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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

「信州の街道」北国西往還(善光寺道)。芭蕉も歩いた林道猿ヶ馬場線を下る(妻女山里山通信)

2022-06-10 | 歴史・地理・雑学
 木曽谷からの帰りは、塩尻から高速に乗り、安曇野で下りて国道403号へ。高速代節約もありますが、高速は途中で寄り道もできないし、単調で飽きるのです。長男が大学で伊那や松本に住んでいたときも、使うのは渋滞する区間だけ。やはり下道の方が楽しい。今回は、以前から下ってみたかった林道猿ヶ馬場線を下ってみました。古道を歩くというのはブームになっていて、私も勘助道とかいくつか探索したことがあります。勘助道については、ある出版社から、古い谷街道(北国街道東脇往還)についてもマニアから、問い合わせを受けたこともあります。

 403号の筑北村にできた新しい滝上トンネル。これができて本当に便利になりました。しかし、こんな岩の塊の山をよくぶち抜けたものだと思います。現在、長野自動車道に筑北スマートインターチェンジを建設中です。これができると益々便利になります。筑北村や麻績村にも善光寺道の見どころがたくさんあり、ブログ記事にしています。

 筑北村、麻績村を通って聖湖(猿ヶ馬場池)で休憩。溜池の様に見えますが、自然湖です。へらぶな釣りの太公望。ここは全国から釣り人が来ます。湖の向こうにそびえるのは拙書でも紹介の三峯山。頂上に展望台。左にスキー場、右にスライダー、麓にキャンプ場、手前に自衛隊の戦闘機やら公園やら。写真の右後方にはピザが美味しいレストラン。のんびりするにはいい所です。

 長野方面へ数百メートル行くと左に林道猿ヶ馬場線の入り口があります。北国西往還は善光寺道と呼ばれ、善光寺詣での参拝者や『東海道中膝栗毛』の弥次喜多、松尾芭蕉も歩いた街道です。古代は冠着山と三峯山の間の古峠が主流で、その後、鎌倉時代に三峯山近くの一本松峠が開かれ、戦国時代に、さらに北の猿ヶ馬場峠(946m)が開通しました。武田信玄の命で配下の馬場美濃守によって開発整備されたと伝わっています。道の幅は、二間(3.6m)ではなかったかと思われます。五街道は四間(7.2m)、場所によっては七〜八間(12.6〜14.4m)と、かなり広かったといいいます。

 林道猿ヶ馬場線は、必ずしも往古の善光寺道をたどっているわけではなく、合流したり善光寺道を横切ったりしています。全線舗装されていますが、林道はもの凄く傾斜が急なので、運転には注意が必要です。冬期は通行不能でしょう。今回も杉の葉が溜まっているのを重機で掃除した跡がありました。林道は、Googleのストリートビューで見られます。全線ほぼ杉林の中なので、眺望は全くありません。また、道幅が車一台分なので対向車に要注意です。

「火打石茶屋跡」。四阿と歌碑があります。「をばすては これからゆくか かむこどり」芭蕉。1688(貞享5)年に更科紀行の際に詠んだ句。

 江戸時代には松代藩から宮下、松崎、大井の三家が各一千坪の山野を与えられ茶屋を営みながら山賊から旅人を守る命を受けていたそうです。松本盆地と長野盆地を結ぶ非常に重要な道であったことが分かります。「姨捨十三景」とは、「冠着山、鏡台山、有明山、一重山、田毎の月、桂木、宝ヶ池、姨石、姪石、甥石、小袋石、雲井橋、更級川」。
信州更級郡姨捨山十三景絵図法光院長楽寺:長野県立歴史館所蔵

 大井の茶屋があった展望所「のぞき」。望遠鏡があったという記述がありますが、江戸時代中期以降でしょうね。左向きの矢印は未舗装ですが、下ると国道403号を渡って姨捨駅に着く道があります。

「くつ打ち場」。草鞋(わらじ)をはきかえさせたというのが面白い。シダ植物が50数種分布するというのが凄い。藻類やコケ類も多いのではないでしょうか。オオバノイノモトソウ(大葉井許草)は見かけますが、今回初めて名前を知りました。

 長野国道事務所が発行する「信州の街道探訪シリーズ」の「北国西往還」の地図。
「信州の街道探訪」郵送料のみで入手できます。また、PDFファイルをダウンロードできます。

 林道猿ヶ馬場線を下ると桑原宿。更に善光寺道を行くと稲荷山宿。そこに鎮座する武水別神社(たけみずわけじんじゃ)。木曽義仲はじめ武田信玄や上杉謙信にも尊崇された信濃国四宮。本殿は諏訪出身の工匠立川和四郎富昌(二代目)によって嘉永三年(1850)に完成しました。
お八幡(はちまん)さんと親しまれる稲荷山宿の武水別神社へ諏訪立川流の宮彫の撮影に(妻女山里山通信):見事な宮彫りの写真を掲載しています。

 国土地理院の地形図の林道猿ヶ馬場線を彩色してみました。拙書の地形図は申請して許可を得ましたが、ブログに掲載の場合は不要です。のぞきから姨捨(おばすて)に至る道も古道で、松尾芭蕉が歩いたのはこの道でしょう。一里塚から中沢川へ尾根を下る山道の破線がありますが、現在も通れるかは不明です。
 右のスイッチバックで有名な篠ノ井線の姨捨駅、長野自動車道の姨捨SA、その上の403号の千曲川展望公園からの善光寺平の景色は必見です。特に夜景が素晴らしい。田毎の月で有名な長楽寺からは、棚田の絶景や拙書にも載せている姨捨山(冠着山)や観月の鏡台山が見られます。

 国道403号の千曲川展望公園からの善光寺平の夕景色。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、有料でお使いいただけます。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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木曽平沢の漆器祭へ。御料館と木曽義仲館、義仲と巴御前の墓参へ その2(妻女山里山通信)

2022-06-08 | 歴史・地理・雑学
 午後は木曽福島の御料館(旧帝室林野局木曽支局庁舎)へと向かいました。木曽の森林は、江戸時代は徳川直系の尾張領とし、1665年に留山制度を敷き、木曽五木(ヒノキ・サワラ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ)等の伐採を「木一本、首ひとつ」と言われるほど厳しく禁止しました。明治2年に官有林となり、明治23年に皇室所有の御料林となりました。御料館は、そんな木曽谷の森林文化を発信するための施設です。

 上の興禅寺から見た御料館と入り口。1927(昭和2)年に、大火で消失し、現在の建物は同年に再建されたアール・デコ様式のものです。入場無料で、展示室や子供が遊べる木育ルーム、多目的実習室などがあります。

 二階の支局長室。両隣には大会議室と秘書室があります。制服が明治を感じさせます。母校の清野小にも、妻女山に史跡見学に来る皇室や軍関係者のためにこの様な貴賓室がありました。

 標本展示室。木曽地域に生息する動物や昆虫の標本が展示されています。蝶類は、国蝶のオオムラサキやアサギマダラなど80種。カミキリムシが140種余り、トンボや甲虫も数多く展示されています。木曽は生物も多種多様で、開田高原には長野県ではそこにしか生息していない絶滅危惧IA類のチャマダラセセリがいます。幼虫の食草は、春に咲くバラ科のミツバツチグリとキジムシロ。
希少野生動植物保護回復事業計画 (チャマダラセセリ):長野県の取り組み

 驚くべきはこの「木曽谷模型」です。プラスチックではありません。なんと明治13年に木曽檜で作られたもの。翌年、東京の上野公園での第二回内国勧業博覧会に出品されたものです。その後、長く伊勢神宮に収蔵されていました。作者は、今もある岩屋旅館の当主だった児野嘉左衛門(当時73歳)です。奥の高い山が御嶽山。右手前の白い山が中央アルプスの木曽駒ヶ岳。深い木曽谷に青い木曽川。正確な地形図やGPSもない頃によくこれだけの立体模型が作れたものだと感心します。見飽きません。

「木曽谷模型」制作の元になったといわれる木曽谷の地図。谷の名称が非常に細かく詳しく書かれているのが分かります。嘉左衛門は、御岳参りの講に人々を案内する先達をつとめており、参道の石像も彫っていたそうで、地形に詳しく彫刻の技術もあったのでしょう。制作費として350円を受け取ったそうですが、現在の価値にすると約700万円ぐらいとなります。鉄道も自動車もない時代ですから、上野まで荷車で運んだのでしょう。
木曾山林資料館:歴史の中のエピソードに「木曽谷模型」の詳しい記事があります。

 大正時代の木曽森林鉄道の写真。最盛期には、路線の総延長は400kmにものぼっていました。機関車は、アメリカのボールドウィン製のものと思われます。赤沢自然休養林で保存されています。

 御料館からは中央西線が見えます。ワイドビューしなのと呼ばれる特急「しなの」が走っていきました。現在の車両は、制御付き自然振り子式車両の383系電車です。1995(平成7)年から使用されており、27年の歴史があります。長野寄りの先頭車は前面パノラマ風景も楽しめるグリーン車です。平成感が半端ないデザインと内装が人気です。

 隣りにある臨済宗妙心寺派の寺院・萬松山興禅寺へ。木曽義仲の墓所に参拝。

 大きな枝垂桜は、義仲公御手植の松桜二代目「時雨桜」だとか。脇には、山頭火の「たまたま 詣でて木曽は 花まつり」の歌碑が。この向こうには、1963年に作庭家重森三玲氏により造られた枯山水庭園「看雲庭」という石庭(国の登録記念物)があります。

 興禅寺墓地の説明。

 次に「義仲館 YOSHINAKA MUSEUM」へ。木曽義仲公と巴御前。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、脚光を浴びています。

 館に入って正面に木曽義仲公と巴御前。解説が流れます。資料館といいますが、なにせ戦国時代の遥か昔、源平合戦とか大塔合戦の時代の人物ですし、第一級史料はほとんど残っていません。義仲や巴御前にまつわる話や人物像なども、後年作られたものです。展示品もそういう作品がほとんどです。
「義仲館 YOSHINAKA MUSEUM」

 歌川 豊宣(うたがわ とよのぶ)安政6年〈1859年〉‐ 明治19年〈1886年〉作の「倶利伽羅谷大合戦図」。富山県小矢部市、倶利伽羅峠の南斜面にある深い谷で、平安時代後期の1183年(寿永2年)5月11日に木曽義仲が平家軍に大勝した戦を描いたもの。勇猛果敢に戦う巴御前が描かれています。

 木曽義仲にまつわる各地の写真。これは川中島や塩田平辺りのもの。私がホームグラウンドとする妻女山麓の横田河原や横田城跡も。

 館のガイドの女性にすすめられて義仲の菩提樹、臨済宗妙心寺派の日照山徳音寺へ。山門は、1723年建立の重層楼門。義仲24代後裔の木曽義陳の発願により犬山城(愛知県犬山市)の城主成瀬正幸の母親が施主となって建立されたもの。「徳音寺晩鐘」は、木曽八景のひとつ。他は、駒岳夕照・御嶽暮雪・掛橋朝霞・寝覚夜雨・風越晴嵐・小野瀑布・横川秋月。

 まず目に入るのは、少女時代の巴御前の騎馬像。男勝りだった伝説に基づく像です。微笑ましい。

 木曽義仲公霊廟。内部には義仲の木像を中心に木曽一族の位牌が安置されています。

 義仲公の木像。意外にこの像が一番本人に似ていたりして。

 境内裏手には義仲、巴御前、小枝御前(義仲の母)、今井四郎兼平、樋口次郎兼光の墓があります。徳音寺の元は柏原寺ですが、義仲の戒名 「徳音院殿義山宣公大居士」に因んで改称されました。石段脇には、フタリシズカやシャガが咲いていました。

 境内に珍しい花が。カルミア(アメリカシャクナゲ)。つぼみが金平糖の様で、つぼみの周りの角は、咲くと花の裏側に。1〜3mほどの常緑低木ですが、原産地の北アメリカとキューバでは10mにもなるそうです。花言葉は「優美な女性」、「大きな希望」など。なんとも可愛く愛らしい花です。

 巴御前が少女時代に泳いだという巴淵。木曽川は伊勢湾に流れ込み太平洋へ。奈良井川は日本海へ。そうです。藪原宿と奈良井宿を結ぶ、中山道木曽路最大の難所といわれた鳥居峠(1197m)が、日本海と太平洋への分水嶺なのです。鳥居峠は軍事的な要衝で、何度も合戦が行われています。
鳥居峠 (長野県):その詳しい歴史。

 謡曲「巴」と巴淵の説明。木曽義仲と巴御前には、様々な物語があります。それだけ、いつの時代にも人々を魅了する題材だったのでしょう。川中島合戦の上杉謙信と武田信玄もそうです。やはり第一級史料が少なく、物語が溢れています。巴淵は今は綺麗ですが、恐らく昭和40年代はもの凄く汚かったと思います。千曲川もそうでした。多くの魚貝類や蛍などの昆虫が絶滅しました。里山もそうですが、農薬や放射能、生活用水などで破壊された環境を取り戻すのは大変ですが、それをしないと次に滅ぶのは人類です。
長野県:歴史・観光・見所:木曽町をクリックすると木曽町・歴史・神社・寺院・城郭・古民家が見られます。

