メッセージからお気軽にどうぞ。在京時代の本業は、エディトリアル・アートディレクターやデザインプロデューサーですが、現在は自然写真家、郷土史研究家、里山案内人、里山保全活動家、講師、放浪の旅人です。人生は楽しむためにあるがもっとうです。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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JR東日本信濃川発電所・東京電力信濃川発電所。都民はこれがないと通勤通学も生活もできません(妻女山里山通信)

2020-10-16 | 歴史・地理・雑学
 清津峡渓谷トンネルをたっぷりと鑑賞してから十日町に戻り、「そらや」で無化調の美味しいラーメンを食べてから、JR東日本信濃川発電所と東京電力信濃川発電所に向かいました。

 信濃川発電所の起点となる宮中ダム。高さ16.4mの重力式コンクリートダムです。1920年(大正9年)、下流に建設した千手発電所(せんじゅはつでんしょ)の取水ダムとして建設を開始し、1938年(昭和13年)に18年の歳月を掛けて完成しました。 ただこのダムのために、長野県の千曲川まで遡上していた鮭が来なくなりました。現在は魚道が作られ、放流もしているので戻ってきた様です。

「信濃川発電所管内鳥瞰図」。宮中ダムは、一番左上です。大規模な施設ということが分かります。この電力で、山手線や中央線、京浜東北線や新幹線が動いています。それらを利用している都民でこのことを知っている人はどれくらいいるでしょう。訪れたことがある人は数少ないでしょうね。

 ダム湖。元田中康夫県知事の時代に、脱ダム宣言も行われましたが、確かにゼネコンが暴利を貪るための不要なダムもありました。ただ必要なダムもあるのです。なにより人類を滅亡に招きかねない核のゴミが出る原発よりはるかに安全なクリーンエネルギーです。

 轟音を立てて放水中。橋も震えていて少し緊張します。

 魚道。魚の大きさに合わせて三種類の魚道があります。白鷺が魚を求めて集まっていました。

 魚道観察室。残念ながら鮭の遡上は見られませんでした。

 魚道越しに観る宮中ダム。水門は4つ開けられていました。曇り空でなんだかディストピア(暗黒郷)の様な景色ですが、都民を支えるダムです。しばらく佇んで見ていましたが、自分も40年の東京ぐらしでこのダムのお世話になっていたのだなと染み染み感慨にふけりました。

 宮中取水口。水は浅河原調整池へ。そこから千手発電所へ向かいます。ダムカードが欲しかったのですが、小千谷発電所まで行かないと入手できない様で諦めました。ダムマニアではないのですが、行くとダムカードを集めています。河川は日本の本当に大切な宝です。災害も引き起こしますが、恩恵のほうがずっと多いのです。

 近くのミオンなかさとで温泉に入り、松代(まつだい)町へ向かうために県道353へ。そこからの宮中ダム。ここから東京電力信濃川発電所までの道が狭く信濃川の崖上で大変なところでした。

 東京電力信濃川発電所。上流にある西大滝ダム(長野県飯山市:通ったのですが撮影できず)で取水し、約21kmの導水路で水をここまで運んで発電しています。昭和14年に運転を開始したそうで歴史があります。鉄管の太さは4m近くで迫力があります。ダムのある長野県民や、発電所のある新潟県民は、おそらく1ワットも使っていないのではないでしょうか。で、松代町の道の駅で車中泊すべきと向かったのですが、豪雨。山間部より十日町の方がいいだろうと下りました。台風14号の影響で予定はめちゃくちゃでした。続きは次の記事で。

■信濃川発電所 ドローン空撮映像 Dronevideo at Shinanogawa power station


JR東日本信濃川発電所(千手発電所、小千谷発電所、小千谷第二発電所の3発電所の総称)

JR東日本信濃川発電所の不正取水問題:都民ならずともこの不祥事は知っておかなければいけないことです。但し、河川や海は、国土交通省のものではありません。国民のものです。国交省に管理を任せているだけ。国交省の官僚はそのことを心すべし。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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国宝「火焔型土器」など展示の十日町市博物館と千手観音と国登録有形文化財の西永寺(妻女山里山通信)

2020-09-25 | 歴史・地理・雑学
 十日町市への旅。午後はキナーレ現代美術館からほくほく線を挟んですぐ北にある十日町市博物館へ。国宝の火焔型土器がいくつも観られます。日本人の原点が見られる非常に魅力ある博物館でした。2020年6月にリニューアルオープンしたばかりでプロジェクションマッピングなど、子供達も楽しめる分かりやすい楽しめる展示がいいですね。
十日町市博物館公式サイト

 国宝の火焔型土器が並んでいます。現代から見ると装飾過多に見えますが、それは我々がデザインされた人工物ばかりに囲まれて暮らしているからです。現代になるほどデザインがシンプルになるのはそのためです。それと大量生産の時代になりモノに対する呪術的な思い入れが希薄になったことが挙げられます。代わりに可愛いなど精神の枯渇を埋める商品が溢れています。
 
(左)十日町市博物館の外観。「雪と織物と信濃川」がテーマ。(右)縄文時代は、約1万2~3千年前に始まり、約2千3百年前までをいいます。世界史的に見ても稀有な長い時代といえます。土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成など、高度な技術や精神文化、交易のネットワークも持っていました。決して未開の原始時代ではありません。学校では、この後の移民で形成された弥生時代と共にあまりにも軽くみられ、ほとんど教えられていません。

(左)後の弥生時代に出雲族の諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の妻の奴奈川姫の印である翡翠が既に縄文時代からあったということ。そして勾玉(まがたま)。勾玉の語源は色々あります。語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られます。三種の神器の一つ『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』にもあり、魔除けや厄除けといった呪的な意味で身につけられてきました。(右)黒曜石。信州の和田峠近辺で採掘され、古代から全国に流通していました。翡翠と共に日本の古代史では非常に重要な鉱物で、両方ともに諏訪大社のお守りにもあり、秋宮のお守りを私はいつも携帯しています。

(左)磨石(すりいし)。稲作はまだ始まっていないので、木の実や野生の穀物などを磨り潰したのでしょう。(右)細かな美しい細工も見事ですが、上の小さなものはともかく、下のものは直径5センチはあります。こんなものを本当に耳にぶら下げていたのでしょうか。

(左)石棒。男根です。古代においては出産と死は、最も不思議で大切なことだったと思われます。命を生むのは女性ですが、それには男性が必要です。乳幼児の死亡率が高かった昔。各地に男根女陰の石像があります。少子化は村の滅亡を意味していたからです。(右)土偶の移り変わり。土偶は女性です。縄文のビーナスや仮面の女神が有名です。長野県立歴史館で開催された国宝の土偶展は圧巻でした。
特別企画「土偶展」国宝土偶と中部高地の土偶。女性を崇めた縄文時代の人々(妻女山里山通信)
土偶

(左)縄文時代の暮らしの再現。(右)家の中。昭和時代の田舎の暮らしとそう変わらないですね。

(左)縄文人の男性。平均身長は158センチ。私より10センチ以上低いですが、むちゃくちゃ体力あったんでしょうね。右にプロジェクションマッピングがあります。ここで自分の顔を登録すると。(右)こんな風に自分が縄文人になって土器を焼いたり、調理をしたりと動きます。これ子供達にバカウケでしょう。

(左)三角形土偶。小さいです。何に使われたのでしょう。(右)古代の着物。色々な繊維や織物も展示されています。シンプルですが、お洒落ですね。

 国宝の火焔型土器。レプリカで持てるものもあります。けっこう重いものです。土器を組み立てるパズルもあります。火焔型土器といいますが、私は火と共に水も表しているのではないかと思っています。水流の渦と思われる文様が見られるからです。火と水は人類にとって最も大切なものですから。しかし、美大出身で粘土細工もしたこともありますが、これを作れと言われてもできないでしょう。物凄い技術と表現力です。縄文人の感性と創作レベルの高さに圧倒されます。自然に対する畏敬の念と同調。西洋人と違い日本人には空間恐怖というものがないといわれますが。それは、間を感じられる様になった中世以降の話で、人口も少なく自然と一体となって暮らしていた縄文人の自然観察眼やそれを形にする情動を想像すると、タイムマシンで行って作っているところを見てみたいと思います。

(左)坂上田村麻呂が北国遠征の祈りに安置した守り本尊と伝えられている白雲山長徳寺(千手観音堂)。(右)これは前立本尊でしょう。

 1727年(享保12年)創建の真宗大谷派の寺院。焼失後、1848年(嘉永元年)に再建されました。棟梁は篠田總吉(柏崎)。本堂を含む5棟が国登録有形文化財に指定されています。