 帰路は、塩尻から高速に乗り、雨の安曇野で下りて国道403へ。筑北村から麻績村へ。へらぶな釣りの聖湖から林道猿ヶ馬場線を初めて下ってみました。古道の善光寺道が度々交差する趣のある道でした。番外編でアップする予定です。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、有料でお使いいただけます。

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木曽平沢の漆器祭へ。御料館と木曽義仲館、義仲と巴御前の墓参へ その1(妻女山里山通信)

2022-06-06 | 歴史・地理・雑学
 長男から木曽の平沢でやっている漆器祭に行かないかと誘われ、連れて行ってもらいました。日帰りとはいえ久しぶりの遠出でした。木曽漆器は、長野県塩尻市の平沢(旧木曽郡楢川村平沢)を中心に作られている国指定伝統的工芸品です。世界最古の漆は日本で、約9000年前のものが北海道函館市で発掘されています。縄文時代前期(約5500年前)には、漆器、飾り弓、飾り太刀、櫛、笄(こうがい)、壷、甕(かめ)など現代に勝るとも劣らない工芸作品が製作されていました。漆の赤は、血や魂の色で、魔除けや再生、繁栄を意味したものともいわれています。漆を発見し、探求して実用化したその高い技術には驚嘆せずにはいられません。「縄文時代 漆」で検索すると分かります。
「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ー 長野県立歴史館:尽きない縄文の魅力(妻女山里山通信):縄文時代の高度な文化に触れてください。

 奈良井川の橋から見る平沢の町並み。「木曽路はすべて山の中である」という島崎藤村の小説『夜明け前』の言葉通り、山に挟まれています。600mほど上流の屋内運動場横に駐車して、シャトルバスもありますが気持ちのいい奈良井川沿いの小道を歩きました。奈良井川は松本平で犀川に合流し、千曲川、信濃川となって日本海に流れます。

 平沢宿の入り口にある説明。中山道に沿って間口三間の奥行きの長い敷地の家が並んでいます。家は表から店、お勝手、座敷。その奥に二階建て土蔵造りの塗り蔵などがあります。街は、平成18年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

 伝統的な家が並ぶ趣のある町並み。漆器店がたくさんあります。骨董品店も。

 店によって個性があるので、色々覗くと楽しいのです。

 店頭にはセール品が並んでいます。50円100円から数千円、数十万まで。高級品は店の奥にあるので、店内も見るといいですね。目の保養になります。

 レトロな洋館と黒い蔵が並んだお洒落な蕎麦屋さん。木曽檜コーラというのが面白い。まだ昼前なので入りませんでしたが、けっこう混んでいました。窓の桟や壁の装飾が非常に美しい。

 少しずつ人も増えてきました。中央に囲炉裏のある豪華なテーブルは売約済みでした。お椀や箸だけでなく、座卓や座椅子、茶器、こね鉢などなんでもあります。お弁当や山賊焼き、かき氷などの屋台も出ています。

 漆塗りのスバル360は、マスコミでも取り上げられましたが、今日は出張中。その代わりダイハツミゼットが。1957年〜1972年まで生産・販売されていた懐かしい車です。桑田佳祐監督の映画「稲村ジェーン』に出てきました。この店には他にもハイセンスな漆商品が並んでいます。

 小路を入って漆グラスの店へ。街のあちこちにオダマキ(苧環)が咲いていました。

 丸嘉小坂漆器店の非常に美しい漆を使ったグラス。数千円から数万円まで色々あります。漆硝子は、ネットでも買えます。特に若い女性が多く訪れていました。

 長男は、漆塗りのめんぱを買いました。めんぱは、檜の曲木細工の弁当箱です。ここから左の道へ曲がって金西町の通りへ。

 伝統的建築。なかなか凝った作りです。

 焦げ茶と白の繰り返しが美しい。

 小路を抜けて中山道に戻りました。親子で漆塗りの実演をしていたので、色々お話をうかがいました。ひょうたんとうるしの作家・いちだめぐりさん。漆は水分と化学反応を起こして硬化するので、適度な湿気が必要。900mの高地にある周囲を山々に囲まれた木曽の湿潤な気候は、漆を塗るのに適しているのです。手前のはサラダ油で、使う刷毛をサラダ油で漆を洗い落とすのだそうです。かぶれませんかと聞くと、男の子の膝が赤くなっていますが、漆が付くとやはりかぶれるそうです。でも慣れているみたいです。敏感な人は、ハゼノキやヌルデでもかぶれることがあります。お手伝いするとご褒美があるそうで、一生懸命に塗っていました。いい工芸作家になるのではないでしょうか。塗っているのはめんぱです。

 和服の女性も何人もいました。宿場町にはよく似合います。木曽の酒といえば七笑です。ジビエとか鮎などにもよく合います。漆器は英語ではJAPAN(Japanese lacquer)と呼ばれ人気です。今回はコロナで外国の方はほとんどいませんでしたが、治まればたくさん訪れるでしょう。

 奈良井川沿いを歩いて帰ります。中央西線は、奈良井川の左岸や右岸を何度も渡っています。

 河川敷に咲くヒレハリソウ(鰭玻璃草)。別名は、コンフリー。ヨーロッパ原産の多年草で、食用、薬用、牧草として使われましたが、肝機能障害をおこす恐れがあるそうです。他にはマーガレットも咲いていました。

 かなり古い砂防ダムがありました。水が流れ出た跡が赤茶色になっていますが、鉄分が多いのです。その鉄分を多く含んだ錆土(さびつち)が、木曽漆器の下地の材料に使われ、丈夫で高品質な漆器を生み出すのだそうです。

 昼食を食べに向かう途中で、木曽駒ヶ岳が見えました。昼は、鳥居トンネルを抜けて木曽川水系へ。人気の蕎麦店、木曽町の「阿羅屋」へ。こしのある色が濃く細い蕎麦は絶品。かえしとくるみダレがつきます。野菜天といただきました。食後は木曽福島の御料館(旧帝室林野局木曽支局庁舎)へと向かいました。義仲館、興禅寺と徳音寺と合わせて、次の記事で紹介します。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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清野氏の鞍骨城跡のある鞍骨山へ。登山道整備をしながら登るGWの最終日◆その1(妻女山里山通信)

2022-05-09 | 歴史・地理・雑学

 陣場平の貝母は散り実がなっています。5月下旬には直径2センチぐらいになり、6月に入ると枯れた実から種を飛ばし始めます。保全作業も一段落したので、久しぶりに鞍骨山(鞍骨城跡)へ登りました。5組ぐらいのハイカーと出会いました。何組かは拙書の読者でした。コースの整備も兼ねているので、剪定ばさみとのこぎりを携帯します。その1と2に分けて掲載します。

 林道から左へ天城山(てしろやま)への登山道を登ります。新緑の緑にヤマツツジの赤が映えます。その昔、松枯れ病の薬剤を入れた青いプラスチックのタンクがあちこちの枝に差してあるので帰りに全部回収します。プラゴミですし、猛毒の薬剤が残っている可能性もあります。最終的に20個ほど回収しましたが、前回は25個ほど。それ以前にも何度も回収しているのですが、どんどん出てくるのです。もう公害レベルです。当時の長野県の対応がいかに杜撰だったかが分かります。ベトナム戦争の枯葉剤を製品化したモンサントのラウンドアップや草退治などは絶対に使ってはいけません。欧米では製造使用禁止が広がっています。「ネオニコチノイド系農薬一覧」や「グリホサート剤」で検索を。このブログでも特集記事を何本も載せています。ネオニコチノイドでブログ内検索してください。あなたとあなたの愛する人達を守るために。
ネオニコチノイド系農薬一覧:主成分は、ベトナム戦争でベトちゃんドクちゃんを生み出した枯葉剤です。こんなものを除草や殺虫剤として使ったらどうなるか猿でも分かる。それが今の日本の現状です。

 直登すると5分ほどで天城山山頂(694.6m)。坂山古墳があります。鞍骨山へは左の巻道をたどります。登山道のヤマガシュウを何十本と切っています。根本を切るので、そのたびにしゃがんだり立ったりで疲れます。

 陣場平から1時間で二本松峠。登るだけならこんなにかかりません。右へ倉科へ下る清野坂。ひだりへ清野へ下る倉科坂。倉科の人が清野へ行くために登った坂なので、倉科側が清野坂なのです。鏡台山までは鞍骨山、御姫山、大嵐山(杉山)を経て6キロです。

 二本松峠から鞍骨山までは850m。

 道は尾根の南側をたどります。この時期は、鏡台山から親子連れの月の輪熊が山際にある淡竹の筍を食べに来ます。ホイッスルと熊鈴を必ず携行してください。見通しの悪いところではホイッスルを鳴らして。

 やがて駒止といわれる深い堀切が現れます。

 更に進むと、妻女山展望台からも見える高圧線の鉄塔をくぐります。2009年にこのコースを整備した時は、エビガライチゴとヤマガシュウで塞がれていました。毎年3月上旬に伐採を続けました。千曲市の緑を守る会や標識を立てている倉科のMさんなどが整備をしてくれて、やっとまともな登山コースになりました。

 鉄塔のすぐ向こうに二条の堀切。今回もバラをたくさん切りました。普通のハイカーは剪定バサミは持っていないので、バラで塞がれたら引き返すしかないですから、整備は必要です。

 堀切を超えると城内で、両側に特に南側に顕著な削平地があります。尾根の上には猛毒のヤマトリカブトの群生地があります。山菜の似ているニリンソウの群生地と混じっているので、要注意です。間違えたら命も危ないです。

 100mほど進んでいよいよ鞍骨城本郭へ登ります。2016年にトラロープとかまぼこ板の矢印をつけました。左から回り込んで上へ。

 かなり崩れた石の道を登ります。写真の上部で分かる様に、ここにはもっとちゃんとした石積みがあったのかも知れません。長野市や千曲市は、この山城の保存をどう考えているのでしょう。坂城町の葛尾城跡は、木道や木の階段を設置して保護しています。

 登ると大ケヤキのあるかなり広い郭(くるわ)。ここで向こう側(南面)へ回り込みます。

 見上げるとずっと上に本郭の石積みが小さく見えます。

 南面の細い道を登っていきます。滑落に注意が必要です。山城の雰囲気がたっぷり伝わってきます。

 凹みのある南面の郭。向こう側に回り込んでつづら折りで虎口へ。かなり狭い道なので慎重に。

 本郭下の狭い郭。

 本郭直下の石積み。善光寺地震や松代群発地震を乗り越えてきた石積みです。

 南面の虎口から見る本郭。
清野氏と戦国時代:清野氏が信濃国の記録に残されているのは、室町時代に入ってからで、十五世紀の半ば永享の乱の前後から十六世紀の終り、上杉景勝が豊臣秀吉の命により、越後から会津に移るまでの百五十年余りの間と思われる。清野氏の歴史。
小春日和の週末は、鞍骨城跡のある鞍骨山へ登山道整備しながらトレッキング(妻女山里山通信)

 ◆鞍骨山その2へ続きます。↓

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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清野氏の鞍骨城跡のある鞍骨山へ。登山道整備をしながら登るGWの最終日◆その2(妻女山里山通信)

2022-05-09 | 歴史・地理・雑学
 鞍骨山その1からの続きです。

 本郭からの松代城の眺め。中央の梢の間から松代城が見えます。展望を得るには、落葉期の12月から4月上旬がおすすめです。上信越自動車道の上に金井山城跡。その奥にエム・ウェーブが見えます。

 鞍骨城跡本郭。標高798mの鞍骨山山頂。鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に脇郭と副郭、さらにその西に大郭と狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がありません。

 清野村誌によると、「村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す(現在の松代城の場所)。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言う。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。」と記されています。

 信濃の小領主であった清野氏は、村上義清の配下でしたが、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉謙信を頼り逃れると、清野氏は、道寿軒と長子清秀が上杉方に、次子信清(清寿軒)は武田方にと、親子兄弟敵味方に分かれて戦いました。どちらが勝っても一族が生き延びるという苦肉の策。その後、武田が滅びると上杉の会津移封に伴って清野を去ったのです。信濃の小領主たちは、甲越どちらかにつくか、親子兄弟別れるかして、いずれにしても信州先方衆として真っ先に戦わなければならなかったのです。

 武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、 1582(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂(現妻女山)と云所に御馬を立てられ…、鞍掛山へ御上がり云々」との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかともいわれています。そんな城跡を500年前の石垣かと思って触れると、色々な事を思います。なぜ人は戦ばかりするのだろうとか…。いずれにせよ山城マニア、戦国マニア必見の山城です。