 見事な龍の宮彫り。

 木鼻には唐獅子と貘。象は大きな耳が垂れていて笑っているのがほとんど。貘は想像上の動物で耳が立ち毛が荒ぶっています。

 激流を遡る鯉。

 見事ですね。鯉の激流上りは、すぐ後の北村喜代松に通じるものを感じるのですがどうでしょう。

 本堂の内部。欄間の木彫に圧倒されます。雪深い十日町の歴史に感嘆視し堪能し、キナーレ現代美術館に戻り明石の湯に入って長いトンネルを抜けて松代町(まつだいまち)へと向かいました。大地の芸術祭の展示。草間彌生の作品が見どころです。

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本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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宮彫りの名工・北村喜代松の木彫を求めて行脚の旅=番外編 圧巻の鬼無里祭り屋台と神楽。沼の平湿原再び(妻女山里山通信)

2020-08-15 | 歴史・地理・雑学
 所要で安曇野の長男のところに一泊した翌日は、ちひろ美術館などがある県道306号を北上します。森の中を抜ける気持ちのいい道です。ブルーベリー狩りの季節。白馬に着いたら国道406号へ。嶺方峠を目指します。鬼無里から白沢洞門を抜けた時に晴天なら見られる北アルプスの絶景で有名です。そこから鬼無里へ下ります。

 道の駅の向かいにある鬼無里ふるさと資料館へ。息子たちが子供の頃に家族で訪れて以来です。名工、北村喜代松とその一門の見事な四基の祭屋台と三基の神楽が見られます。入ってすぐに目に入るのは、壮麗精緻な宮彫りの鬼無里神社の屋台。安政四年(1857)の作。圧巻は龍が巻き付いた二本の柱。これを一本の欅から彫り出しているのです。

 鬼無里神社の屋台正面。唐破風の二頭の龍も欅の一本彫り。軒唐破風内には、中国の道教にまつわる説話集『列仙伝』にある仙人の祝鶏翁(しゅくけいおう)。

祝鶏翁のアップ。ライティングの関係でよく見えないのが残念ですが、鳥籠の中に雛三羽が彫られているという最高難度の木彫があります。精緻な籠の造形も見事です。

 明治六年(1873)作の、三嶋神社屋台の唐破風内部の虎の子渡し。(宋の周密撰「癸辛雑識続集下」による。虎が三匹の子を生むと、一匹が彪ひようで他の子を食おうとするので、川を渡るときに親はまず彪を対岸に渡し、次いで他の一匹を渡してから彪を連れ帰り、次に残る一匹を渡し、最後に彪を渡したという故事から:大辞林)
 その下には二頭の子を従えた子持ち龍。横に長く伸びた髭が折れてしまわない様に、巧みな造形が施されています。

 賀茂神社の神楽は、文久元年(1861)の作。側面の力神。お腹の木目の活かし方が絶妙。

 諏訪神社の祭屋台。背面の欄間の飛龍の大迫力。

 鳳凰と龍の組み合わせ。

 白髪神社神楽。思ったよりも小さく精緻な木彫に驚かされました。

 賀茂神社神楽。ぜひ間近で見てください。訪れていた若い夫婦が凄い!を連発していました。

 北村喜代松、四海、正信のプロフィール。鬼無里ふるさと資料館で求めた『屋台神楽と彫工喜代松』によると、ー喜代松は、木に対する執着が強く、晩年になって、長男四海に遺した訓えに、「木彫用に使われる木は、どんなに枯れても生きている。腕が未熟であったり、木を彫るとき傲慢な態度で取り掛かったりすると、木は人に逆らって思うどおり彫らせてくれないものだ。腕が上達して、しかも心を素直にして木にむかうと、木も素直になって、思うどおり彫らせてくれる」と言ったとか。木には木目があり石には石目があります。

(左)神楽の側面。小さな神楽に更に小さな木彫。ため息が出ます。(右)四海の大理石彫刻。微妙な筋肉のうねり。柔肌の質感。

(左)資料館では、鬼無里の自然や歴史の展示も観られます。鬼無里村や麻績村、美麻村などの名産だった苧麻(ちょま)。我が家には埴科郡の山で大麻の刈り取りをする写真が残っています。大麻は麻布や綱になるだけではなく、神道と深い結び付きがありました。(右)鬼無里の昔の居間。今でも古民家はこんなでしょう。帰りに以前友人に依頼されて武井神社の木彫の保全活動を手伝った時に知り合った、資料館の古畑さんとも再開でき、色々話をすることができました。