 本郭から土塁を越えて下ると小さな郭があります。本郭では、鋭い棘のあるノイバラやヤマガシュウをたくさん切りました。

 そこから20mほど痩せ尾根を進むと二箇所展望岩があります。まず西側の展望岩。岩場にはネズミサシの木があるので葉に触れると痛いです。

 西展望岩からの眺め。標高800m近いので、新潟焼山の山頂が見えます。

 少し先に東側の展望岩。北風が強いので木の葉が激しくなびいています。

 東展望岩から戸隠西岳を望む。

 その右に戸隠富士と呼ばれる高妻山(2353m)。

 左には白馬三山が。白馬岳(2932m)の大きな山容が印象的。

 正面には御開帳で賑わう善光寺。右手前には武田信玄が本陣としたと伝わる八幡原(はちまんぱら)。

 陣場平ではすでに散ってしまったズミが満開でした。

 林床に妖しく咲くマムシグサ(蝮草)。サトイモ科テンナンショウ属の多年草。薬草で毒草です。

 鞍骨山から妻女山へ戻る際に気をつけなければいけない天城山(てしろやま)手前の分岐。左へ巻道を行くと倉科将軍塚、鷲尾城跡を経て倉科に下りてしまいます。正面は、天城山を越えて芝山、明聖霊神、唐崎城跡を経て雨宮に下ります。妻女山に戻るには右の巻道を進みます。

 清野古墳のある尾根の西面の樹間から爺ヶ岳と鹿島槍ヶ岳が見えました。

 2時少し前に陣場平に戻りました。山仕事はしていましたが、山登りは使う筋肉が異なるので、久しぶりで脚の筋肉がパンパンになりました。というかバラを切るたびにしゃがんだり立ったりを百回以上したのが原因でしょう。いい運動になりました。北風に吹かれて体が冷えたので温泉へ向かいます。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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「真田家御霊屋公開と寺宝展」松代藩二代藩主 真田信政公の御霊屋のある清野の林正寺へ(妻女山里山通信)

2022-05-02 | 歴史・地理・雑学
 このゴールデンウィーク、信州の観光地は賑わっています。長野市も善光寺御開帳で大勢の方が訪れていますが、松代町では真田信之松代入部400年で静かに盛り上がっています。そして、5月8日(日)まで、「真田家御霊屋公開と寺宝展」が行われています。初代藩主真田信之御霊屋のある長国寺は、以前訪れて御霊屋内部の紹介もさせていただいたので、今回は二代藩主真田信政御霊屋のある清野の林正寺を訪れました。

 松代町清野の大村の奥に鎮座する浄土宗眞光山林正寺。後ろには妻女山から続く天城山(てしろやま)と左に清野氏の鞍骨城跡がそびえています。どちらも拙書でルートや歴史を紹介していますが、大河ドラマ『真田丸』のときは全国から大勢の歴史マニアが訪れました。現在も人気の里山です。

 林正寺本堂(長野県宝)。南北朝(1320〜)の頃に、この地に流された右大弁*信廣の菩提を弔うために創建されたと伝えられ、眞光(信廣)の山号があります。(*右大弁とは、律令制で、太政官右弁官局の長。従四位上相当)昭和27(1952)年に、長国寺より御霊屋と表門が移築されました。本堂は万治字三年(1660)に二代藩主真田信政御霊屋として建立されたもの。入母屋、千鳥破風、向拝唐破風屋根で、黒い漆塗りを基調に典型的な桃山様式の極彩色の装飾が施されています。

 木鼻には、貘(ばく)と唐獅子。創建当時にどんな塗りが施されていたかは分かりませんが、極彩色で彩られていたと考えられます。霊廟(御霊屋)は、起源は中国といわれ、王者や偉人の霊を祀る場所・建造物のことです。

 手挟(たばさみ)の木彫。向拝柱の斗栱(ときょう)と垂木(たるき)との間に取り付けられた板のことで、非常に高度な透かし彫りの技法が施されています。わずかに残った塗料から、これも創建当時は極彩色であったのでしょう。

(左)外陣(げじん)の格子天井には、花鳥風月の絵が金箔の下地に描かれています。(右)出組の下には和歌の額。

 欄間には天女の木彫。天女とは仏語で、欲界六天に住む天上界の女性。女性の天人。吉祥天女、弁財天女はその一つ。あまつおとめ。「にょ」は「女」の呉音のことで、古く春秋戦国時代の呉に起源を持つと思われます。滅亡した呉の豪族が日本に移民し、その後の中国への使者が、我らは大伯(呉の始祖)の末裔と述べたと中国の古代の文献にあります。先に渡来した旧石器人と縄文人に、呉と越の帰化、徐福伝説、高句麗の帰化と激動の古代史が今の日本を作ったのです。

 左右の天女像。中央の天女と違って羽があります。鳳凰の化身が中央の天女を守るの図でしょうか。

 須弥壇(しゅみだん)は創建当時のもの。本殿の後に飛び出ている構造です。右は信政公の位牌。

 中央に本尊の阿弥陀如来。右に観世音菩薩、左に勢至菩薩の像。

 内陣の花鳥風月の絵。この特別公開は、長国寺、大英寺、大鋒寺、林正寺、西楽寺の五ケ寺で行われています。お問い合わせは、信州松代観光協会へ。

松代藩の祖 真田信之の御霊屋と墓所のある長国寺へ。真田宝物館へも(妻女山里山通信)

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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善光寺参りの精進落しの湯・戸倉上山田温泉國楽館で2年ぶりの新年会(妻女山里山通信)

2022-01-17 | 歴史・地理・雑学
 昨年は新型コロナで中止した新年会ですが、今年は各自対策をした上で2年ぶりの開催となりました。場所は例年通り、善光寺参りの精進落しの湯・戸倉上山田温泉の高校の同級生がやっている國楽館戸倉ホテルで。昔は9人とか集まったのですが、今回は5人でした。

 千曲川の河原に駐車して南の眺め。三角の山は岩井堂山。右へ長い尾根を登ると、拙書でも紹介の大林山。左は和合城跡から左へ虚空蔵山を経て、上田市民の山・太郎山へ。これも拙書でいくつもコースを載せています。

(左)向こう左は、私が結婚披露宴をした笹屋ホテル。ここの中華は当時陳建民の愛弟子の方が料理長で、披露宴で出た料理は友人達や親戚に大好評でした。(右)我々が投宿する國楽館戸倉ホテル。昭和レトロ感満点の旅館です。温泉は最上級の源泉かけ流し。映画『ペルセポネーの泪』でこの旅館を使って欲しかったですね。地下の卓球場、ジュークボックス(壊れています)、ハモンドオルガン、古いテレビとか懐かしいものに溢れています。

 ゆるゆると宴会の始まり。ビールの後は、黒霧島のお湯割りで。この後、いいちこを開けました。都合焼酎2本。皆酒量が落ちました。話題は新型コロナの世界的に蔓延する嘘と欺瞞。日本の古代史の検証。妻女山里山デザイン・プロジェクトの今後の活動方針などに、途中で艶っぽい話やくだらない話とか病気の話とか(年齢ですね)。経営者もいるので経済の話も。特に信州の現状を。私が知らない細かな情報も得られます。

 夕食のメニューです。これに大きなブリカマと味噌汁とご飯。ご飯はおにぎりにしてもらいました。特筆すべきは鯉こくと信州牛の陶板焼き、馬刺しでしょうか。蕗の天ぷらが美味でした。これにフルーツが付きます。

(左)大きなブリカマ。充分すぎる量です。(右)朝食です。私には多すぎる量です。おから、切り干し大根、南瓜、わさび漬け、塩鱒とヘルシーな内容です。これに淹れたてのコーヒーが付きます。

(左)旅館のいつものプレゼントの真田の六文銭まんぢう。美味いです。今回は信州人限定の県民割とクーポンを使ったので、半額で済みました。(右)で、クーポンが1000円分余って皆いらないというので私がもらい、昼にちゃーしゅうや武蔵でラーメンとお土産にメンマを。美味しゅうございました。もの凄い降雪の中を行ったので温かさが染みました。

 仲間から幻の小麦粉、イガチクを息子達のために買いました。それと超強力粉のゆめちから。手打ちの中華麺やパスタを作ります。イガチクの正式名称は「伊賀筑後オレゴン」といいます。三重県伊賀上野市の農林省関西試験場が、筑後平野で作っている小麦と、アメリカ西部のオレゴン州の小麦を交配して作った硬質小麦です。日本の小麦は軟質小麦。アメリカのオレゴン種はグルテンが多い硬質小麦です。この二つを交配して作られたのが伊賀筑後オレゴン種で、準強力粉です。信州の善光寺平から上田にいたる間の千曲川の沿岸で、大正時代から戦後まで作られた人気の小麦でした。戦前東京のうどん屋さんで一番喜ばれたのが、この伊賀筑後オレゴン種でした。 わが家でも父が昭和30年代半ばまで作っていました。60俵も収穫していたそうですが、イガチクは小麦の粒がこぼれやすく面積あたりの収量も少なかったので、新品種に取って代わられたということです。現在有志が栽培しています。うどん好きなら食べたら絶句感激すると思います。稀にネットで買えることもあります。

 昨年のクリスマスイブに知り合いのタイの女性がやっているスナックへ行った時のカットです。人通りはほとんどありませんでした。新世界通りでは、客引きの韓国人のおばちゃん達が大勢たむろしていました。私は行く店が決まっているので断りながら。コロナが収束しないと飲食業は厳しいですね。イベルメクチンを国民全員に配ればあっという間に収束するのに、政府もマスコミも利権まみれで腐りきっています。30年以上賃金が上がらずアメリカの半分、韓国にも抜かれた無能無策の政府や政党に期待する方が間違っています。いい加減気が付きましょう。覚醒しましょう。
 そして、ある方のツイートを転載しますが、「トンガ噴火はVEI6あるいは7に相当すると指摘されている。6だと100年に、7だと1,000年に一度の大噴火だ。数年間にわたる気候寒冷化・冷害が危惧される。1815年タンボラ山噴火も世界的飢饉をもたらした。大災害が起きているトンガへの支援を急ぎ、国際協力による食糧危機への対応の議論を始めてほしい。」1991年のフィリピンのピナトゥボ山の大噴火で、1993年に大冷夏になり、米の大不作でタイから米を緊急輸入したのを覚えていますか。今回はそれ以上のことが起きないとは言えないのです。
 人類は何度も大噴火に遭い大被害を受けてきました。そして世界史や日本史に大きな影響を与えました。西暦535年の、インドネシアのクラカタウ島火山もしくはエルサルバドルのイロパンゴ湖火山の大噴火は地球規模の大異変(異常寒波、自然災害、飢饉、疫病発生など)を起こしました。これに関しては、『西暦535年の大噴火―人類滅亡の危機をどう切り抜けたか』という全世界の専門家50人以上が協力、4年がかりで書きあげた「人類史の書き換えを迫る」問題作という書籍を買い求めたので読んで記事にしたいと考えています。

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古代科野のクニの大王の前方後円墳・森将軍塚古墳。そして見どころ満載の古墳館へ(妻女山里山通信)

2021-12-15 | 歴史・地理・雑学
 雲ひとつ無い快晴の朝。こんな撮影に絶好の日はそうそうありません。前日から行こうと決めていたのが古代科野のクニの前方後円墳、森将軍塚古墳でした。2011年に書いた『古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証』の記事を参考にリライトしました。随時、加筆修正も行っていきます。

 森将軍塚古墳全景。千曲市大穴山にあるこの古墳は、今からおよそ1,600年ほど昔(4世紀)に造られた県内最大規模の前方後円墳です。曲がった尾根上に造られたためシンメトリーではないのが特徴。後円部は変形の楕円状です。信濃国の前身の科野(しなの)のクニの首長の墳墓といわれています。ここを中心に周辺には、国指定史跡の埴科古墳群が点在します。この地域はまさに古代科野国の王家の谷なのです。古墳へは、古墳館からシャトルバスが出ていますが、科野の村の西の端から遊歩道があり15〜20分で登れます。標高差は120m位なので、こちらがオススメです。近所の人で毎日登る方も少なくない様です。古墳は膨大な数が全国にありますが、当時の姿に復元したものはほとんどありません。非常に貴重です。古墳館と共にぜひ訪れてください。
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 古墳の様式は前方後円墳で、長さ:100m。後円部径:43~ 50m、高さ:11m、後円部頂部径:15~29m。前方部幅:30m、長さ:41m、高さ:4m。くびれ部幅:15m。方位:N120E。後円部頂に竪穴式石室(長さ:7.6m、幅:2m、高さ:2.3m、推定割竹形木棺・組合式木棺)。前方部に竪穴式石室2基。墳裾に小型埋葬施設多数(組合式箱形石棺64・埴輪棺12・土壙墓2)。葺石の材質:大穴山産石英斑岩。総数:約8万個。前方後円部頂部敷石:千曲川川原石。石室:板石積み・ベンガラ朱彩。
 出土品:埴輪(壷形・朝顔形・円筒形・合子形・家形)・鏡片(長野県唯一の三角縁神獣:鏡径22.6cm)・土師器・玉類(翡翠製勾玉1・碧玉管玉5)・鉄剣3・鉄刀2・鉄槍2・鉄鏃・鎌1
【国指定史跡】築造:推定4世紀中~末。標高490mの大穴山山頂、位置:東経138度8分25秒、北緯36度31分42秒。後円部2段築成。後円部三方裾下に貼石帯がある。


 前方部の角から見上げる古墳。荘厳な雰囲気が漂います。
 崇神天皇の代に、ヤマト王権より科野国の国造(こくぞう・くにのみやつこ)に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)が埋葬されているといわれています。また、妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売命(アイヅヒメノミコト)は、建五百建命の后であると伝わっています〔埴科郡誌・會津比賣神社御由緒・里俗伝など。さらに、他の記述では、会津比売命は皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社)の祭神で、諏訪の健御名方命(タケミナカタノミコト)の子・出速雄命(イズハヤオノミコト・伊豆早雄)の御子であり、両神はこの地の産土神(うぶすながみ)といわれています。(松代町史)〕さらに、出速雄命の出(いず)、会津比売命の会津(あいづ)は、松代の古名・海津(かいづ)に繋がるものとも記されています。
 延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録』には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に會津比賣神に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長*であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。[松代町史]
 *貞観4年(862)、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長。[信濃史料]
 建五百建命と会津比売命が伝承通り夫婦とすると天皇家の家系に属する建五百建命と結婚した会津比売が、父の出速雄命よりも官位が高いというのも頷けます。つまり、大和系の建五百建命と、それ以前に渡来した出雲系の会津比売命が夫婦になり、古代科野国を造ったということなのです。

 前方部の縁に並ぶ復元された埴輪。古墳の表面を埋め尽くす葺石(ふきいし)は、なんと約8万個使われています。重機もダンプカーもない古代にこれだけの石を運び積むのにどれだけの労力と時間がかかったのだろうと考えると言葉を失います。建設費用を現代の金額に換算すると12億円ぐらいになるそうです。

 埴輪の彼方には北アルプスの白馬三山。

 古墳時代の人々もこの絶景を見ていたはずです。

 後円部の上から本当に気持ちのいい北方の眺め。眼下左には自然堤防上に科野の国が広がっていたはずです。右は後背湿地で水田が広がっていたはずです。遠くには戸隠連峰と飯縄山。飯縄神社の祭神は白狐に乗った烏天狗(大日如来の化身の不動明王の化身)。戦勝の神で、上杉謙信の兜の前立てのひとつです。武田信玄は神官・千日太夫に安堵状を与えていました。

 北東を見ると、鏡台山から続く戸神山脈の先端のひとつ土口将軍塚古墳のある薬師山、笹崎が見えます。山脈上には古墳や城跡が点在します。

 その右に目をやると鞍骨城から鏡台山までの山並み。川中島の戦いで、武田別働隊が越えたとされる山脈です。現在は、ハイカーはもちろんトレランの人達がよく走っています。古墳館に駐車し、将軍塚古墳-有明山-五里ヶ峯-沢山峠-鏡台山-御姫山-鞍骨山-天城山-斎場山-薬師山-将軍塚古墳と周るとちょうど20キロ。拙書でも鞍骨山、五里ヶ峯、鏡台山の地図を合わせると、そのコースが分かる様に紹介しています。

 後円部から見上げると有明山将軍塚古墳。高圧鉄塔あたりに前方後円墳があります。左へ登ると有明山。五里ヶ峯まで五一山脈が続きます。厳冬期以外は熊鈴が必須です。拙書では五里ヶ峯北にある山本勘助の軍道といわれる勘助道も載せています。

 麓の古墳館へ。石室が忠実に再現されています。椅子に座って眺めながら古代科野のクニに思いを馳せるのもいいと思います。見どころ満載の博物館です。

 一階に下りると石室の内部が見られます。ベンガラの赤が美しい。石室は、板石積みでベンガラ朱彩ですが、手前には千曲川の河原から拾ってきたと思われる玉石や玉砂利が。大量に用いられた板石(石英閃緑岩)は倉科地区から、古墳に積まれた石(石英斑岩)は、この大穴山周辺から集めたものとか。大穴山自体は、別所層という第三紀中新世の黒色泥岩でできていて、登る途中にその露頭を見ることもできます。

 展示品。非常に多いのでその一部を紹介します。三角縁神獣鏡片は、大和王権から全国各地の王に、政治的な関係を結んだ証として与えられたと考えられ、長野県下では唯一のものになります。このことから、埋葬されているのは科野のクニの最初の王と推測されるのです。レプリカは、他の古墳で完全な形で残っていたものを参考に復元したものです。銅鏡はこれまでに弥生時代中期後半の遺跡から古墳時代の墳墓に至るまでおよそ4000面以上が発掘され、このうち三角縁神獣鏡に分類される銅鏡は330面です。文様の系譜から中国製の説がありますが、その中国に出土例がないのです。卑弥呼の鏡説もあります。卑弥呼が魏に使節を派遣した『景初三年』(魏の年号・239年)を記した銘文があるものがあり、魏の鏡と共通する特徴があるともいわれています。日本から魏への使者が、「我々は大伯の後(すえ)という」と言ったとあります。大伯とは、春秋戦国時代の呉の始祖とされる人物です。呉は越に滅ぼされ、多くの民が弥生時代に渡来し定着しました。その後、越も滅ぼされ渡来します。弥生人のルーツといっていいでしょう。呉服、呉織、呉布、生呉、呉汁などの言葉が残り、呉(くれ)や越(えつ)という地名も残っています。(参考文献:『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎)
 倭人というのは、黄河周辺の漢族が、長江周辺の民族を倭人と呼んだ蔑称です。倭人は、ことごとく黥面文身といい顔を含め全身に入れ墨をしていたと記されています。倭人・倭国に関しては、いずれ更に調査検証して記事にしたいと考えています。

 石室内の副葬品は古い時代に盗掘されたために、そのほとんどが持ち去られていました。どこかの神社とかに売り払ったのでしょうか。武水別神社とか善光寺とかにないでしょうか。探してほしいです。写真は、矢、剣、刀などの武器ですが、鎌や鍬などの農具やノミなどの道具も見つかっています。管玉と勾玉(まがたま)の出土も特徴的です。勾玉は、魔除けや厄除けの呪術的な意味を持つ装身具といわれています。語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記があります。それは胎児の形であるとかいう説も。諏訪大社のお守りには翡翠の勾玉がありますが、大国主命の妻の奴奈川姫の象徴です。翡翠は彼女の故郷の糸魚川で多くが産出されました。

 矢じりや刀子(とうす)、鎌(かま)、ガラスの小玉。ガラスはすでに弥生時代の遺跡から出土しており、大陸(紀元前0〜200年の前漢)から加工法がもたらされ流通もしていた様です。鉄製品も多く見られます。昔は、古墳時代に渡来人がもたらすまでは日本では鉄は作られていなかったといわれていました。その後、褐鉄鋼を利用すると弥生式土器を焼くのと同じ位の低い温度でも鉄を作ることができるという事がわかったのです。日本の神話を象徴する葦原こそが鉄の故郷。鉄バクテリアが長い年月をかけて褐鉄鉱を作り出し、古代の鉄の産地となったというわけです。また、信濃、埴科、更級のシナも鉄を意味するそうで、とすればシナノとは、鉄出(いずる)野という意味になります。「みすずかる信濃」という枕詞は、砂鉄から作る「たたら製鉄」がもたらされて、みすずを刈る必要がなくなってもなお、信濃の枕詞としてのみ残ったというわけです。信州の方言で「ずく」というのがありますが、これは古代の製鉄からきているというのが私の説で、拙書に『みすずかる信濃(科野)の国(クニ)の鉄バクテリアがずくを出す』というエッセイを載せています。昔からずく(銑)を出すのは大変なことだったのです。また、信州では「うんこをまる」と言いますが、これも古語。古事記に「糞まる」とあります。古語が方言として現代に生きている証だと思います。
「古墳時代ガラス玉の製作技法とその痕跡」福島雅儀

 管玉(くだたま)は筒状の装身具で、碧玉(へきぎょく)や瑪瑙(めのう)、緑色凝灰岩、泥岩など。実際に見ると非常に穴が細く、非常に高度な技が使われているので専門の工人集団がいたといわれます。右の紡錘(ぼうすい)は、古語では「つむ」という最も古い糸紡ぎの道具で、回転させて、繊維を引出しながら撚りをかけ、出来上がった糸を紡錘に巻き取る道具です。糸の原料は、絹や大麻、苧麻(からむし)など。

 古墳時代の5世紀頃からは馬具が出土します。『魏志倭人伝』には日本には馬なしとあります。『日本書紀』に百済から馬と馬飼の渡来があったことが記されています。縄文時代は東日本が栄え、弥生時代になると西日本が栄える様になったのは、馬産の流入が大きかったと考えられます。馬の伝来により、日本は稲作国家、軍事国家へと変貌していったのです。(参考文献:『「馬」が動かした日本史』蒲池 明弘)また、馬産を伝えたのは高句麗の人々ともいわれています。
 高句麗は、紀元前100年ぐらいから唐・新羅の襲撃によって668年に滅びるまで続いた国です。現在の韓国北部と北朝鮮から満州ぐらいにあったツングース系の騎馬民族で、日本に馬産を伝えました。石の文化を持ち、現在の半島の人とは異なります。積石塚古墳は、日本全体では1%ですが、信州ではなんと25%にもなります。つまり、それだけ多くの人が高句麗から帰化したのです。埼玉の狛川や東京の狛江市もその系統です。茶臼山の麓の篠ノ井は、高句麗の王族、前部秋足(ぜんぶのあきたり)が延暦18年(799)に篠井性を下賜(かし)されています。それが現在の篠ノ井(旧篠ノ井市)の名称の元です。縄文人や春秋戦国時代の越に滅ぼされた呉や、その後に滅びて帰化した越の人々などの倭人や、秦の始皇帝を欺いて帰化した失われた古代ユダヤの一部族ともいわれる徐福一族(葛飾北斎が描いた徐福の絵が北斎館に所蔵)などと共に、信州人の祖先といえるでしょう。

 卜骨(ぼっこつ)。または甲骨(こうこつ)。鹿の肩甲骨製。骨に穴をあけ、焼いてできる亀裂によって吉凶を占いました。亀の甲羅に傷を付けて火で焼き、亀裂の入り方で吉凶を判断する占術もあります。古くはヨーロッパ、アフリカ、北アメリカ、中国などでも行われており、新石器時代末期頃から行われていました。

 森将軍塚古墳保存の歩み。1992年一般公開とありますが、私は帰郷した際に古墳復元に関わった伯父に勧められて、1992年の11月に家族で見学したことがあり、その映像が残っています。これだけ大規模な古墳の築造にはかなりの労働力と建設費がかかったはずです。膨大な労働力を動員可能な首長の権力の大きさが想像できますが、それ以上にカリスマ性や人望もあり、なんらかの報酬もあったのだろうと思います。
「現代技術と古代技術による仁徳天皇陵の建設」復元:大林組プロジェクトチーム

 古墳の麓にある科野の村。高床式の穀倉や囲炉裏のある住居が再現されています。古墳館横には広い芝生の公園もあり、市民の憩いの場となっています。
 信州の古代史につながることから、科野のクニや出雲族、呉越、高句麗、魏志倭人伝と邪馬台国と調べ始めたら、面白すぎてドツボにはまりました。しかし、人生は短すぎます。

古代科野国の大王の森将軍塚古墳


古代科野国の前方後円墳、森将軍塚古墳からのパノラマビュー


 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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あんずの里、森の古刹をめぐる小春日よりの週末。観龍寺、禅透院、興正寺、岡地天満宮(妻女山里山通信)

2021-11-21 | 歴史・地理・雑学
 小春日よりの週末、あんずの里、千曲市森の古刹巡りをしました。来週は天気が崩れ初雪もあるかもしれません。この冬はラニーニャが発生しているので厳冬になるそうですが、晩秋は暖かい日が続きました。それも最後になりそうです。この地は、近くに森将軍塚古墳がある様に、古代科野国の頃から、縄文弥生の頃から人びとの暮らしが営まれてきたところです。

 まず、観龍寺へ。坂上田村麿が東征の際の草創で、川中島合戦の時には、山陰に隠れるようにあったため武田の戦火を免れたという古刹、信濃三十三番札所第六番「洗渕山観龍寺」。本尊は、藤原初期のものといわれる榧(かや)の一木造り十一面千手観音菩薩座像。今年の4月1日のあんずが満開の記事では茅葺きでしたが、銅葺きに改修されました。ここには母方の祖先の絵師の絵が奉納されています。ここから大峯山への登山ルートは拙書で紹介しています。

 本堂の天井には、地元の人達の書や絵が奉納されています。レベルの差はありますが、子供が描いた絵もあって微笑ましい。

 寺の駐車場からあんずの里の眺め。ここからの満開のあんずは毎年撮影します。拙書の大峯山のページにも掲載しています。やや右手に見える巨木はケヤキです。千曲市が舞台の映画『ペルセポネーの泪』にも登場します。主演は渡部秀、剛力彩芽。観に行くつもりです。
信州のあんずの里が満開です。桜も満開。こんなことは初めての杏源郷(妻女山里山通信)2021年4月1日の記事です。杏源郷

 山際の周遊道路を右回りで上平展望台へ。遠くに見えるのは茶臼山。くっきりと晴れていれば北アルプスも見えるのですが。

 神龍山禅透院へ。曹洞宗佐久郡前山村貞祥寺末派で、弘治元年(1555)創建。境内には在来種のあんずの木があり、満開のときはそれは見事です。森は松代藩の領地だったので、その庇護のもとにありました。

 本堂の裏手にある銀杏の大木。美しく黄葉しています。銀杏はたくさん食べると体に悪いので数粒を。

 鐘楼の横にあるサンシュユ(山茱萸)の真っ赤な実。やや固くて酸味があります。滋養、強壮薬として、寝汗、頻尿、インポテンツ、脚気などに用いるそうです。これで薬種を作るといいかもです。