 次いで以前、正月休みに息子たちと参拝した近くの貴女紅葉守護仏の寺院「凌雲山松巌寺」へ。
大晦日は鬼無里村の東京へ。賀茂神社春日神社と白髭神社。貴女紅葉の松厳寺。戸倉の水上布奈山神社(妻女山里山通信)

 荒波の中の数十頭の亀。時代的には、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」に影響されているのは間違いないでしょうが、それを木彫で更に鋭く表現する喜代松の技に感服します。

 古畑さんに教えていただいた近くの鬼無里神社へ。社殿の額縁の縁飾りが喜代松作とか。見事です。

 鬼無里から大望峠展望台へ。そこから望む荒々しい戸隠西岳。そこから戸隠宝光社、中社、奥社へと。連休でどこも満車。奥社参道はまるで原宿の竹下通りの様。とっとと通過します。信濃町へ向かうとうもろこし街道は、反対側が長い渋滞。野尻湖も満車で通過。賑わいの斑尾高原から、沼の原湿原へ。

 沼の原湿原も満車でしたが、たった5台。皆周遊コースを歩くので出会ったのはたった二組。前回訪れた時より花も昆虫も少なめでした。

(左)バッタ茸に冒されたミカドフキバッタ。撮影しているととあるグループが通りかかり待っていてくれたので説明しました。菌はバッタに取り付くと高所に誘引し瞬殺します。体内で菌を増やし、胞子を飛ばします。高いところに導くのは、なるべく遠くに胞子を飛ばすためでしょう。(右)シシウドで吸蜜するキンモンガ(チョウ目 アゲハモドキガ科)。高原や里山から都市部まで普通に見られます。長野市は37度とかで、高原のあちこちをウロウロしながら温泉に入って夕方帰宅しました。

(左)前日、長男のところへ行く時に信州新町道の駅でジビエなどを購入。満車で蕎麦屋は行列なのであさひや食堂へ。馬肉うどんと茶碗カレーのセット。上田駅前の中村屋などに比べると私には甘すぎるのですが美味です。子供の頃、祖母に連れられて長野に行くと、昼食は丸光デパートの五目中華そばかどこかの店の馬肉うどんでした。当時の信州では肉うどんというと馬肉うどんのことでした。小麦はもちろん伊賀筑後オレゴン。通称いがちく。(右)長男の家での晩餐。下の右からサフォークラム。マトン。鹿肉。左上へとうもろこしの左に蕎麦粉にねぎ味噌を挟んだおやき。上はやたら漬を細かく刻んで薄焼きにしたもの。レジの前で売っていますがこれが人気で売り切れ必至。作っているのはお爺さん。どんな方でしょう。二つとも大岡道の駅で。その上は安曇野で人気の餃子。右へなめこの味噌汁。白ナスと玉葱。下は西山大豆の枝豆。これが超絶美味。その下は信州名物鶏の山賊焼き。長野ではジンギスカンは鉄板で焼きますが、なぜか我が家では父がこういうジンギスカン鍋を買ってきてこれで焼いていました。私の成長期は、マトンと秋刀魚と鯨と大豆が重要なタンパク源でした。肉は食べ切れず、長男が次男とのオートキャンプに持っていきました。

北村喜代松(三代正信)は、天保元(1830)~明治39(1906)越後市振村(現糸魚川市)の宮大工建部家に生まれました。北信から上越中越、富山の朝日町や宇奈月などに多くの作品が現存します。有名なところでは、真田信之の御霊屋がある松代の長国寺、鬼無里の祭り屋台と神楽など。

終戦記念日:世界から戦争がなくならないのは、戦争によって儲かる輩がいるからです。欧米列強の軍需産業は莫大なものです。特にアメリカのそれは公共事業のレベル。死の商人達は戦争を必要としているのです。自分達は絶対安全地帯にいて。そして、たった1%の人間が、世界の富の8割以上を独占している異常さ。5Gとコロナウィルスとビルゲイツ等。平和は99%の人類が願う、叶えなければならない悲願なのです。それに忖度する腐敗政治家や経済人を許してはいけません。いかなる戦争にも正当性はありません。絶対悪です。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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