 あんずの黄葉。暖かいので、まだ緑色の葉もあります。

 母方の祖母の菩提寺の大城山興正寺へ。興正寺は、浄土宗西京大谷知恩院の末派で、創立年は不詳。

 鐘楼手前の五葉松。母の実家にも見事な五葉松があり、その昔に1000万円で譲ってくれという人がいたとか。もちろん売りませんでしたが。その子供が我が家の庭にも植えてあるのですが、なにせ充分に手入れもしていないもので…。時間を作って剪定や姿造りをしようとは思うのですが。

 興正寺といえば山門の子持ち龍。天才・立川和四郎富昌の作。一見の価値があります。和四郎富昌は八幡の武水別神社の再建中でした。そこで、森出身の弟子・宮尾八百重を案内役に住職、世話人、名主らが建築現場に赴き建築を依頼。引き受けた富昌は三月頃から、父富棟が寛政二年(1789)に建築した善光寺大勧進の表御門形式を参考に絵図面を制作。四月には八百重の家に投宿し近くの薬師山に登って酒宴を催し、満開の杏花を愛でたといわれています。夜は篝火の下で鼓を鳴らし謡曲の「鞍馬天狗」を吟じ、見事な龍を描き上げ、村人や近郷近在の話題をさらい、村では日本一の宮大工が来たと喜んだそうです。左右にある波の彫刻は、葛飾北斎の影響を受けたものともいわれていますが見事です。

 彼の木彫は、京都御所の建春門の「蟇股(かえるまた)の龍」、遠州の「秋葉神社」、諏訪の「諏訪大社下社拝殿」、善光寺大勧進御用門「江梁の龍」、松代町西条の白鳥神社の「神馬」などがあります。また、千曲市市屋代の須々岐水神社にも富昌の作があります。生き生きとした龍の親子に見惚れます。

 山門の脇にある枝垂れ桜。満開のカットは毎年このアングルで必ず撮影します。しかし、毎回少しずつ違うのです。あんずや桜が満開の記事は、毎年4月のアーカーイブをご覧ください。

 次に薬師山の展望台へ。ここからのカットも拙書には載せています。右奥の煙が立つ辺りは、山の上の方まであんず畑があり、絶好の撮影ポイントです。70年頃は、多くが藁葺き屋根でした。あんずも在来種が多く、現在の満開の風景とは趣がまったく異なるものでした。

 左に目を向けると、先日登った鞍骨城跡のある鞍骨山。高圧鉄塔から右が城内となります。

 最後に訪れたのは、岡地天満宮。この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作・真筆のものと伝えられています。岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌(「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名)が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
 第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。更にその後しばらくは、松代の長国寺にあったとあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。

 幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」。富棟(富昌の父)の名声を世に広めたのは、1781年(安永10年)建立の諏訪大社秋宮です。またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。

 かの高名な歴史研究家、米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像「天部」(右)と「如意輪観音」(左)。【参考文献:「岡地探訪 乙路の県 天満大自在天神とその周辺」発行:岡地天満宮 H19.4.1】

 アオツヅラフジ(青葛藤)の青い実。鎮痛,利水作用があり,関節の水腫や疼痛などに用いる落葉つる性木本です。薬になるということは有毒でもあるということです。このつるは籠を編むのに最適な様で、妻女山にご婦人たちが探しに来たこともありました。
「駿河の海 おしへに生(お)ふる 浜つづら 汝(いまし)を頼み 母に違(たが)ひぬ」東歌
(駿河の海に生えている浜つづらのように、長くいつまでもそなたを頼りにしていて母と仲違いしてしまった)


 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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古代科野国の堂平大塚古墳から林道倉科坂線へ。男装の麗人・川島芳子。紅い部分月食(妻女山里山通信)

2021-11-19 | 歴史・地理・雑学
 妻女山駐車場近くの、仲間とやっている椎茸栽培のホダ木が劣化して来たので、使えなくなったホダ木をどけて整理をしました。その後、カメラ機材と山仕事の道具を積んで登り、陣場平へ。ログハウスで休憩の後下山し、久しぶりに林道倉科坂線を歩いてみました。

 紅葉が燃える堂平大塚古墳。円墳で直径は約16m。高さは約4.8m。横穴式の石室で、開口部は西向き。7世紀前半~中葉の古墳といわれています。中はかなり広く、高さは2.3mあり充分に立って入れます。1966年位までこの横には家があり、山仲間の故Kさんが家族で住んでいました。年中温度が一定なので、古墳の中を貯蔵庫として使っていたそうです。堂平という名称から、古くはここに何かお堂があったと思われます。
 彼の家族が住む前の戦前には、乃木希典の軍の軍曹だった山岸義十郎氏が住んでいたと父から聞きました、大正天皇が皇太子のときに清野小学校から白馬に乗って来訪し、彼は軍服を着てサーベルを下げて迎えたと、青年学校時代に同行した亡父が言っていました。
 Kさんから、戦後に男装の麗人、川島芳子(清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女)、本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)がどこから聞いたのか、ここに住みたいと打診して来たと驚きの話を聞きました。それは断ったそうですが。銃殺刑になった説、50年代に死亡説、1978年死亡説とミステリアスな人生を送った女性です。戦争の悲劇は庶民だけではない例。戦争で莫大な富と利権を得るたった1%の輩が戦争を起こす。
「妻女山 有名人訪問年表」政治的、軍事的に利用された稀有な里山(妻女山里山通信):これほど政治的、軍事的に利用されてきた里山もないでしょう。ぜひご覧ください。

 古墳の前の落葉松。微風でもチリチリと散ってきます。林道や登山道は枯れ葉の絨毯。カラカラに乾くともの凄く滑ります。ご注意を。この敷地内には、勅命、正一位と書かれた古い石碑があります。別の面には、天宮大穴郷堂平とも記されています。まがい物でなければ、勅命、正一位はもの凄い記述です。天宮大穴郷は、現在の雨宮。大穴郷は、古墳がたくさんあった時代のこの地の呼名です。

 陣場平分岐の柏の葉。子供の頃は、祖母が旧暦の端午の節句に柏餅を作ってくれました。そのために妻女山へ柏の葉を摘みに来たものです。記憶の底に残るあの素朴な柏餅の味は忘れません。小豆は大納言ではなく、今や希少な少納言です。味は全く違います。入手はほぼ困難と思います。私が作ったものが少量あるだけです。できれば栽培したいのですが。

 長坂峠から右奥に天城山(てしろやま)。山頂は堂平大塚古墳より古い円墳です。峠のススキが光っています。クヌギ、カシワ、コナラ、エノキ、ヤマザクラ、コムラサキ、シナノガキ、ケヤキ、ヌルデ、ヤマコウバシ、ガマズミなどの色々な紅葉黄葉が山を彩ります。

 左からカシワ、コナラ、クヌギの枯れ葉。

 妻女山駐車場まで下って、左の林道倉科坂線を歩きます。松代方面の眺め。右手前に象山。ぞの奥に皆神山。左に尼厳山と右に大きな奇妙山。右奥に根子岳と四阿山。雪がないですね。スキーシーズンは2周間ぐらい遅れそうです。ただ、ラニーニャが発生しているので冬の到来は遅めですが、寒くなりそうです。2014年の豪雪の様にならなければいいのですが。あの年も1月まで降雪が少なく暖かくこのまま春になるのかなと思っていたら2月に豪雪。

 ダンコウバイの花芽がもうできています。3月に真っ先に黄色い花を咲かせます。そうはいっても触るとカチカチに固いのです。冬の寒さから守るためです。

 ノコンギクの種。寒風が吹く度に散っていきます。

 前の記事で紹介したヌルデ(白膠木)の紅葉。枝に葉柄があるのですぐ分かります。ウルシの仲間なので、人によっては触れるとかぶれることもあります。

 ヤマコウバシ。クスノキ科クロモジ属なので、枝を折るといい香りがします。これで箸や爪楊枝を作るといいかもしれません。太陽が好きなので日当たりの良い西側の斜面に多く見られます。冬になっても枯れ葉を落としません。新葉が出るまでこのままなので、真冬でも目立ちます。落ちないので、受験のお守りにも使われます。

 左下が象山。そこから続く尾根。左は越山。右は深山。右(西)へたどると鞍骨山。南へたどると鏡台山です。

 戻って椎茸栽培の森へ。ホダ木を処分したのでスカスカです。来春に1000駒打ち込む予定です。その翌年にまた1000駒。
 
(左)14個ほど椎茸が出ていました。12月初めの妻女山里山デザイン・プロジェクトの納会で食べようと思います。(右)その椎茸と天然のムキタケ、ベーコンと多摩の伝統野菜ののらぼう菜の和風パスタ。のらぼう菜は、在京時代に五日市の養沢へフライフィッシングに通っていた時に出会い、美味しいのでずっと後に息子に調布市農協で種を買ってもらい。父が育ててこれは美味しいと集落中に種を配ったのです。江戸時代初期に入ったセイヨウアブラナの原種に近いもので、春のとう立ちを食べます。苦味がなく甘く美味しく、和洋中華なんにでも合うので重宝しています。これとアサリのボンゴレビアンコは最高です。

 翌日は陣場平の整備。折れた太い枝や落枝の処理。来春、貝母が満開になるとたくさんの人が訪れます。危険がない様に今の時期に整備をします。昼の休憩はログハウスへ。古墳の裏に咲くヤマツツジ。狂い咲きではなく、毎年初夏と小春日よりの晩秋に咲くのです。来週は氷雨と初雪もあるかもしれません。これが見納めでしょう。

 妻女山展望台からの白馬三山。来週は、手前に見える茶臼山も白くなるかもしれません。信州の長い冬が始まります。

 部分月食の紅い月と星。縄文や弥生の古代の人びとにとっては、神の降臨かはたまた災いの予兆か。140年ぶりの紅い月がもたらすもの。

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天城山林道を歩き古代科野国に想いを馳せる。燃える秋の松代城へ。真田十万石の盛衰(妻女山里山通信)

2021-11-14 | 歴史・地理・雑学
 穏やかな小春日和の週末。妻女山奥の天城山(てしろやま)林道を終点まで歩きました。そこから天城山への登山道を芝山まで登り、ムラサキシメジのシロが近くにあることを思い出し下りてみましたが皆無。雨が降らないので今年の収穫は先の2本で終わりかもしれません。下山後は松代城へ。

 天城山西方の尾根から。手前は、森将軍塚古墳の上にそびえる有明山。左へ尾根をたどると五里ヶ峯。拙書でも載せていますが、トレランの人達がよく走るコースです。右奥は三峯山。左に三角の風越山。これらも拙書に掲載。
 
(左)アベマキ(棈)。ブナ科コナラ属の落葉高木で、樹皮のコルク質が分厚いため、コルククヌギ、ワタクヌギともいいます。独特な樹皮の割れ方です。(右)葉は細長くクヌギと似ています。コナラは先の方が幅広でミズナラと似ています。

 陣場平に戻ります。向こうに見える山の尾根のすぐ下に歩いた林道が通っています。往復3キロぐらいですが、石だらけの道なので結構疲れます。お昼はログハウスへ。鮭マヨおにぎりを二つ作ってきました。北アルプスや眼下に流れる青い千曲川を見ながらまったりと。

(左)長坂峠でルリタテハ(瑠璃立羽)が日向ぼっこ。成虫で越冬します。春にはヒオドシチョウと共に現れます。(右)鮮やかなヌルデ(白膠木)の紅葉。葉に虫コブができます。外はフェルト状で柔らかく、中は空洞。アブラムシがたくさんいます。 タンニンの含有量が多く、乾燥品を五倍子といい、染め物では空五倍子色(うつふしいろ)とよばれる伝統色として用いられます。古くはお歯黒などにも使われました。
「足柄の 吾を可鶏山の かづの木の 吾をかつさねも かづさかずとも」(詠人知らず) 万葉集:カヅノキ(可頭乃木)=ヌルデ

 長坂峠から見る斎場山。鞍骨城から松本から来訪の二人が。薬師山へ行くというので拙書の地図を見せて解説。なんでも鞍骨城には20人ぐらいがいたとか。人気の山です。妻女山展望台に下ると東京と大阪から来た3人の男性が。展望台から見える川中島の戦いの史跡を説明しました。その後、私は松代城へ。

 松代城の太鼓門にかかる橋から望む斎場山(旧妻女山)。ここから見ると斎場山が陣場平と妻女山(旧赤坂山)への尾根上にある様に見えますが、実は400m西(向こう)にあります。

 城の櫓台から見る斎場山。上杉謙信が最初本陣としたのは斎場山で、現妻女山ではありません。山頂は古代科野国の古墳(円墳)で、円形で平らです。上杉軍は、この山のあちこちや麓に布陣したと伝わっています。篠山は、長野市の森林公園があり、ウィーゴカントリークラブの南側から山道を登って、山頂近くまで車で登れます。

 雲ひとつ無い青空に建つ太鼓門。ドウダンツツジの紅葉が鮮やかです。県内外からたくさんの観光客が訪れていました。新蕎麦を食べるなら、千曲川対岸の安心(あんじん)か、八幡原の横綱をおすすめします。

 お堀越しに見る左に、真田幸隆に攻略された東条氏の尼巌城跡のある尼巌山(あまかざりやま)、右に東山城跡(清滝城跡)のある奇妙山。両山とも拙書に掲載していますが、登っても非常に楽しい山です。お堀では鴨が泳いでいました。

 松代城跡の復元図(江戸時代末期)。歩いていける距離に新御殿(真田邸)や文武学校、真田宝物館、象山神社などがあります。真田宝物館では、「企画展 むかしの松代をのぞいてみよう! 」を、2022年1月17日(月)まで開催中です。

 松代パーキングエリアから見る鞍骨山(鞍骨城跡)。ハイカーはもちろん、全国の山城マニアも大勢訪れる人気の里山です。深山から南へ、御姫山、大嵐山(杉山)、三滝山、鏡台山と戸神山脈が続きます。

 鞍骨城跡を望遠レンズで。本郭は、緑が生い茂ると展望がほぼなくなりますが、二つの展望岩からは景色が望めます。北面なので逆光で真っ暗ですが、北面南面共に、尾根を除いて崖の様な急斜面なので攻めにくい山城だったと思います。拙書では、妻女山コース、薬師山コース、唐崎山コース、鷲尾山コース、象山コースの5つを載せています。

 松代PAからの白馬三山。右奥の虫倉山までが松代藩の領地です。虫倉山は拙書でも詳しく紹介している神話の山ですが、2014年の神城断層地震で山頂が4割も崩壊してしまいました。

真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信):始まりからかなり詳細に記しています。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

松代藩の祖 真田信之の御霊屋と墓所のある長国寺へ。真田宝物館へも(妻女山里山通信):左甚五郎

虫倉山。神城断層地震で崩壊した山頂へ。無常と360度の大展望と。登山情報(妻女山里山通信):山頂崩壊の状況が分かります。

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大量のムキタケ採取。イノシシのヌタ場、斎場山、会津比売神社、森将軍塚古墳。古代科野の国(妻女山里山通信)

2021-11-11 | 歴史・地理・雑学
 9日に予報より多くの雨が降りました。先週、大量のムキタケを採りましたが、小さなものはすべて残してきました。それが採り時だろうと登りました。登り始めは10度でしたが、下山時は16度。麓は18度になったようです。ただ風は強めで、枯れ葉が舞っていました。長野市は、高原の紅葉が終わり里山の紅葉が真っ盛りです。運転していても周り中の美しい紅葉が気になってよそ見運転をしないよう注意しています。

 やっとムキタケの群生する倒木へ。大きくなっています。雨を含んで粘るものもあります。なるべくゴミを持ち帰りたくないので、ハサミで切り取っていきます。熊の心配は季節柄ありませんが、ニホンカモシカの通り道なので、時々周囲を見ます。視線を感じて見上げると、そこにニホンカモシカということもありました。ニホンカモシカは襲ったりしません。ただ非常に好奇心が強いので凝視されます。

 大きな株です。クヌギの枯れ葉が舞い落ちています。針のような落葉松の枯れ葉が意外と面倒なのですが、すべて取り除きます。帰ってからの処理が簡単になります。

 両方ともムキタケなのです。これだけ色が違いますが同種です。オリーブグリーンのものもあります。有毒のツキヨタケが似ているのですが、標高1000m以上のキノコなので、ここでは心配無用です。ムキタケに特徴的な濃い味はありませんが、そのため和洋中華色々な料理に使えます。ヌメリもあるので煮込み料理や鍋に最適です。

 ヒラタケもまだありますが、これは縁が焦げ茶色で老菌に近いので、小さなものを採取しました。醤油バター炒めとかベーコンとパスタとかグラタンとかにも。小さなキノコバエが見えますが、彼らがもたらす線虫で白いコブが傘の裏にできることがあります。無毒ですが、気になるなら爪で削ぎ落とすと簡単に取れます。今回は、40センチのボウルがいっぱいになるぐらい採れました。毎日キノコ三昧です。来月の妻女山里山デザイン・プロジェクトの納会に持っていって振る舞います。今回は、煮込みうどん、豚足と地大根の五香粉中華煮、鶏と春菊、薩摩芋のクリームシチュー、モツ煮込みなどにムキタケを使いました。どれも馬鹿旨でした。

 傾斜が40〜45度の急斜面。ここを登らないと帰れないというと普通採取は諦めるでしょうね。迷ったら確実に遭難しますし。今年は倒木が多いです。里山保全は手間隙かかりますが、やらないとあっという間に荒廃します。何百年もの間、人が手を入れて維持してきたのが里山です。その重要さを満開の貝母を紹介する時にも必ずお話しています。

 やっと陣場平に戻りました。我々が保護活動をしている貝母(編笠百合)は、消えています。来年の3月に雪の下から芽を出します。満開になるのは4月の15日前後。誰もが感激する満開の様子は、毎年の4月のアーカーイブから記事をご覧ください。日本の里山でこれだけの群生地が見られるのはここだけです。帰化植物の除去や、落枝や倒木の処理、球根の移植作業などを妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーとしています。開花期にはガイドもします。コロナで中止状態ですが、以前は合同ハイキングのインタープリターもしました。

 堂平大塚古墳のあるログハウスへ。落葉松の黄葉の向こうに聖山。聖湖は、全国的に有名なへらぶな釣りのメッカです。

 北アルプスの仁科三山も。左に爺ヶ岳、右に鹿島槍ヶ岳。淹れてきたコーヒーでしばしまったりと休憩です。

 小紫の実。有毒ではないのですが、鳥はあまり食べませんね。人が食べても美味しくはありません。綺麗なので生花に使うといいですね。

 今は亡き山仲間のKさんが植えたイロハモミジも見事に色づきました。紅葉は逆光で撮ると映えますね。

 ログハウスの日溜まりにはたくさんのアキアカネが舞っていました。あちこちの池で産卵シーンが見られますが、我が家の雨の水たまりに産卵するのは可愛そうです。数日で干上がってしまいますから。教えてあげる術はありません。

(左)コバノガマズミの紅葉。ガマズミの真っ赤な実は、ルビー色の抗酸化作用のある綺麗なお酒ができるのですが、今年も作りそこなってしまいました。(右)クヌギの落ち葉の中にダンコウバイの黄色い落ち葉。

 斎場山(旧妻女山)へ。山頂は古代科野国の古墳です。五竜眼塚古墳の記述もありますが、山名から斎場山古墳と呼ぶべきでしょう。五竜眼は、この後出てきますが、この西方にある平地の名称です。

 古墳の最上部。円墳で山頂は丸く平らです。川中島の戦いの時に、最初に上杉謙信が本陣とした場所として伝わっています。盾を敷き、陣幕で囲み、鼓を叩いて舞を舞ったという伝説があります。武田軍が全軍を海津城に入れた後は、後述の陣場平に七棟の陣城を建てて本陣としたと伝わっています。甲陽軍鑑の編者、小幡景憲がその絵を描いています。東北大学の狩野文庫に収蔵されています。当ブログでは、許可を得て掲載しています。川中島の戦いでブログ内検索して下さい。

 巨大なイノシシのヌタ場。冬の猟期に追われたイノシシが、氷を割ってここで火照った体を冷やすこともあります。倒木の穴をイノシシが鼻で掘ってここまで大きくしたのです。

(左)イノシシが泥をこすりつけた木。これをたどっていくと彼らの塒(ねぐら)にたどり着くかも。(右)御陵願平。転訛して五竜眼平とも。よく見ると二段になっています。里俗伝では、往古ここに会津比売神社があったとか。上杉謙信が庇護していたために、武田信玄に焼かれ、その後麓に隠れるように再建されたとか。現在は、上信越自動車道の薬師山トンネルの松代側の入り口の裏にひっそりと鎮座します。祭神の会津比売命(あいづひめのみこと)は、大国主命のひ孫で、夫は崇神天皇に初代科野國造に任命された神武天皇の後裔といわれる武五百建命(たけいおたつのみこと)といわれています。

 その会津比売命を祀る会津比売神社。諏訪社系の神社なんですが、御柱はありません。全国でたった一社という非常に珍しい神社です。会津は福島の会津と関係があります。
 崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。大彦命は東征の後で、長野市篠ノ井の茶臼山動物園の下の長者窪という所に住み、薨去したと伝えられています。彼の功績を讃えて父出速雄命は娘に会津比売とつけたのではないでしょうか。

 上杉謙信の布陣した山として妻女山(旧赤坂山、旧妻女山は斎場山のこと)を訪れる人は多いのですが、薬師山トンネルの陰にひっそりと佇む会津比売神社を訪れる人は稀です。春秋の祭には神楽が奉納されます。

 この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、東北の大震災以降、知られるようになった貞観地震の記述がある『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。

 その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。

■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
 神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
           大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)


 つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、後に諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料]
 無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、出雲系と大和系が結ばれてできたといえるのです。

 会津比売神社はいわゆる式外社(しきげしゃ・『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』をいいます。

 会津比売神社御由緒で、その夫と伝わる建五百建命の前方後円墳、森将軍塚古墳です。科学的に証明はできませんが、埋葬されているのは初代科野国の大王といわれています。崇神天皇の三世紀後半ごろ、神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫・建五百建命(たけいおたけのみこと)が科野国造(しなのくにのみやつこ・しなのこくぞう)に定め賜わりました。そこで森将軍塚古墳の埋葬者が、建五百建命ではないかといわれているのです。古墳の築造は、4世紀代といわれています。
 建五百建命の祖先は神武天皇ですから大和系。會津比賣命の祖先は大国主命ですから出雲系。この二人が結ばれ古代科野国の祖となったということです。これに関しては、信濃の古墳研究の第一人者であった元長野県考古学会長・故藤森栄一氏が、【信濃豪族の系譜】という文章を書いています。
 森将軍塚古墳へは、麓の千曲市の科野の里ふれあい公園からシャトルバスが出ていますが、徒歩でも20分ぐらいで登れます。また公園内には古墳館がありおすすめです。駐車場を挟んで反対側には、長野県立歴史博物館があり、現在は「全盛期の縄文土器」を展示中。非常に面白いレベルの高い展示です。

「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ー 長野県立歴史館:尽きない縄文の魅力(妻女山里山通信):11月23日まで開催中!

古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証(妻女山里山通信)

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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小春日和の週末は、鞍骨城跡のある鞍骨山へ登山道整備しながらトレッキング(妻女山里山通信)

2021-11-07 | 歴史・地理・雑学
 小春日和の週末。久しぶりに鞍骨山へトレッキング。手鋸(てのこ)と剪定バサミを持って、登山道整備をしながら登りました。名古屋から来訪の山城マニアの男性と、二組のご夫婦と邂逅。一組は貝母を案内した方達で拙書の読者でした。全国から山城マニアや歴女が訪れる里山です。もちろん拙書でも載せています。

 鞍骨山山頂。鞍骨城跡の本郭からの眺め。中央に松代城。手前は文武学校のある松代小学校。右奥には母校の松代中学校。校章は結び雁金です。卒業生には、モーニング娘。21の羽賀朱音ちゃんとか世界的アコーディオニストのcobaさんとかいます。奥の崖が見える里山には、金井山城跡があります。

(左)出発は妻女山の駐車場から右の林道へ。撮影機材に山仕事の道具もあるので陣場平までは車で。途中林道整備をしながら。(右)陣場平入り口。左に鉄の看板があり、小道を50mほど行くと陣場平です。現在は私が主宰する妻女山里山デザイン・プロジェクトの仲間が、里山で日本ではここだけと思われる貝母(編笠百合)の群生地の保護活動をしています。右下に300mほど下ると堂平大塚古墳。私有地ですが古墳の見学はできます。ログハウスがあるので持ち主がおられたら了解を得てください。ここからは徒歩で鞍骨山を目指します。

(左)少し登ると林道から別れて左へ登山道。以前はMさんが立てた標識があったのですが、腐ってなくなってしまいました。山中の標識や看板は、防腐剤を塗らないとだめです。また、熊が壊すので油性のラッカー塗装はだめです。理由は拙書の「猫にマタタビ、月の輪熊に石油」というコラムに書いてあります。(右)少し急登をこなすと、登山道は尾根から外れて右へ。斜面はダンコウバイの黄葉で輝いています。まっすぐ尾根を登ると清野古墳が二基あります。

(左)ダンコウバイの道を登るとほどなく天城山(てしろやま)と巻道の分岐。左の巻道を行きます。天城山は、手城山と書きました。山頂には古墳があり天城城跡でもあります。(右)天城山からの道を合わせてしばらく進むと二本松峠。右が倉科で清野坂、左が清野で倉科坂といいます。昔、名主をした先祖の娘二人が両村に嫁ぎ、この峠を越えて行き来していたそうです。自動車も鉄道もない頃は、皆山を越えていたのです。

(左)二本松峠から暗い杉林を登ると明るい広葉樹林に。(右)太い赤松の倒木。これは手鋸では切れません。左に巻道ができていました。

 駒止と呼ばれる深い空堀。戦国時代の馬は、木曽馬の様な山道が得意な馬だったので、越えられたかも?

(左)孫杓子。マンネンタケ科のキノコ。漢方薬。(右)高圧鉄塔。これが目印になります。

 すぐ先に二条の空堀。先の空堀からは左へ林道倉科坂線へ下る登山道があります。この空堀から先が城内となります。

(左)正面に小高い尾根が続き、両側下に幅4mほどの削平地が続きます。倒木で行けないので右へ。(右)馬場跡ともいわれる削平地。馬場跡?どうでしょう。駒止もあって馬が来られないはずですが。ここで友人のフランス人のトレジャーハンターが、宋銭と秤のおもりを発掘しています。彼は市場があったのではというのですが、まさかこんな山の奥にね。駐在する兵士の小屋があったのではと私は思うのですが。

(左)第5の郭から。左手に回って上へ。矢印とトラロープがあります。(右)こんな急斜面を登ります。石を崩さない様に。

 広い第4の郭。ここは右手に回ります。帰郷して2009年春にこの登山道を整備した時は、ノイバラ、エビガライチゴ、ヤマガシュウが生い茂って登山道を完全に塞いでいて、除去しなければ鞍骨山へは登れませんでした。何度も通って登山道整備をしました。その後、千曲市の緑を守る会や倉科のMさんなどが整備をしてくれて、誰もが登れる山になりました。

 そこから見上げる本郭。上に第3の郭。

 右に回って斜めに登ります。見上げると本郭の石垣が見えます。登る道は不明瞭で細くかなり危険です。半端ない山城だと分かります。

 本郭下の第3の郭には四角い窪地が。来る度にここは何だったのだろうと思います。井戸ではないですね。厠でしょうか。敵が襲ってきた時には、まず石を投げて糞尿をぶちまけたと史料にもありますし。

(左)その上の第2の郭は、犬走りの様な細長い郭です。(右)本郭下の石積み。割とよく残っていますが、松代群発地震で崩れたり欅の根で壊されたりしています。坂城の村上義清の葛尾城跡の様に、城跡を傷めない様に鉄の階段とか木道が整備されるといいのですが。古墳とか山城の保存や保全は非常に難しいと思いますが重要なことだと思います。

 鞍骨城跡本郭。標高798mの鞍骨山山頂。鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に脇郭と副郭、さらにその西に大郭と狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がありません。

 清野村誌によると、「村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す(現在の松代城の場所)。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言う。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。」と記されています。

 信濃の小領主であった清野氏は、村上義清の配下でしたが、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉謙信を頼り逃れると、清野氏は、道寿軒と長子清秀が上杉方に、次子信清(清寿軒)は武田方にと、親子兄弟敵味方に分かれて戦いました。どちらが勝っても一族が生き延びるという苦肉の策。その後、武田が滅びると上杉の会津移封に伴って清野を去ったのです。信濃の小領主たちは、甲越どちらかにつくか、親子兄弟別れるかして、いずれにしても信州先方衆として真っ先に戦わなければならなかったのです。

 武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、 1582(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂(現妻女山)と云所に御馬を立てられ…、鞍掛山へ御上がり云々」との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかともいわれています。そんな城跡を500年前の石垣かと思って触れると、色々な事を思います。なぜ人は戦ばかりするのだろうとか…。いずれにせよ山城マニア、戦国マニア必見の山城です。


 鞍骨城跡は、12月から4月上旬の落葉期と芽吹き前以外はあまり眺望がありません。そこで拙書でも紹介していますが、本郭から東へ20mぐらい行った先に二箇所展望岩があります。手前の展望岩から北東の眺め。眼下に出発点の妻女山(旧赤坂山411m)が見えます。その向こうに千曲川。川中島が広がります。正面の尖った山は、別名戸隠富士と呼ばれる高妻山。右は長野市民の山、飯縄山。

 次の展望岩からは眼下に松代城跡。手前には松代藩の文武学校がある松代小学校。バーチャルで火縄銃や大砲が撃てます。真田宝物館、真田邸、象山神社、象山記念館がいずれも徒歩で行ける範囲にありオススメです。

 望遠レンズで長野市街を撮影。左に善光寺の表参道と山門、国宝の本堂が見えます。これは今まで知りませんでした。肉眼では見えないので、清野氏も上杉景勝も知らなかったでしょう。プロカメラマンも唸るOLYMPUSの望遠レンズの凄さを再確認。しかも、これ三脚でなく手持ちなんです。驚異的です。「私がOLYMPUSを使い続ける理由。たかが写真されど写真(妻女山里山通信)」をご覧ください。

 妻女山展望台の真下にある赤坂橋対岸から撮影した鞍骨山(鞍掛山)。右へ妻女山と矢印がありますが、まず二本松峠、天城山(てしろやま)、陣場平(謙信陣城跡・貝母群生地)、長坂峠(斎場山への分岐)、妻女山と続きます。展望岩東のコルは、自然の地形を更に掘ったものの様です。昔は石段があったと聞きました。空堀二つの下には水の平という窪地があり、水場だったといわれています。現在は熊やイノシシのヌタ場になっています。(2017年11月撮影)

象山から鞍骨山、天城山から斎場山、土口将軍塚古墳から薬師山へのトレッキングルポ
離山の麓から鞍骨山を望む(象山から鞍骨山、天城山、斎場山、妻女山までの大パノラマ)

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
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「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ー 長野県立歴史館:尽きない縄文の魅力(妻女山里山通信)

2021-10-13 | 歴史・地理・雑学
 長野県立歴史館で11月23日(火)まで開催されている、令和三年度秋季企画展「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ーを息子と見に行きました。キャッチコピーが「人びとはなぜ こんなにも土器を華やかに そして大きくしていったのだろう」というもので、縄文時代の中の約5000年前からの100年間に激しく土器装飾が複雑化した経緯が分かるようになっています。案内パンフレットにあるように、土器は生活の道具であると同時に、アイデンティティーや集団間の関係を映し出す鏡でもあります。非常に感動的で興味深い展示でした。空前の縄文ブームで来場者も大勢でした。写真撮影も可能です。
※アンダーラインのある単語や文をクリックするとリンクに飛びます。右クリックでリンクを新規タブで開く。

「動物装飾付釣手土器」富士見町札沢遺跡(縄文時代中期)。取っ手の上に3匹、縁に一匹、蛇のような動物があしらわれています。底が焦げているのでランプらしいです。藤森栄一氏(考古学者、諏訪考古学研究所所長、元長野県考古学会会長)は『縄文の八ヶ岳』という本の中で、縄文中期一番シンボル的なものはヘビ(マムシ)ではないかと記しています。マムシ(蝮・真虫)は、蛇神として大地母神などの土地の霊性を示す女神であったのではと。

「展示資料の時期と地域」時期の縦軸と地域の横軸をつぶさに観ていくと、変化と相似律が非常に面白い。ミランコビッチ・サイクルという天文学・気象学があります。地球の公転軌道の離心率の周期的変化、自転軸の傾きの周期的変化、自転軸の歳差運動という3つの要因により、日射量が変動する周期のこと。それによると、氷期と間氷期といった気候変動には2.3万年、4.1万年、10万年の周期変動が認められており、地球の公転軌道の揺らぎに伴った日射量の変化が原因とされています。現在は、温暖化の時代にあり(温暖化はCO2が原因ではないという学者もいます)、これからゆっくりと寒冷化に向かうとされています。
 縄文時代は、7000年前から温暖化が始まり、縄文海進が始まって関東平野に住んでいた縄文人は、現在の甲州街道を遡って諏訪湖周辺に移り住んだといわれています。諏訪の近くの和田峠には、本州最大の黒曜石の産地があったため、各地からそれを求めて人が集まったはずです。土器の流通もあったと思われます。5000年前は1000年周期の温暖化のピークだったそうで、現在より2度ぐらい高かったようです。そのため、食料が豊富で文明も栄えたのでしょうか。縄文土器の複雑化や進化にその理由があるのかも知れません。
 中期の繁栄では、青森の三内丸山遺跡が有名です。狩猟と採集が主といわれていましたが、栗やヒョウタン、ゴボウ、豆などを栽培していたことも分かっています。漆塗りの器も見つかっています。長さ32m、幅10mの大きな住居跡も見つかっています。これはアマゾンのヤノマミ族の共同住宅を思わせます。アマゾンの先住民は縄文人の子孫達なのでしょうか。その三内丸山遺跡は4200年前に消滅します。海底の堆積物から、突然の地球規模の寒冷期で消滅したと判明しました。同時期の長江周辺やメソポタミアでも文明が衰退しています。縄文晩期の人口減少も、小氷河期の襲来がいわれています。

■縄文時代の人口動向「人口から読む日本の歴史」鬼頭宏著
草創期 約12,000~9,500年前(2,500年)
早 期 約9,500~6,000年前(3,500年) 人口2万人
前 期 約6,000~5,000年前(1,000年) 人口11万人
中 期 約5,000~4,000年前(1,000年) 人口26万人
後 期 約4,000~3,000年前(1,000年) 人口16万人
晩 期 約3,000~2,300年前(700年)  人口8万人(弥生時代になると、春秋戦国時代で敗れた呉や越の人びとが渡来し、人口は59万人にまで増えました。古墳時代にかけて大規模な移入が続きます)

 こんな風に、形象学的な分類方で展示されています。パネルでの説明も多くて非常に分かりやすい。櫛形文土器。

「動物文突起付人体文深鉢」岡谷市目切遺跡(縄文時代中期)。中央に蛇が立ち上がっています。頭の下に太い背骨があり、その下の眼文は骨盤?下に二本の脚みたいなものが見えます。蛇の仮面をかぶった人でしょうか。両脇には両手両足を広げた崇めるような人体文が。縄文人の豊かな呪術性を感じます。

「箱状突起付深鉢」原村居沢尾根遺跡(縄文時代中期)。箱状中空の突起が4つ。カエルを表しているようです。中空の造形は難しそうです。

「文様のいろいろ」人や動物などをシンプルな線で描くことを「便化(便宜的転化:文様史で使われてきた用語)」といいますが、旧石器時代の人も縄文人も現代人も、表現はそう変わらないのです。歌舞伎の背景画とか、子供の絵とか、洗練されてはいますがピクトグラムなどもそうですね。ある種の普遍性を持っているものなのでしょう。形而下における形象心理学で説明できるのでしょうか。

 褶曲文。特に渦巻(スパイラル)というのは、自然界で度々見られる現象であり、植物や動物にも見られます。 多くの古代文明で、冥界や死と再生、輪廻転生の循環の象徴とみなされ、縄文土器や古墳などにもしばしば描かれました。生命の持つ力動的な回転の象徴なんでしょうね。渦巻が三次元に展開すると螺旋(ヘリックス)となり、これも自然界や建築や彫刻などの造形で見られます。台風や竜巻や螺旋階段など。宇宙も渦巻銀河といいますし、分子レベルでもあります。存在の本質なんでしょうか。

「褶曲文深鉢」塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡(縄文時代中期)長野県宝。現代人の私の感想ですが、現代人の感性にも通じるお洒落な造形ですね。繊細且つ伸びやかで緻密です。驚きました。どんな人が作ったのでしょうか。想像が膨らみます。下方に穴がありますが、欠損ではなく空いていたものだとか。なぜでしょう。

「水煙文土器の隆盛」。前述の藤森栄一氏が「雲龍というか、水煙といおうか、くねりながらせり上がっていく曲線の持つ無限の量感」と讃えた水煙文土器。
【直線のない時代】現代は、建築、道路、道具などほぼ全てに直線が用いられています。しかし、縄文時代に直線はありません。バルセロナのサグラダ・ファミリアの設計で有名なアントニ・ガウディに、「自然界には直線は存在しない」という名言があります。縄文時代がまさにそれです(道や溝などに一部直線はあります)。直線は、技術が進歩し効率と合理性を求めて生まれたものです。そして新たな美意識が生まれました。現在JAPANDIという北欧と日本を融合した建築やインテリアが隆盛しています。しかし、失われたものもあるのです。縄文土器から感じる情動やエネルギーは、かなり失われたと思います。現代人が縄文土器に惹かれるのは、その内なる根源的なものを呼び覚まさせられるからではないでしょうか。

「水煙文土器(ドーム型)」甲州市安堂寺遺跡。ダイナミックな装飾のかなり大型の土器。なぜか取っ手を破壊する儀礼があったようで、100年後に千曲市屋代でも発掘されています。こんな土器を作れるなんて、縄文人の生活はかなりゆとりがあったのではないでしょうか。ギリギリカツカツだったら、絶対にこんな面倒くさい土器なんか作れませんから。ただ、縄文人の平均寿命は30歳ぐらいといわれています。成人男性の平均身長は162センチぐらい。乳幼児の死亡率も高かったと思います。縄文土器が破壊されて発見されることが多いのは、自然と一体化して生きる縄文人の死生観の現れでしょうか。生と死、誕生(再生)と破壊がセットになっていたのではないでしょうか。本能的に輪廻(食物連鎖)、自然との共生関係を知っていたのではと思います。

「橋状把手付深鉢」新潟県十日町市笹山遺跡(縄文時代中期)国宝。解説に、非常に洗練されているとあります。縁の四方にある造形はどうやって作るのだろうと思います。十日町市博物館では、レプリカを触れるコーナーが有って、触ると穴に人差し指がピッタリ入ったりして、ああこうやって作ったのかなと想像できます。

「王冠型土器」新潟県十日町市笹山遺跡(縄文時代中期)国宝。4つ飛び出た平らな波頭部の下につけられた眼鏡状突起から伸びた隆帯が、口唇部に沿って弧を描く構成は、水煙文土器(円環型)に共通すると解説にあります。胴部のS字文も美しい。縄文土器は、情熱だけでなくかなり緻密に計算された知的なものだとも思われます。三内丸山遺跡の木柱列は巨大な日時計だったとか、秋田大湯の環状列石もそういう説があります。

「火焔型土器・王冠型土器からの文様伝達」。鋸歯文を伴って鶏頭冠が生まれたわけです。火焔型とか鶏頭とかいわれていますが、実際これを作った縄文人達は、何を表現していたのでしょう。この時代にニワトリはいなかったそうで、魚とか動物とかいわれています。私には猪に見えるのですが。

「火焔型土器」新潟県十日町市笹山遺跡(縄文時代中期)国宝。十日町市博物館でも見た国宝です。岡本太郎が絶賛したのはこれではないでしょうか。火焔部は何に見えるでしょうか。口唇部の鋸歯文は、レプリカを指で触ると人差し指で形作ったのかなと思います。縄文といいますが、縄で模様をつけたのではなく、紐状のものを貼り付けています。

「南限の火焔型土器」。火焔型土器は、信濃川を遡って千曲川沿いへ。川と共にあった縄文人の暮らし。

「全盛期の終わり 唐草文系土器の誕生」。流行が伝播したのか、人の移住があったのか。我々には馴染み深い唐草文様が、すでに縄文時代にあったというのは感慨深いですね。

「大型突起付深鉢」新潟県十日町市笹山遺跡(縄文時代中期)。口縁部の透かし彫り状の隆帯装飾が特徴。突起側面が飛び出す形態は、その後屋代遺跡群などで盛行する双翼状突起の原型となったそうです。

 その隆帯装飾のアップですが、中が空洞で非常に複雑な形です。非常に技術レベルの高い造形です。これを作りなさいと言われてもできませんね。穴は指と細く丸い棒で作られたものと思われます。縄文土器は、粘土だけでなく鉱物や繊維を混ぜて強度を高めています。また、外や内部に焦げ跡があることから、実際に煮炊きにも使われたようです。私はこんな鍋使うの嫌ですね(笑)。それだけ余裕も時間もないということでしょう。

「今回の展示の時期」隆盛を極めた140年間を扱っています。実は我々が縄文時代と認識しているのは、縄文時代中期の100〜300年ぐらいの間なのです。
 縄文時代は、今から約1万5000年前。日本列島の温暖化が始まった旧石器時代終盤から弥生文化の直前まで、1万3000年ほど続きました。縄文土器は、800〜1000度の低温で野焼きし、粘土が溶けることで硬くなるという化学変化を利用した土器です。人類最古の土器といわれる「微隆起線文土器出土」は、須坂市博物館にあり、このブログでも紹介しています。

 昼は東福寺にある自家製粉のそば処「安心(あんじん)」を予約しておきました。この日から新蕎麦ということで、人気の店なので予約を入れたのです。安心そば(十割そば)の中盛りをいただきました。本返しのつゆと、ごまくるみタレが付きます。最初は蕎麦だけで、次につゆで、そしてごまくるみタレ。十割そばにはコクのあるこのタレがとても合います。香り高く味のある新蕎麦に充分満足しました。午後は、リニューアルした松代文武学校へ。火縄銃と大砲をぶっ放しました。
 最近の博物館は、撮影可能であることが多くなっています。長野県立歴史館の企画展は、国宝の土偶展とかキャッチーで展示も洗練されているのでおすすめです。十日町市博物館、糸魚川市のフォッサマグナミュージアム、信州大鹿村の中央構造線博物館、富山県魚津市の埋没林博物館などは、非常に秀逸です。当ブログでも紹介しているのでブログ内検索でぜひ御覧ください。行きたくなるでしょう。左のカテゴリーから、展覧会・イベント・コンサートをクリックすると該当する記事が表示されます。

縄文時代(ウィキペディア):非常に高度な技術や豊かな精神性を持った成熟した社会。
縄文時代の画像検索結果
なぜ1万年も平和が続いた? 今注目される「縄文時代」のナゾ:小学生でも分かる縄文時代の解説
縄文 その魅力の根源:2018年夏、東京国立博物館で開かれた展覧会には、35万人が訪れました。俳優、京都橘大客員教授・苅谷俊介氏・考古学者・大島直行氏・「土偶女子」・譽田亜紀子さんの縄文への想い
日本考古学史上最大の謎「土偶の正体」がついに解明ー「土偶は女性モチーフ」の認識が覆った!驚きの新説ー:斬新だが非常に興味深い考察。読み物としては面白い
「誰のタネかなんてどうでもいい」縄文時代は性的パートナーも平等に分配してた?縄文人vs弥生人、文化を徹底比較!:無茶苦茶面白い考察です。でもあながち間違いではない。弥生の戦争は農耕文化故とありますが、春秋戦国時代に敵同士の呉と越が来訪したからと私は考察します。魏志倭人伝の倭国大乱がそれです。また一説には、高句麗の侵入が原因とするものもあります。その高句麗は滅亡するのですが、関東に多くが移住します。東京の狛江市などはその名残り。狛は高句麗の別名です。また、長野市篠ノ井の地名は、高句麗の豪族が朝廷から篠井性を賜り、それが篠ノ井の地名の元となったといわれています。高句麗はツングース系の騎馬民族で、日本に馬産を伝えました。魏志倭人伝には日本には馬がいないと記されていますが、5世紀になると古墳から馬具がたくさん出土してきます。春秋戦国時代に滅亡した呉、その後滅亡した越、古代ユダヤの一族といわれる徐福一族の来日と定着。『中国正史 倭人・倭国伝全釈』鳥越憲三郎著をオススメします。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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「善光寺と川中島の戦い」武田信玄と上杉謙信(妻女山里山通信)

2021-09-16 | 歴史・地理・雑学
 長野市博物館の企画展示に行ってきました。正式には、「THE EXPO善光寺2021 甲信越戦国物語」というらしいですが、「善光寺と川中島の戦い」です。常設展もおすすめです。ただ展示品が割と地味なせいか、フラッグなど小細工が多すぎて(笑)。まあ信玄の手紙とか地味ですもんね。

「海津大絵図」三村養益画。(部分・ほぼ全体は一番下に)。松代を中心として周囲の山や千曲川が描かれています。周囲の山は、松代から見た形なのです。当時の侍の家が当主の名前入で書かれているのが興味を引きます。描かれたのが1800年前後と思われるので、千曲川の流れは寛保2年(1742年)に発生した大洪水「戌の満水」の後で、幕府から1万両の借金をして大規模な瀬直した後の流路です。松代城と千曲川の間に古川という細い川が千曲川の旧流でしょう。右(東)にある奇妙山は瀧山と書かれています。
三村養益:江戸後期の画家で名は惟芳(房)。狩野養川院に師事する。松代藩の御用絵師で江戸在住。天保5年(1834)84才で没。息子はやはり 御用絵師の三村晴山で寛政12年(1799)~安政5年(1858)。狩野芳崖などを育てた。
松代藩の御用絵師達

 川中島の戦いで上杉謙信が布陣した妻女山山系の拡大図。山名や当時の村名を入れてみました。現在の妻女山は赤坂、斎場山は妻女山と。鞍骨城は倉骨城、象山は竹山と書かれています。上杉謙信が七棟の陣小屋を築いたと伝わる陣場平(甲陽軍鑑の編者小幡景憲の絵にあり)は表記がありません。現在は妻女山里山デザイン・プロジェクトで貝母(編笠百合)の保護活動を行っています。

 絵の最上部には善光寺が。現在とは微妙に名前や配置が違います。江戸時代後期は、庶民の旅も非常に盛んになりました。善光寺の御開帳には全国から善男善女が参拝に来訪。そんなさなかに善光寺地震、弘化4老中(1847)年が起きて大災害をもたらしたのです。死者総数8,600人強、全壊家屋21,000軒、焼失家屋は約3,400軒を数えました。

「川中島合戦錦絵 巻子(かんす)」右上には「信州川中島大合戦図」とあります。江戸時代にはこういった錦絵がたくさん描かれた様です。また、両軍の布陣図も描かれ善光寺や宿場町の人気の土産物として売られた様です。ほかに興味深かったのは戦国時代の馬の骨格標本。もちろんサラブレッドの様な馬ではなく、木曽馬の様な小さくがっしりした農耕馬です。当時の武士の身長は、150〜160センチぐらいなので問題なかったのでしょう。人を乗せて時速40キロぐらいで走れたそうですし、山を歩くのも得意だったとか。

 その善光寺地震で犀川がせき止められ19日後に決壊し、善光寺平に大被害をもたらした時の絵図。左上の大きな湖が決壊し被害は善光寺平だけでなく飯山や新潟の信濃川流域まで及びました。これにより松代藩の財政は復興費用のため破綻状態となり幕末まで解消しませんでした。この図は常設展示です。

 江戸時代に善光寺に奉納された武田信玄と上杉謙信の大きな位牌。今回の展示は、信玄や謙信にスポットを当てた英雄史観が垣間見えるもので、奴隷市や庶民の苦難に全く触れられていなかったのは残念です。この実証歴史学を教えてくれたのは学芸員の原田さんです。妻女山の初出を調べている時に紹介され教授されました。それは拙書を出版する際も非常に参考になりました。
「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態 (妻女山里山通信)

 常設展示には、地質や縄文弥生時代の土器などが展示されています。右は男女のシンボル。少子化というのは民族滅亡の印なのです。左の土器は普段遣いのものでしょう。須坂市博物館の世界最古の土器もそうです。火焔型土器などは祭祀用だったのではないでしょうか。

 縄文時代の家屋の復元。以前、塩尻の平出遺跡へ行きましたが、縄文時代から平安時代までの庶民の家はそんなに変化がないのです。その近くには旧石器時代から使われていたという黒曜石の産地もあります。中央構造線とフォッサマグナが交わる信州は、非常に重要で面白いところです。

 弥生時代の青銅のブレスレット(銅釧)と管玉(くだたま)。細い管に孔を開ける技術には驚嘆します。縄文時代から弥生時代にかけて人口が急増します。それは自然増では考えられない数。大陸から大量の移民があったと考えるべきです。

 弥生時代の盾(複製品)。渦巻の文様は縄文土器の渦を想起させます。左奥の写真は武器ですが、同時代の春秋戦国時代の中国と似ています。私は美大出身でアートディレクターをしていたので形象学でものを観る癖があります。越に滅ぼされた呉が最初に来日。後に滅びた越も来日。魏志倭人伝には卑弥呼が平定する前に倭国大乱があったと記されています。呉と越の戦いでしょうか。上越市の斐太遺跡には、当時緊急避難的に作られた村の跡が残っています。鮫ヶ尾城の麓です。

 上杉謙信のシンボル。白狐に乗った烏天狗(鴉天狗)。飯縄権現の祭神です。左は謙信の兜の前立て。烏天狗は山伏の格好をしていますが、本来は鉱山を探し当てる山師だったのではと思います。徐福と一緒に来日した古代ユダヤ系の技術者集団? 飯縄権現は、密教の根本尊である大日如来の化身の不動明王として武田信玄と上杉謙信に尊崇されました。忍術の元も飯縄権現です。高尾山や鎌倉建長寺の半僧坊が有名です。
鎌倉アルプス-鎌倉散歩:烏天狗の建長寺半僧坊から鎌倉アルプスを巡ったフォトルポ。小津安二郎も。

 長野市西町上組の山車。寛政5年(1793)6月造とあります。大変綺羅びやかな造作です。天井には龍の彫り物。1793年は、将軍家斉が老中松平定信を罷免。寛政の改革は終わり、お金を使いまくる政治を開始。側室も何十人も持ち子供の数も55人。この頃から大奥の権勢が強まり改革をことごとく阻害し始めたという時代。庶民も遠慮せず綺羅びやかを求めた時代だったのでしょうか。

 鳳凰の下に三羽の鶴。山車が誰の作というのが記されていないのは残念です。宮彫り師はあくまで職人で社会的地位は必ずしも高くはなかったのです。

 博物館の前は八幡原の史跡公園。遠くに尼厳山と奥に奇妙山が見えます。両山とも拙書に載せている歴史も自然も非常に面白い人気の里山です。この右手には信玄と謙信の一騎打ちの像があります。まあ川中島の戦いは虚構と物語にまみれた戦ですからね。第一級史料もほとんどありませんし。だからこそ地名とか地元の伝承とかが大事なのです。ほとんどが川中島の戦いに関わり、その後に定住した人達なのですから。

「海津大絵図」のほぼ全図です。北は善光寺まで、南は狼煙山と地蔵峠まで。東は奇妙山、西は屋代と千曲川対岸の稲荷山宿までが描かれています。北国街道や北国街道東脇往還とか善光寺街道とか分かります。古い裾花川や犀口から川中島に流れる古犀川や御幣川なども描かれています。できれば松代藩の和算家・測量家 東福寺泰作の「松代府内測量図」もレプリカでもいいので常設展示して欲しいです。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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